「あずにゃんとりっちゃんのこと、聞いた?」
夕飯の後片付けが済んで、お風呂が沸くのを待つつかの間のひと時。
机にあごを乗せて頭を揺さぶるお姉ちゃんが、ふと呟いた。
「うん、梓ちゃんから聞いたよ。でも付き合ってるんじゃないんだよね」
テレビから視線を移す。
お姉ちゃんの表情は、どこかぼんやりとしていた。お腹がいっぱいなせいもあるのかな、ちょっと眠たそうだ。
「付き合う……付き合う、かあ。そうなんだよね」
揺れていた頭がぴたりと止まる。
「どうかした、お姉ちゃん?」
「うん、りっちゃんもちゃんと考えてるんだなあ、って。私は誰かとそういうふうになるって、まだ想像もできないから……りっちゃんの考えてることはすごいなーって」
そう言ってお姉ちゃんは、頭を持ち上げて湯呑みに口をつけた。
ず、と、小さくお茶を啜る音。
「付き合う、って……なんなんだろ。そんなに大事なものなのかなあ」
……私は昨日の昼休みを思い出す。梓ちゃんから私と純ちゃんに、話をしてくれたときのことだ。
律さんとの関係を説明する梓ちゃんは照れくさそうにしていて、でもそれ以上に幸せを隠しきれないみたいな様子で。
それが私にはとても微笑ましかった。まるで自分のことみたいに嬉しかった。
――大切な人が幸せそうにしている。それが、嬉しい。
そう感じた。
……そのとき感じたのは、それだけ。
律さんの独特な考え方に,、何かを感じたりはしなかった。
だから私も、お姉ちゃんと同じで律さんの考えには感心するばかりだ。
好きな人とどうなりたいか、どんなかたちで一緒にいるべきかなんて――今まで考えたこともなかった。
だって生まれてから今まで、私とお姉ちゃんはずっと姉妹で、家族だった。
それは、この先どうなったって変わることじゃない。
好きな人、大切な人と、私はいつまでも同じ関係でいられるんだ。だから。
……違うな、そうじゃない。
私の想いと律さんの想いは別物だ。
私のそれは家族に向いた愛情で……恋愛感情とは違う。
恋愛感情がどういうものか、私にはまだはっきりとは分からない。でも私がお姉ちゃんを好きだっていう気持ちは、律さんと梓ちゃんの間にある気持ちとはやっぱり違うんだ。
うっかりしていると、家族愛とそうじゃない気持ちを一緒くたにしてしまいそうになる。
……まだまだ子供だな、私は。
薄く苦笑いを浮かべた。
「ねえ、憂」
と、ぼんやりしていたお姉ちゃんの目線がこちらを向く。
「なあに、お姉ちゃん?」
「憂は私のこと、好き?」
私はテレビの音量を少しだけ下げた。
「――うん。好きだよ」
お姉ちゃんに微笑みかける。
本心を告げた私にお姉ちゃんはへへ、と頬を緩ませ、
「私もだよ。私ね、澪ちゃんのこともムギちゃんのことも、純ちゃんのことも憂のことも、和ちゃんのこともさわちゃんのことも――りっちゃんもあずにゃんも、みんな大好き」
それは再び、ぼんやりとした調子で。お姉ちゃんは言った。
「みんな、家族だったり友達だったり、大切な人だもんね」
「うん。でもさ、例えば軽音部のみんなとは友達だけど……『友達になろう』って、約束しあったおぼえはないんだ。気が付いたときにはもう友達だったもん」
ひと呼吸。
お姉ちゃんは湯呑みの取っ手を指でなぞり、
「憂はどうだった?あずにゃんや純ちゃんと」
首をちょっとだけ傾けて、私に問いかけてきた。
……そういえば。どうだったかな。
二人と初めて会ったときのことを思い出す。
始業式の日に、たまたま近くにいたから。
同じクラスだったから。
二人とも、お姉ちゃんのいる軽音部に興味があったから。
……知り合ったきっかけは、そんなところだけど。その後仲良しになるまでに、特別何かがあったわけじゃない。
私たち三人も、友達になるために約束を交わしたりはしていなかった。
思えば中学のときだって、小学生のころだってそうだ。
友達になるために、その人が自分にとって大切な人になるために、約束を必要とはしなかったんだ。
「私も、そうだったな。気が付いたら友達だったよ、梓ちゃんも純ちゃんも、他の友達とも」
「そっかあ……うん、やっぱりそうだよね。友達とか、大切な人って、そういうふうになるものだよねえ」
お姉ちゃんの呟きに頷きで答える。
結局のところ――人と人との関係っていうのは、そういう自然な流れによって作られていくべきなんだろうと思う。
なろうと思って親しくなるんじゃなくて、気が付けばその人と親しくなっていた、みたいな――最終的にはそういうふうに作られた関係が、何より親密なものになっていくんだろう。
――でも、
「でも、お姉ちゃん」
「ん、なあに?」
「律さんと梓ちゃんみたいな――恋愛関係も、そうやって自然に作られたほうがいいと思う?」
純ちゃんは二人の関係に懐疑的だった。
けど、私は純ちゃんと律さん、どっちの考えが正しいのかなんて分からない。
常識はずれな律さんの考えは斬新ですごいとは思ったけれど、その良し悪しまでは……分からない。
人と人との関係は自然に形作られていくべき。それは友達だとか仲間だとか、そういう関係にだけ適応する考えなのかもしれない。
だって、友達として相手を大切に思う気持ちと、恋愛の対象として愛しく思う気持ちは――
「うん。りっちゃんとあずにゃんでもそうだよ。私は恋愛関係でもおんなじだと思う」
――お姉ちゃんはそう言って、テレビのボリュームを上げた。
「おんなじ……?」
リモコンを机において、お姉ちゃんが「そう」と答える。
「うん、おんなじ。りっちゃんとあずにゃんが想い合ってる“好き”も、憂が純ちゃんとかあずにゃんに想ってる“好き”も――私が憂に想ってる“好き”も。ぜーんぶおんなじだと思うんだ」
……そのとき数秒、大きくなったはずのテレビの音がとても遠くに聞こえた気がした。
お姉ちゃんは、すごい。
私は無意識のうちに住み分けしていた。当たり前みたいに、そうするものだと思っていた。
でも……お姉ちゃんは違った。
お姉ちゃんのなかでは、友情も、恋愛感情も、家族愛ですらも、おんなじ「愛情」なんだ。人を大切に思う気持ちを当たり前みたいに、区別しないんだ。
「そっかあ……素敵だね」
……恋愛感情をまだ知らない私だけど、お姉ちゃんの考えはとても大きく胸に響いた。
「うん。だから私、“約束は要らない”っていうりっちゃんの考え方、いいなたって思うんだ……あ、お風呂あがったらりっちゃんにメールしよっと。“私と憂はりっちゃん達のこと応援してるよ”って、言っとくね」
お姉ちゃんは湯呑みを持って立ち上がる。
頷きをひとつと、「よろしくね」とだけ、私はお姉ちゃんに告げた。
目を覚まして携帯を手に取る。
メールが一件と……時間は夜の11時過ぎか。まずいな、こりゃ。明らかに寝過ぎだ。
でも……そのまま携帯を枕元に伏せ、私は枕に顔を突っ込んだまま動けない。
頭が重たい。
いや、逆に風船みたいに浮かんでいるような気もする。
……いいや、そんなのどうでも。とにかく地に足がついていない感覚だけ。
顔を押し付けた枕にため息をゆっくりぶつける。ぬるく湿っていく布の感触が気持ち悪い。
思わず寝返りを打って仰向けになった。
……なんだ、動けるじゃんか、私。
体が動かないから今まで不貞寝していたつもりが、実のところただ動きたくなかっただけなんだよな。
バカみたいだ。
こんなの、本当なら私がしていいことじゃない。
投げ出したいのも、目を背けたいのも、梓のほうじゃないか。
ましてや梓にそんな感情を抱かせたのは――私だ。
――全部、私のせいなんだ!
そんな私に、こんな甘えた真似……許されるわけがない。
不貞寝なんてしている場合じゃない。
「あぁっ……!」
かすれた声でも、吐き捨てるように叫んで体を起こす。
考えろ。
私がこれからすべきことを。
梓のために、私たち二人のために――
「……あるの、かな……そんなこと」
背中にゆっくりと寒気が這いまわった。
……ひょっとして、また私は思い上がったのか。
梓のためだ、なんていうのは言い訳で、本心は私がただ梓と離れたくないっていうだけで……。
――梓はもう、私とは一緒にいられないって、諦めてしまったのかもしれないのに。
「……あ」
勝手に漏れた声はうわずっていた。呼吸が震えている。
私にできること、か。
今の私が本当に梓のためにできることなんて……そうだな、一つだけなのかもしれない。
――別れを告げること。
ごめんねと、ありがとうと、さようなら、と。
こんな関係、終わりにしてあげるのが、梓のためなのかもしれない。
……むしり取るみたいに、シーツを握る手に力がこもる。
分かってる。
そんな後ろ向きな考え方、それこそバカげているっていうのは、分かってる。
……分かってるのに、なんでそんなこと、考えずにはいられないんだ。
ポケットに入れたままだった携帯が振動した。
そういえば、自分の部屋に入った矢先にコートとブレザーの上着だけ脱いで、そのまま寝たんだっけか。
ポケットを探って携帯を取り出す。
どうやら電池残量が少ないという警告のバイブレーションだったみたいだ。そのまま畳もうとしたけど……けど、左上に新着メールの通知マークを見つける。寝てる間に届いていたらしい。
……誰からだろう。
澪か、それとも……梓?
カラカラの喉に生唾を流しこむ。
澪でも梓でも見るのは怖いけど……そうだ、本文まで見なくてもいいじゃないか、ひとまず誰からメールが着てるのか、それだけ確認しよう。
くそ、たかがメールを見ることすら、いちいち心構えなしにはできないのか。
せめて画面から目線を逸らすことだけはしないと決めて、私は決定キーを二回押す。
『From:
平沢 唯
Sub:りっちゃー( ´∀`)σ)∀`)んっ』
……唯か。
情けないことに、正直安心した。
メールが澪からでも梓からでもなかったことと、何よりいつもと変わらない、その呑気な文面に。
決定キーをもう一度。
『平沢家姉妹は、りっちゃん隊員とあずにゃんの恋を応援します!! でもたまには私にもあずにゃん貸してね♪♪』
どこまでも、唯らしいメールだった。やっぱり私はその唯らしさにほっとする。
そっか、憂ちゃんも、か。あの娘は梓の親友だもんな。そんな憂ちゃんが応援してくれるのなら心強い。
……でも、それは、本当に?
今日、私が梓を泣かせたことを知ったら?それでも二人は私たちのことを応援し続けてくれるんだろうか。
『本当に、本当に応援してくれる?
私、間違ってないかな?
約束なしでも梓とやってけるのかな?』
半ば反射的に、すがるような気持ちで私は返信のメールを打った。
送信キーを押す。
こんな時間じゃ返事はこないかもしれないなんてことは、その直後に気付いた。特別寝ぼけているわけでもないっていうのに、頭はさっぱり働いていないのな……。
――と。
再び枕元に置こうとした携帯が振動する。
驚いて画面を確認すると、そこには新着メールの通知があった。
『だいじょおーーーーーーぶっ!』
……まばたき。
二度、三度。
「なんだぁ、そりゃ……」
踏ん張っていた力がずるっと抜け落ちる。
肩を伸ばして背中を丸めて、うつ伏せになって膝小僧にため息を吐いた。
「はあ……」
……なんてメールを送ってきやがる。
それは、どうしようもないくらい無責任で投げやりな文面だった。
事情も知らないクセに、何を根拠にこんなことが言えるんだか。
「あ……は、ははっ」
――でも、息を吐ききる瞬間、口からは勝手に笑みが零れた。
怒るよりも、八つ当たりよりも、そのメールが私にくれたのは安堵と呆れ。
唯らしいな、こういうの。
唯の無鉄砲な強さが、今の私にはとても心地いい。
不思議と腹が立たないのは、ある意味唯の凄いところだな。
唯はこういうやつだから、何の根拠もないのにいつも自信満々なやつだから、私の気分を変えてくれる。
頭に昇ってた血が抜けたかな。少し心に余裕ができた気がする。
……って、冷静になってみりゃ私はいきなりなんてメールを送ってんだ。
いきなり質問攻めって、あんなメール深夜に来たらふつう困るよな。
それにあんな適当な文面で返すなんて、どうなってんだ唯のやつは。本当に笑うしかない。
そんな唯に、言いたいはいっぱいあるけどけど……背中を起こして顔を上げる。
『To:平沢 唯
Sub:ごめんさっきのナシねぼけてた』
一番言いたいこと、お礼を言うのはまだ先かな。
――憎むよりも先に、悲しむよりも先に、怒りよりも先に、嘆くよりも先に。
私のために。
梓のために。
私がするべきこと。
最終更新:2012年10月10日 23:41