「おまたせ」

「……遅いぞ」

「ごめんごめん、レジ混んでてさ。ほい」

 ホットのペットボトルを手渡す。

 受け取った澪はかじかんだ手を暖めるためにか、両手でそれを握った。

「すぐ冷めちゃうぞ、そんなことしてたら」

 紅茶の温度に安心したようなため息をつく澪を尻目に、私は早速オレンジ色のキャップを捻った。


「……それで?」


 口を開いた澪は手すりに肘を置いて背中を丸め、眼下を流れる川を見下ろす。
 私は手すりに背を預けるようにして肘を置き、夕焼けを見上げてそのそばに。



 いつもの橋の上で、私たちは話し始める。


 朝。
 教室に入って自分の机に鞄を置き、机の中をあさって教科書の整理をしようとしたところに、

 「りっちゃんおはー」

 背後からの声。
 振り向くと少し先に、唯がいた。

「んー、おはよ」

 小さく手を振る唯に手を挙げて返した。それを見て唯が駆け寄ってくる。

 昨日、私が”寝ぼけてた”と送ったのを最後に、唯から返信は来なかった。
 だから、ってわけじゃないけど唯のやつは……やっぱりいつも通りだな。

「眠そうだね」

 ……ん、そうかと思えば、あんがい鋭い――って、いや、そういうわけでもないか。
 声は掠れているし、実際あれからあんまり寝ていない。朝、鏡見たときは自分じゃ分かんなかったけど、ひょっとしたらクマなんかもあるのかな。 

「ちょっと夜、考え事しててさ。午前中の授業は寝るからよろしく」

 私は正面に向き直って鞄と机の中身の整理を続けようとした。

 唯との会話はこれくらいで終わるだろう。事実、私に「そっか」と告げた唯のトーンに会話を続けようという気配は薄かった。
 唯はたいてい、教室に入って鞄とギターケースを自分の机に置いたらクラスのみんなに挨拶してまわっている。たぶん次は和あたりの席まで行くんだろうな。律儀というかは人懐っこさゆえの行動だろうけど。

 す、と、唯が背後から歩き出す気配を感じた。その向かう先はやはり和の席の方角だ。
 視界の端に、私の横を通り過ぎようとする唯が映る。


「りっちゃん」


 ――小さく唯が呟いた。通り過ぎるその間際にだ。

 そして私が唯へと顔を向けるよりも前に、もう一言。



「がんばれ」



 小さく。だけど力強く。唯の囁きが胸に響く。




 なんだよ、もう。

 私の悩みなんかぜんぜん知らないんだか、それとも少しは察してるんだか。どっちなんだか分かりゃしない。


 くそ、目も覚める。


「んー、なんて言えばいいのかな……」

 一言で済む、済む話なんだけど。

 その一言が難しい。どういえば上手く伝わるんだ?
 言葉に詰まって小さく唸る。

「ま、まさか、律おまえ……!」

 ――澪がすごい顔を向けてきた。

「ああ、違う違う!そうじゃなくて」

 慌てて手を振る。
 そんなに焦んなって。

 ……焦ってるみたいな澪の様子じゃ、言葉を選んでるヒマはないか。先に結論だけ言って落ち着かせなきゃな。細かい説明はその後だ。


「大丈夫――終わったよ。もう、大丈夫」


「お、終わった?!終わったってどういう――」


「あ?……あ、ああ!ごめん違う、そういう意味じゃなくて!!」

 ああ、もう。


 午後の授業が終わる。
 週明けからテストで今週は部活がやれないから……本来なら今日は、このまま帰らなきゃいけない。

 でも、

「――律」

 荷物を詰めた自分の鞄の口を閉めたところで、背後から澪の声がした。

 ……今日、私とは一度も会話を交わしていない澪だ。

「うん。悪いけどさ澪、今日は先帰っててくんないか」

 私はいたって普段の調子で言う。
 澪が何かを言いかけるが続けて、

「大丈夫だ、って……澪相手にゃ説得力ないか、この言葉」

 続けて……ふと気付く。
 それは私が澪に何度も言って、そして何度も否定された言葉だ。

「でも、今度ばっかりは本当に。大丈夫だよ。澪の言い分もわかるし、梓の気持ちだって……そういうの全部ひっくるめて、これから話しに行くから」

「……ほんとだな?」

 振り返ると澪が今にも泣き出しそうな――って、なんで澪が泣きそうなんだよ。
 少しびっくりした。

「ああ、ほんと。話してそれで、どうなるかはわかんねーけどさ」

「じゃあ律……明日、会えるか」

「え?あ、明日?」

 どういうことだ?

「明日、聞くから……お前が梓に何を言ったか、それで、どうなったのか」

「いや、まあいいけどさ……」

 そういうことなら……そりゃ澪には話さなきゃいけないだろうな。言われなくても、遅くてもテスト明けくらいにはみんなに事の顛末を伝えるつもりだったし。

 けど、ちょっとはテスト勉強とか私にさせる気は……まあ、いまさらそんなもんないのか。

「……分かった、じゃあ順を追って話してくれ。聞くから」

「ん、ああ、そうだな。そうしたほうがいいか」

 あ、ひとまずは落ち着いてくれたな。

 変に慌てられたせいかこっちも変に慌ててしまったせいか……喉の渇きを感じる。
 紅茶をもうひと口。

「澪も飲んだら?」

 澪の手に握られているペットボトルはまだ開けられていない。
 ……おいおい、それ、私の奢りだって忘れてないか?

「……聞いてから飲むよ」

 それじゃ冷めちゃうんだって。

 ガラス越しに小さな頭が見える。

 私は心底ほっとした。

 扉の向こうでその姿が止まる。


 ……なかなか扉は開かない。

 もしそこで引き返されたらどうしよう?
 すっ飛んでいって捕まえるか?いやいや、そんな、猫じゃあるまいし。

 そんなことしたら怖がるに決まってる。
 信じよう、引き返さないで扉を開けてくれることを。


 ――なんて思っていると、その矢先。ゆっくり扉が開く。

 そうして梓が、部室に入ってきた。


「よ、梓」

 梓は後ろ手で扉を閉める。

「……こんにちは、です」

 そして、そのままそこから、動かない。

「来てくれてよかったよ……ありがとう」

 私は長椅子に腰掛けて微笑みかける。



 歩けば数歩、たったの2、3メートル。

 それが私と梓の距離。


 それは本当に、近くて……それでいて今は遠い。

 たったの数歩で済むのに、最初の一歩が途方もなく重たいんだろうな。
 今、梓の足には鎖が絡んでいるようなものだ。

「……昨日は、すいませんでした……取り乱して」


 それでも、梓はここまで来てくれた。

 重たく絡む鎖を引きずりながら、その苦しさに耐えながら、私に会いに来てくれた。

「うん。いいよ」

 ……それだけで、十分だもんな。


「……あ、」

 梓は身を乗り出そうとしたかと思うと、その瞬間に諦めて丸めた背を戻し、代わりに頭を垂れて目線を下げた。伏し目の表情と、その口から言葉にならない、上ずった声が聞こえる。

 その様子は、まるで本当に足を縛られて――その場から一歩も動けないみたいだ。

 梓はその視界に自分の足元を映す。



 その端っこに、私の足先くらいは入っているのかな。

「ん、ちょっと待て律」

「なに?」

 澪が私のほうを振り返る。

「なんでお前と梓は部室に行ったんだ、待ち合わせでもしてたのか?」

 ……あ、そうか。そこを説明してなかったな。

「昼休みにメール送っといたんだ、『放課後に部室で待ってる』って」

 朝一番に送れば、それはそれで梓は丸一日落ち着かないだろうし、かといって放課後になってから『部室にいるぞ』じゃ間に合わないかもしれない。
 メールを送ったら梓の気分が少しでも落ち着くのか、と言われればそれも微妙だけど……何にせよ状況は私から変えなきゃいけなかったわけだし。





「……卑怯だなあ」

 息を吐いていっそう背中を丸める澪。

「んなっ」

「……でも、そう言うしかないのか」

「そ、そうだよ」


 分かってるならなんで卑怯呼ばわりとか!


 さて、どうしたもんか。

 ――ここまで来てくれただけで、もう十分なんだ。梓は十分勇気を出してくれた。
 仲直りのためには、あとは私が動かなきゃ。

 いつかみたいに、梓の勇気に応えなきゃ。


 ……なんだけど。どうしたもんか。

 立ち上がって梓に歩み寄るのも……きっと梓は後ずさりしたり、私に怯えるんだろう。

 駆け寄って怯える暇も与えないうちに梓を抱きしめちゃえばどうだ?

 強引に宥めてその場は落ち着かせられるかもしれないけど……そういうのは最後の手段にしたい。


 いや、手段を選んでられるような状況でもないんだろうけど。
 それでも何か。もっといい方法は……?




「――ふわ、あ」




 ――授業中も休み時間も、昼休みにだってずっと考えていて、それでも思いつかなかった最善の方法。

 それを今になっても考えているうち胸と喉が震えて――私の口からは、欠伸が出た。


「……え」

 梓が目を丸くしている。

 時間が止まる。同時に私の頭の中身も、真っ白に霧散する。


 ……嘘だろ。
 やっちまった。
 どうしよう。
 言い訳、そんなのしようがない。
 どうする。

 どうする。

 浮かぶ考えは何一つ捕まえられない。
 せいぜい『何か言わなきゃ』『無言がいちばんヤバい』というだけ……恐らく3秒かそこらで私が理解できたのは、それだけ。


 そして、

「ご、ごめん……昨日、あんまり寝てなくって」


 そして、あまりにもあんまりな言い訳が漏れた。


 開いたまま塞がらない口から、勝手に息がこぼれていく感覚があった。

 ……なんなんだろう。さっきまでとはまったく違う気分だ。

 こんなときに、欠伸、こんなときに?


 メールをもらったとき……私と律先輩が今後どうなるのかは――仲直りできるのか、それとも好き同士の関係はもう終わってしまうのかは――今日、決まるんだと思っていた。
 律先輩はそのつもりで私にメールしたんだと思っていた。だから私は勇気を出してここまで来た。それなのに。

 私の決意って、なんだったんだろう。


「……はあ」


 喉を震わせて息が零れた。
 それと同時。




 ――脚が、動く。

 一歩、二歩。まるで鎖なんか、無いみたいに。



 はっとする。

 そうだ、鎖なんてそんなの――最初から無かったじゃないか。


 もう一回動き出すのはたぶん驚くくらい簡単だから、一度足取りを止めて。
 思う。

 そうだ、この気分。


「――しょうがないですね、律先輩は」


 いつもとおんなじだ。


 私を見上げる律先輩は、目をぱちくりさせていて。


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最終更新:2012年10月10日 23:42