斎藤「お嬢様、冷えてまいりましたのでそろそろ中へ」
紬「うん、すぐに戻るわ。でももう少しだけここにいたいの」
斎藤「では何かお召し物を」
紬「私は大丈夫だから。もう遅いわ、先に休んでて」
斎藤「はっ、では失礼いたします」
あの頃見た星と今見ている星。
全然違って見えるのは何故だろう。
それは天文学的な問題だけではない。
私がそれほど大人になったということなのだ。
紬「そろそろ休もうかしら」
最近、夜になるととても冷える。
1時間も外にいたら風邪を引いてしまいそうだ。
斎藤が心配して私に声を掛けるのも無理はない。
私は先に休めと言ったけれど、
真面目を絵に描いたあの人のことだ。
きっと、廊下かどこかで私の身を案じてオロオロしているに違いない。
私はあまり、両親を好きにはなれない。
私が幼少の頃から仕事が忙しく、
私と両親が接する時間は一般家庭のそれより圧倒的に少なかったし、
物心ついた頃からやれパーティーだ、やれ付き合いだと言われてきたからである。
私の心の支えは執事である斎藤だけだった。
親の愛情を知らない私に、
まるで本当の親のように優しく接してくれたし、
時には厳しく叱ってくれたりもした。
私にとって斎藤は、父以上に父であり、
母以上に母だった。
文化祭ライブで大成功収めた興奮も覚めやらぬある日、
重要な話があると、父の書斎に呼びだされた。
父に会うのも久しぶりだったので、
出張先での思い出話などをするのだろうと思っていた。
紬「失礼します」
父「ん、入りなさい」
紬「お久しぶりですお父さん。お勤めご苦労様です」
父「うん、紬は少し見ないうちにどんどんキレイになっていくね」
紬「そんなことありません」
紬「同じ部活動に所属する
秋山澪さんはファンクラブがあるほど素敵な方です。私なんてまだまだ…」
父「確か軽音部だったかな?」
紬「はい」
父「可愛い紬が言うほどだ。その秋山さんはさぞかしお綺麗な方なんだろうね」
紬「お父さんたら…」
お世辞にも私が綺麗だなんて言えるはずがない。
高校生にもなって眉毛の手入れもしない、化粧もしない、
自分でいうのも変だが、天然記念物である。
紬「それで、お話って?」
父「ああ、うん。紬の将来のことなんだけどね」
紬「私の将来?今のところあまり考えておりませんが」
父「ああ、いやそうじゃなくて。斎藤、喉が乾いた!お茶をくれないか」
斎藤「ただいま」
いつの間に部屋に入ったのだろう、斎藤が私の後ろに立っていた。
父「こういう話をするのは緊張するな…」
斎藤「心中お察しいたします」
父「君も心穏やかではないだろう」
斎藤「いえ、私はあくまで執事ですので」
父「相変わらずだな。君らしいね」
斎藤「おそれ多いことです」
紬「さきほどから何のお話をなさっているのですか?全く話が見えないのですけど」
父「ああ、そうだね。そう、紬の将来の話だよ」
紬「はい。ですから、あまり考えておりません」
父「紬はそうなんだけど、うーん…なんと言うか」
斎藤「私のでよろしければお嬢様にお伝え致しますが」
父「ああ…頼む…」
斎藤「お嬢様の正式な婚約者が決まりました」
紬「…は?」
父「うん…」
紬「急にそんなこと言われても困ります。それに私はまだ高校生だし…」
父「何もすぐにどうこうするというわけじゃないさ。近いうちに顔合わせをして25歳前後にでも結婚してくれれば」
紬「だからって、そんな見ず知らずの方と…しかも私の意思もなしに勝手に決めるなんて!」
父「だからこうして今伝えたじゃないか」
紬「斎藤は知っていたの?」
斎藤「私も先ほど伺いました」
紬「そう…」
父「相手は青年実業家でね。しかも親は政治家だ。今回の縁組みが決まれば琴吹家も安泰だ」
紬「そうですか。斎藤はどう思ってるの?」
斎藤「両家の安泰、大変喜ばしいことと存じております」
紬「今日はもう休みます。少し考えさせて下さい」
父「ああ、ゆっくり休みなさい」
私はベランダに出て、夜風に当たっていた。
久しぶりに父と会ったと思ったら、これだ。
唯ちゃんはよく、「ムギちゃんはお金持ちで羨ましいな~」
と言うけれど、実際名家に産まれると、普通の家庭ではあまり味わうことのない寂しさを感じたりするし、
今回のように勝手に婚約者を決められたりするのだ。
紬「出来れば普通の家に生まれたかった…」
斎藤「そのような事を申してはいけません」
斎藤はいつの間にか私の後ろに立っていた。
斎藤「あの御方は家名の存続はもちろん、紬お嬢様のことも考えて婚約のお話を…」
紬「私のことを考えているのだったら、勝手に結婚相手を決めたりしないわ」
紬「斎藤にもし娘がいたら、娘の意思に関係なく婚約者を決めたりする?」
斎藤「わかりかねます」
紬「それじゃあ、もし私が斎藤の娘だったら?」
斎藤「…」
斎藤「おそれ多いことです」
紬「そう、もういいわ。私ももう少ししたら部屋に戻るから斎藤も休んで」
斎藤「はっ、では」
あなたはいつもそうやって本心を隠す。
約16年間、常にあなたの側にいた私があなたの本心を見破れないわけがないでしょう。
昨日のこともあり、昨晩はあまり眠れなかった。
寝起きは最悪。
部活のみんなが私のこんな寝惚け顔を見たら驚くだろう。
斎藤「紬お嬢様、本日は車での送迎はいかがなさいますか」
紬「いらないって、いつも言ってるでしょう」
斎藤「はい、失礼致しました」
毎日車で送迎しようとすること、
2度目の合宿など、斎藤は良かれと思ってやっているのだろうが、
私にとっては余計なお世話であることが多い。
正直、鬱陶しく思うことさえある。
普通の女の子も、自分の父親にこんな感情を抱くのだろうか。
唯「あ、ムギちゃんおはよ~」
紬「お早う唯ちゃん」
婚約者の件が頭から離れないけれど、
外では努めてポーカーフェイスを装う。
自分でも思うが、年不相応な性格である。
唯「どうしたのムギちゃん。今日はなんだか元気ないね」
紬「え…?どうして?そんなことないわ」
唯「ふーん、まぁいいや。そうそう昨日のアレ見た!?」
紬「昨日は色々あって見れなかったの」
唯「なーんだ、面白かったのに」
唯ちゃんのたまに見せる鋭さには目を見張るものがある。
みんなには知られないように気を付けないと。
放課後、音楽室。
今日も今日とて、澪ちゃんとりっちゃんがケンカをしている。
ここのところ毎日だ。
唯「またケンカ~?」
澪「だって律が…」
律「はいはい、全面的に私が悪ぅございましたぁ。すいませんねぇ」
澪「なんだよその態度!」
律「謝ってんだろ。まだ何か文句あるのかよ」
澪「だからお前のそういう態度が…!」
梓「夫婦喧嘩は犬も食わないって言うけど…」
紬「もう放っておくしかないわね…」
初めはケンカの仲裁役をしていた私も今は諦めぎみだ。
澪ちゃんとりっちゃんのことより、自分のことの方が気にかかる、
というのが本音であるが。
結局今日も練習はせず終いだった。
しかし後日、さわ子先生が懸賞で当てたという温泉旅行に行くことになった。
荒んだ心を癒すには丁度いいかもしれない。
私も今からとても楽しみ。
今日もベランダに出て、星を眺めながら婚約者のことについて考えてみる。
答えはまだ出ない。
数日後、出張先の父から電話があったらしい。
婚約の件はほぼ固まった。だそうだ。
それを使用人から伝えられたため、私が反論する余地はなかった。
結局、私の気持ちなどお構い無しに決められる、
出来レースの婚約だったのだ。
悲しかったけれど、涙は出なかった。
なんとなくこうなることはわかっていたし、
私も琴吹家の一員として、家の繁栄に貢献できると思えば、そう悪いことでもないと思っていた。
斎藤「紬お嬢様、おめでとうございます」
紬「何が?」
斎藤「婚約の件でございます」
紬「ああ…ありがとう」
斎藤「…」
紬「…」
斎藤「後悔はございませんか?」
紬「この家に生まれたのだもの。天命と思って受け入れるわ」
斎藤「紬お嬢様はいつも本心をお隠しになりますな」
紬「――――!」
紬「どういう意味?」
斎藤「そのままの意味でございます」
紬「そう、でもあなたに言われたくないわ」
斎藤「これはこれは。さすが紬お嬢様、全てお見通しですか」
紬「あなたの本心を聞かせて」
斎藤「畏れながら申し上げます。この16年間、私は紬お嬢様を男手一つで育ててきたと自負しております。どこの馬の骨ともわからぬ若造にお嬢様を嫁がせるなど、口惜しくてたまりません」
いつもの涼しい顔で、とんでもないことを言うものだ。
斎藤「ですが、お嬢様が望むのであれば、婚約を受け入れる覚悟も…」
紬「そう」
斎藤「望むのであれば、ですが」
紬「ふふ、あなたがそんなに感情を露にしたのを見るのは初めてかも」
斎藤「お恥ずかしいことにございます。よろしければ紬お嬢様の本心もお聞かせ下さい」
斎藤「無理をなさっていたのですね」
紬「…」
斎藤「お嬢様は周りに気を使いすぎる。まだ子供なのですから笑いたい時には笑えばいいし、泣きたい時には泣けばいいのです」
紬「…」
斎藤「それでお嬢様を嫌いになる人などおりません。むしろもっともっとお嬢様を好きになるはずです」
紬「…」
斎藤のタキシードをギュッと握る。
アイロンをかけるのが大変そうだ。
紬「うわあぁぁ…」
紬「あああああ!」
涙を溢すまいと両手で顔を覆うが、どうやら無意味らしい。
何年ぶりだろうか、私は斎藤の前で嗚咽を漏らしながら泣いた。
斎藤は何も言わず、私を抱き締めてくれた。
数分後、落ち着いた私と斎藤は私の部屋にいた。
斎藤「お嬢様が生まれた時に、御主人に仰せつかったことがあります」
紬「なに?」
斎藤「執事業よりも紬お嬢様を育てる乳母としての役割を優先しろ、と」
紬「そんなことを…」
斎藤「つまりそれは紬お嬢様の命令が第一ということ」
紬「?」
斎藤「ご命令下さい。私を家のしがらみなどないどこか遠くへ連れ去ってくれと。どうか」
紬「そんなことをしたらあなたはクビよ。私はそんなこと望んでない…」
斎藤「元より覚悟の上です。自分の娘が、したくもない婚約をさせられるところを見たい親などおりましょうや」
斎藤は確かに「自分の娘」と言った。
斎藤もまた、私を本当の娘だと思ってくれていたのだ。
今、私は斎藤が運転する車の助手席に乗っていた。
私達のことが知れるのは時間の問題だろう。
その後一体どうなってしまうのか、私にも斎藤にも想像がつかなかった。
軽音部のみんなに挨拶出来なかったのは寂しいけれど、仕方のないことだ。
みんなとの出会い、合宿、文化祭、新歓ライブ、二度目の文化祭、
それらを思い出にこれから頑張って行こうと思う。
軽音部のみんなで温泉旅行に行けなかったことだけが残念でならない。
最終更新:2010年02月09日 00:33