紬(やっぱり気のせいなんかじゃ、ない)
後ろを振り向きたい衝動を抑え、メールチェックの振りを装い、そっと携帯のカメラを起動
し、さりげなく後方を確認する。
いた。ここ何日か、視界の隅に引っ掛かっていた朧気に見覚えのある人影が。サングラスを
掛けているので顔は分からず、服装も微妙に違うが、あそこまで下手な尾行をされれば気付
かない方がおかしい。
紬(斉藤に迎えを寄越してもらうべきかしら)
だが少しでも普段と違う素振りを見せたら、こちらが尾行に気付いたと感付かれるだろう。
ならばこのまま何時もどおりに振舞うのが得策だ。
紬(まあ何かあったらその時はその時よね)
身辺警護の強化を頼むべきかと思ったが、すぐに打ち消した。高校に通っている間だけは琴
吹紬はただの女子高生でありたい。今はまだ様子見でいいだろう。
梓「それってストーカーなんじゃ……」
私の話を聞き終え、自身の身体を掻き抱いて身震いする梓ちゃん。
紬「でもただ尾行されているだけで、実害があるわけでもないし。大丈夫よ」
律「甘い……大甘だぜ、ムギ! 今はまだいいだろう。だがそういうのは得てしてエスカレー
トするもんなんだぜ? こちらを絡め取るように睨めつける視線! 首筋に掛かる荒い鼻
息! なぜ君は振り向いてくれないのと行き場のない情念は膨らみ、やがてそれは憎悪へ
と変わり、そして……!!」
唯澪「きゃぁ───ッ!」
身振り手振りを交えたりっちゃんの迫真の演技に唯ちゃんと澪ちゃんが悲鳴を上げた。
澪「見えない聞こえない見えない聞こえない見えない聞こえないぃ!」
唯「やばいよムギちゃん! 今すぐけーさつに相談するべきだよ!」
澪ちゃんは部室の隅でぶるぶると打ち振るえ、唯ちゃんはこちらに詰め寄り、鼻息を荒くし
ながら私の身を案じてくれていた。
こうなることが分かっていたので、尾行されている件は打ち明けるつもりなどなかったのだ
が、軽音部のみんなの前では隠し事など出来なかった。
紬(まさか溜め息一つ吐いただけで気付かれるなんて……ね)
満更でもない苦笑を浮かべながら、この素敵な仲間達の心遣いに感謝する。
梓「でも警察って被害がないと中々動いてくれませんよ。今の話をしたとしても書類を一枚、
二枚書いてはい気を付けてくださいね~で終わるのが関の山だと思います」
律「あ~……だよなぁ。さてどうすっかなぁ……」
唯「はいはい、りっちゃん隊員!」
律「なにかね、平沢隊員?」
唯「わたし達でムギちゃんを守ればいいと思います!」
律「それだ!」
澪「それだ、じゃないだろッ!」
隅で震えていた澪ちゃんが戻ってきて、りっちゃんに全力のツッコミを入れる。
澪「私達女の子が集まっても高が知れているだろう」
律「いや、でも数の強みってのも、案外馬鹿に出来ないぜ? みんなでムギに張り付いて送り
迎えをしてれば、そのストーカー野郎も手出し出来ないだろう」
紬「そんな、悪いわ。それにみんなに迷惑が掛かるし……」
律「ムギ」
紬「はい?」
私の肩を掴み、真剣な面持ちで顔を突きつけてくるりっちゃん。その凛々しい表情に一瞬だ
けどきりとしてしまった。
律「仲間を頼れ!」
唯「りっちゃん……男らしい子……!」
律「いやちょっと待て唯。それは褒めているのか?」
唯「う~ん、要は女の子だけってのが問題なんだよね?」
律「うおぉいッ、無視かい!?」
唯「ちょっと待ってて」
そう言うや否や、部室を飛び出し、ぱたぱたと何処かへと駆けていく唯ちゃん。
澪「何をする気なんだ、唯のやつ……?」
梓「さあ……?」
私達が顔を見合わせ、疑問符を浮かべていると、腕に何かを抱えながら戻ってきた。
唯「じゃあわたし達がりっちゃんの恋人に変装して守ればいいんだよ」
澪律紬梓「はあ?」
唯「これ、さわちゃんに借りてきた~」
そういって手にしたものを机の上に広げる唯ちゃん。
澪「これは……」
紬「メンズの服……」
梓「ですよね……」
律「なんでこんなものまで持ってるんだ、さわちゃんは……?」
唯「わたしもそう思ってさわちゃんに訊いたんだけどねぇ、なんかにやっと笑って教えてくれ
なかった」
律「いやまあ……あまり深く立ち入らないでおこう。それが私達の身のためでもある……」
澪「は、はは……サイズもぴったりだし……」
梓「タグがない……。全部手作りですよ、これ……」
紬(グッジョブですわ、さわ子先生ー!)
自分の置かれている状況を忘れ、思わず心の中で快哉を叫んでしまう。
唯「じゃあ早速着替えてみよ~♪」
梓「ど、どうです、かね……?」
澪「う~ん、なんていうか……」
律「恋人っていうより弟だよなぁ」
唯「七五三?」
梓「なッ!? じゃあ唯先輩、着替えてみてくださいよぅ!」
唯「どう? どう?」
澪「五十歩百歩だな」
律「まあ女としては間違ってはいないんだろうけど」
梓「ところでムギ先輩。なんでさっきから写真、撮ってるんですか?」
紬「いい機会だと思って」
澪律「ムギ自重しろ」
澪「ど、どう、かな……?」
律「なんかそうやって髪型をポニーテールにして学生服を着ていると、どこの元歌舞伎役者の
パイロットだよってかんじだな」
唯「あ、じゃあわたしが超時空シンデレラ!?」
紬「じゃあ私は銀河の歌姫でいいのかしら?」
梓「なんの話をしてるんですか?」
律「まあ似合ってるっちゃあ似合ってるけど、NGだな」
唯「え~、そう? わたしはいいと思うけど」
律「どこの世界にこんな乳の腫れた男がいるんだよ。さらしでも隠しきれねーよ」
澪「ち、乳言うなぁ!」
律「どーよ?」
唯「わあ~、りっちゃん、男装似合うねぇ♪」
澪「まあもともとボーイッシュな格好が多いしな、律は」
梓「かっこいいです、律先輩!」
律「はっはっはっ、ありがとう、ありがとう諸君。女としてはやや複雑な気分だが」
紬「………………」
律「まあこの中でなら私が一番適任かな。つーわけだからよろしくな、ムギ」
紬「へっ!? あっ、よろしくお願い、しますぅ……」
女の子らしい身体つきを隠すためにやや大きめのブレザーに身を包み、ヘアスプレーで後ろ
に髪を流したりっちゃんはぱっと見、思春期を迎えた男の子そのものだ。間近で注意深く見
ない限り、実は女の子だなんてばれやしないだろう。
彼女のいつもの快活な喋りも手伝って、事情を知らない者が見たら、目の前にいるのが女の
子と看破するのは難しい。それほどまでに似合っていた。男装の麗人とはまさにこの事
か。
なんだかんだ言って、唯ちゃんの提案は断るつもりでいたのに、りっちゃんの男装姿に見惚
れ、雰囲気に呑まれてしまい、気付けば承諾していた。
唯「じゃああとは呼び名だね。その格好でりっちゃんっていうのもおかしいし」
律「あ~、いいんじゃねーの、別に適当で」
梓「じゃあ田井中貞利というのはどうですか?」
律「いや、それは不味い」
澪「今さっき、適当でいいとか言ってただろーが」
律「なんつーか脳内イメージが私じゃなくなるというかなんというか……いわゆる一つのメタ
ネタってやつだ。まあ気にすんな」
唯「変なりっちゃん」
澪「律する夢と書いてリズムというのはどうだろう」
律「私ゃ、どこぞのヤンキーの家の子か。もっと真面目に考えてくれよ~」
澪「真面目に考えたのに……」
律「真面目でこれ!?」
紬「律に人でりつとでいいんじゃないかしら」
律「まあその当たりが妥当だな」
紬「じゃあよろしくね、律人くん」
律「おう、ムギのことは私……じゃない。俺が守ってやるからな」
澪「………………」
唯「じゃあ早速、今日の帰りから作戦開始だね!」
梓「私達は少し離れたところから、お二人を見守っていますので」
りっちゃんが私の恋人役を買って出てから早一週間が過ぎた。相変わらずストーカーらしき
人物はただ尾行するだけで、これといった実害はない。
一度、りっちゃんがとっ捕まえて追っ払おうとしたが、それはさすがに危険なので止めてお
いた。
そんなわけで今もりっちゃんとの恋人の演技は続いている。昨日の帰りなんかはショッピン
グモールに寄り道をし、買い食いなんかをしてみたり、ゲームセンターで遊んでみたりし
た。まるで本当の恋人みたいに。
……
律「ムギ、デートしよう」
澪「ブ──ッ!?」
唯「うわっ、汚っ!」
りっちゃんの突然の申し出に、澪ちゃんが紅茶を噴出した。
ムギ「……えーっと、でぇとと申しますと……」
律「出威斗……! それは男と女のラブゲーム。互いの好感度を秤に掛けて、智謀著略の限り
を尽くし、相手を篭絡し、虜にせんとする恋人遊戯……!(民明書房『恋人よ~地獄交際
篇~』より抜粋)」
梓「なんでそんな男塾っぽい解説なんですか」
律「あっはは~、まあ要はあれだ。このままじゃ埒が明かないから、いっちょ罠でも仕掛けて
ストーカーを釣ろうかと」
唯「なるほどぉ。りっちゃんとムギちゃんが仲良くしてるところを見せ付けて、ストーカーさ
んの嫉妬心を煽ろうというわけだね」
律「その通りだ、平沢隊員」
梓「あれ? でも今までも恋人同士の演技をしながら登下校してても、ストーカーからの何ら
かのアクションは無かったわけですよね。そんな調子で引っ掛かるでしょうか?」
律「だからこそだよ。より一層強い刺激を与えて相手の出方を窺うのさ。もしこれでもこちら
に手を出してこないってんなら、端からそんな度胸のない腑抜けだったってことで片が付
くしな」
澪「なるほど、律にしては考えたな」
律「にしてはってなんだよー、澪ー」
唯「そんなのりっちゃんのキャラじゃないよー……」
律「うおぉいッ! どんだけ侮られてるんだよ、私は!?」
紬「……デート……」
梓「……ムギ先輩? どうかしましたか?」
紬「え、あ、そうね。いいかもしれないわね、その作戦」
澪「いや、でも危ないだろ。万が一ってこともあるし」
律「ま~かせとけって。ムギのことは私が守るからさ」
澪「いや、でも万が一ってこともあるし……」
律「澪は心配性だなー。大丈夫だって。ムギには傷一つつけさせやしないから」
澪(……そういう意味じゃ、ないんだけど、な……)
律「というわけで明日の休みに決行な。場所は遊園地ってことで。澪達も隠れて援護、頼む
ぞー」
唯「了解であります、りっちゃん隊員」
梓「そうですね。早くこの事件を解決して、ムギ先輩が安心出来るよう、頑張りましょう」
澪「………………」
律「じゃあ詳細は後でメールするからー。じゃあ帰ろうぜ、ムギ。私、着替えて、校門のとこ
ろで待ってるから」
紬「はい。ではまた後で……律人くん♪」
デート当日。空は今日という日を祝福するかのように、見事に晴れ渡っていた。
昨夜は興奮のあまり少ししか眠れなかった。
逸る心が抑えられず、待ち合わせ場所に三十分も前に着いてしまっていた。
そう。今、私はりっちゃんとのデートを楽しみにしている。それがストーカー対策のための
演技だと分かっていても、心のどこかが浮き立つのを抑えられなかった。
紬(ちょっとだけなら、いいよね……?)
心のどこかで今の自分の有様を責める自分がいた。琴吹家次期当主としての自分。女子高生
としての自分。みんなの親友としての自分。
いろんな思いが綯い交ぜになって、自分の心のことなのに最早私ではコントロール出来そう
にない。
紬(少しぐらいなら、夢を見てもいいよね……?)
誰に許しを請うているのか、先ほどから頭の中はそんな言葉でいっぱいだ。だからすぐ背後
まで人が接近していたことにも気付くことは出来なかった。
紬「きゃっ!?」
急に世界が暗転した。あまりに突然の出来事に思考がフリーズし、対処に遅れてしまう。そ
んなふうに身体を強張らせている私に後ろから声が投げ掛けられた。
律「だ~れだ? なんつってな♪」
紬「りっちゃ……律人くん……」
聞き慣れた声でおどけた言葉が掛けられる。振り向けばそこにはりっちゃんが悪戯っぽい笑
みを浮かべて立っていた。
そのことに安堵して強張った身体が解きほぐれていく。それと入れ替わるように胸の高鳴り
は本日最高得点を叩き出していた。
律「あっはは~、ごめんごめん、遅れて。って別に遅刻してねーよな、俺。来るの早すぎじゃ
ね、ムギ?」
いつものボーイッシュな服装ともまた違った趣きの格好をしたりっちゃんに一瞬、目を奪わ
れる。完全に男の子に扮したりっちゃんは、女の私から見ても綺麗で、そしてかっこよかっ
た。
このあどけない笑みと人懐っこい話し方で口説かれたら、大抵の女の子はイチコロだろう。
それは私も例外じゃなかった。
紬「あら、せっかくの律人くんとのデートなんですもの。遅刻なんてしたらもったいないじゃ
ない?」
誤魔化すように平静を装い、余裕のある振りをする。覚られてはいけない。女の子同士だか
らとか、友達だからとかそういうものを別にしても、この気持ちは絶対に覚られてはいけな
かった。
律「嬉しいこと言ってくれるじゃん♪ じゃあ時間を無駄にしないためにも行こうぜ、ムギ」
そう言うなり、りっちゃんは私の手を掴み、遊園地へ向けて歩き出した。胸の鼓動が更に跳
ね上がる。天井知らずにBPMを上げる心臓は大忙しだ。
繋がれた手に目をやる。柔らかく、ほんのり温かい女の子の手。でも今は恋人の手。
紬(ちょっとだけなら……いいよね)
朝から繰り返していた煩悶をもう一度だけ頭の中で浮かべ、手を組み直す。指と指を求め合
うように絡ませ、離れないように繋ぐ。恋人つなぎで結ばれた手は心まで繋いでくれるよう
な錯覚を覚えさせた。
……
唯「なんだかいい雰囲気だねぇ」
澪「そーだな」
梓「見てるこっちまでどきどきしてきます」
澪「そーだな」
デートを楽しむ律とムギは傍から見たら、本当の恋人同士にしか見えなかった。それも絵に
なるほどの美男美女カップルだ。
実際、すれ違う度に振り向く人達は結構いた。
澪(なんだよ、律のやつ……あんなにデレデレしちゃって……)
実際はいつもと変わらない笑顔なのだが、シチュエーションがシチュエーションだ。そう見
えてしまうのも仕方が無い。
澪(……ん? 何が仕方が無いんだ?)
ふと自分の胸にもやもやとしたものがわだかまっていることに気付いた。
澪(別に律が誰と遊びに行こうが構わないじゃないか。それをなんで私はこうも、こう……
えーと……)
自分の気持ちが分からなくなり、思考がこんがらがる。深く考えるのは止めよう。今はムギ
のストーカーを追っ払うことが先決だ。
澪(そうだ。それに友達同士で遊びに行くなんて普通のことじゃないか)
唯「それにしてもストーカーさん、出てこないねぇ。ムギちゃんにあんなに素敵な恋人がい
るっていうのに」
澪「う……」
何気なく零した唯の言葉にどこか引っ掛かりを覚える。それがまた私の心を苛立たせた。
澪(なんだっていうんだ、いったい……)
……
紬「ま、待って、りっちゃ……律人くん」
律「ん……? どうした、ムギ。顔が真っ青じゃないか」
ジェットコースターを連続で三回も乗れば誰でもこうなると思うが、りっちゃんはけろりと
していた。
紬「昨夜はあまりよく眠れなかったから。ちょっと疲れちゃった、かも」
律「あぁ~……ごめん、ムギ、気付かなくて! あぁもう、彼氏だってのに、なにやってん
だ、俺は!」
彼氏という言葉にどきりとする。
最終更新:2010年05月02日 17:54