迷子の子供が縋るような、そんな弱々しい叫び。
 澪の身体は震えていた。こうして私に抱きついていないと、その場でくず折れてしまいそう
 なほどに。
 さっきまでの激しいキスが嘘のようだった。
 それほどまでに今の澪は脆く、儚げだった。

 澪の柔らかい胸から早鐘を打つような鼓動が伝わってくる。
 落ち着かせようと。母親が赤ん坊をあやすように抱きしめようとした。

律(あ……)

 だけど出来なかった。

 この時、なぜかムギの顔が脳裏を過ぎった。涙を一滴、流していたあの時のムギの姿が。

 何かに縛られたように身動きの出来なくなった私は、為されるがままに澪が落ち着くのを待
 つことしか出来なかった。

紬(澪ちゃん……やっぱり、りっちゃんのことが……)

 音楽室の扉に背を向け、足音を立てずにその場を離れる。
 りっちゃんと顔を合わすのが気まずくて早々と帰宅の途についたのだが、途中で忘れ物に気
 付いて引き返したところで二人がキスをしているところに出くわしてしまったのだ。 

 胸が苦しい。

紬(そうよね……あの二人は幼馴染なんだし、気心知れた仲なんだし。
  それにとってもお似合いだし……)

 胸が、苦しい。

紬(だから私は二人を応援しなくちゃ……この気持ちは、無かったものにしなきゃ)

 胸がとても苦しかった。

紬(どうせ私には自由な恋なんて許されないのだもの。
  だったら私は二人を応援しなくちゃ……親友、として)

 大丈夫。

 大丈夫だ。

 今までもいろんなことを諦めてきた。琴吹家に相応しい人間になるために。だから今回のこ
 とも諦められるはずだ。

 私はそうやって生きてきた。

 そうやって生きてきた、はずなのに───

紬(なんで、胸がこんなに痛むの……?)

律「はあ……」

 溜め息を吐きながら窓の外に目を遣る。
 天気は私の心を映したかのような空模様だった。
 しとしとと降りしきる雨が憂鬱に拍車を掛ける。
 雨音を遮るためにヘッドフォンを装着し、適当にCDを掛ける。

澪のことを考える。
 大切な幼馴染。
 しっかり者のようで本当は寂しがりやな女の子。 
 凛とした容姿とは裏腹に脆い一面を持った女の子。

律「大切でも 強く抱きしめりゃ つぶれそうだキスをする
  その間に 誰かと手をつないでる」

 曲に合わせて歌詞を口ずさむ。
 なんとなく今の自分の状況と似ているなと思い、自嘲の笑みが漏れた。
 ムギとキスをした自分が澪を落ち着かせようと抱きしめようとした。
 ムギに差し伸べようとした手は澪とのキスを拒まなかった。

 ムギのことを考える。
 高校に入ってから出来た親友。
 おっとりしているけれど、いつもにこやかにみんなを見守っている慈愛に満ちた女の子。
 時にほんわかとした容姿とはかけ離れた姿を見せることもある女の子。

律「きっと自分以外に答えはないって入り込んだ僕の心 出口のない迷路のよう」

 まさに迷路そのものだ。 この問いに答えを出せるのは私しかいないっていうのに、
 どうするべきなのかまるで分からない。

律「パーフェクト パーフェクト 全てを支配してほしい
  パーフェクト パーフェクト パーフェクトなモノたちよ」

 もし神様のようなパーフェクトな存在がいたら、この気持ちさえも支配して答えを出してく
 れるのだろうか。 そんな卑怯な考えが頭を過ぎる。

律(私の、気持ちは……)

 雨は止みそうになかった。


……

唯澪律梓「お見合いぃ!?」

紬「えぇ、最初はあまり乗り気じゃなかったのだけれど、お父様の顔を立てるってこともあっ
  て。それに案外、いい人だったしね」

唯「ふわぁ~……お、大人の世界だぁ」

梓「そういえば普段は忘れがちですけど、ムギ先輩って良家のご息女なんですよね……」

律「お、お見合いって、そいつと結婚するのか!?」

紬「そういうわけじゃないけど、いずれはそうなるかもね。
  今までそういう話は断ってきたのだけれど、そろそろ将来のことを考えてもいい  
  かなって。私がそう言ったら、もう斉藤が張り切っちゃって」

律「いいかなって……ムギはそれでいいのか?」

紬「いいのかって、何が? りっちゃん」

律「そんなお見合いとかで勝手に相手を決められて……。
  ムギの気持ちを無視するようなやり方で」

紬「嫌だったらちゃんと断るし、ちょっと出会いの形が普通と違うだけよ。
  それにお父様の決められた方と結婚することは、前から分かってたことだし」

律「そんな……」

紬「取り敢えず、しばらくはその方とお付き合いしてみることにしたの。
  お互いのことをもっと良く知り合うためにって。
  その上で返事は決めるって、相手の方も了承してくださったわ」

律「………………」

紬「今日もこの後、その人と食事に行くの。そういうわけだから今日はもう帰るね」

唯「うん、ばいばいムギちゃん」

梓「お疲れ様です、ムギ先輩」

律「………………」

澪「………………」

律「ムギ!」

 校門のところでムギに追いつき、その背中に声を掛ける。

紬「りっちゃん。どうしたの?」

律「本当に……本当にいいのかよ」

紬「本当に、本当にいいの。どうしたの? 変なりっちゃん」

 何でもないことのように笑みを浮かべるムギ。

律「だってお前、言ってたじゃんか。
  普通の女の子みたいに、恋する女の子みたいに胸をどきどきさせて楽しかったって。
  そういうのに憧れてたんだろ? そういう恋がしたかったんだろ!? 
  なのになんで急にお見合いなんて言いだすんだよ」

 ムギは笑顔のままだ。だけどその笑顔はどこか精彩を欠いていた。

律「私がキス、しちゃったからか? だとしたら謝る」

紬「半分正解で半分不正解、かな」 

 気持ちの整理がまるでつかない。
 心が追いつかない。
 どんな言葉を掛ければいいのか分からない。
 だけどここでムギを見送っちゃったら、何か取り返しがつかないことになってしまう。

 そんな気がした。

律「ムギ、私、は……ムギのことが、好……!」

紬「今のりっちゃんはちょっと私に同情しちゃってるだけ。
  恋人ごっこでか弱い女の子を演じた私を守るかっこいい男の子をまだちょっとひき 
  ずっているだけ……。だから、その先は言わないで」

律「ムギ……!」

紬「その言葉を言うべき人は別にいるでしょう、りっちゃん? ……ほら」

 ムギの視線のその先───そこに立っていたのは、澪、だった。
 今にも泣き出しそうなほどに涙を溜めて。
 今にも崩れ落ちそうなほどに頼りなげな様子で。

澪「……っ!」

 澪が校舎の方へと駆け出す。

律「澪!」

 動けない。二つの想いに心が縛られて、前にも後ろにも進めない。

紬「追ってあげて、りっちゃん。
  ……私は見ているだけで充分だから。それだけで充分、だから」

 今まで堪えていたのだろう。
 ムギは笑顔のまま涙を流し、別れの言葉を告げながら、澪が去った方とは反対方向へと 
 走り去ってしまった。

律「ムギ……!」

動けない。二人への想いで心が引き裂かれそうで、引き返すことも追うことも出来なかった。

律「……くそ! いったいなんなんだよ、私は……!」

 校門の門柱に拳を打ちつけ、己の優柔不断さに歯噛みする。

 迷路の出口はまだ見つからなかった。


 あの日以来、ムギはあまり音楽室の顔を出さなくなった。
 表向きはお見合い相手との食事だとかなんだとか。
 本当のところは私と顔を合わせたくないのだろう。

律「苦……」

 自分で入れてみた紅茶を一口、口に含む。
 蒸らしが不十分だったのか、茶葉は開ききらず、香りは乏しいものだった。
 味に至ってはムギの淹れたものと比べるべくもない。 

梓「やっぱりムギ先輩じゃないと上手く紅茶、淹れられないですね」

唯「うぅ~、ムギちゃんの紅茶が飲みたーい」

梓「やっぱりムギ先輩がいないとちょっと寂しいです……」

唯「ず~っと一緒だったからねぇ。ムギちゃん、今頃何してるんだろ……」

梓「今日もお見合い相手の人と会うんでしたっけ」

唯「ムギちゃん、このままその人と結婚しちゃうのかなぁ」

律「………………」


 ムギが他の男と笑いあっている光景を脳裏に思い浮かべる。
 自分の知らない誰かと笑っているムギ。
 自分以外の誰かと手を繋ぐムギ。
 想像に過ぎないと分かっていても、胸の裡がざわざわと正体不明な感情に掻き立てられた。

律「……後を尾けてみようぜ」

唯「へっ?」

梓「後を尾けるって、ムギ先輩の後をですか?」

律「うん。ムギを変な野郎にやるわけにはいかんからな。
  後をつけてその相手がどんな奴か私達で見定めてやるんだよ」

梓「見定める……って、それはムギ先輩本人の問題なのでは……」

律「見合い相手の前で本当の自分を曝け出す奴なんかいないだろ。
  その相手が本当はものすごい変態だったらどうする?」

唯「それは大変だぁ!」

梓「っていうかそれってまるっきりストーカーなのでは……」

律「私達にはムギの親友としてそれを確かめる義務と権利がある!」

澪「私はパス。親友だからこそ踏み込んでほしくないことだってあるだろ」

律「澪……」

 いつもならノリが悪いとか言って無理矢理連れまわすところだが、今の私にはその資格がな
 い。 そもなんでこんな事を言い出したのか、自分でもよく分かっていないのに、そんな我
 が侭に友達を付き合わせるわけにはいかない。

律「オッケー。言いだしっぺは私だからな。一人でやるよ」

唯「何言ってるんですか、りっちゃん隊員! この平沢唯、たとえ火の中水の中、どこへでも
  りっちゃん隊員についていくであります!」

律「平沢隊員……! よっしゃぁ! そうと決まれば早速変装だぁ!」

唯「了解であります、りっちゃん隊員!」

 何か言いたげな澪と苦笑を浮かべる梓を残して音楽室を後にする。
 どこかに出かけるにしても、一旦家に帰って着替えるはずだ。
 今からムギの家の前で張って、後を尾ければいいだろう。

唯「ムギちゃん、なんかあんまり楽しそうじゃないねぇ」

 さわちゃんの作った衣装の中から比較的まともなものを選んで身を包んだ唯が、そんな言葉
 を零した。

律「これは後を尾けてきて正解だったかな」

 私はといえばここ最近ですっかり身体に馴染んでしまった男物の衣装を着込み、ムギのいる
 店の斜向かいに身を隠していた。

唯「笑っているんだけどいつもの笑顔とは違うっていうか……」

 私はその笑顔を知っていた。
 あれは私の言葉を拒んだ時に見せた、何かを我慢している時の笑顔だ。  

唯「楽しくないんならなんで何回も会ったりするんだろう?」

 想像してみる。
 それは私にとって都合のいい、ただの妄想かもしれない。だけどそれは案外、真実に近いよ
 うにも思えた。
 もしムギが澪の気持ちを尊重して、身を退こうとしていたとしたら。
 もしムギが友達を傷付けないように自分の気持ちを偽っていたとしたら。
 それはムギも少なからず私のことを想っていてくれるということにならないだろうか。

律(なんて、都合のいい……)

 そんなのはただの願望だ。
 そうであったらいいという単なるご都合主義。
 たとえそうであったとしても今、ムギの隣にいるのは私じゃない。

 ムギの向かいの席に座る男に目を遣る。
 誠実そうで温和そうな優男。遠目にもそいつがいい男だということが分かる。
 ムギの父親が娘のお見合い相手にと選んだ奴だ。家柄もしっかりとした奴なのだろう。

 ぎり、と奥歯を噛み締める。
 よく知りもしない相手を憎く思ったのなんて初めての経験だった。

律「なんで……」

 なんでお前がそこにいる。
 お前じゃない。ムギの隣にいるのは、お前じゃ───

唯「ん? なんか言った、りっちゃん?」

律「あ、いや、なんでもない」

 己の裡に湧き上がる昏い感情を落ち着けるように夜空を仰いで深呼吸をした。
 頭を振って雑念を追い払う。視線をムギの方へと───

律「うん? あれは……」

 視界の中に違和感を感じ、その正体を探る。
 私達が身を潜めているところとは反対方向。そこにはどこか見覚えのある顔があった。

律「あれは、ムギのストーカー……? まだいやがったのか」

唯「え、どこどこ?」

 男は物陰に隠れてムギ達の様子を窺っている。
 改めてじっくり見てみるとそいつはどうもただのストーカーとは一線を画しているように
 見えた。
 ムギに向けられる視線も偏執的というよりは、何かを冷静に観察しているようなそんな目
 だった。

律(ほんと何者だ、あいつ……?)

 こちらの視線に気付いたわけではないのだろうが、男は足早にその場を立ち去る。
 ムギのことは気になったが、あの男をこのまま野放しにしておくのも危険に思えた。

律「唯、悪い。ムギのこと、後は任せた。私はあいつの後を追う」

唯「えっ! 駄目だよ、りっちゃん。危ないよ!」

律「へいきへいき。唯もあんま遅くならないうちに帰るんだぞ」

唯「りっちゃぁ~ん……」

 こちらの身を案じる唯の視線を背中に受け、私はストーカー野郎の追尾を開始した。

律(こんなところで何やってんだ……?)

 気付かれぬようにストーカー野郎の後を尾けて、町外れの廃工場まで来ていた。
 男は誰かと待ち合わせでもしているのか、忙しなく煙草を吸いながら廃工場の中をうろうろ
 としていた。

 ここに来てもう30分は経つ。夜も更け、女子高生がうろつくには少々危ない時間になってい
 た。 だがここで帰るわけにはいかない。せめてあの男が何者なのか、それだけでも掴んで
 帰らねばならなかった。

 今なら確信が持てる。あの男はストーカーなんかじゃない。
 じゃあなんなのかと問われれば返答に困るが、少なくともムギにとって歓迎すべき相手では
 ないだろう。

律(ムギ……今頃、何してっかなー……)

 じっと身を潜めるのにも飽きて、ムギのことを考える。

律(澪のやつ、怒ってるかなー……。泣いてなけりゃいいけど……)

 思えばここのところ、何かとムギや澪のことを考えてばかりいるような気がする。
 悶々と二人のことを考えていたら、どこからか車の音がこちらへと近付いてきた。

律(……っと、やばいやばい)

 裏手に回り、中が見えるところを探す。
 おあつらえ向きに裏口があり、錆びた取っ手を静かに回して中へと身を滑り込ませた。
 車は開け放たれたシャッターから廃工場の中へと乗り入れ、中から数人の男達が出てきた。
 目を凝らし、新たに現れた男達を視認する。

律(え……? あいつは……?)

 その中の一人に意外な顔を見かけた。

 それはさっきまで穴が開くほど凝視していた顔。
 ムギの見合い相手だった。

律(どういう、ことだ……?)

 不審に思い、奴らの声が届くところまで息を潜めて近付く。

手下A「このまま滞りなく上手くいきそうですね、坊ちゃん」

 坊ちゃんと呼ばれた男───ムギの見合い相手が口角を吊り上げ、陰惨な笑みを浮かべる。
 最初見た時の印象とはまるでかけ離れたその笑みに不穏な空気を感じ取った。

坊「あぁ。どんな心変わりがあったのかは知らないが、ようやく見合い話を受けてくれたし
  な。どうやって琴吹のお嬢様に取り入ろうか頭を悩ましたものだが、こうも容易くいくと
  は」

手下A「後を尾けまわしても、弱みの一つも握れませんでしたからね。
    付き合っている男はいるようでしたけど、どうやら最近別れたみたいですし」

手下B「見合い話を受けたのも、それが原因かもしれませんね。
    寂しさを紛らわすために、他の男の温もりが欲しかったとか。ひひひ……」

坊「そこへ颯爽と王子様のように現れたのが僕ってわけか。ははっ、ちょろいもんだ」

 下卑た笑いが廃工場に響き渡る。その癇に障る笑い声が、心を怒りと驚愕に染め上げる。

律(なんてこった……あいつら、グルだったのか! これは早くムギに知らせないと……!)

 知らせてどうなる? 
 そもそも今のムギが私なんかの言葉に耳を貸してくれるのか? 

律(それでも、知らせなきゃ……。私はあいつを、ムギを守るって約束したんだから!)

 忍び足で裏口を目指す。
 奴らの会話を聴き取るために、随分奥の方へ来てしまっていた。
 見つからぬよう、細心の注意を払って、廃工場を後にしようとした。

坊「いざとなったら拉致って、ひん剥いて、裸の一つや二つ、
  写真にでも撮って脅迫するつもりだったけど……その必要もなさそうだな」

律「な……っ!?」

 驚愕のあまり、足元の注意が一瞬、逸れてしまった。
 廃材らしき板に足を引っ掛け、辺り一帯に盛大に音が鳴り響く。

坊「誰だ!?」

律「しまった……!」


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最終更新:2010年05月02日 17:59