老紳士は徐に懐から皮手袋を取り出すと、優雅な手付きでそれを装着した。
黒服達は突然の闖入者に呆然としたまま、ただそれを見守っていた。
今この時が逃げ出す最大のチャンスだということにも気付かずに。
斉藤「では参りますぞ」
老紳士はにこりと柔和な笑みを浮かべたかと思うと───
手下A「ぐぅおっ!?」
一瞬で黒服の一人を叩き伏せていた。
「っ!?」
黒服達に戦慄が奔る。
だが遅い。理性や感情が危機を察知したその次の瞬間には、彼らの意識は闇へと沈んでい
た。
手下B「あぃ!?」
手下C「ひぐっ!?」
手下D「か、かは……」
反応出来たのは幹部風の男、ただ一人だった。
他の者は自分が何をされたのかすら分からないままに昏倒していた。
幹部「ボクシングか……!」
斎藤「ほう、私のジャブに反応するとは……。なかなかやりますな」
斎藤は鞭のようにしなるジャブを上下に打ち分け、男はそれをパーリングで撃ち落とすだけ
で精一杯だ。
幹部「フリッカージャブとはまた厄介な……! ぃよっとぉ!」
男は大きく飛び退り、腰の得物を手にする。
本気を出さなければやられると判断したのだろう。
男は躊躇することなく、刀を抜き放ち、隙のない構えを取る。
斎藤「っシ!」
幹部「おらぁっ!」
蛇のように襲い掛かる変幻自在のフリッカーと、小さい円の軌道を描く白刃が激突する。
ぶつかる度に闇の中に、火花が咲き、悲鳴のような金属音が鳴り響く。
斎藤の皮手袋には拳と甲の部分に鋼が仕込んであった。
だがそれも扱う者の卓越した技量がなければ、
刀と切り結ぶなんていう非常識な真似は到底出来なかっただろう。
斬り払うだけでは撃ち落とされるだけと判断した男は、
虚を衝くように突きを織り交ぜるが、それも不発に終わった。
斎藤の老人とは思えぬ身のこなしで苦もなくかわされる。
膠着状態。
この場にいる誰もが結末を想像しえぬ中、予想もしなかったアクシデントが天秤を傾けた。
手下A「こ、のぉ!」
転がっていた黒服の一人が息を吹き返し、斎藤の足へと絡みつく。
斎藤「うぬぅ!?」
目の前の相手に集中していた斎藤には、それをかわすことは出来なかった。
幹部「っしゃあ!!」
振り下ろしていた刀を手首の切り替えしだけで、切り上げへと変化させる。
体勢を崩し、踏鞴を踏んでいた斎藤の顔面目掛けて刃が襲い掛かる。
「っ!!」
老紳士の顔に白刃がバターナイフのようにめり込む。
誰もが次の瞬間には凄惨な場面が繰り広げられると予想していたが、
目の前で展開された光景は更に斜め上をいく驚くべきものだった。
幹部「……化け物め!」
刃が獰猛なまでに剥き出しになった歯に咬みつかれ、制止していた。
これを神業と呼ばずしてなんと呼ぼう。
斎藤は足に絡みつく腕を振り解き、刃から歯を離す。
男は静かに刀を引き、仕切り直すように後ろへと身を退いた。
幹部「なんっつー反射神経だよ。あんた、本当に人間か?」
斎藤「ほっほっ、貴方が手加減してくれなければ、今頃私の顔は真っ二つでしたよ」
幹部「は、余計な横槍で勝負が着いちまったんじゃ面白くねーからな」
目をぎらぎらとぎらつかせ、獣じみた笑いを浮かべる。
楽しくてしょうがないといわんばかりに。
斎藤「私は琴吹家執事・メイド連隊統括長、斎藤。
……もしよろしければ貴殿の名をお訊きしても?」
幹部「姓は白石、名はみのる。
屠った相手の名前を逐一覚えてるっつー酔狂な趣味を持っていることから
『忘レ不の白石』なんて通り名で呼ばれたりもするが……
ま、名前なんざどうでもいいやな」
斎藤「……確かに。失礼、無粋なことを申しましたな。
私達のような者が己を語るのには───」
白石「───こいつで充分ってこった!」
互いに地を蹴り、爆発的な速度で間合いを詰める。
機先を制したのは白石だった。
トンボの構えから、瞬時に平突きへと構え直し、神速の突きを繰り出す。
その数、三連。眉間、水月、咽喉を狙った、正に必殺の剣。
刹那の瞬に閃くその刺突は並みの者なら知覚することすらなく死へと追いやられていたこと
だろう。
だが迎え撃つは百戦錬磨の鬼神、闘争の修羅、斎藤だ。
後の先を制したのは斎藤だった。∞の軌道で上体を絶え間なく揺すり、尽くを紙一重でかわす。
全てをかわしきり、オーバーハンドの右を放つ。∞の反動をその拳へと集束させ、
相手の顎へと狙いを定め───
斎藤(右腕だけ……!?)
その刹那、斎藤の背に悪寒が奔る。
咽喉元を狙った最後の突き上げ。刀を執る手は右腕だけだった。
白石「甘い!」
最後の突きを放つと当時に引き戻していた左手が腰に据えられた鞘を握っていた。
剣帯を引き千切り、逆手に握られた白鞘が逆巻く疾風の如く、斉藤の顎に襲い掛かる。
斎藤「っシ!」
短い呼気と共にオーバーハンドの右拳を突き上げられる鞘へと叩きつける。
チョッピングライトによって砕かれた白鞘が粉々になって宙を舞う。
白石「もらったぁ!」
勝利を確信した白石の右腕が大上段から振り下ろされる。無情な死神の鎌のように。
勝負は決した。誰もがそう思ったその時───
斎藤「奥の手があるのは───」
拳打を放ち終わった右手を地面に着き、左脚が地を蹴り、宙を舞う木っ端を切り裂くように
軌跡を描く。
斎藤「貴方だけではありませんぞ……!」
白石「なッ!?」
白石には何が起こったのか理解出来なかった。ただ気付いたら己の眉間が相手の足に打ち抜
かれていた。
襲い掛かる刃の横を掻い潜り、地面に着いた右手を支点に身体を縦に半回転させる。
円軌道を描く左脚は無防備になった相手の頭部目掛けて振り下ろされていた。
カポエィラの軽やかな柔の動き。
空手の鋭く重い剛の一撃。
硬軟一体となった知覚不能なアクロバティックな蹴り。これこそ───
白石「子安キック、だとぉ……!?」
額から血を流し、後ろへと吹っ飛ばされた白石の口から驚愕の一言が漏らされた。
斎藤は蹴り抜いた足を地面へと着き、すぐさま構え直す。
残心。
白石「く、ははは……まさかそんな奥の手が、あるとはなぁ。使えるのがボクシングだけと、
見誤ったのが敗因か……」
斎藤「武芸百般。執事の嗜みですので」
白石「は、負けだ負けだ。俺達の負け」
白石は刀を杖代わりにふらふらと身体を起こす。
白石「負けたからにはけじめを着けにゃならんよなぁ。
……腕一本。それと今後一切あんた達には手を出さない。
それでチャラにしてくんねぇか」
斉藤「………………」
白石「おい」
白石は自らの刀を傍らに立っていた手下へと渡す。
手下A「し、しかし……」
白石「いいからやれ」
手下A「は、はい……!」
白石は右腕を地面と水平に持ち上げる。
覚悟を決めた男は己の腕に刃が振り下ろされるのを、ただ待つ。
紬「お待ちなさい!」
凛とした声が振り下ろされた刃を止める。
白石「なんだい、お嬢ちゃん。これは大人のけじめの着け方なんだ。
子供が口出しすんじゃねえよ」
紬「子供、それも女の子の目の前でそんな惨いことをするのが大人のやり方ですか。
大人の問題に子供を巻き込むのが正しいやり方なんですか」
白石「………………」
紬「これ以上勝手に話を進めるのでしたら、私は女子高生の
琴吹紬としてではなく、
琴吹家次期当主の琴吹紬として貴方達を相手取ることになります」
白石「……は、分かった分かった。ま、命拾いしたと思って、
ありがたくお嬢ちゃんの厚意を受け取っておくよ。
あんがとよ。いや……」
白石は片膝を着き、頭を垂れる。
白石「寛大なご処置、痛み入る。琴吹紬殿」
斎藤「……成長なさいましたな、紬お嬢様」
白石は踵を返し、車の方へと引き返していく。
坊「ふ、ふざけるな! 認めない……。僕は認めないぞ! くそ、白石ぃ!
なにやってんだよ! こんな奴ら、さっさと片付けろぉ!!」」
白石「……おっと、いけねぇ。どうやら忘れ物をしちまったようだ」
坊「ぐふっ!?」
わめき散らす主人の懐に拳打を一発入れて黙らせる。
白石「これ以上の醜態は男を下げますぜ、坊ちゃん……WAWAWA忘れ物~」
えづく青年を引き摺りながら退散する白石。だがそこへ───
手下B「う、うわああぁぁぁぁあぁぁっ!!」
錯乱した手下の一人が叫びを上げる。
手には最も効率良く、人を殺せる武器───黒光りする拳銃が握られていた。
紬「……っ!?」
銃口の先には紬が呆然と立っていた。
斎藤「いかん!」
乾いた炸薬の破裂する音が二発、三発と反響する。
斎藤「ぐぬぅ!?」
射線上に割り込んだ影は二つ。
銃口に背を向け、両腕を大きく広げ、少女を守るように立ちはだかる斎藤と、
紬を包むように抱きしめた律だった。
斎藤「ぬうぅ……!」
胃の腑から熱い激流がせり上がり、口から零れようとする。
それを意思の力で留め、無理矢理に飲み下す。
吐くわけにはいかなかった。
目の前には守るべき可憐な華が二輪、咲いていたのだから。
斎藤「なかなかやりますな、田井中様」
律「守るって約束したからね……ムギを」
主の無事を確認し、敵へと向き直る。
斎藤「斎藤死すとも───」
火矢の如き勢いで敵へと肉薄し、大地をも震わす力強さで踏み込む。
斎藤「執事は死なず!!」
突き上げられた掌底が顎をぶち抜き、相手の身体を中空へと吹っ飛ばす。
男の意識は一瞬で刈り取られ、錐揉みに宙を舞い、二、三秒の後、地面へと叩きつけられ
た。
白石「重ね重ねすまねぇ……! 車に乗ってくれ。すぐに病院へ……!」
斎藤「馬鹿者! 病院へ行かねばならぬのは私ではない。私よりも───」
気付けば身体が勝手に飛び出していた。
当ったら痛いじゃすまないだろうなーとか考えたけど、
そんなことよりもただあいつが傷付くのが怖かった。
だから多分それが答えなんだろう。
紬「りっ……ちゃ、ん……?」
律「無事か……ムギ……?」
紬「え、えぇ……」
ムギはまだ何が起こったのか分からないといったかんじで呆然としていた。
律「そか……よかったぁ……」
紬「……っ!?」
すぐ横から息を呑む気配が伝わる。
脇腹に感じていたムギの手の温もりが感じられなくなったところからすると、
自分の手に付いた私の血でも見てしまったのだろう。
脇腹が異様に熱かった。痛いというよりも熱い。
紬「りっちゃん……?」
律「私、馬鹿だからさぁ、こんなになるまで……なかなか、自分の気持ち、に……気付けな
かった」
紬「りっちゃん……」
律「あは、は……ほんと、馬鹿……だよなぁ、私」
紬「りっちゃん……!」
律「ムギ……伝えたい、ことが、あるんだ……。聞いて、くれる、か?」
紬「しゃべっちゃだめ、りっちゃん!」
言葉を紡ごうとしたら、代わりに血が唇から零れてしまった。
あぁ、ムギの服、汚しちまった。
斎藤さんみたくかっこよく決めたかったのになぁ。
律「ムギ……わたし、は、ムギが……」
意識が闇へと沈んでいく。
待ってくれ。
まだ一番大事なことを言ってないんだ。
紬「りっちゃん……? りっちゃん……りっ、ちゃん。りっちゃん、りっちゃん……! りっ
ちゃん!!」
そんなに呼ばなくても私はここにいるよ、ムギ。
紬「い……いやあぁぁああぁぁぁぁッ!」
ムギの悲痛な叫び声を最後に私の意識はそこで途切れた。
最終更新:2010年05月02日 18:14