世の中には不思議なことが時々起こる。

 例えば、リモコンが見つからないとか、ケーブルがいつの間にか絡まっていたりとかも些細なことながらだけど不思議なことだ。

 小人か妖精の仕業なんじゃないかと思ったりもする。

 でも、目の前の不思議は小人でも妖精の仕業でもないと思う。

 その不思議は唯自身が生み出したものだから。

 不思議の正体は、唯が歌詞を書いてきたことだ。
 正直、わたしには信じられなかった。
 唯が何か一つのことに打ち込むと凄いことは知っていたけど、歌詞を書くことに興味を持ったのは勿論、それを実行するとは驚かざるを得ない。

 歌詞が書かれた紙片は律が持っており、それを横からムギが覗き込んで読んでいる。
 梓はティーカップを口につけてその様子を静観している。
 唯はというと、テーブルに手を着き身を乗り出して反応を待っていた。
 目が期待で輝いているのがはっきりと確認出来る。

 わたしには唯が真っ当な歌詞を書けるとは到底思えない。
 だって、あの天然な唯だ。
 どうせ、アイスがどうのこうの書いてあるに決まっている。

 わたしは梓と同様、紅茶を飲みながら事態を見守ることにした。

 やがて、律が顔を上げて素直な笑みを浮かべて言う。

「うん、良いんじゃないか」

「ほんとに!?」

 唯が更に身を乗り出す。

「少なくとも、澪のよりはずっと良いぞー」

「それはどういう意味だ?」

 納得がいかない。
 唯の歌詞がわたしのものより優っているなんてある筈がない。

「そのまんまの意味だよ。だって澪の歌詞って少女漫画を読んだ小学生が書いたみたいじゃん。子供っぽいんだよな」

「な、なんだと!? 唯のなんかどうせ!」

 わたしは律の手から紙片を奪い取ると、不揃いな字の羅列を目に入れた。

「どうせ…どうせ…」

 歌詞を読んだ途端、既に予約済みだったセリフは頭を離れ消滅した。
 まさかの出来の良さに驚嘆してしまったからだ。
 ありえない。

 でも事実、自分の目の前に存在する歌詞を認めざるを得ない程の出来前で、感嘆の声をあげたいぐらいだ。

 それでも、唯の実力を認めたくないという負の感情が私の思考を支配していくのを止めること出来なかった。

「ど、どうかなあ?」

 唯がわたしに評価を求めてくる。

 うん、たしかにわたしのより良いよ。

 そう言えば、誰の気にも触れず話は何事もなく進むのだろう。
 だけど、わたしにはそれが出来なかった。

「ま、まあこんなもんじゃないか。唯にしては頑張ったんじゃないか」


 そう言って、わたしは紙片を部屋全体に聞こえるような音を発てて真っ二つに引き千切った。


 素直じゃない、そう思う。
 そして、最低だ。
 わたしは最低だ。


「あっ」

 ムギが驚きの声をあげる。

「澪! なにしてんだ!?」

 大きな音を出して椅子から立ち上がり律は言う。
 律のキツイ声が耳をつんざくように響いた。
 でも、ここまで来るとわたしの口は悪い方にしか開かない。

「だって、こんなのじゃ駄目に決まってるだろ! 大体、唯が歌詞なんか書けるわけないんだ。この歌詞なんか幼稚園児レベルだぞ」

 自然と声も大きくなっているのが分かる。
 わたしは恐らく引き攣っているであろう自分の顔を唯に向けた。
 唯の目元は少し濡れていた。

 泣いている?

 誰が泣かした?

 わたしだ。

 馬鹿で最低なわたしだ。

 謝ろう。

 謝って、紙もセロハンテープで繋ぎ合わせて笑って唯を誉めよう。
 そしたら、唯も泣き止むかな。

 そう思って、口を開こうとしたその時だった。

「最低っだな!」

 律だ。

 律がわたしのことを最低って言った。

「見損なった! 最低だよ! いくらなんでもそんなことしなくても良いだろ!」

「い…い…よ」

「唯にあやま……唯?」 

「良いよ、りっちゃん。わたしが調子に乗ってこんなことしちゃうから駄目なんだよ。澪ちゃんが怒るのも当たり前だよね。ごめんねえ、澪ちゃん。・・・だから、りっちゃんも喧嘩しないで」

「でもさ、澪は」

「あはは、人間って向き不向きあるよねえ」

「先輩・・・」

 なんで唯が謝るのだろう。
 本来ならわたしが謝るべきなのに、どうして唯が先に謝ってしまうんだ。

謝れ。


 さあ、謝るんだ。

 わたしの口は謝罪の為に再び開こうとする。
 その途中、不意に悪魔の囁きが頭に響いた。


 ――このまま押し通してしまえ。そうすれば唯が再度歌詞を書くことはない。

 悪魔の声はわたしの声そのものだった。
 この時のわたしは正に悪魔だったのだ。
 わたしは囚人のように潔く悪魔に従うことにした。


「わかればいいよ。唯には無理なんだって」


 声が笑っていないことが自分でもわかる。
 まるで死体に鞭を打つように、トドメを刺すように残酷で平坦な口調だった。

 唯はそれを受けて黙って椅子に座り、紅茶の中に視線を溶かした。
 律は依然として納得していない顔だったが、唯に続いて席についた。
 ムギと梓は空気の重さに耐えるように、静かに座っている。

 わたしは四人とは対照的に席から離れて突っ立ていた。
 いつ立ったのかすら定かでない。

 部室は誰かが喋りだすのを待つかのように静かだ。
 わたしだけ外れている。
 そう感じた。


 今思えば、クラス替えの時から外れていたのかもしれない。
 その時から違うレールを走っていたんじゃないか。
 レールは途中で交わっても直ぐに別れていく。
 今は丁度その別れの時なんだ。
 けど、またいずれ交わる時が来る。
 わたしはそれを待てばいい。
 考えるべきことは今どうすればいいかだ。

 わたしは部室をぐるっと見回して居場所を探した。
 だけど、居場所はどこにも無い気がした。
 さっきまで座っていた椅子も、今では他人の物のように感じられる。
 このままティータイムの続きをするのは怖かった。
 どんな顔で、どんな声で、みんなと接すればいいのか分からない。


 わたしは後ろに一歩あとずさる。

 今日は帰ろう。
 唯とみんなには明日謝ればいい。
 このまま部活を続けたって、まともに練習は出来ないだろう。

 そうだ、そうしよう。

 一歩に続き二歩三歩と続いて、みんなに背中を向けると自分のバッグを手に取ってドアの方へ歩く。

 後ろを見るな。
 明日になれば、元通りになるんだから。

「澪ちゃん!? 部活はどうするの?」

 ムギがわたしの背中に向かって声をかける。

 でも、わたしは振り向かない。

 そのまま、ドアノブを回して部室の外へ出た。

 気分が悪い。
 早く家に帰って、横になろう。
 こういう日はさっさと寝たほうがいいんだ。
 明日になったら、学校ですぐに謝る。
 うん、決まりだ。


 この時のわたしは幸せだったのかもしれない。

 この世の全ての人が、平等に明日を迎えられるものだと無意識に思っていたのだから。

 わたしは日常に生きていたんだ。


……

       ☆

 澪ちゃんが部室をあとにしてからもわたし達は沈黙を守っていました。

 わたしは無力な自分が嫌になってしょうがなかった。
 こういう時にこそ誰かが場を取り繕わなければいけないのに、わたしにはそれが出来ない。
 他人に任せて自分は口を噤むだけなのだから、笑ってしまいます。

 普段は明るい唯ちゃんもりっちゃんも、この時ばかりは元気がなさそう。
 梓ちゃんは下の学年ということもあって、その役目を果たすには少々厳しいものがあると思う。
 やはり、ここはわたしがなんとかしなくてはいけないんだわ。

 でも、具体的に何をしたら良いのか見当もつかない。
 なにか、なにか元気付けられるもの。


 ……そうだ。

 思い切って、わたしはマンボウの物真似をしてみました。

 お願い、みんな見て。

 私の願いが通じたのか、唯ちゃんが顔を上げて私を見ました。

「ムギちゃん、なにしてるの?」

「ま、マンボウの物真似を」

「ああ、懐かしいね。クリスマスの時だよね。それをやってたの。でも、なんでいまやってるの?」

「えっと…なんとなく…」

 駄目だわ。

 やっぱり、わたしにはこの場の空気を崩すことはとても出来そうにない。

 仕方なく、やり場のない視線を落として時が過ぎるのを待つことにしました。
 けれど、直ぐにくぐもった声が聞こえてきたのでわたしは顔を再び上げました。

「ふうっくっく…」

「唯ちゃん?」

 唯ちゃんが何かをこらえるように口に手を当て、体を震わせていました。

 笑っているのかな?

「唯ちゃん、どうしたの?」

「クリスマスのこと思い出してたらおかしくって…くふっくふふ」

「クリスマスのことね。なんだか懐かしいわね」

「あの、なんですか、クリスマスのことって?」

 梓ちゃんは興味があるのか尋ねてきました。

「そっか、あずにゃんはあの時はまだいなかったもんねえ」

「ってことは先輩達が一年の時ですか。何かあったんですか?」

「えへへ。あずにゃん、世の中には大人しか知ってはいけないことがあるんだよ」

「一体、なにしてたんですか? まさかお酒を飲んだりとか?」

「さわちゃんは飲んでかも」

「あの人も一緒だったんですか!?」

 唯ちゃんの話を聞いていたら、わたしの脳裏にもあの日の光景がはっきりと浮かび上がってきました。

 わたしはあの日初めて友達とクリスマスパーティをして、プレゼント交換をしました。
 その時の唯ちゃんと憂ちゃんのやり取りを見ていたら、姉妹がいて少し羨ましくなったのを思い出します。

「でねえ、そこでみんな一発芸をやったんだけど、ムギちゃんはさっきやったマンボウの物真似だったんだよ」

「へえ、ムギ先輩も意外とやるんですね」

 意外の意味がいまいち分からないけれど、梓ちゃんに誉められてしまいました。

「りっちゃんはエアドラムだよね」

「え、わたし? あ、えっと、そうだったかな」

「っで、わたしがエアギター」

「み、澪先輩はなにかしたんですか?」

 話の流れからしたら澪ちゃんの名前が出てくるのは自然だけれど、遂さっきのことを考えたら早すぎる登場だと思う。

 それでも、唯ちゃんはそのようなことは関係ないとばかりに言いました。

「澪ちゃんはねえ、サンタさんになってたよ」

「サンタですか? 澪先輩がサンタ…」

「あれえ、あずにゃんはなにを想像しとるのかな?」

「し、してませんよ! な、なにもしてません!」

「ほんとにー? 怪しいなあ。ねえ、りっちゃん」

「う、うむ。怪しいぞ、梓」

「だから、なにもそんなこと」

「梓ちゃん、顔が真っ赤よ」

 梓ちゃんには悪いけれど、ここは雰囲気がいつものように和やかになってきているところ、少し意地悪です。

「え、あ、うぅ…」

「ほんとーだ。あずにゃん、顔が真っ赤だねぃ」

「もう、からかわないでください!」

 そう言って梓ちゃんは恥ずかしいからなのか顔を俯きにしてしまった。

 どんな表情をしているのか、わたしからはよく見えないけれど、笑っているんじゃないかと思う。

 だって、唯ちゃんが笑顔になったから。


 わたしはこの時の唯ちゃんの笑顔を、時折否でも思い出してしまう。

 “この日”の笑顔なだけで、いつもと変わらぬ笑顔なのに。


 唯が無理をしているのかは分からないけど、元気を取り戻した。
 落ち込みというか凹んでから殆ど時間は経っていないというのに、まったく立ち直りが早い奴だ。
 まあ、そこが唯の良い所でもあるんだろうな。

 澪がいないので練習はなし、梓はやりたいのを我慢してなのか何を言わなかった。
 あたし達はいま、部室を出て帰るところだ。

「ねえねえ、ムギちゃん」

「なあに、唯ちゃん」

「今年はムギちゃん家でクリスマスしたいです!」

「いいわよ。早めに家の予約をとっておくから」

「ははあ、ありがたやありがたや」

「迷惑じゃないんですか?」

「大丈夫、出来るだけ広いところにするから」

「いや、そういうことではなくて」

 唯達はというか唯は、もうクリスマスの話をしている。
 気が早いにも程があるだろう。
 だって、まだ九月なんだし。


あたしは会話には加わらず、別のことを考える。

 澪のこと。

 厳しく言い過ぎたかなと反省しないでもない。
 でも、唯の歌詞を引き千切ったときは本当に頭にきてしまった。

 唯が頑張って書いてきたのをなにもあんな風にすることはないよ。

 歌詞はセロハンテープを使って繋ぎ止めホワイトボードに貼っておいた。
 歌詞の出来は唯が書いたとは考えられないくらい良くて、捨てるのは勿体なかったし。

 あたしは澪の部室でのやり取りを思い出す。
 なんで、澪はあんなことをしたのか。


 あたしが思うには悔しかったから、あんな行動をとってしまったんじゃないかって思う。

 悔しかったというのは、自分が書く歌詞と唯が書く歌詞の違いで、澪のイメージとしては唯みたいな歌詞を書きたいという想いもあったのかもしれない。

 それに他人より上に立ってたいという気持ちは人間だれしも持っていて、それが澪には勉強だったり音楽なのかもしれない。

 認めたくないけど、人は誰かを見下して安心したいという心理があると思う。

 他人のことは言えないけど、たしかに唯は普段とてもじゃないけど何か凄いことをやる人間には見えないし天然だしで、その唯にテストの成績に限らずに何かで負けたら恥ずかしいという気持ちは、あたしにも心のどこかに少なからずあるのかもしれない。

 澪はそんな心理が表まで出てきてしまって、ああいう言動を起こしたんだとしたら、目的地に向かう道が左なのを右に行ってしまった、その程度のことなんじゃないか。

 だから、明日学校で澪に会ったら唯に一緒に謝りに行けるようにあたしが助けてあげなきゃいけないな。

 澪は道を間違えただけなんだから。


「――ちゃん? りっちゃん?」

 考えごとに耽っていて、気がつくのが遅くなったけどムギがこっちを見ていた。

「なに!?」

 あたしは作り笑いでムギに返事をする。

「どうかしたの? もしかして澪ちゃんのことを考えていたの?」

「違うよ! 今日の夕飯はなにかなってさ」

 ムギに嘘が効くかは分からないけど、そういうことにしておこう。

 ムギは嘘を吐いても駄目、と言わんばかりの顔を見せたあと優しい笑みを浮かべた。

 早速嘘を見抜かれてしまったか。

 あたしは、ムギにはかなわないなって意味を込めて笑い返した。
 前方を歩く唯と梓とは少し距離が離れていた。

「ムギ、離れてるぞ」

「知ってるわ。知らなかったのはりっちゃんでしょ」

「そっか」

 あたしとムギは少し駆け足で唯達に接近する。
 その時、反対側の歩道に憂ちゃんの姿が見えた。


「唯! あれ憂ちゃんじゃないか!」

 あたしは唯達に追いつく前に教えてあげた。

「あ、うーいー!」

 唯が声を上げながら、手を振りながら歩道を下りて、道路に出る。

「あ、先輩! 危ないです!」

 梓が唯を道路から連れ戻そうと手を宙に伸ばす。
 その手は唯の身体に触れられない。

 大きなクラクションと共に大型トラックが唯の背後から進行してくる。

 危ない!

 あたしはそう思って、唯に声をかけようとした。

 でも、手遅れだった。

 トラックはマネキンでも轢くかのように、いとも簡単に唯の身体を轢いた。

 命のないただの物のように唯の身体は道路を跳ね転がり、トラックはブレーキ音を響かせながら数十メートル先で停止した。


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最終更新:2010年02月20日 00:41