この後、憂ちゃんと目が合った瞬間が、今でも夢に出てきて飛び起きることがある。
いや、厳密には目が合ったのかは定かでない。
憂ちゃんの顔に恐怖の色はなく口を開けている。
視線は不自然な方向に曲がった腕の持ち主である、唯の身体を捉えていたと思う。
憂ちゃんは言葉を発せず、ゆるりと視線を持ち上げ、あたしの方をみた。
その瞬間だ。
その目が、見るもの全てを溶かし凍らせるような目が、あたしは怖くてたまらなかった。
あたしが憂ちゃんのことを言わなければ、あんな事故は起きなかったんじゃないかということを考えて、ずっと泣いた時もある。
あたしは辛かった。
でも、本当に辛いのはあたしではない。
憂ちゃんは勿論、澪と梓の辛さはあたしの比じゃないんだ。
……
☆
「梓ちゃんが殺したんだ」
わたしは憂にそう言われた。
それを聞いたとき、わたしは憂がなにを言っているのか理解出来なかった。
わたしは先輩を殺していないから。
憂はわたしが先輩を押したって言っている。
それは間違いだ。
憂にあの時何があったのか丁寧に説明しようとしたけど、憂は一方的にわたしを“犯人”“殺人者”扱いして責めた。
わたしは何度も説明を試みた。
けど、埒があかないことを悟ると、憂に言われっぱなしのまま耐えた。
何を言われても耐えた。
家に帰ると事件の記憶と共に、憂の容赦のない言葉を思い出してトイレで吐いた。
道路に唯先輩の肉体が赤黒とした血を纏いながら落ちている。
頭部から血を出して、ぐったりして動かない先輩の身体。
右腕が間接を無視して曲がり、露出した肌には擦り傷が散見していた。
事故の映像が目まぐるしくフラッシュバックして頭から離れない。
「梓ちゃんが殺したんだ」
やがて、わたしは本当は自分が殺したんじゃないかって思い始めた。
わたしが伸ばした手が先輩の背中を押して、地獄への谷に突き落としたんじゃないか。
考えれば考えるほど、そう思えてくる。
徐々にその映像が“創られていく”。
わたしが先輩を殺す映像が出来上がるのだ。
それ以来、事故のこと考える度に頭痛や眩暈、吐き気を催すようになった。
自然と学校に行くことはなくなった。
……
☆
わたしはその時、家で音楽を聞いていた。
嫌なことがあった時は音楽を聴いてる間は忘れられるのだ。
聴いていた曲はThe CUREのLOVESONG。
明るい曲ではないけど、一応ラブソング。
わたしの視界の隅で携帯の着信ランプが点滅していた。
多分、律かムギ辺りだろう。
この時のわたしはそう思って、携帯を手にしなかった。
特別、大事な用でもないだろうと思ったから。
それから2分近く経って階下から母親に呼び出されたわたしは、携帯ではなく家の固定電話を耳にあてることになった。
電話の相手は律だった。
この電話の早さだと、部室でのことを更に追及しようとしてるのかとわたしは思ったが、それは大間違いだった。
この時に初めて、わたしは事故のことを聞かされた。
最初はわたしを心配させる為の演技なんじゃないかと思ったけど、律の声音はいつも以上に真剣だった。
わたしは大急ぎで病院に行ったけど、唯はもう……。
……
☆
わたしの中には何故か怒りの感情が一番強く出ていた。
その怒りが梓ちゃんに向けられた。
誰かの所為にしたかった。
わたしは身近にいた人間に罪を着せることで、お姉ちゃんの死になんらかの意味を見出したかったのかもしれない。
道路を左右確認せず横断するという不注意で死ぬなんて、とってもつまらない死に方だから。
だから、わたしは梓ちゃんを責めた。
梓ちゃんは自分はやっていないって言ってた。
わたしにもそれは分かっていた。
でも、そうやって犯人扱いにすることで憎しみの矛先を大事な友人に向けた。
殺してやる。
そう思ったときもあった。
いや、あの時は死にたいという気持ちの方が強かったのかもしれない。
姉の死による喪失感と友人を責めた罪悪感とが、わたしの中で激しく蠢いていたんだと思う。
本当に死にたいって思った。
お姉ちゃんはわたしにとって唯一無二の存在だった。
無論、この世界に一人とて同じ人間なんていないわけだけど。
わたしはお姉ちゃんが好きだった。
大好きだった。
映画みたいに言えば、愛していた。
愛してるなんて言葉は恥ずかしくて、お姉ちゃんには言ったことがないけど。
よく、本当に大切なものは失って初めて気がつくと言うけれど、わたしには当て嵌まらない。
失う前から、わたしにとってお姉ちゃんは十二分に大切な人だったのだから。
わたしは事故の後、しばらく家に引きこもった。
とてもじゃないけど、学校には行きたいとは思えなかったから。
24時間の中で寝るときでさえもお姉ちゃんのことで頭がいっぱいで、他のことは何も考えることが出来なかった。
けれど、ある日異変が起きました。
涙が涸れてしまったのです。
悲しいはずなのに、涙がまったく流れないのはおかしいって思いました。
なんで人は泣くんだろう?
わたしはそんなことを考えました。
悲しいから?
いや、人は嬉しいときにも泣くことがある。
じゃあ、何故?
わたしの涙はどこへ行ってしまったのか。
この時のわたしは泣きたかったのに、涙はどこかへ旅立ってしまっていました。
……
☆
軽音部は終わった。
終わったと言っても、廃部になったわけじゃないけど、部の活動は停止していた。
それもそうだろう。
唯が死んで、今まで通りにやれるわけがない。
梓は学校を休み、憂ちゃんは別人になったかのように暗いオーラを纏っている。
澪は自らの過ちを償う場所すら与えられずに悩み、あたしとムギは死という事実を茫然と見送り、唯がいない生活をなんともなしにしている。
唯が死んだことは悲しい。
しかし、実感がない。
実感をもたずに生活をしている。
死という事実に何も感じない。
いや、何も感じないわけじゃない。
けど、薄いんだ。
空気を手で掴むように実体を掴むことが難しい。
人が死んでも、友達が死んでも、なにも変わらずに生きている自分が恐ろしい。
何かを感じたい。
じゃないと、あたしは壊れてしまう気がする。
今日もあたしは、望まずに訪れた非日常な日常を生きる。
……
☆
壊れてしまった。
わたし達の日常が非日常に変わった。
こんな世界、誰が望んだのだろう。
わたしは独り、部室の椅子に腰をかけていた。
部屋はしんとして物音一つしない。
テーブルにはわずかだが埃が溜まっている。
違う世界に来たみたいだ。
五人の笑い声が聞こえていた時が、遠い昔のように感じられた。
唯が死んでしまった。
わたしに謝罪の機会も与えずに死んだ。
もう謝ることは出来ない。
罪意識を抱えたわたしは、誰に謝ればいいのだろう。
どうやって謝ればいい。
どこを向いて謝ればいい。
いや、謝ることはどうでもいいのかもしれない。
重要なのは。
もう、唯に会えないということ。
もう、話せないということ。
もう、声を聞けないということ。
眼の奥から堰を切ったように涙が溢れ出る。
まただ、唯のことを考える度に涙が出てくる。
泣いたって、どうなるわけじゃないのに。
泣いたって、唯は帰ってこないのに。
泣いたって、悲しくなるだけなのに。
なのに、泣くことを止めることは出来ない。
無理だよ。
わたしは強くないから。
弱いから。
最悪だ。最悪だ。最悪だ。
もう嫌だ。
辛い。
辛いよ、唯。
一頻り泣いたあと、席を立った。
無意識にホワイトボードが目に入る。
一枚のセロハンテープで繋ぎ合わされた紙。
唯が書いた歌詞だ。
わたしは歌詞に引き寄せられるように釘付けになった。
理由はない。
けれど、この歌詞が何かをわたしに伝えようとしているように感じた。
そうか。
そうだ。
わたしは独り得心する。
しかし、そんなことが今の軽音部に出来るだろうか。
……
☆
先生に呼ばれたわたし達は、放課後の誰もいない教室に集まりました。
わたし達というのは、澪ちゃん、りっちゃん、わたしの三人だけ。
梓ちゃんは未だに学校へは来ていないそうです。
わたし達の間に会話はなく、あるのは沈黙のみ。
誰も顔を合わせようとしません。
そんな異常な雰囲気の中、先生は教室に入ってきました。
「みんな、悪いわね、集まってもらって」
澪ちゃんもりっちゃんも顔を上げてはいるけれど、言葉を発しようとはしません。
そんな中、わたしは勇気を出して口を開きました。
「あの、それで何か御用ですか?」
わたしは呼ばれた理由を聞いていない。
「大事な用よ。とっても大事な」
先生は今までに聞いたこともないような声音で言いました。
「つまりは部のことね。これからどうするのか」
「どうするって、どうしようもないじゃん」
りっちゃんが興味なさそうに言う。
「どうしようもないかー。まあ、あなた達がそれでいいならいいけど」
先生は冷たく言い放つ。
「わたしも吹奏楽部と掛け持ちするの大変だったから、助かるわ」
先生の仰り方は悪意を持って聞こえました。
そんな、そんな言い方って。
「先生! どうしてそんなことを言うんですか!?」
いつの間にかに席を立って、文句を言う自分がいました。
「そんなこと? わたしは元々好きで顧問しているわけじゃないわよ」
「そんな……」
「それより、部をどうしたいかはあなた達が決めることなのよ。わたしが何を言おうと関係ないでしょ。今、必要なのはあなた達の意見だけ。無いなら、廃部ということにしちゃうわ」
「えっと、それは……」
横目に澪ちゃんとりっちゃんの様子を窺う。
二人とも押し黙ったまま、顔を伏せている。
わたしがしっかりしないと。
意見を言わないと。
わたしはまた音楽がしたい。
でも、唯ちゃんがいない部活を続けてもいいのかしら。
それに、澪ちゃんやりっちゃんはどう思ってるかは分からない。
「ああー、もうじれったいわねー。いい? 後悔しないように、今やれることをやりなさい」
今、やれること。
わたしに、わたし達にやれること。
後悔をしない為にやること。
それはもう一度、軽音部を復活させること。
唯ちゃんもそう願っているはず。
「律、ムギ、聞いて欲しいことあるんだけどさ」
突然でした。
澪ちゃんがわたしと同じように立ち上がって言いました。
そして、手に持っていた紙を広げて、
「これさ、この歌詞、最後だからさ。やりたいんだ。みんなで」
「最後って?」わたしは問う。
「次の新歓ぐらいだろ、出来るのは。今からじゃ、学園祭には間に合わない。三年になったら勉強で忙しくなるし。だから、最後にやりたいんだよ。唯の歌を」
「そっか……うん、いいと思う。わたしもやりたいわ。りっちゃんはどう思う?」
そう、りっちゃんはどうなのだろう。
唯ちゃんがいなくても、やりたいと思えるだろうか。
りっちゃんは窓の外を見て、何かを考えているよう。
「律、頼む。どうしても、やりたいんだ」
「わたしからもお願い。みんながバラバラのままなんて嫌だわ」
窓の方を見ていた、りっちゃんの顔がこちらに向いた。
そして、口元が歪んだ。
「問題は梓だな」
「律!」
「りっちゃん!」
「やろう、唯の為にもさ。このまま終わっちゃカッコ悪いし」
「決まったみたいね」
先生が不敵な笑みを浮かべながら言いました。
「それじゃあ、まずは梓ちゃんを救出しないといけないわね。わたしも手伝うわ」
「先生!」
先生はやはりわたし達の味方だ。
「じゃあ、早速作戦会議でもするか」と、りっちゃん。
わたしは自身にも決意を促すように大きく頷きました。
……
☆
わたしはいま、軽音部の先輩方と部室にいる。
部室はいつもとまったく変わらない。
変わったのは唯先輩がいなくなっただけだ。
だけ、というのは可哀想だけど、部室は人みたいに早々変わることはない。
変わらないから安心出来るのだと思う。
唯先輩には悪いけれど、ケーキと紅茶は継続中。
先輩ももしかしたら、どこかから見ているかもしれない。
いまにもわたしに抱きついてきそうな気配を感じられるのは、わたしがまだ先輩を忘れてはいないという証拠だろうか。
時々、唯先輩を思い出しては胸の奥底からなにかが震え出てきてしまう。
それはやがて涙となってわたしの外に出てくる。
憂はわたし以上にそうだったんだろうけど。
わたしは唯先輩に文句が言いたい。
憂もわたしも先輩方も唯先輩がいなくなって悲しんでる。
それにボーカルとギターが急に抜けたら困ってしまう。
そう簡単にあの人の代わりなんて見つかるはずがない。
見つけるつもりもないけど。
あのポジションは野球の永久欠番と同じで唯先輩だけの場所だから。
もちろん殿堂入りもしている。
「なんかさー、あの時思い出さない?」
律先輩が突然、話を切り出した。
「あの時って?」
澪先輩が尋ねる。
「あたしと澪とムギ。三人であと一人の部員を待ってた時。放課後にさ、こうやってティータイムをしながら待ってたんだよな。今は梓がいるけど」
当然だけど、そのときをわたしは知らない。
「もう一年、あと少しで二年前になるのか。あっという間だったな」
澪先輩が何かを思い出しているような顔をする。
「あの時、唯ちゃんが謝ったときはびっくりしたわよね」
「謝ったって、なんでですか?」
大方、見当がつくけど、気になったので聞いてみた。
なんでか律先輩が嬉しそうに答える。
「入部届に
平沢唯って書いてあって、あたし達全員が大物部員だって思ってた」
「名前だけでですか?」
「そう、名前だけで。それで、あたしが部室前で唯を発見した」
「なにをしてたんですか?」
最終更新:2010年02月20日 00:42