梓「ふぅ……今日は久々に気持ちよく出来ましたね」

唯「うん! やっぱりりっちゃんのドラムがないと駄目だねぇ」

紬「じゃあお茶にしましょうか。今日はりっちゃん復帰ということで、秘蔵の茶葉を使っちゃおうかな♪」

澪「………………」

 一時間近くぶっ通しで演奏し続けて今、練習が終わった。

律(なん、で……?)

 練習が終わってしまった。思い描いていた結果を何一つ残せないまま。

律(なんでだ……!?)

 確かに私の演奏技術は上達していたはずだ。
 そのためにここ数週間、部活を休んで特訓に明け暮れていたのだから。

律(なんでなんだよ……!?)

 結果は惨憺たる有様だった。確かにすぐに走り気味になる癖は少しは改善されていたように思う。

 だがその代償を払うかのように、以前のような一体感が感じられなくなっていた。

律(まだ……)

 焦燥感が再び私の心を襲った。

 練習前に抱いていた淡い希望なんか、とっくの昔に消え去っていた。

律(まだ足りないのか……?)

 足りない。

 届かない。

 見えていたと思っていたみんなの背中が遠くなる。
 伸ばした手は宙を掴むばかりで、掌には何もない。

澪「律……?」

律「………………」

 現実に視点を戻し、手を見つめる。
 握られているのは一対のスティック。掌にはまめの潰れた跡がいくつも残っていた。

律「……みんな、ごっめーん。私、今日も用事あるんだった! 
  悪いけど、先帰るわ!」

唯「えぇ!? りっちゃん、行っちゃうのぉ?」

紬「りっちゃん、お茶だけでも飲んでいかない?」

梓「今日のお菓子、おいしそうですよ! 律先輩」

 みんなが口々に私を引き止める。嬉しくないといえば嘘になる。
 だけど今ここで立ち止まることは許されなかった。
 許すことが出来なかった。

律「ほんっと、ごめん! んじゃあまた明日な!」

澪「律……」

 澪と目が合った。
 私を気遣うその視線に居た堪れなくなり、鞄を引っ掴んで音楽室を飛び出す。

律(足りない……足りない、足りない足りない足りない、足りない!!)

さわ子「うわっと……ちょっと、りっちゃん!? 廊下を走るんじゃありません!」

 さわちゃんの制止の言葉も振り切って廊下を駆け抜ける。

律「足りねぇ! こんなんじゃあいつらに追いつけない……。
  あいつらと音楽が出来ない。
  あいつらと、笑えない……!」

 逃げるように。

 追い縋るように。

律「やだ……やだやだやだ、やだよぅ……!」

 気付けば涙を流していた。
 空元気で塗り固めた笑顔の仮面は脆く崩れ去っていた。 

律「うっ……ふぐ、ぅ……ぅえぇ……」

 嗚咽を漏らしながら、校門を飛び出す。
 途中、生徒達の奇異の視線が投げかけられるのを感じたが、
 構っていられるほど余裕がなかった。


 涙を手の甲で拭おうとしたところで、握られたままのスティックに気付いた。
 スティックはスネアのフープに打ち付けられた跡だらけで、もうぼろぼろだった。
 柄の部分なんか、汗と手垢で真っ黒になるまで使い込まれていた。 

 これでもかと練習をした。
 文句を言ったりもしたけれど、師匠から教えられたことは何度も何度も繰り返した。

律「……うぅ、っく……それ、でも」

 それでもまだ足りないというのなら。

律「わたしは……!」

 練習するしかない。今以上に。
 涙は流れるままに任せ、薄曇の白けた空の下を走る。
 私は制服のまま、師匠の住むマンションへと向かった。

師匠「……もうその辺にしといたらどうだ、お嬢ちゃん」

律「いえ、まだやりたいんです……やらせてください」

 一心不乱にドラムを叩く。
 師匠は呆れるでもなく、こちらの我が侭に付き合ってくれている。

 あの後、制服のまま師匠の下へと押しかけた私は、
 こうして連日学校から練習に直行するのが日課となっていた。
 師匠は家に居ないときは大抵、例のジャズバーで演奏をしていることが多かったので、
 そちらに向かい、師匠の演奏を見て勉強する。

 部活にも毎日顔を出している。
 ちょっと気まずかったけど、練習にだけ参加して、
 ムギの出してくれたお茶にも手を付けずに音楽室を後にする。
 そうして次の練習場所へと向かう。

 練習を終え、夜遅くに家に帰ってきてからも、練習は続く。
 無心のままトレーニングパッドを叩き続ける様は、相当異様らしく、
 聡に心配されたりもした。

 ドラム、ドラム、ドラム───。

 とにかくドラム漬けの毎日だった。
 寝る間も惜しんで、とにかく叩き続ける。
 スティックの消耗も激しく、叩き折られた木片が部屋の隅に何本も転がっている。 

律「はあ……はぁ……ぁ」

 腕や手首が悲鳴を上げ、身体全体が疲労を訴える。

師匠「……はい、今日はここまで」

律「……平気です。まだ、やれます」

師匠「そんな根を詰めても得られるものなんてねえよ。
   大体それが平気って面か。いいから顔でも洗ってこい」

 師匠の言葉に渋々と頷いて、洗面所へと向かう。

師匠「こりゃどうも悪い方向へと転んじまったみたいだな……」

 師匠が何事かを呟くが、今の私にはそれを気に掛けるだけの余裕はない。

 冷たい流水で顔を洗い、目の前の鏡に目をやる。
 そこには目の下に隈をこさえ、しょぼくれた顔をした私がいた。

 最近、ドラムを叩いていないと不安でしょうがない。
 スティックを手にしていないと、どこかに堕ちていってしまいそうで、
 始終恐怖に駆られていた。
 これだけがあいつらと繋がっていられる確かなものなのに、今はひどく頼りなげに思えた。

 鬼気迫る形相でドラムを叩く私と、ドラムを叩いていない時のひどく不安げな私。
 そのギャップにみんなも心配して声を掛けてくれるのだが、どうにか空元気を出し、
 誤魔化していた。
 そんな虚勢、いつまで続くか、分かったものじゃないが。

律「待っててくれ、みんな……絶対に追いつくから……」

 頬を伝い落ちる水滴も拭わずに、ただ鏡の中の自分に言い聞かせるように呟く。

律「絶対に、追いついてみせるから……だから……」

 置いていかないで。

 縋るような想いが胸の中を渦巻く。
 伝う水滴に混じって、温かな雫が目から零れ落ちたような気もしたが、
 気付かない振りをした。

 取り敢えずどこかに飯を食いにいこうという師匠の言葉に従って、夕飯を外食で済ませる。
 師匠は今日もオフらしいので、また師匠の家に戻って練習の続きをすることにした。
 師匠はジャズバーでのライブ出演以外、何をしているのか分からない人なので、
 たまに本当にこれで生活出来ているのか疑問に思う。
 まあ相手の都合も考えず四六時中押しかけている私がどうこう言える義理でもないのだが。

師匠「なあ、お嬢ちゃん」

 繁華街の隙間を縫うようにして、師匠の家へと向かう。

律「ん? なに、師匠」

 陽はとうに沈み、街を支配するのは色とりどりのネオンサイン。

師匠「お前はなんのためにドラムを叩くんだ」

 そんな猥雑な街の真ん中で、師匠は出し抜けにそんな問いを私に投げかけた。 

律「なんのためにって……前にも言ったろ。一緒に音楽をやりたい奴らがいるって」

師匠「それはそこまでしてやりたいことなのか?」

律「それ、は……当たり前だろ。バンド組もうって言ったの、私なんだし。
  あいつら巻き込んで、潰れかけてた軽音部を立ち上げたのも私なんだし」

師匠「そりゃただの義務感だろ。言い訳にもなりゃせんよ」

律「言い訳なんて……」

師匠「楽しいから音楽やってるんじゃないのか?」

律「………………」

師匠「それはそんな面になるまでして、やらなきゃならんことなのか?」

律「……だって」

師匠「だって?」

 歩道の真ん中で立ち止まる。
 人の流れの中に取り残された私は、ある一つの感情に晒されていた。

 寂しい。

 寂しいんだ。前のような繋がりをみんなとの間に感じられなくて。

律「だって、私にはそれしかないんだ。
  それしかあいつらとの繋がりが感じられない……。
  だから私はあいつらに見合うだけの実力を付けなきゃいけないんだ……」

師匠「それはみんながそう言ったのか?」

律「そんなわけないだろー……。
  みんな優しいからさ、絶対にそんなこと言わないし、思ってもないよ。
  だからこれは───」

 そう。だからこれは私が勝手に引け目を感じているだけ。
 私が勝手に距離を取っているだけ。
 そんなこと分かっていた。

 だけど駄目だった。
 自分勝手に抱いたコンプレックスはどうしても拭い去れない。

 あいつらと演奏している時。 
 あいつらと楽しいティータイムを過ごしている時。
 あいつらと一緒に笑い合っている時。

 いつもびくびくしていた。
 誰かに、もう一人の自分にお前はその子たちの友達に相応しくないと言われるんじゃない
 かって。
 相応しい誰かは、放課後ティータイムのドラマーはどこか他にいるんじゃないかって。

律「私じゃ駄目、なのか……?」

気付けばそんな言葉と共に、また涙を流していた。
 身体が弱っているのも手伝って、情緒不安定になっているのだろう。
 気を抜くとすぐ泣きたくなる。弱音を吐きたくなる。誰かに縋り付きたくなる。
 そんな重荷にはなるまいと気を張っていたのだが、それももう限界が近かった。

律「みんなと、友達でいたい……。一緒に、いたい……!」

 ただそれだけなのに。

律「なんで……わたしは……!」

 こんなにも弱いのだろう。
 一人で勝手に悩んで、あがいて、臆病になるあまり、
 みんなの心配にまで虚勢を張って強がって見せて。

 涙が止まらない。子供のようにしゃくりあげ、人目も憚らずに泣く。
 人が涙を流すのは不安やストレスを和らげるためとか聞いたことがあるけど、
 そんなのは嘘だ。
 だって今、私はこんな姿をみんなに見られたくない、
 こんな弱い私は私じゃないとまた必死に強がろうとしている。

 師匠が優しく頭を撫でてくれる。
 無骨なその手からは想像出来ないような優しさで。
 その優しさが心に沁み、また涙を流させた。


唯「りっちゃん、大丈夫かなぁ」

梓「今日も様子、変でしたもんね……」

 あずにゃんと並んですっかり日も暮れた街の中を歩く。 
 10GIAに弦やらピックやらを買いに行ったのだが、
 ギターの試奏をしてたらすっかり遅くなってしまった。
 歩道は仕事帰りのサラリーマンや、学生で溢れかえっている。

唯「ほんと、どうしたんだろう、最近のりっちゃん。
  練習してる時も全然楽しそうじゃないし、お茶もせずに帰っちゃうし……」

梓「心配です……。
  律先輩があんな調子だと、私達も気が気じゃありませんよね……」

 いつも笑顔で私達の空気を明るいものへと変えてくれるりっちゃん。
 ここ最近、その彼女が様子がおかしいということで、
 その影響はバンド練習にも現れていた。

唯「早く良くなってくれればいいんだけど……」

梓「原因が分からなければ、相談にものれませんしねぇ」

唯「みおちゃんはりっちゃんから話してくるのを待った方がいいって言ってたけど……
  やっぱり気になるよ~……」

梓「ですね……」

 ギー太を背負い直して、繁華街を突っ切る。
 こんな時間に女子高生がうろついていたら補導されかねないので、
 足早に人ごみの中をあずにゃんの手を引いて行く。

梓「あれ……? 唯先輩」

唯「ん? なぁに、あずにゃん?」

梓「あれ、律先輩じゃないですか?」

唯「どれ?」

梓「あそこの桜高の制服を着た人です」

 あずにゃんが指差した方向に目を凝らす。

唯「ほんとだ……」

 人ごみで気付かなかったがすぐ数メートル先に制服のままのりっちゃんがいた。
 何やら男の人と話している。

唯「何を話してるんだろう……?」

 そのただならぬ雰囲気に思わず近くの建物に身を隠す。

梓「唯先輩、覗き見は……」

唯「でもあずにゃんも気になるでしょ?」

梓「まあ確かに……」

 あずにゃんと二人、こそこそと物陰からりっちゃんの様子を窺う。
 喧騒にかき消され、断片的にしかりっちゃんの話し声は聞こえてこない。

『私じゃ駄目、なのか……?』

唯「え……?」

梓「律、先輩……?」

 泣いていた。いつも元気いっぱい笑顔のりっちゃんが。

 『……………で、いたい。一緒に、いたい……!』

 目の前の男の人に激情をぶつけるように、泣きながらそんなことを口にしていた。
 泣き続けるりっちゃんを落ち着けようとしたのか、その男の人がりっちゃんの頭を撫でる。
 まるで愛しい人を慰めるように。

唯「これは、いったい……」

梓「もしかして私達、とんでもない場面に遭遇してしまったのでは……」

 ようやく落ち着いたのか、りっちゃんとその男の人はどこかへと歩き始めた。

唯「……あずにゃん、後を尾けてみよう」

梓「ほんとなら駄目なんでしょうけど、場合が場合ですからね……」

 あずにゃんは一瞬だけ躊躇う素振りを見せたが、
 やはり彼女もりっちゃんが心配なのだろう。
 特に反対することもなく尾行に賛成してくれた。

 りっちゃんはまだ完全には泣き止んでいないのか、時折肩を震わせ、洟を啜っていた。
 一緒にいる男の人は知り合いみたいだけど、一体何をしているのか。
 今すぐりっちゃんのところに行って、抱きしめてあげたい衝動に駆られる。


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最終更新:2010年01月22日 16:10