唯「いったいどういう関係なんだろう、りっちゃんとあの男の人……?」

梓「さっき、律先輩、私じゃ駄目なのかってあの男の人に訊いてましたよね」

唯「あぁ~、そういえば……」

梓「で、その後の一緒にいたいという台詞……」

唯「あずにゃん……それはもしかして……」

梓「もしかしてあの男の人、律先輩の、こ、恋人さん、なんじゃあ……」

唯「ええぇ───ッ!?」

梓「声が大きいです、唯先輩!」

 急いで物陰に身を潜ませ、前を行くりっちゃん達の様子を窺う。
 男の人がちょっと振り返ったが、またすぐに歩き出す。
 私達も安全を確認して、また尾行に戻った。

唯「でもでもみおちゃんがそれはないって言ってたし!」

梓「でも現にああして男の人と歩いてますし、さっきの意味ありげなやりとりは……」

 さっき見た男の人の顔を思い出す。
 百歩譲っても怪しいとしか言えないその背格好。
 私達よりかなりの年上のようだし、あの人がりっちゃんの恋人と言われても、
 なかなか想像しづらいものがある。

唯「だって相手の人、どう見てもおじさんだよ?」

梓「う~ん……」

 りっちゃんとは恋の話とかはあまりしたことがなかったので
 好みのタイプとか知らないけれど、
 あの人はどう見ても女子高生が恋人に選ぶタイプとは思えない。

唯「はっ!?」

梓「どうしたんですか、唯先輩?」

唯「あずにゃん……わたし、気付いてはいけないことに気付いちゃったかもしれない」

梓「なんですか?」

唯「私じゃ駄目なのかという質問、一緒にいたいという言葉、
  そして相手は歳の離れたおじさん……。
  ここから導き出される答えは……」

梓「唯先輩……それはもしかして……」

唯梓「不倫」

唯「ええぇ───ッ!?」

梓「なんで自分で言って、自分で驚いてるんですか!?」

唯「ふがふが……」

 あずにゃんに口を塞がれながら、また物陰に身を隠す。 
 前を行くおじさんが再び立ち止まり、後ろの様子を窺っている。
 しばらくこちらを探っていたようだが、何も無いと判断したらしく、また歩き始めた。
 少し距離を取って、わたし達も尾行を再開した。

梓「律先輩に限ってそんな……」

唯「でもでもここのところりっちゃんの様子おかしかったし。
 授業中も上の空だし、泣きながら学校を出てったって噂もあるし……」

梓「う、う~ん……」

 あずにゃんと二人、頭を悩ませる。

 たとえ不倫でも本人が真剣なら応援すべきでは……。
 でもでもりっちゃん泣いてたし、
 私じゃ駄目ってことは相手には本命がいるってことで……。

 いやいや……。

 でもでも……。

 思考が堂々巡りを起こし、頭から湯気が出始める頃、
 ようやく前を行く二人が目的地に到着したようだ。

唯「ここは……」

梓「マンション、ですね……」

 いよいよわたし達だけでは手に負えない事態にまで発展しているような気がした。
 それでも出来ることだけはしておかねばと、
 オートロックのドアが閉じてしまう前にマンションの中へと侵入する。

梓「唯先輩、さすがにこれはまずいのでは……」

唯「部屋番号を確かめるだけだから。ギー太、ちょっとお留守番しててね」

 あずにゃんとギー太を置いて、エレベーター横の階段を駆け上がる。
 りっちゃん達はエレベーターを使って上へと上がっていた。
 いつ停まってもいいようにエレベーターの動きに気を配りながら、
 極力足音を起てずに上を目指した。

 エレベーターは五階で停まり、りっちゃん達が降りてきた。
 荒くなった息遣いを覚られないように静かに深呼吸をしながら、
 二人が部屋に入っていくのを確認する。

 503号室。それがりっちゃん達が入っていった部屋だった。

 その部屋番号を心に刻み、足早にその場を後にする。

梓「あっ、唯先輩」

 一人で落ち着かなかったのか、
 きょろきょろとしていたあずにゃんが私のところに駆け寄ってきた。

唯「じゃあ出よう、あずにゃん」

梓「は、はい」

 あずにゃんからギー太と鞄を受け取り、マンションから出る。

唯「取り敢えずわたし達だけで考えても分からないことだらけだから、
  明日みおちゃん達に相談しよう」

梓「そう、ですね。あれこれと推測しても事態が好転する訳ではありませんし……」

 突然のことにあずにゃんも混乱しているみたいだ。
 そういうわたしも充分に混乱しているわけなのですが。

唯「りっちゃん……」

 聳え立つマンションを見上げながら、りっちゃんの名前を呼ぶ。
 その言葉は誰かに届くこともないまま、ただ夜の闇へと解けていった。


……

紬「りっちゃんがふ、不倫!?」

澪「………………」

 練習前のティータイム。今日のおやつはプリン・ア・ラ・モードだった。
 何が悲しくてプリンを食べながら不倫の話をするという
 性質の悪いギャグみたいな一場面を繰り広げなければならないのかとも思ったが、
 昨日の事を話さないわけにもいかないのでそこは無視した。

唯「かもしれないってだけだけど……」

梓「不倫云々を抜きにしても、男の人と何かあったのは間違いないみたいで……」

紬「そういえば隈が酷くて気付きにくかったけど、確かに目元が腫れていたわ……。
あれは泣きはらした跡だったのね」

澪「あはは、律が不倫だなんてそんなことあるわけないって」

 そういって笑い飛ばすみおちゃんのプリンの器を持った手はあからさまに震えていた。
 プリンがぷるんぷるん揺れて崩壊寸前だ。

唯「ここ最近、りっちゃんの様子がおかしかったのもそれが原因なのかなぁ……?」

紬「状況から鑑みるに、そう考えるのが妥当でしょうね……」

梓「私達に出来ることってないんでしょうか?」

紬「もし仮にりっちゃんが不倫をしていたとしたら、
彼女から私達に相談を持ちかけるなんてことはないんじゃないかしら。
それは……言えないわ。たとえどんなに困っていたとしても」

澪「………………」

唯「何かりっちゃんの力になれればいいんだけど……」

梓「あんなぼろぼろの律先輩を見ているのは、正直辛いです……」

律「おす……」

唯「りっちゃん!?」

 重い足取りで音楽室へと向かう。
 昨日もほとんど眠れなかった。
 道端で泣きはらした後、またドラムの練習に没頭したが、ちっとも上達した気がしない。
 胸の裡では焦燥感がぶすぶすと燻り、諦念に取って代わられようとしていた。

律「なに考えてんだ、私は……」

 こんなところで諦めちゃいけない。諦められるわけがない。
 このたった一つの繋がりを手放すということは、あいつらの信頼を裏切るということだ。
 それだけはしてはならないことだ。
 だけど今の私にはその繋がりを握り締めるだけの力がない。

 音楽室の前にたどり着く。
 ガラス窓から中を覗くと、何を話しているかは分からないが、
 みんながいつものようにお茶をしていた。
 深呼吸をして気分を入れ換える。
 こんな沈んだ顔であいつらの前に出るわけにはいかない。

律「おす……」

 だが出てきた声はとても弱々しいものだった。

唯「りっちゃん!?」 

 気まずい空気が流れる。
 みんなの顔には一様にこちらを心配する色が見て取れた。
 みんなの顔を曇らせているのが自分のせいだと思うと、
 申し訳ない気持ちと悲しみでいっぱいになる。 

律「………………」

梓「あ、じゃ、じゃあ律先輩も来たことですし、練習しましょう、練習」

紬「……そうね。りっちゃん、ここのところ頑張っているもの。
  私達も負けないようにしなくちゃ」

唯「わたしも今日は頑張るよー」

澪「今日だけじゃ駄目だろ」

 みんなが席を立ち、楽器を手に執る。
 そうだ。悩んでいる場合じゃない。今は少しでも多くドラムを叩かなきゃ。
 鞄からスティックを取り出し、ドラムの前に陣取る。

澪「じゃあまずは───」

 ただひたすらに目の前のドラムに集中する。

律「……っ!」

 滞りなく曲は演奏されているように、思う。
 だけど今の私には何が駄目で何がいいのか、それすらも分からなくなっていた。
 自分が何を叩いているのかも分からない。

律(もう……)

 みんなの音が分からない。聴こえない。
 そこにあったと思っていた絆はもう見えなかった。

律(もう、分から、ないよ……!)

 限界だった。
 張り詰めていた何かは簡単に崩れ去り、
 気丈に振舞おうとしていた自分はどこかに行ってしまった。

 頭の中はぐちゃぐちゃで、気付けばスティックを握る手は止まっていた。

澪「律……!?」

律「……っふ、ぅぐ……え、っく……」

 涙が止められない。
 みんなの前でだけは泣くまいと思っていたのに。
 昨日、師匠の前で泣いてしまったせいで、涙腺がバカになっているようだった。

 みんながどうしたらいいのかとおろおろしていた。
 それが申し訳なくて、居た堪れなくて、私はまた逃げ出していた。

澪「律!」

 澪が引きとめようと手を伸ばす。
 その手を振り払って私は音楽室を飛び出していた。

律「あ……」

 もう駄目だ。

 一番見られたくない自分を、一番見せたくなかった人達に見られて。
 子供のように泣いて。逃げ出して。
 心配してくれた親友の手を振り切って。

 もうどうしたらいいのか。自分がどうしたいのか。

 それすらも分からなかった。

澪「………………」

唯「………………」

紬「………………」

梓「………………」

 律の家へ向かう途中、何を言うべきかも分からず、みんな、黙っていた。

 律が音楽室を飛び出した後、誰もが何が起きたのか、
 理解出来ずにただ呆然と立ち尽くしていた。
 誰も律の後を追うことが出来ず、互いに顔を見合すばかりだった

さわ子「貴方達、まだ残ってたの? 下校時間、過ぎてるんだから、早く帰りなさい」

 さわ子先生の一言で取り敢えず解散することにし、帰り支度をする。
 ドラムの横には律の鞄が放られたままだった。
 帰りに律の家に寄って届けてやろうと思い、何も言わずにその鞄を手にする。
 気付いたら示し合わしたかのように、みんなで律の家に向かっていた。

澪「律、いるかな……?」

 インターフォンのスイッチを押して、反応を待つ。

聡「はい、どちらさまですか?」

澪「あ、聡。澪だけど、律、いる?」

聡「姉ちゃんならまだ帰ってませんけど」

澪「帰ってない?」

 律の下駄箱からは靴が消えていたそうだから、学校を出たのは間違いない。

 では一体どこに?

澪「そうか、ありがとう。ここに律の鞄、置いておくからよろしく」

唯「みおちゃん……」

紬「りっちゃん、一体どこに……」

梓「変に思い詰めてなければいいんですけど……」

唯「やっぱりあの男の人とのことが原因なのかなぁ……?」

澪「唯」

唯「うん?」

澪「その男の人の家はどこか覚えてるか?」

唯「うん、覚えてるけど……」

 律が今、何を悩んでいるのか、それは私には分からない。
 あいつが不倫をしているなんて思わないけど、
 その男の人なら何か知っているかもしれない。
 本当は私が口出しするようなことじゃないのかもしれない。
 それが律のためだと自分に言い聞かせていたけど、もう限界だった。

澪「行こう。その人なら何か知っているかもしれない」

唯「みおちゃん……!」

紬「澪ちゃん……!」

梓「澪先輩……!」

 今、あいつが何かに苦しんでいるというのなら、助けてやりたかった。

 だって私達は親友なのだから。

 これまでも───これからも。



師匠「……あ~、まあなんだ。とにかく上がれ」

 ほとほとと涙を流す私を気まずそうに部屋へと上げる師匠。
 ここに来るまでの間、ずっと泣き通しだった。
 よく枯れないものだと我ながら感心する。

師匠「ま、これでも飲んで落ち着け」

 ソファに座り、差し出されたグラスを受け取る。
 よく冷えたレモンティーを一気に流し込む。
 どうやら市販の物らしく、普通の味だった。

律(そういえば最近、ムギの淹れたお茶、飲んでないな……)

 そんなことを思い出し、また少し悲しくなる。

師匠「で、何があったんだ?」

 私が落ち着く頃を見計らって、師匠が話を切り出した。

律「実は……」

 音楽室での一幕を事細かに説明する。
 ドラムに集中すれば集中するほど、自分が何をやっているのか分からなくなること。
 叩けば叩くほど、みんなの音をかき乱しているんじゃないかということ。
 みんなの音が聴こえなくて、もうどうしたらいいか分からないこと。

 それで逃げ出してきてしまったこと。

律「もう私、どうすればいいのか……」

 いや、たとえどうにか出来たところで、もうどうしようもない。
 あんな風に投げ出して、みんなの前から逃げ出したのだ。
 今更合わせる顔が無い。


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最終更新:2010年01月22日 16:17