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小学生何年かのとき、平沢憂に恋をした。たぶん6年生のとき。
怪我をして早退した唯のためにプリント類を届けて、帰ろうとしたときに憂がケーキを勧めてくれたのがきっかけだったと思う。
唯の妹で、それまで二人っきりになったときだって何度もあったろうに、なぜかそのときに、頭のなかでなにかが噛み合ったのだ。

次の日からしばらく、憂のことばかり考えて過ごした。恋の病だ。
幸いにして平沢家を訪問する理由に困ることはなかったし、唯と遊んでいれば必ずと言っていいほど憂が顔を見せてくれた。
告白するとかは、考えもしなかった。ただ憂の顔を見られて、たまに話せればそれで満たされた。
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高校受験を考えるような頃になっても、まだ飽きずに憂の顔を眺めているとき、ふと思った。
私はなにかおかしいんじゃないか、と。
そのときはそれに答えることもなく、そんな疑問のこともすぐ忘れた。
しかし結論から言って、その疑問は正しかった。
平沢家にお邪魔したあるとき、私は催してもいないのにトイレを借りた。
その直前に、憂が使ったから。
ふと我に帰ったのは、トイレの空気を思いっきり吸い込んだあとだった。
家に帰り、自分のやったことの気持ち悪さにベッドのなかで悶絶した。
しかし、あの瞬間の高揚感と背徳感は、もはや麻薬といっていいほどだった。

しばらくして、平沢家に遊びに行くときには必ず、ペットボトル飲料を手土産にしていくようになった。
帰るときには、自分が持ってきた物だからと何食わぬ顔で持ち帰った。なめた。
憂とおなじ学年、クラスじゃなくて本当によかったと思う。
もしそうだったら、学校で憂の縦笛や体育着に、手を伸ばさないでいられる自信がない。
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転機が訪れたのは中三の秋、憂がある男子に告白されているらしい瞬間を目撃したときだった。
それが本当に告白だったかはわからないし、そうだとしてもきっと憂は断っていただろう。
そのときはそんな風に楽観視したのに、その夜、えもいわれぬ焦燥感に苛まれた。
自分の縄張りを踏み荒らされた。そんな嫌な感じが胸を駆け巡った。
バカな話だ。憂は自分の物でもなんでもないのに。
それどころかむしろ、歪んだ気持ちで憂の縄張りを荒らしに荒らしまくっているは自分だというのに。
でもとにかくそのときからだ。憂に対して、独占欲とも言える感情を抱きはじめたのは。
そしてそのとき、憂を独占していたのは言わずもがな、平沢唯だった。
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どうにかして憂を独り占めにしたい。でもそれは不可能に近い。憂の一番は、どう見ても唯だ。
高校に入ってからも、思いは募るばかりで、授業中はほとんどそんなことばかり考えて過ごした。
唯のせいで、憂にいま一歩近づけない。いったいどうすれば――。
わからない。毎日のように頭を悩ませた。それに比べれば、二次関数のなんと簡単なことか。
そんなもどかしい毎日のなか、事件は起きた。
あのときは、そういった理由で情緒不安定だったし、生徒会長も思いのほか嫌なやつでストレスがたまっていたのだ。
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その日は、久しぶりにペットボトル三本を持って平沢家に遊びにきていた。
出てきた唯にドクターペッパーを渡す。なにか、嫌な予感はしたのだ。

唯「憂なら、朝から友達んちに遊びにいったよ」

和「そ、そう。じゃ、これは冷蔵庫にでも入れといてよ」

唯「いつもありがとー」

ショックだった。
そのあと、唯とゲームをしたりギターを聞かせてもらったりしたが、ほとんど上の空だった。
憂がさっさと帰ってくることだけを、ただただ願っていた。
でも、あまりに欲求不満だったから、憂の家にいるというそれだけで、興奮してもいた。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。とてとてと玄関に向かう唯。
もしやと思って一瞬胸が高鳴ったが、耳を澄ますと保険かなにかの営業のようだった。
こういうとき、一言で追い返す気迫のようなものを唯は持っていない。案の定、なにやら粘られている様子が伝わってくる。

和(出て行って、加勢したほうがいいのかな……)

そんな風に考えたとき、心のなかに一回目の悪魔が降りた。

「いまなら誰も見ていない」

葛藤はほんの一瞬。気がついたときには、憂の部屋に入り、たんすの前に立っていた。
一番上の引き出しを開ける。

和(…………)

宝箱の蓋を開けた。まさにそんな気分だった。
丸めるようにたたんであるショーツを一枚手に取る。綿100%の、至って普通の白いショーツ。

和「……ゴクリ」

本当なら、すぐにポケットに入れて持ち帰りたかった。
しかし、しっかりものの憂のこと、すぐに一枚足りないことに気がつくだろう。それに、彼女を困らせたくもない。
グッとこらえる。だから、唾液で汚すようなことももちろんできない。

和(……)

鼻に当てて、大きく吸い込んだ。
別段、特別な香りがしたわけではない。憂の部屋の匂いに、若干たんすっぽさが加わっただけだ。
それなのに、まるでラベンダー畑で深呼吸をしたような甘い気分になった。
もう、憂が使った直後のトイレなんかでは絶対満足できないだろう。

和(……もう一枚)

一枚目をきちんとたたんで戻し、となりの薄灰色のショーツを取り出す。おなじように、嗅いだ。
もはや、唯のことなんて頭から完全に消え去っていた。夢中だった。

――階段を登ってくる足音なんて、聞こえようはずもなかった。


唯「和ちゃん……なにしてるの……?」

和「……!!」

いくらちょっと抜けているところがある唯だって、幼馴染が妹の部屋でやっていた行為が、どういう性質のものかはすぐわかっただろう。

和「ごめんなさいっ!! 出来心だったの! 本当に……」

唯の部屋に戻ってすぐに、頭を下げた。というか、土下座した。
怒っているか、呆れているか、もしかしたら怯えているのか。とにかく、そんな唯の顔を見るのが怖くて、頭を下げ続けた。

唯「和ちゃん……」

和「お願い、どうか憂にはこのこと言わないで! 勝手だけど、この通り、一生のお願いっ!!」

唯「そこまで言うなら……」

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それ以来、平沢家には行きづらくなり、唯ともほとんど話さなくなってしまった。
憂はたまに会うたび明るく話しかけてくれるあたり、唯は黙ってくれているみたいだけど、いままで以上に憂と距離が開いてしまったことは事実だ。
本当に、バカなことをしたものだ。

それ以降は、少し知恵を絞った。
憂の生活パターンを観察して、一週間にいっぺんくらい道でばったり会えるように努力した。
もちろん、話すとしても挨拶をかわしてニ、三言くらい。憂が唯に会話したことを伝えない程度の、軽いものにとどめた。
もはや立派なストーカーと言えたけど、どうしても我慢できなかったのだ。
憂への想いはどんどん強くなっていた。

そんななか、唯が軽音部でいじめに遭っていると感じたのは、2学期が始まってすぐの頃だった。
商店街で唯が、律に財布から金を抜き取られているのを目撃したのだ。
ふざけてるのかなとも思ったが、唯の悲しそうな表情を見ると、どうもそうでもなさそうだった。
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唯の元気は日に日になくなっていって、もはやいじめに遭っているのは確実に思えた。
このままでは、憂が非常に悲しむことになってしまう。憂には明るくあってほしかった。
ある日の放課後、生徒指導室に顧問の山中先生を呼んだ。

和「軽音部で、唯がいじめに遭っているような気がするんですけど」

さわ子「え、そんなことないわよ」

和「でも、唯が田井中律さんからお金を取られてるところを見たんです……!」

さわ子「ふざけてただけだって! あの子たち仲いいから」

和「でも!」

さわ子「大丈夫大丈夫。あ、わたしちょっと忙しいからこの辺でね」

和「……」

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唯がいじめられているということは、クラスメイトのほとんどが気づいていないように思われた。
唯を気遣ったり、あるいはことさらに避けたりもせず、誰もが普段どおりだった。
でも、気のせいなんかじゃないことはわかっていた。
幼稚園からの腐れ縁だからこそ、唯の様子がおかしいという見立てには、自信があった。

和(間違いなく、いじめは部内で起きてる。とすれば……)

ある日の放課後、意を決した。
生徒達がそれぞれの行き場に捌け、校舎内がある程度静かになった段階で、音楽準備室に踏み込んだ。ノックなしで。

律「おい、早く食えよ! もったいないだろうが」

唯「うううっ……」

紬「うふふ」

扉を開くと、三人の顔がいっせいにこちらを向いた。
床に落ちたケーキを、唯が無理やり食べさせられようといていた。

和「やっぱり……!」

律「な、なんだよっ!」

和「いじめてたのね、唯のこと」

律「は? ちげえよ。唯にケーキを食べさせてやってるんだよ、わざわざ」

和(バカみたいな言い訳……)

和「このことは学校に報告するから」

そう言うと、律と紬の顔がわずかに引きつった。勝ったと思った。

唯「ま、待って! りっちゃんの言った通りだから! なんでもないから!」

和「唯……!!」

唯「ね……和ちゃん」

律「ほ、ほら! 唯もこう言ってるだろ! はやく出てけよ!」

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その夜、唯がずいぶんと久しぶりに家を訪ねてきた。
部屋に通す。唯は突然、頭を下げた。

唯「お願い和ちゃん、あのことはこのまま黙ってて!」

和「でも……」

唯「あんなことが知れたら、絶対憂を心配させちゃうから! 情けないお姉ちゃんだって思われちゃうから!」

唯「おねがいっ!!」

必死に頭を下げる唯の姿が、あの日の自分と重なった。それに、憂を悲しませたくないという想いも。
了解しないわけに、いかなかった。

和「わかったわ……でも、いつでも、私に相談してくれていいからね」

和「私あんなことして……軽蔑してると思うけど、唯のことホントに心配してるから……」

唯「うん……ありがとう」

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和「心配してるなんて、嘘だったよ……唯」

澪「え……?」

また、涙が溢れ出してきた。
刃物を向け合っているのに、相手を殺すと決めたのに、感情の波が抑えられない。

和「澪は……いなかったよな、あの日」

澪「あの日……?」

和「私が唯を……殺した日」



※>>63

憂(そうだ……! 人工呼吸……)

憂(……わかんない……)

人工呼吸の仕方なんて、まともに勉強したことは一度もない。
ドラマや映画でみるように、とりあえず鼻をつまんで額を下げ、あごを上げさせてみる。
口に耳を近づけてみるが、やっぱり呼吸していない。

憂(死んじゃう……!)

うろ覚えによれば、人は呼吸停止後何分か以内に回復させなければ生還率は何割か一気に減少するという。
その何分かは、もうとっくに過ぎているかもしれない。やるしかないのだ。

憂(ええいっ!)

大きく息を吸い込み、紬の口から息を送り込む。吸って、吐いて、吸って、吐いて――。
脈を確かめるとか、胸の伸縮とか、全然確かめていなかった。
ただ、いま自分のやっていることが紬を救うと、信じて人工呼吸を続けた。

そして続けること十数回……。

紬「ごぶっ……」

憂「!!」

紬が、息を吹き返した。



※>>63

紬「ゲホッゲホッ」

紬はしばらく、激しくむせ続けた。

憂(……これで一安心)

しかし、先ほどクマを置いた椅子を見ると、そうじゃないことがわかった。
さっきは木箱のなかにあったはずの紬の写真は、小奇麗なポストカードに入れ替わっていた。


「多目的室に向かえ、憂」


憂(まだ終わらないの……?)

もう、クタクタだった。これ以上なにかできそうにない。いった下した腰が、果てしなく重く感じられた。

憂(そういえば、さっきタイマーを見ないで出てきた……)

憂(あと何分残ってるんだろう……)

憂(確か入ったときに35分くらいだったから、7分たって……あと25分はあるかな……)

憂(はやく、行かなくちゃ……)

紬「う、憂ちゃん……」

憂「あ……」

紬が、意識を取り戻したようだ。

紬「憂ちゃん、助けてくれてありがとう……本当に、ありがとう……」

憂「大丈夫ですか……?」

紬「うん……おかげさまで……」

憂「紬さんは、ここから出れるところを探して……助けを呼んで来てください」

紬「え……?」

憂「私はまだ、やらなきゃいけないことがあるので……」

紬「誰なの、こんなことをしているのは……?」

憂「わかりません……ただ、なんでこんなことになったかは……」

紬「あ……」

もうこれ以上、責めるようなことを言っても仕方がない。

憂「……お願いします……」

ぺこりと一礼し、ぬいぐるみをつかんで歩き出した。
背後からかすれるような声で聞こえてきた謝罪と感謝の言葉に、振り返ることはしなかった。

多目的室は最上階だが、位置的には美術室の真上に当たる。
すぐそこにある階段をのぼり、4階までたどり着いた。駆け上ったつもりだったけど、ほとんど歩くようなスピードだった。さっき整えたばかりの呼吸がもう苦しい。

多目的室の扉の前には、やはり椅子と小箱が置いてある。

憂「……」

今度の写真は山中さわ子
裏も一応眺めてみるが、今度はなにも書いていなかった。

憂「……」

ぬいぐるみをまた椅子に置き、多目的室の扉を開く。
ただし今回は、勝手に閉まらないようにその椅子を引っ掛けてから、なかに進んだ。

山中さわ子は、がらんとした部屋の中央で磔になっていた。
周囲は目の細かい金網で囲まれていており、そのとなりには高圧電流の警告看板が置かれていた。
近づいていき、案の定置かれているテープレコーダーを手に取る。
さわ子はジャージ姿で、頭から血を流し気絶しているようだった。

「やあ、憂」

「やあ、憂」

バチッ
さわ子「あがぁっ!!!」

憂「!!?」

再生を開始した瞬間、感電したような音がしてさわ子が悲鳴を上げた。
同時に、目も覚ましたようだ。

さわ子「う、憂ちゃんなの……?」


「この女は、自分が顧問する部活内でのいじめに気づいておきながら、まったく対処しようとしなかった」

「それどころか、いじめを訴える生徒の声さえ無視してきた」

「そして、平沢唯が部室内で首を吊ると、自分の保身のため、いじめのもみ消しに奔走した」

「結果、彼女の死は自殺と判断され、部員や自身が罪を負うことはなかった」

「教師の風上にも置けない女だ」


さわ子「う、憂ちゃんそれはね……」


「姉を死に追いやった人物を、正義の裁きからかくまったこの女を、赦すことができるか?」

「彼女を救うための鍵は、すぐそばにある」

「これが最後のテストだ、憂」


再生が終わると同時に、鼓膜をつんざくような金属音が鳴り響いた。

さわ子「う、憂ちゃん!!! 助けて! 電ノコが!!!」

憂「!」

見ると、さわ子の左手の先で歯の丸い電動鋸が唸りを上げている。
そして、その刃は少しずつ手の方に近づいてきているようにも見える。

さわ子「うううう、憂ちゃん! お願い助けて!! 唯ちゃんのことは、本当にごめんなさい」

憂「そう思うなら、どうしてお姉ちゃんを助けてくれなかったんですかっ!!」

さわ子「ホントにごめんなさい……御免なさい……」

さわ子「憂ちゃん……ここに……鍵穴があるわ……! だから鍵を早く」

さわ子は涙ながらに、唯一自由になるらしい右手のひじから先で正面を指差した。
こちらからは見えないが、どうやらそこに停止のための鍵穴があるようだ。

すぐに、鍵を探し始めた。
そしてほどなくして、その視線の先に飛び込んできたのは、一番大切な唯の形見だった。

憂「ギー太……!?」

すかさず駆け寄る。格技場での経験から、これが鍵に関わってくるんだろうというのは見当がついた。

憂(お願い……、そんなのはひどすぎるから……)

しかし見つけてしまった。ネックの先に、真っ白なポストカード。そして、これまでで一番残酷なメッセージ。


「ギター分解の知識はあるか、憂。なければ、助けを用意した」


ギー太のとなりには、それとおなじ長さほどもある大きなハンマーが置いてあった。


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最終更新:2010年02月27日 01:55