聞き慣れたお姉ちゃんの声で、耳慣れぬ絶叫が木霊する。靴を乱暴に脱ぎ捨て、鞄を放り出し、姉の部屋へと向かう。
憂「どうしたの、お姉ちゃん!?」
ノックもせずに、姉の部屋へと駆け込んだ。そこには───。
唯(うるさい……)
自分の声さえも耳障りに思え、ただ心の中でだけ悪態を吐く。
どんなに部屋に引き篭もり、塞ぎ込んでいても、完全に音をシャットアウト出来るわけではない。今では授業中ですら耳栓をして、余計な音が頭に入り込むのを防いでいる。
唯(うるさい……!)
そこまでしているにも拘らず、この世界から雑音は消えてくれない。
風が吹く音。木々の葉擦れの音。雨粒の弾ける音。以前は心地好いと感じた音でさえも、今はただただ不快だった。どんなに綺麗な音でも、絶対音感というフィルターを通した途端、頭の中でただの音の羅列に変換され、無味乾燥なものへと変わっていってしまう。
始めは綺麗に思えた音の色も、今では全てが混ざり合わさってしまって、黒く濁った色にしか思えなかった。
唯(うるさい、よぅ……)
ぎゅっと目を瞑り、両手で耳を塞ぐ。だがそれでも音は鳴り止まない。筋肉の動く音。血の流れる音。自分が生きている音。最早それすらも耳障りにしか思えない。
唯「あ……」
壊れていく。
唯「あぁ……」
綺麗だった音が。世界が。大切だった何かが壊れていく。
唯「ああぁぁぁあぁぁぁあぁッ!!」
両の掌で自分の耳を打ち据える。何度も何度も。こんなに苦しいのなら、いっそ聴こえなくなってしまえばいい。鼓膜よ破れよといわんばかりに、ばんばんと激しく平手で叩く。
憂「どうしたの、お姉ちゃん!?」
慌てて部屋へ入ってきた憂の顔が驚愕に歪む。
憂「やめて、お姉ちゃん!」
憂に抱きすくめられ、耳を叩く手が止められる。
憂「いった■どうし■ゃったの、お姉ちゃ■!」
唯「あ……ぁ……」
憂「こ■な■■した■、耳が聴■えな■■っち■■よ!?」
唯「あぁ……!」
憂の言葉が言葉として頭に入ってこない。言葉として認識される前に、音として変換され、何の意味も為さない旋律だけが頭の中に渦巻く。
憂「■■■■■? ■■■■■■■■■■!?」
聞こえない。どれだけ耳を澄ましても。耳を澄ませば澄ますほど。
唯「い……」
大切な人の声が、言葉が聴こえない。
唯「いやあああぁぁぁぁぁぁあぁぁッ!!」
その日
私の世界は
終りを迎えた
澪「憂ちゃん! 唯は!?」
憂「あ、みなさん……」
律「唯の容態はどうなんだ!?」
憂「ふ、ぅっく……うぇぇ……」
梓「何号室にいるの!? ねえ、憂!」
紬「みんな、落ち着いて。今、一番混乱しているのは憂ちゃんなんだから。憂ちゃん、大丈夫? あっちに座って、少し落ち着きましょう」
憂「は、い……」
紬に促され、憂はすぐ傍のソファーに腰を落ち着けた。他の面々も気まずそうにしながらも、腰掛けていく。静まり返った待合室のロビーには彼女達以外の人間は見当たらなかった。
紬「落ち着いた? 憂ちゃん」
憂「はい……ありがとうございます、紬さん」
紬「そう、よかった。それで憂ちゃん。唯ちゃんは……?」
憂「お姉ちゃんは……」
律「急に唯が倒れたって電話があって駆けつけたけど、いったい何があったんだ?」
澪「倒れたのって、やっぱりここ最近の唯の様子と関係あることなのか……?」
憂は家に帰ってからのことを事細かに説明していく。搾り出されるように紡がれる憂の言葉に、軽音部の面々の顔色が暗く翳っていく。各々その様子を想像して、遣り切れない思いを抱いているのだろう。
憂「詳しいことは私にも分からないんです。ただ……」
梓「ただ?」
憂「お姉ちゃん、本当に耳が聴こえなくなってしまったみたいなんです」
澪律紬梓「ッ!?」
憂「あ、と言っても鼓膜が破れたとかそういうのではなくて。お医者さんが言うには、恐らく心因性のものだろうって。全ての音が音階でしか認識出来ないストレスで、心が脳の音や言葉を聴き取る機能を止めちゃっているのかもって」
澪「随分、曖昧だな」
律「それで、唯は治るのか? また耳が聴こえるようになるのか?」
憂「それはお姉ちゃん次第だそうです。本人が音を聴くことを拒否し続ければ、もう、このまま……」
憂の言葉が悲しみに震える。それに呼応するように彼女達の顔には悲しみが滲んでいた。
梓「わ、私の、せいだ……。私が唯先輩に絶対音感の話なんか、した、から……」
澪「遅かれ早かれ、唯は自分の能力に気付いていただろう。梓のせいじゃないさ……。私があの時、唯の異変に気付いていれば……」
紬「絶対音感を持つ人の中には、その能力故に純粋に音楽を楽しむことが出来ない人もいると聞きます。そのことを知っていたのに、私……なんにも出来なかった……」
律「音楽家としての最高の資質が、音楽を楽しむことを邪魔するなんてな……。くそっ! なんで私はあの時、唯にあんな、言葉を……!」
皆が皆、後悔に沈む。一人の少女の身に降りかかった悲しみが、少女達に伝播し、心を引き裂く。
さわ子「はいはい、心配するのはいいけど、あなた達までそんな顔してたら唯ちゃんがもっと悲しむでしょ」
澪「先生……いつの間に……」
さわ子「顧問なんだから部員の身に何かあったら飛んでくるのは当たり前でしょ」
紬「先生……」
律「そうだな……私達が沈んでてもしょうがねえよな」
梓「そうですね……。今は、信じましょう。唯先輩を……」
憂「お姉ちゃん……」
澪「唯!?」
律「唯じゃないか!」
紬「唯ちゃん、もう身体は大丈夫なの?」
梓「唯先輩!」
唯ちゃんの肩を押して、馴染み深い音楽室へと足を踏み入れる。その途端、昨日までまるで元気のなかった部員のみんながにわかに活気付いた。
澪「唯……? どうしたんだ?」
さわ子「みんな、取り敢えず落ち着きなさい。まだ唯ちゃんの耳は治っていないわ」
梓「そうなん、ですか……」
さわ子「お医者様の話では何かきっかけさえあればまた耳が聴こえるようになるかもしれないから、いつもと同じように過ごした方がいいって。ただ……」
律「ただ……? ただ、なんだよ、さわちゃん」
さわ子「……唯ちゃんにとって聴覚を取り戻すことが彼女の幸せに繋がるとは限らないってこと」
梓「そんな!」
紬「どういうことですか、先生!」
さわ子「だから落ち着きなさいって。思い返してもみなさい、絶対音感を意識しはじめてからの唯ちゃんの様子を。あれが幸せだったように思える?」
食って掛かるような視線を投げ掛けていた彼女達の瞳が悲しみで濁る。傍らに立つ唯ちゃんはといえば、あの日以来、完全に心を閉ざしてしまったらしく、そんな仲間の様子を目の当たりにしても、表情一つ変えなかった。
さわ子(人形みたいな顔になっちゃって……)
こんな風になってしまうまでに何も出来なかった自分に忸怩たる思いを抱く。顧問として、教師として、彼女を想う一人の人間として、何か彼女にしてやれることはないのだろうか。
憂「あの、さわ子先生……」
さわ子「あぁ、憂ちゃん」
いつの間に音楽室に訪れていたのか、入り口のところには憂ちゃんが立っていた。
憂「お姉ちゃん、そろそろ病院に行く時間ですので、その……」
さわ子「そうね、じゃあ後はお願いできるかしら。ほら、唯ちゃん」
唯ちゃんの肩をそっと押して、憂ちゃんの元へと導く。憂ちゃんはそんな唯ちゃんの手を引き、音楽室から去っていった。されるがままの唯ちゃんを見ているのは正直辛かった。
再び音楽室に静寂が訪れる。久々の再会は彼女達に現実を突きつけるだけに終わってしまった。
律「……めねぇ」
澪「……律?」
律「認めねぇ!」
紬「りっちゃん?」
梓「律先輩?」
律「このまま耳が聴こえない方が唯にとって幸せだなんて、音楽が出来ない方が幸せだなんて絶対に認めねぇ! だってそうだろ!? あいつはここで、この場所でいつも笑顔で、ギターを弾いて、一緒にお茶を飲んで、時には馬鹿やったりして……。 そんなあいつがこのままの方が幸せだなんて嘘だろう!!」
澪「でも律、お前も見ただろう。ここ最近の唯の変わり様を。今、あいつが苦しんでいるというのなら……ならこのままの方がいっそ……」
律「確かに今は唯にとって苦しい時かもしれない。だけど始めからそうだったわけじゃないだろう!? あいつはなにより音楽が、この場所が大好きなんだよ! ……そうだ、その気持ちさえ、思い出さえ思い出せばあるいは……!」
紬「確かに聴覚を取り戻すかもしれないわ。だけどそれは諸刃の剣。もし唯ちゃんが思い出からも目を背けたら、きっともう……唯ちゃんの聴覚は一生、戻らないかもしれない」
梓「だったらこのままの方が、思い出は綺麗なままの方がいいのかも、しれませんね……」
彼女達の顔を諦念が支配する。たった一人の少女を除いて。
律「それでも!」
少女は諦めない。涙を浮かべた瞳でただ只管に前だけを見据えようと眼を見開く。
律「それでも私はそれに賭けたい……。嫌なんだ……あいつが苦しんでいるのに何もせず、手をこまねいてるだけなんて。 これはただの我が侭かもしれない……。もしかしたらあいつの聴覚を取り戻すことなんて叶わないかも、あいつが思い出も手放して、私達のことを嫌いになるかもしれない。 だけどそれでも───」
迷いを振り切ったかのように───いや、彼女は最初から迷ってなどいなかったのだろう。りっちゃんは手の甲で乱暴に涙を拭い、高らかに宣言する。
律「私は唯とまた音楽をやりたい……一緒に笑いたい!」
梓「律先輩……」
紬「……そうね。私もまた唯ちゃんにおいしいお菓子を食べてもらいたいわ」
澪「諦めるなんて私達らしくなかったな……。まったく、唯の笑顔がなくなった途端、こうも弱気になるなんてな。……改めてあいつの存在の大きさを思い知ったよ」
紬「今度は私達が唯ちゃんにその恩返しをする番ね」
梓「唯先輩の笑顔を取り戻すために!」
律「やろう!」
澪紬梓「おーッ!」
勝鬨を上げる彼女達の顔には決意が満ち溢れていた。それが微笑ましくて、こんな時だというのに思わず笑みが零れる。
そうだ。唯ちゃんの笑顔を取り戻せるのは親友である彼女達にしか出来ないことだ。なら今の自分に出来ることは彼女達を精一杯サポートすることぐらいだ。
和「本当に大丈夫なんでしょうか、先生……?」
さわ子「分からないわ。だけど和ちゃんもこのままでいいなんて思ってないんでしょう?」
憂「はい……でも」
さわ子「全責任は私が負うわ。だからあなたも信じてあげて、彼女達を」
最終更新:2010年01月22日 16:41