あずにゃんが何気なく言い放ったその言葉に疑問符を浮かべる。 

律「あれだ。眼が紅くなると全ての系統の能力が100%引き出せる……」

澪「そりゃ絶対時間。HUNTER×HUNTERの読みすぎだ」

梓「簡単に言えば、全ての音の音階を一発で言い当てる能力ですね」

唯「……どゆこと?」

澪「例えば、だ」

 みおちゃんがあずにゃんの言葉の後を継ぎながら、ベースを爪弾いた。

澪「唯、今の音は何だ?」

唯「? レでしょ?」

紬「じゃあ唯ちゃん、これは?」

 ムギちゃんが軽やかに白鍵をはじく。

唯「ソだよ」

律「んじゃあ、こいつはどうだ」

 りっちゃんがクラッシュを高らかに打ち鳴らす。

唯「んっと……シ、かなぁ」

律「へぇ~、今のシだったんだ」

澪「分からずに試したのかよ!」

梓「と、まあこのようにあらゆる音を瞬時に聞き分けて、言い当てる能力のことを絶対音感っていうんですよ」

唯「え? でもそれって普通でしょ?」

 なぜか皆が揃ってずっこける。

澪「おいおい、唯……」

律「そんなトンデモ能力、みんながみんな、持ってるわけねーだろ」

紬「少なくとも私達にはありませんし」

梓「みんなが持ってたら世の中、チューナー要らずですよ」

唯「へぇ~、そうだったんだぁ」

 自分にそんな特別な能力があるなんて意識したこともなかった。誰かに自慢出来るようなものがない私にとって、それはちょっと嬉しいことだった。我知らず笑みが零れる。

唯「えへへ~」

梓「まあ絶対音感があっても練習しなくちゃギターは上手くなりませんけどね」

唯「あぅ……ですよね~」

 あずにゃんの手厳しい指摘に肩を落とす。が、それも一瞬のことで次の瞬間にはいつもの笑顔に戻る。
 下校時間を知らせるチャイムが校舎に鳴り響いた。意識を研ぎ澄ませ、全身の感覚を耳に集中させる。

唯「ド~ミ~レ~ソ~」

 ドレミを口ずさみながらギー太を鳴らす。普段は何気なく聞いていた音が途端に表情を変えたように思えた。

 机の上に置いてあったフォークを手に取り、ティーカップを軽く小突く。

唯「これは……ラ!」

澪律紬梓「おぉ~」

唯「あははは、おもしろ~い」

 聴き方を変えただけで世界の全てが一変したようだった。世界に満ちる音がこんなにも彩りに溢れたものだったなんて。

……

梓「え、じゃあ家でもあんな調子なの?」

憂「うん、お姉ちゃんってば、家中の物を叩いたり、テレビから流れる音を言い当てたり、ずっとはしゃぎっ放しだったよ~」

梓「子供っぽいというか……まあ唯先輩らしいと言えば、らしいか」

憂「でもそんな子供っぽいお姉ちゃんも可愛いよ?」

梓「その感覚は分からない……」

 惚気にしか聞こえない憂の言葉をスルーして、お弁当箱の中の玉子焼きを箸で突付く。

梓「でもまあこれで納得したわ」

憂「何が?」

梓「唯先輩の演奏力の高さよ」

憂「どういうこと?」

梓「あの一つのことをやりだしたら、脇目も振らずに最後までやり抜く集中力に絶対音感が加われば、そりゃ上達も早いわけよねぇ」

 澪先輩達から聞いた話によると初めて三ヶ月も経たないうちに、結構な腕前にまで上達していたそうだし。

梓「絶対音感を意識した唯先輩なら、今まで以上のスピードで上達するかもね」

憂「さすがお姉ちゃん!」

梓「はいはいごちそうさま」

 実際、その考えは間違ってはいなかった。この後、以前よりも音楽にのめり込んだ唯先輩の演奏技術の向上は目を瞠るものがあった。

 だけどそれは────

唯「あぅ、また音がずれたぁ~」

 ペグを微調整し、調弦する。

律「おいおい、またか~」

澪「あんまり気にしすぎるのもどうかと思うぞ、唯」

唯「ん~、分かってるんだけどね……。どうも音がずれていると、こう、背中がぞわぞわ~ってするんだよぅ」

律「今までギターの手入れとかサボってた奴の言葉とは思えんな」

梓「唯先輩、ちゃんとギターの手入れしてますか? 手入れを怠ると弦が緩みやすくて、すぐ音がずれてしまいますよ」

唯「それは大丈夫だよ~。定期的に弦も張り替えてるしね。そのおかげでお小遣いが大変なことになってるけど……」

 苦笑しながらチューニングを続ける唯ちゃん。その横顔には何の翳りもない。

紬「………………」

律「ムギ~、どうした? ぼ~っとして」

紬「あ、いえ、なんでもないわ」

 いつもと同じ柔らかな笑顔で応える。

紬(そうよね。杞憂、よね。唯ちゃんに限ってそんな……)

 頭の片隅に居座る小さな不安を追い出すように、首を振る。

唯「あ、そういえばみおちゃんのベースも音が少しずれてるよ~。一弦のソの音が」

澪「え、本当か?」

 シールドをチューナーに繋いで調弦する澪ちゃん。

澪「ほんとだ。ほんのちょっとだけど確かにずれてる」

律「なんかますます磨きが掛かってきたなぁ、唯の絶対音感」

梓「一流の音楽家にもなると、湿気の影響で歪んだ楽器の僅かな音の違いも許せないらしいですしね。唯先輩が音のずれを気持ち悪いと感じるのも、その類なんでしょう」

唯「一流の音楽家……えっへん!」

律「あっはは、唯がそんな繊細なわけないだろー」

唯「あ、ひどいよ、りっちゃん~」

 ほっぺたを膨らませてむくれる唯ちゃん。いつもと同じ、他愛のない会話。変わらない日常。そのはずなのに胸に巣食った一抹の不安は消えてくれない。

紬(思い過ごしならいいのだけれど……)

澪「おはよう、唯」

唯「………………」

澪「唯? おはよう」

唯「………………」

 返事がない。ただのしかばねのようだ……ってそんなわけがない。こちらを無視してすたすたと前を歩く唯に追いつき、肩をぽんと叩く。

澪「唯ってば」

唯「ひゃッ!? あ、な~んだ、みおちゃんかぁ。びっくりしたぁ」

 耳にはまったイヤフォンを取りながら、唯が振り向く。なるほど、だから返事がなかったのか。髪に隠れて後ろからでは分からなかった。

澪「おはよう、唯。にしても珍しいな。唯が音楽を聴きながら登校だなんて」

 iPodを操作しながら歩く唯に話しかける。

唯「あ~、うん。なんか最近、疲れちゃってね~」

澪「疲れた? なんか運動でも始めたのか? それともバイトとか?」

 疲れたことがどうして音楽を聴くことに繋がるのだろう? ヒーリングミュージックでも聴いているのだろうか。

唯「うん、最近ね、意識とかしていなくても雑踏の音とかが全部、頭の中でドレミに変わっちゃって。ず~っと聞いてると頭の中がドレミでいっぱいになっちゃってねー。だったらまだ音楽を聴いてた方がましかなぁって」

 そう言いながら苦笑する唯の顔には、少しだけ疲れの色が滲んでいた。

澪「大変だな、絶対音感というのも」

唯「ん~、でも便利だし、面白いこともあるしねぇ」

 こちらに心配を掛けさせまいと思ったのか、それとも素でそう言っているのか。唯は疲れの色を顔から消して、いつもの笑顔で答える。

澪「なあ、唯……」

律「おっはよー、二人とも。澪ぉ~、ひどいぜ、おいていくなんて~」

澪「律がいつまでもうだうだと朝食を食べてるからだろ。もっと早起きしたらどうだ?」

律「そいつぁ、無理な相談だ!」

澪「胸を張って言うことか!」

 かんらかんらと笑う律にツッコミを入れる。律の突然の乱入のせいで、唯に声を掛けるタイミングを逸してしまった。

澪(大丈夫かな、唯……)

唯「あ……またずれた……」

 ぼそりと呟き、演奏を勝手に止める唯。

律「おい、唯~。何度目だよ。音が外れる度に演奏、中断してたんじゃ、練習になんないぜ」

 それに合わせてこちらもスティックを振るう腕を止める。

澪「少しぐらいずれても、一度通しでやらないと全体の流れが掴めないぞ?」

 ギターの音や歌声の音程が外れる毎に演奏を止めては、個人練習に入る唯。始めはそれだけだったのだが───。

唯「うん、ごめん。じゃあもう一回、最初からいってみよ」

律「……オッケー。1・2・3・4・1・2!」

 スティックでカウントを刻み、軽快なポップロックが鳴り響く。

律(なんつー顔で弾いてんだよ……)

 滑り出しは順調なのだが、Bメロに入るか入らないかというところで、唯の顔が少しずつ歪んでいくのが分かる。また微妙な音程のずれを感じ取っているのだろう。やがてそれに耐えかねたのか、声を荒げながら、ストロークする腕を止めた。

唯「……ムギちゃん! 今のところ、さっきもずれてたよ!」

紬「あ……ごめんなさい、唯ちゃん」

律「………! いい加減にしろよ、唯!」

澪「律!?」

梓「律先輩!?」

律「そんな粗探しするように演奏してても、しょーがねえだろ! 曲の完成度を高めるためにストイックになるのもいいけどな、それを何度も押し付けられるこっちの身にもなってみろよ!」

紬「りっちゃん、喧嘩は……」

 そのための練習だというのも分かっている。だけどミスする度に責められるような口調で指摘されれば、苛立って当然だ。ここまでいくとストイックというレベルを通り越して、ただの神経質だ。だけどそれ以上に許せないのは───。

律「あーもう止め止め! そんな無理してやってますー、みたいな顔してやられたんじゃ、こっちも楽しんでやれねーよ!」

 いつも楽しそうに演奏している唯の顔から笑顔が消えてしまったことだ。

唯「……しくないんだもん……」

紬「……唯ちゃん?」

唯「だって!」


 「楽しくないんだもん!」


 音楽室の時が止まる。唯の言葉に誰もが凍り付いて身動ぎ一つ出来なかった。私以外は。

律「……あーそう! じゃあもうやらなきゃいいだろ!」

唯「………………!!」

 唯は何も言わずにギターをソフトケースに仕舞い、足早に音楽室から去っていった。その瞳に涙を浮かべながら。

律「……ちくしょー……」

 売り言葉に買い言葉。黒板に額を打ちつけ、ついさっき吐いた自分の言葉に後悔する。

律(あんなこと、言いたかったんじゃないのに……) 

紬「りっちゃん」

律「……なに」

紬「おでこ、汚れちゃうわよ」

 そう言うとムギは私を振り向かせて、差し出したハンカチでおでこを拭ってくれた。

紬「……りっちゃんの悪いところは言葉がちょっと足りないところ。あれじゃあ、本当の気持ちは伝わらないわ」

律「……なんだよ、ほんとの気持ちって」

澪「心配なんだろ、唯のことが」

律「なっ、そんなんじゃねーよ! ただ私は唯のやつが───」

梓「律先輩が一番、唯先輩のことを見てましたからね。バンドを支えるリズム隊として。軽音部の部長として。……親友として」

律「んな……ッ!」

 図星を衝かれ、ぱくぱくと開いた口が塞がらない。

紬「みんな、同じ気持ちよ。だから今日のことは謝って、ちゃんと伝えなきゃね、本当の気持ち」

律「……しゃーねーなぁ。じゃあ唯が明日、ちゃんと練習に来たら……あ、謝ってやるよ」

 照れくささのあまり、顔を背けながらぶっきらぼうに言葉を放つ。素直になれない私にみんなが微笑ましい笑みを零した。

 だけどその願いは。

 叶うことはなかった。

梓「唯先輩が部活に顔を出さなくなってから、もう一週間、かぁ……」

 梓ちゃんが溜め息を吐きながら、独り言のように言葉を漏らす。

憂「家でもギターに触ってないみたいだし……。大丈夫かな、お姉ちゃん……」

梓「家でも弾いてないんだ……。このまま音楽、やめちゃうのかな、唯先輩……」

 暗く沈んだ顔で肩を落とす梓ちゃん。

憂「大丈夫だよ。お姉ちゃんだもん。きっとすぐ立ち直って、またあの笑顔を見せてくれるよ」

 何でもないことのように、努めて明るい口調で梓ちゃんを励ます。そう自分に言い聞かせるように。 

梓「そう……そうだよね。またすぐにいつもの笑顔に戻ってくれるよね」

憂「うん。お姉ちゃんはどんな時でも、いつも笑顔だったんだから。みんながこんなに心配してるって分かれば、嬉しくてすぐ笑顔になるに決まってるよ~」

 きっとそうだ。そうに違いない。あのお姉ちゃんがこんなにも長く塞ぎ込んでいるのは初めて見るけど、またいつもの調子で立ち直ってくれるに違いない。

梓「あ、じゃあ私、こっちだから……。唯先輩によろしくね、憂」

憂「うん、また明日ね、梓ちゃん」

 手を振りながら梓ちゃんと別れて、一人、家路へと着く。

憂(大丈夫だよね、お姉ちゃん……)

 言い知れぬ不安が胸を埋め尽くす。ここ最近の姉の様子を思い出すと、その不安に拍車が掛かった。

 ギターを弾かなくなり、テレビも見なくなり、目覚まし時計の秒針が刻む音すら耳障りなのか壊してしまった。まるで全ての音を遠ざけるように四六時中、部屋に引き篭もり、学校に行く時でさえ、耳栓で耳を塞いでいる。

憂「早く良くなってくれればいいんだけど……」

 いや、そもそも別に病気に罹っているわけではないのだ。ただ人より少し感覚が鋭敏になっているだけという話。それを考えると治るという言葉は正しくないように思えた。

憂(前のように戻れる、のかな……)

 降って湧いたその疑問を追い出すように首を振る。あれこれ考えても仕方が無い。今の自分に出来るのは、少しでもお姉ちゃんの負担を軽くすることだけだ。

憂「ただいまー。お姉ちゃん、帰ってるー?」

 全ての音が絶えたように静まり返った家からは、何の返事も返ってこなかった。

憂「まだ帰ってきてないのかな? 部活に行ってないのなら、もう帰ってきててもいいはず───」


 「───ぁ、ああぁぁぁぁぁあぁぁぁッ!」


憂「お姉ちゃんッ!?」


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最終更新:2010年01月22日 16:30