『夏の記憶』

 平沢唯はわたしのお姉ちゃんだ。

 わたしの良き理解者であり、わたしが最も理解しているであろう人。

 わたしと最も近しい人であり、それでいて最も遠い人。

 この話は大学生になったわたしが、お姉ちゃんと二人で過ごした夏休みの話。

 たったそれだけの話。

 けれど、わたしにとっては決して忘れることはないであろう話。

 とてもとても大切な一週間。



 時は一ヶ月前まで遡る。

 夏休みに入って二日が経った、八月の第一週。

 大学生になって最初の夏休みを迎えていた。

 どうせなら、外に出て何かをした方がいいだろう。

 梓ちゃんを誘ってプールにでも行こうか。

 その前に新しく水着を買ってもいい。

旅行をするのもいいかもしれない。

 わたしはそんな風に、残り余った夏休みの使い方を考えながら、流し台で洗い物をしていた。

 更に言えば、鼻歌を歌いながら。

 この鼻歌をどれだけ歌ってきただろう。

 ふと、そんなことを考える。

 わたしにとって、とても大切な歌。

 お姉ちゃんとわたしを繋ぐ歌。

 わたしはこの歌が大好きだ。 

 歌っていると幸せな気持ちになれる。

 そうだ、洗い物が終わったらギターを弾きながら歌おう。

 窓を開けて、夏の温い風を浴びながら、音を奏でるのだ。


 わたしは洗い物を早く済ませるべく、少し素早い手つきになる。

 スピードアップ。

 けど、すぐにストップ。

 背後に気配を感じて手を止めたのだ。

 いや、正確には真横にある台所への入り口に気配があった。

「憂、ただいまー」

 わたしは水を出しっぱなしのまま、コップを持ちながら振り返る。

 目の前にはお姉ちゃんがいた。


 お姉ちゃんと目が合う。

 間を置かず、なにかが割れた音がした。

 足元を見ると、コップが幾数の破片に別れて散乱していた。

「あ、ごめん。急に声かけたから」と、お姉ちゃんが申し訳なさそうに謝る。

「う、ううん。お姉ちゃん、いつ帰ってきたの?」

「さっき」

「そ、そうなんだ」

 自分自身、受け答えがぎこちなく思う。

 でも、驚いてしまったのだから仕方がない。

 わたしは出来る限り平静を装って、玄関にちりとりと箒を取りに行く。

 ちりとりを手に取る。

 ――あ、痛っ!

 そんな声が台所から聞こえた。

 慌てて台所に戻る。


「お姉ちゃん、どうしたの?」

「あ、憂。血が……」

「あー、もう! 素手で触るからだよ」

「あはは、ごめん」

「待ってて、いま救急箱を持ってくるから。じっとしててね」

 お姉ちゃんは何にも変わっていない。

 嬉しいような嬉しくないような、曖昧な感じだ。

 救急箱を持って台所に戻ると、お姉ちゃんは何かを飲んでいた。

 脇に置いてある紙パックからみて、リンゴジュースを飲んでいるみたい。

「お姉ちゃん、人の家のものを勝手に飲んでる」

「いいじゃん。けち臭いことを言わない言わない」



「もう。ほら、傷口見せて」

 お姉ちゃんは素直に従い、中指を見せる。

 赤い血が僅かに出ていた。

 どうやら、大した傷ではないみたい。

 水で洗い、消毒液を少量塗布し、絆創膏を貼る。

「ありがとう、憂」

「どういたしまして、お姉ちゃん」

 わたし達は久しぶりに笑顔をぶつけた。

「お姉ちゃんは、リビングで待ってて。洗い物を終わらせるから」

「はーい」

 本当に変わらないな、お姉ちゃんは。

 わたしはちりとりで割れ物を捨ててから、洗い物の続きに取り掛かった。

 洗い物は残り少なかったので、直ぐに終わらせることができた。

 お姉ちゃんはなにをしているだろう。

 リビングまで歩く。

「うぁーづーいー」

 お姉ちゃんは寝転がって、だらしなくお腹を見せていた。

 そうだった、お姉ちゃんは暑さに弱いんだっけ。

 そんな基本的なことも忘れていた。

「お姉ちゃん」横に座って声をかける。

「ううーん、憂」

「お姉ちゃん、なんで帰ってきたの?」

「憂に会いたかったからだよぉ」

「本当に?」

「ほんとだよぉ」

 寝転がりながら言われると真実味が薄れる気がするが、嘘ではないのだろう。

「でも、お姉ちゃんどうやって帰ってきたの?」

「うーん、わかんない」

「わかんないって?」

「気がついたら家の前に居たから」

「そうなんだ」

 わたしはお姉ちゃんから目を離す。

 わかっている。

 言わなければいけない。

 けれど、言ってしまうとお姉ちゃんが目の前から消えてしまいそうで怖い。

「憂、どうかした?」

 お姉ちゃんがむくりと起き上がって、こちらを見ていた。


「お、お姉ちゃん」

「なーにー」

「え、えっと、その……」

 言っていいのだろうか。

 それとも、黙っているべきか。

 いや、言っても黙っていても事実は変わらない。

 否定できない事実。

 認めなければいけない事実。

 この世に生きる限り、事実は消えない。

 言わないで、このまま時間が過ぎていく方が恐ろしい。

 事実を告げる。

「お姉ちゃん!」目を瞑ったまま言う。

「は、はい!」お姉ちゃんの声が少し上ずる。


「お姉ちゃんって――死んでるんだよね――」

 そう、お姉ちゃんは死んだ。

 二年半前に交通事故に遭って。

 だから、生きている筈がない。

 なら、目の前にいるお姉ちゃんは何なのだろう。

 お姉ちゃんは伏し目になり、わたしの目を見ようとしない。

 それでも、口が僅かに動くのが見えた。

「うん、死んでる……」

「そう……だよね」

 わたし達の居る空間に重たい空気が漂ってきて、まるで水中にいるかのように息苦しくさせる。

 光浮かぶ水面は遠い。

 それでも、わたしは水面に顔を出すべく言った。

「でも、お姉ちゃんはここにいるんだね」

「うん――ここにいるよ」と、お姉ちゃんは目を細めながら言う。


「お姉ちゃんは幽霊なの?」

「……さあ?」

 呆けた顔をするお姉ちゃん。

 懐かしい顔だ。

「わからないの?」

「うん。よくわからないんだぁ」

「そっか。不思議だね」

「不思議さんに感謝だね」と、Vサインをするお姉ちゃん。

「お姉ちゃんにまた会えるなんて思ってなかった」

「寂しかったよぉ、憂」

「それはわたしのセリフだよ、お姉ちゃん」

 お姉ちゃんは「ふへへ」と頬を緩めて笑う。

 その笑いに釣られて、わたしも笑ってしまう。


 なんだか、驚きを通り越して、素直に嬉しくなってきた。

 普通に会話しているのが夢みたいだ。

 事故以来、わたしは一人だったのだから。

 わたしは。

「お姉ちゃん」

「ん?」

 最大限に愛情を込めて言う。

「おかえりなさい」

 お姉ちゃんの表情は、不意を突かれたように一瞬だけ固まる。

 けど、すぐに満開の笑顔を見せながら言ってくれた。

「ただいま、憂」

 夏休み、お姉ちゃんが我が家に帰ってきた。


 こうして、わたしとお姉ちゃんの夏休みは始まった。




 およそ、二年半前のことだ。

 帰宅中のお姉ちゃんは、トラックに轢かれて亡くなった。

 あの時見た光景を今も忘れることはできない。

 忘れてはいけないのだろうけど、忘れたいと思うときもある。

 覚えていなきゃいけない記憶だけど、見たくない記憶。

 思い出す度に、やりきれない気持ちになる。

 過去の出来事が現在に干渉する。

 過去が、わたしの心を侵す。



「ねえ、憂」

 寝転がったお姉ちゃんがわたしを呼んだ。

「なに、お姉ちゃん」

「さっきの鼻歌ってさ、あの時のだよね」

 あの時とは、あの時。

 学園祭。

 お姉ちゃんの歌詞が声に乗って響いた日。

 わたしの声に乗った。

「うん。――あれ、でも、なんでお姉ちゃんが知ってるの?」

 お姉ちゃんが知っているのはおかしい。

 何故なら、あの時には既にお姉ちゃんは亡くなっていたから。

「聴いてたから知ってるよぉ」

「聴いてくれてたの?」

「うん。憂はわたしと似て歌が上手いね!」

「そ、そんなことないよ」

 お姉ちゃんに褒められてしまった。

 なんだか、照れくさい。

「そっかぁ、お姉ちゃんに届いたんだ…」

「しっかり、くっきり、聴いてたよ。みんな、頑張ってたよね」

「うん。お姉ちゃんの為に一生懸命にやったんだよ」

「あーあー、なんで死んじゃったんだろ。死ななければよかった」

「お姉ちゃん!」

 そんな、はっきり言わないで欲しい。

 死んでるなんて。

「へ? な、なに」

 わたしの声にお姉ちゃんは驚いている。

「そういうこと、言わないで……」

 何を言おうと、事実は変わらない。

 けれど、ここにいる間だけは言って欲しくない。

 身勝手だけど、今だけは忘れたい。

「え、そういうことって?」

「その、死んだとか言わないで」

「でも、憂もさっき言ったじゃん」

「それはそうだけど……」

 それを言われると困ってしまう。

 わたし自身、お姉ちゃんに事実を突きつけた。

 けど、けど。

「憂。ごめん」

「え?」

「もう言わないから」

「うん。ごめんね、お姉ちゃん」

「どうして憂が謝るの?」

「だって、わたしも言ったから」

「憂はいいの。お姉ちゃんが憂のことを考えずに言ったのがいけないんだよ」

「そんな……。優しいね、お姉ちゃんは」

「ええ、いまさらぁー」と、くだけた言い方で言う。

 わたしはそれを聞いて微笑する。

 お姉ちゃんは優しい。

 そのことを改めて実感する。


 なにか生物の声が聞こえた。

 いや、違う。

 声ではない、音だ。

「あっ」と声を出して、お腹に手を添えるお姉ちゃん。

「えっと、お姉ちゃん?」

「お、お腹空いちゃったみたい」

「お腹空くんだ」

 純にそう思った。

「ねえ、憂のご飯が食べたい」

「わたしの?」

「うん。久しぶりだもん。折角だしね」

「でも、食べられるの?」

「さっきジュース飲んでたでしょ」

「あ、そっか」

 そうだ。

 ということはだ。

 また、あの美味しそうにご飯を食べるお姉ちゃんを見ることができる。

「うん、わかった。それで、何か食べたい物ってある?」

「うーん、そうだなぁ。ハンバーグ……かな」

「ハンバーグ? ふふ」思わず笑ってしまう。

「え、どうかした? ハンバーグは駄目ぇ?」

「だって、変わらないから」

 そう、お姉ちゃんはどこか子供っぽい。

 そこが良い所でもあるのだけど。

「変わらない?」


「ううん。さ、じゃあ、お姉ちゃんの為に頑張るね」

「わたしも手伝おうか?」

「え、あ、ううん、大丈夫。お姉ちゃんは休んでていいよ」

 変わってないのなら、お姉ちゃんに料理をさせるのはやめておいた方が懸命だろう。

 帰ってきて早々、流血は避けたい……って、さっき流してたっけ。

「うー、そうかそうか。じゃあ、お言葉に甘えちゃうよー」

 声の調子は明るかったけど、顔は少し残念そうにみえた。

 手伝いたかったのかな。


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最終更新:2010年03月03日 03:03