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 失われた時間を取り戻し、意思の疎通を確認するように笑い合っている。

 今はただ、笑うことの心地好さに酔いしれようと思う。

 翌日、梓ちゃんとの待ち合わせ場所に向かう為に、正午前に家を出た。

 昼食も一緒にすることになっている。

 お姉ちゃんは結局、自分の服を着た。

 サイズもピッタリというか変化無しなので、すんなり着られたみたい。

 夏だったことでTシャツと下だけ考えれば良かったのも幸いして、服選びに時間はかからなかった。

 今日の気温は三十度を越していることもあってか、横を歩くお姉ちゃんの足取りは重たい。

「お姉ちゃん、大丈夫?」

「あー、あうい」と、意味の分からない返事。

「もうすぐだからね」とだけ言って、前を向くわたし。


 お店の看板が見えてくる。

 お財布事情も考えて、ファミレスでお昼だ。

 お姉ちゃんの為にもう少し高いお店にしようかと思ったけど、梓ちゃんの反応を考えてファミレスにした。

 驚いて大声を出す可能性もあるから。

「ねえ、お姉ちゃん。緊張してる?」

「ぎんちょう? してる……かな?」

 質問に疑問符を付けて返された。

 まあ、なんとなく微妙なんだろうということは察せる。

 間もなくして、ファミレスの前に到着した。


 わたしが先頭に立って店内に入る。

 すぐに店員がやってきた。

「いっらしゃいませ、お一人様ですか?」と、スマイルを添えて、お出迎え。

「二人です」

 どうしたら一人に見えるのか不思議だ。

「え? 一人……。ああ、はいはい。禁煙席でよろしいですか?」

「はい」

 店員が一瞬だけ真顔になったのが気にはなったけど、案内に従って窓際の席を選んだ。

 わたしとお姉ちゃんは並んで座る。

「ふいー、生き返るねー」と、お姉ちゃん。

 たしかに店内のエアコンの冷風が気持いい。

 お姉ちゃんはメニューを取って、わたしとの間に開いた。

「なんにする、憂」

「先に決めていいよ、お姉ちゃん」

「まずはアイスだよね」

「それは食後にしようよ」

 直ぐにでもアイスを食べたい気分だったけど、メインの前に食べては駄目だろう。

「あずにゃん、もう来るかなー」

「ちょっと待って」と言って、携帯電話を開く。

 新着の電話もメールもなかったが、家を出たというメールはあったので、向かっている最中だろう。

「もうすぐ来ると思うよ」


「あずにゃん、どんくらい変わってるんだろう」

「わたしの知る限りは、そんなに変わってないと思うけど」

「もっと可愛くなってたりしないの」

「元々、可愛いよ。梓ちゃんは」

「うんうん、あずにゃん可愛いよね。憂は分かってるなー」

 お姉ちゃんは本当に梓ちゃんが好きなんだなと思う。

 先程の店員がお冷を一つテーブルに置いた。

 数が足りないので「あの、もう一つ」と、控えめに要求する。

 店員は怪訝そうな顔をしたあと、微かに頷いてテーブルから離れていく。

 本当に理解したのだろうか、同じアルバイトをしている身としては、接客態度の悪さが気になってしまう。

 三十秒程してから、店員が戻ってきた。

「失礼します」と言って、わたしの向かい側にグラスを置いて去っていく。

 なんなのだろう、これは。

 お客を馬鹿にしているのだろうか。

 何かわたしに恨みでもあるのだろうか。

 怒りを抑えてグラスを目の前に持ってくる。

 大きく嘆息して、気分を和らげようとする。

「疲れたの?」と、お姉ちゃんがメニューを畳んで聞いてきた。

「ううん、なんでもないよ。お姉ちゃん、なに頼むか決まった?」


「決めたよ。はい、憂の番」と、メニューを渡してきた。

「ありがとう」

 メニューを受け取って、料理の写真を眺める。

 もう、とびっきり甘いものをデザートにしよう。

 笑い声がして、何気なく通路を挟んだ先の隣席を見た。

 目が合う。

 その人は、まるで嘲るような笑みを浮かべていた。

 わたしは瞬時に視線をメニューに移す。



 今日の運勢は悪いのかな。

 朝の運勢ランキングを思い出してみると、たしかに下から数えた方が早かった。

 内容は、思い通りにいかなくてイライラしそう、と書いてあった気がする。

 悪い時に当たらなくてもいいのにと、また溜息。

 嫌な予感がしたのは、そのときだった。

 推理小説でトリックを理解したときのように、〝悪運〟の謎が気持ちいいぐらいにすっきりと解けてしまった。

 いや、いまのわたしにとっては解けてしまうのは気持悪いことだ。

 謎の正体がわたしの胸に深く突き刺さる。


 そんなはずがない。

 認めたくない。

 認めてしまったら、お姉ちゃんはどうなるのだ。

 駄目だ。駄目だ。駄目だ。

 事実が恐い。

 頭痛と共に眩暈がやってきた。

 視界がはっきりしない。

 上下左右、方向感覚が無くなり、未知の浮遊感に襲われる。

 気持が悪い。

 わたしは今、どうなっているのだろう。


「憂?」

 声がして、ぼんやりとした意識のまま顔を上げた。

「大丈夫? 顔色悪いよ」

 次第に聴覚と視覚が戻ってきて、声の主が判明した。

 梓ちゃんだ。

「あ、あ、あ」

 自分でもなにを言っていいのか分からず、意味の無い声を出してしまった。

 口の中が乾いているのが分かる。

「憂、ほんとに平気?」と、梓ちゃんは通路に立ちながら、こちらを見ていた。

 わたしは梓ちゃんを見つめたまま、なにも言わなかった。


 違う、言えなかった。

「おーい、憂。起きてるー」

 梓ちゃんは目の前で手を振って意識を確認しているみたいだ。

 そうだ。

 お姉ちゃんはなにをしているのだろう。

 なにを見ているのだろう。

 梓ちゃんを見ているのなら、なんで声を出さないのだろう。

 後ろを振り返るのが恐い。

 それでも、見なくてはいけない。

 恐怖と義務感がせめぎ合う中、わたしは出来る限り、ゆっくりと振り返る。

 ゆるりと少しずつ、視界に映る光景が変化する。

 そして、わたしは見た。

 お姉ちゃんは、両腕で顔を隠すようにテーブルに伏せていた。

 すすり泣く声が聴こえる。

 ああ、お姉ちゃんは解ってしまったのか。

 誰一人、お姉ちゃんが〝見えていない〟ことを。

 わたしを除いては、誰も見ていないことを。

 目頭が熱くなったのを、唇をきゅっと結んで我慢を試みる。

 それでも、涙は無理矢理に頬を伝う。


「ちょっ、憂! なんで泣いてんの? あ、え、わたし、悪いこと言った?」

「ごめんね……ごめんね……」

 梓ちゃんにも謝りたかったが、いまは誰よりもお姉ちゃんに謝りたかった。

 わたしが悪いのだから、全てはわたしの責任だ。

 悲しむお姉ちゃんを見たくなかった。

 目を逸らし、同じようにテーブルに顔を伏せた。

 梓ちゃんが背中を擦ってくれてるのが分かる。

 今日は運が悪い。


 結局、梓ちゃんにはお姉ちゃんのことを言わなかった。

 言ったところで、どうなるのだろう。

 言葉の交換はわたしを通してでしか出来ない。

 それで梓ちゃんは、お姉ちゃんの存在をしっかり実感することが出来るだろうか。

 わたしの気が狂ったと思われてもおかしくはない。

 交通事故の後、わたしは梓ちゃんに対し酷いことをし、過ちを犯してしまった。

 その二の舞はだけは避けたかった。

 言わなかった所為で「プレゼントはー?」と、唇を尖らせて文句を言われてしまったが仕方がないだろう。

 帰宅すると、お姉ちゃんは真っ先に部屋に閉じこもってしまった。

 最悪な一日の続きは苦いものでしかない。



 翌朝、お姉ちゃんは一階に下りてきたものの、口数は少なく、明らかに元気がなかった。

 朝食時には会話が無く、わたし達の間には気まずい空気が漂っていたので、食事が不味く感じられた。

 この日もアルバイトが入っていたわたしは、お姉ちゃんに一声だけ掛けて家を出た。

 アルバイトを終えて家に帰ったときには、少しは元気になっているだろうという淡い期待を持って、アルバイト先へ向かったのだ。


 だけど、淡い期待は明確な失望へと変わってしまう。

 帰宅したわたしを待っていたのは、生のない空虚な空間だった。

 お姉ちゃんの姿がどこにも見当たらなかったのだ。

 ――消えた。

 ――お姉ちゃんが消えた。

 ――どこへ。

 ――どこへ、行ってしまったの。

 いつの間にか、失望から絶望が生まれてきてしまっていた。

 お姉ちゃんが二度と目の前に姿を現すことがないと思うと、恐怖さえ感じた。

 絶望と恐怖は嵐のように猛烈な勢いで、わたしの思考を蝕んでいく。

 抗うことすら許さない、その圧倒的なまでの絶望は絶対的な無力感をわたしに刻

み込む。

 あの時の事故と同一の無力感だった。

 幾ら手を伸ばそうと、漆黒の闇が光を殺し、実体を掴もうとするのを阻む。

 全ては終わってしまった。

 わたしは居間の床に寝転がり、白の天井を見つめている。

 その白が、わたしの目の色に染まることはない。

 お姉ちゃんの目の色も、今のわたしと同じなのだろうか。

 そう思ったら、目の赤が更に滲んだ。


 目が覚めると、なんら変わりのない天井が見えた。

 どうやら眠ってしまったらしい。

 時計の針は午後九時を少し過ぎたところを指していた。

 目の回りがいささか腫れぼったくて気になった。

 座ったまま、自分が居る部屋を見渡す。

 動く物体は無く、音を発する物すら見当たらない。

「泣いても世界は変わらない……か」

 褪めた心境にも関わらず、お腹が空いていた。

 こんな時くらい空気を読んで欲しい気もするが、わたしの意思でどうこう出来ることじゃないので仕方がない。

 強張った身体を伸ばすように立ち上がる。

 洗面台で顔を洗い、鏡で自分の顔を見てげんなりする。

 次に台所へ行き、冷蔵庫を開けた。

 そこで初めて、夕飯の食材がないことに気付く。

 朝はあの空気だったので、確認するのを忘れてしまっていた。

 これから買いに行くとなると、スーパーは開いてないのでコンビニで買わざるをえない。

 無駄な出費になってしまうと考えると、余計に気分が滅入った。

 手早く支度をして、家を出た。


 外は月明かりと街路灯、住宅の窓から漏れる光で、そこまで暗くは感じない。

 蒸した温い風が、髪に絡みつくようにわたしを包む。

 背中にかいた汗がべっとりしていて、不快さが余計に増す。

 夏ということもあり、窓を開けた家が多く、一家団欒をしている楽しげな声が聞こえた。

 それを聞いて少し早足になる。

 他人の幸福が面白くなかったからだ。


 コンビニに到着。

 調理が簡単なカップ麺を一つ買うことにした。

 普段はあまり食べないけど、今日は食べてもいい気分だったのだ。

 そして、お店を出ようとしたときだった。

 わたしは立ち止まる。

 正面の自動ドアを開けて入ってきたのが和さんだったのだ。

「あ、憂ちゃん。久しぶりね」と、簡単に挨拶をされた。

「こんばんは。お買い物ですか?」表情を無理に作って言う。

「ええ、喉が渇いたから寄ったの。憂ちゃんはこんな時間にどうしたの? アルバイトの帰り?」

「いえ、夕飯を買いに」

「それでコンビニ?」

「この時間だと他は開いてませんから」

「ああ、それもそうね。ちょっと待っててくれる、買い物を済ましてくるから」

 そう言うと、和さんは飲み物が並んだ冷蔵庫に歩いていく。

 正直、和さんを含めて、いまは話をする気分ではなかったし、早く家に戻りたかったけど、待っててと言われたのを無視して帰る度胸は、わたしにはなかった。

 わたしはお店の外に出て、入り口の脇で待つ。

 和さんはビニールの袋を右手にすぐに出てきた。

「それじゃ、途中まで一緒に行きましょ」と、和さんが頬を緩ませて言う。

 対するわたしは、頷くのが精一杯だった。


 歩きながら、和さんはわたしの近況を訊いてきた。

 大学生活のことや夏休みのこと、自炊のこと等、取り立てて特別なことは訊かれていない。

 それから、和さんが自分の近況を話して教えてくれたが、わたしの耳には中途半端にしか届かなかった。

 適度な話が終わって、お互いが口を閉ざして歩くことになる。

 和さんはお姉ちゃんの友人であって、わたしの友人ではない。

 となると、話すことが限られてくるのも当たり前といえば当たり前だ。

 会話の代わりにわたし達の足音だけが、沈黙の中にあった。

 疲れを感じていたせいか、大きな溜息を吐いてしまう。

「どうかした?」と、和さん。

「い、いえ」

 あわてて、顔の前で両手を振って否定する。

「そう。……ねえ、幽霊を見たことある?」

 その言葉に何故かドキッとした。

「え、あ、いえ」

「今日ね、変なことがあったのよ」

「変なことですか?」


「ええ。家で出掛ける為の支度をしている時だったわ。
 たまたま携帯電話がどこに置いておいたか分からなくて、家の中を探し回っていたの。
 そしたら、さっき確認した場所に携帯電話が置いてあってビックリしたわ。
 見つかったのだから何も問題はないんだけど、それでもおかしいじゃない。
 家にはわたしの他に誰もいないのに」

「見間違えとかじゃ、ないんですか?」

「だってテーブルの真ん中よ。見間違えはないわ。それと、それだけじゃなかったの」

「他にもあったんですか?」

「それまで音を出していなかった風鈴が突然に鳴ったのよ。
 それから、靴を履くときに気付いたんだけど、揃えて置いておいた靴が微妙に動かされてるの。
 流石に恐くなったわ。背筋がゾクッとして、何かいるのかもって」

 わたしは何も言わずに話を聴き続ける。


「でもね、直ぐに妙な温かさを感じたの。
 不愉快さはなかったわ。
 夏の暑さとか関係なくて、ふわふわした感じの温もりとでも言えばいいのかしら。
 言葉に出来ない感覚ね。そのときに何故か、唯の顔が頭にパッと浮かんだわ。
 そして、唯がわたしの名前を呼ぶのよ、和ちゃんって。
 だから、もしかしたら唯が遊びに来てるのかもって思ったの。
 もちろん、そんなことはないんだけれど」

「お姉ちゃんです」

 わたしは立ち止まり、何も考えずに言った。

 和さんがどう思おうと、わたしには確信めいたものがあったから。

「唯?」

 和さんも足を止めた。


「お姉ちゃんが和さんに会いに行ったんですよ。お姉ちゃんは和さんのことが好きですから」

「そう……なのかしら」

「わたしはそう思います」

 和さんは思案顔で、月が浮かぶ夜空を見る。

 月はもうすぐ満月なのか、満月を過ぎてあの形なのかは分からないけど、ほとんど円形だった。

「そうね。だったら、言ってあげればよかったわ」


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最終更新:2010年03月03日 03:11