和さんは月を見ながら言った。

「何をですか?」

「なんでもいいわ。おかえりでも久しぶりでも、なんでもいいのよ。
 でも、一番言いたいのは――会いたかった……かしらね」

 会いたかった。

 それはわたしが言った言葉となんら変わらない。

 死者であろうと、大切な人に会いたいと思う気持ちは、心を通わせた人であれば誰でも思うことなのかもしれない。

「でも、わたしには見えなかったのが残念だわ。少しでいいから、唯の顔を見られればよかったのに」

 わたしは答えない。

 どうして、わたしにだけお姉ちゃんが見えるのか。

 今となっては、見えたのか。

 わたしには分からない。

「憂ちゃんになら見えるかもしれないわね」

 和さんがそんなことを言った。

「どうしてですか?」

「だって、誰よりも唯のことが好きだったでしょ」

 そう、わたしは誰よりもお姉ちゃんが好きだ。

「今も好きです」

「そうね、ごめんなさい。そんな憂ちゃんになら唯が見えると思うわ」

 お姉ちゃんは見えた。

 けれど、何処かへ行ってしまった。

「あの、幽霊ってどこに行くんでしょう」

 わたしはそんなことを訊いていた。

 なんの為なのかは自分でも不明だ。


「わたしは幽霊じゃないから分からないけど、唯なら遊びに行くんじゃないかしら。今日もわたしの家に来たみたいだし」

「遊びに……」

「幽霊だって遊びたいわよ」

 そうか、お姉ちゃんは何処かに遊びに行っているのかもしれない。

 そう考えると、希望が沸いてきた。

 お姉ちゃんはまだ帰ってこないと決まったわけじゃないのだ。

 今まで落ち込んでいた気分が、いささか上向きになり、モヤモヤとしたものも少しだけ晴れてきた。

 そのあと、途中まで和さんと帰り、家に戻った。


 玄関の靴の数は先程と変わっていない。

 家の静けさも変わらない。

 変わったのはわたしの決意だけ。

 決めたのだ。

 明日でも明後日でも辛抱強く待つことを決意したのだ。

 帰りを待つ。

 ひたすら待つ。

 お姉ちゃんの帰りを、わたしは待つ。


 そんな決意とは裏腹に、お姉ちゃんはあっさりと帰ってきた。

 朝食のトーストをかじっているときだった。

 お姉ちゃんは玄関扉を開けた音もたてずに、居間に姿を現したのだ。

「お姉ちゃん!?」

 咄嗟に声を出した為に、トーストが口からお皿の上に落ちた。

「あ、憂。ただいまぁー」

 お姉ちゃんは近場に買い物に行ってきた帰りのように、あっけからんとした声だった。

 わたしは歩み寄って、無理に睨む目つきをして言う。

「お姉ちゃん! 何処に行ってたの!? 心配したんだよ!」

 お姉ちゃんは口を開けて驚いた顔をした。


 更には視線が右に左にと落ち着かなくて、挙動不審だ。

「あ、え、う、あ、うー」

 何かの暗号みたいな答え。

「お姉ちゃん!」

「ご、ごめんなさい!」と、四十五度以上の角度で頭を下げる。

 だけど、五秒程すると徐々に頭が上がってきた。

 眉尻を下げた困り顔が上目遣いでわたしを見る。

 わたしは一回だけ嘆息して、表情を柔らかく変える。

「でも、よかった。お姉ちゃんが帰ってきて」


 お互いの息が触れるぐらい近くまで寄り、背中に両手を回して抱きしめる。

 引き寄せた身体は確かな熱を持っていた。

 お姉ちゃんは生きている。

「憂?」

「何にも言わずに消えちゃ嫌だよ、お姉ちゃん」

 お姉ちゃんの右肩の上に顔を乗せて、頬に頬を合わせる。

 目を閉じると、自分の鼓動とお姉ちゃんの鼓動を感じることができた。

「憂、ごめんね。心配かけちゃって」

 そう言って、わたしの頭を優しい手付きで撫でてくれる。

「よしよし」と、背中も擦ってくれる。

 わたしは急に胸に痞えてたものを吐き出したくなって、それが涙となって溢れ出した。

 我慢が出来なかった。

 お姉ちゃんの匂いが。

 お姉ちゃんの手の感触が。

 お姉ちゃんの温かさが。

 これまでにないくらい、優しく包み込んでくれた。

 抱擁を通して、お互いの存在を深く感じた。

 どれだけの時間、そのままの状態でいただろうか。

 わたしは長い時間泣いていたし、涙が止まっても抱き合っていた。

 幸せな時間を終わらせたくなかったのだ。


 けれど、エアコンを使っていない夏の居間は蒸し暑くて、抱き合ってるのにも限界があった。

「あ、暑い」と、お姉ちゃんが先にギブアップ宣言。

「う、うん、暑いね」

 暑さには敵わず、わたし達は離れた。

「こんな暑いとアイスがないと生きていけないよ。あ、エアコンもつけないと」

 そう言って、真っ先にエアコンのリモコンの元へと駆け寄っていく。

 わたしはお姉ちゃんの背中に向かって声を掛けた。

「お姉ちゃん」

「スイッチオン! え、なにィ?」

「遊びに行こっか?」

「遊びに?」

「うん。遊びに」


 アルバイト先にお休みの連絡を入れた。

「いいの? 休んじゃって」

「うん。お姉ちゃんと一緒にいたいから」

 お姉ちゃんは何も言わない。

 ただ、わたしを見て笑ってくれた。

 行き先は映画館だった。

 チケットはわたし一人分で、お姉ちゃんは無料。

 このぐらいのサービスはあっていいだろう。

 観る映画はお姉ちゃんに選んでもらった、派手なハリウッド映画だ。

 わたしの席の横がたまたま空いていて、お姉ちゃんはそこに座った。

 ポップコーンを渡すと、嬉しそうに受け取った。

 お客さんの入りがよくないので、お姉ちゃんは堂々としていられる。

 人が多かったら、座ることもポップコーンを食べることも出来なかった。

 お姉ちゃんと一緒に映画を観に来たのはいつ以来だろう。

 遡ると、お互いが中学生のときが最後かもしれない。

 結構、長い間行ってなかったんだな。

 上映が始まる前だったので、お姉ちゃんに声をかけてみる。

「お姉ちゃん、寝ちゃ駄目だよ」

「寝ないよぉ。憂には難しい映画かもしれないけど」

「これ、アクション映画だけど」

「アクションは深いんだよ、憂」


 そんなことを話しながら、場内が暗転するのを待った。

 ポップコーンはどんどんと減っていく。

 食べているのは、ほとんどお姉ちゃんだ。

 わたしは脇に置いておいた、ジュースを一口飲む。

 それをお姉ちゃんが横から物欲しそうな目で見ていた。

「どうしたの?」

「飲み終わっちゃった」

 そう言って、空の紙コップを持って見せた。

「しょうがないなー、少しだけだよ」

 中が入った紙コップをお姉ちゃんに渡す。

「ありがたやー」と、大袈裟な態度をとって紙コップを受け取る。

 お姉ちゃんが紙コップの縁に口をつけると、炭酸の弾ける音が聞こえた。

 ごくごくごくごくごくごく……。

「お姉ちゃん。もしかして、全部飲む気じゃないよね」

「そ、そんなわけないじゃん」

「コップ貸して」

 お姉ちゃんは素直にコップを差し出す。

 わたしはそれを受け取る。

 妙に軽いのは気のせいか。

 上からジュースの残りを確認すると、案の定、あとちょこっとしか残っていなかった。

「お姉ちゃん」

「ご、ごめん。喉渇いてたから」

「わざとだよね」

 本気で怒ってはいない。

 お姉ちゃんを少しからかってみただけだ。

 わたしは残りを一気に飲み干して、コップの中身を空にした。

 そのコップを脇のホルダーに置くと、場内の照明がゆるやかに落ちた。

 お姉ちゃんはこちらを見たままだったから、笑って応えてあげる。

 それを見てホッとしたのか、お姉ちゃんは座りなおしてスクリーンに目を移した。

 名前は忘れたけど、画面に有名なキャラクターが出てきてコントみたいなことをしている。

 映画を観るときは、こうやって焦らしを入れてくるから面白い。

 本編が始まる頃に左手が温かいものに包まれたのに気付き、わたしはそれを握り返した。


「ふあー」

 長い時間座っていて疲れたせいか、お姉ちゃんがそんな声を出して伸びをした。

 映画が終わったことで、既に場内の照明が点灯している。

「どうだった?」

 映画の感想を聞いてみる。

「ハッピーエンドでよかったよー。最後に助からなかったら可哀想だもんね」

「そうだね。でも、相手のやられ方はちょっと可哀想だよね。どっちが悪役か分からないぐらい」

「悪い人にはお仕置きが必要なんだよ、憂」

 そう言って、お姉ちゃんは軽い足取りで出口に向けて歩き出す。

 わたしは後を追う。


 映画館を出た後は、お昼抜きでウィンドウショッピングに興じた。

 だけど、さすがに何も食べないというのは苦しかったので、スーパーで適当な食材を買って早目に帰ってきてしまった。

 外で食事をしようにも、お店の人にお姉ちゃんの姿が見えない状態では一人分のサービスしか受けられない。

 お姉ちゃんにリラックスして食事をして貰う為には、やはり家が良いという結論になったのだ。

 二人とも家に着いたときには汗をびっしょりかいていて、お姉ちゃんは真っ先にエアコンの電源をいれた。

 お昼ご飯は冷やし素麺にすることにした。

 氷を敷いて、麺を冷やすのだ。

 ようやく準備を終えて、お皿を運ぶ頃にはお姉ちゃんはぐでんとダウンしていた。


 翌日はビニールプールを庭の限りあるスペースに設置して入った。

 もちろん、お姉ちゃんもわたしも水着を着用して、暑い暑い言いながらも水遊びをして楽しんだ。

 夜になると、家の前で花火をした。

 場所が場所だけにロケット花火は出来ないから、小さな花火で我慢した。

 我慢したのはわたしではなく、お姉ちゃんだ。

「憂、ロケット花火ないんじゃつまんないじゃん」と言って、やる前はいささか拗ねていたけど、いざ花火をやりだすと一番はしゃいでいたのは、お姉ちゃんだった。

 その日の夜は夜更かしを少しだけして、二人で身を寄せ合いながら、ホラー映画を観て盛り上がった。




 そんな昔に戻ったみたいに、平凡ながら幸せな日が続いた七日目のことだった。

 朝食のコーンフレークを食べていると、お姉ちゃんがいつになく元気のない声で言った。

「あのね、憂」

「ん?」

 お姉ちゃんは手を止め、顔を伏せて、わたしの顔色をチラチラと窺っている。

「どうかしたの? あ、お腹の調子が悪いなら残してもいいよ」

 お姉ちゃんは頭を振って否定する。

「あのさ、驚かないで聞いてね」

「う、うん」

 驚かないでとは、どういう意味なのか。

 それはつまり驚きを与える可能性がある話なのか。

 わたしはこれから展開されようとされている話を予想しようとした。

 けど、それより先にお姉ちゃんが言葉を続けた。

「わたし、もう駄目みたいなんだ」

「だ……め……?」

「なんでか解らないけどさ。もうすぐ消えちゃいそうな気がする」


「消えるって……」

「解るんだよ。もう時間がないって。今日の夜にはもういないかもしれない」

「そんな……」

 そんな、そんなことってない。

 お姉ちゃんが、いつかいなくなってしまうのはわかっていた。

 わかっているつもりだった。

 でも、実際にこんなにも明確に言われてしまうと、その理解が如何に不十分であったかを実感する。

 この一週間、時間があったにも拘らず、覚悟を決めることが出来ていなかった。

 日常に潜む非日常に備えていなかったのだ。

 非日常は常にわたしの眼前に迫っていたのに、わたしは目を向けようとはしていなかった。


「憂……」

 お姉ちゃんの顔に笑顔はない。

「いつまで……いられるの?」

「分からない。けど、今すぐじゃないよ」

「そう……」

 わたしはどうしたらいい。

 残りある時間、どのように過ごせばいい。

 お姉ちゃんの為に何が出来る。

 突きつけられた現実に、まともに思考することが出来なかった。


 いつの間にか、お姉ちゃんが目の前にいた。

 そして、両手をわたしの両肩に置くと口を開いた。

「憂、そんな顔しないで」

「お姉ちゃん……」

「人って、死んだら戻ってこないんだよ。本来なら、わたしがこうやって憂の前にいるのだっておかしいぐらい」

「そんなことないよ。お姉ちゃんは……お姉ちゃんは……」

「憂っ!」

 いままで聞いたことがないぐらいに鋭い声。

 わたしの肩に載る手に力が入る。

「わたしの目を見て」

 その声に従って、正面から真っ直ぐに視線を向けた。

 宝石のように光を反射する瞳には、今にでも泣き出しそうな、わたしの顔が映っていた。

「憂、お姉ちゃんのお願い聞いてくれる?」

「お願い?」

 お姉ちゃんは小さく一回頷く。

「憂と泣きながら、お別れなんてしたくない。どうせなら、笑ってお別れしようよ。ねっ?」

 そうは言っていたが、顔は決して笑ってはいない。

 それが逆にわたしの心を強く打った。


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最終更新:2010年03月03日 03:11