私には 取り得 というものがあった
才能だとか
長所だとか
そういった大げさなものではなくて
ただ単に 得意なことがあった
それで得るものもあれば
必然 失うものもある
私にとって それは――
――どちらが 大きかったのだろうか
――音楽準備室には、ふたつの香りが漂っている。
ひとつは、
琴吹紬が持ってきたクッキーの香り。
バターやミルク、
その他の材料全てにこだわってできたそれは、私たち庶民がおそらく一生
食べられないほどに香ばしい。
ふんわりとした卵の旨みが口内に広がる。
噛めば噛むほど味が出る、というチープな表現を思わず使ってしまいそうなほどに美味し
い。
「どう? りっちゃん」
「うーまーいーぞー!!」
「うふっ。それならよかったわ」
二つ目の香りは、今淹れている紅茶の香りだ。
いつもは紬が淹れている紅茶だが、今日はどういうわけか唯が淹れている。
先日、紬の昔話を聞いてから唯は紬だけに負担をかけないように、紅茶の淹れ方を覚えた
のだ。
まだ。手付きは怪しいが、素材が素材なので、不味くなることはないだろう。
「お茶が入ったよ。はい」
「サンキューな。ところで、ムギのおふくろさん。経過はどうなんだ?」
「順調よ。ブラックジャック先生が定期的に診てくださってるから、安心安心」
にこりと笑って、紬は答える。
彼女の、今までの人生は孤独だった。
――それを彼女は、私たちに教えてくれた。
「なら――そうだな」
次は、私の番だろう。
「私の昔話、聞きたいか?」
ふいに、そんなことが口に出た。
唯はおぼつかない手で紅茶を配っている。
梓はクッキーを、まるで小動物のようにかじっている。
紬は唯が淹れた紅茶を、頷きながら口に運んでいる。
――澪は。
澪だけは、私の目をしっかりと見ていた。
その目は……。
あの目は『いいのか?』と私に問う目だ。
構わない、と目で合図する。
アイコンタクトが出来るまでに親しくなったのは、果たして喜ぶべきなのか。
「聞いて、いいの?」
「律先輩、話したがらなかったじゃないですか」
「そうだったな。
でもさ、ムギが話してくれたんだから。私も話すよ」
――そう。
私の、得たものと失ったものの――等価交換の話を――。
よく覚えている。
5歳のころ、同い年の男の子を泣かして、先生に怒られたこと。
きっかけは些細なことだ。
男の子――ゆうすけは、私と友達が作っていた砂のお城を踏み壊したのだ。
――友達は泣いた。
だって、園児にとってそれは、自分が積み重ねた結果だったのだから。
小さな手で、考え足らずの頭で。かけがえのない友達と作ったものなのだから。
だから、私は立ち上がってゆうすけを突き飛ばした。
ゆうすけは砂場で足をとられ、顔から転んだ。
口に入ってしまった砂を吐き出しながら、捻ってしまった足を抑えながら、ゆうすけも泣い
た。
――飛んでくるのは幼稚園の先生。
開口一番『どうしてこんなことをしたの?』
私も答える『ゆうすけくんが、お城を壊したの』
先生曰く『だからって、突き飛ばすことはないでしょう? りっちゃんは女の子なんだか
ら』
……納得がいかなかった。
女だと、女の子だと。
どんなことをされても、ニコニコと笑っていろというのか? と。
悔しい。
悲しいのではない。先生に怒られることなんて、悲しいわけがない。
ただ、悔しかった。
私が女だから。
どんなに男の子と張り合っても、抑え込まれてしまう。
自分の性が、悔しかったのだ。
母が、ゆうすけの両親に謝っている。
ゆうすけの表情は『僕を心配してくれ』と言っているようで、無性に腹がたった。
だってそうだろう。
自分から仕掛けてきて、返り討ちにあって。
情けなくて、それでもどうにもならないからこうして力が大きい人に縋っている。
だというのに。
それなのに、彼は勝ち誇ったような顔も見せている。
――負けだ。
お前は、私に負けたんだよ。
そう、言ってしまいたかった。
母の手を握る手に、力が込められる。
それに気がついたのか、母も私の手を強く握る。
……その温かさに、こんな小さな男のことなんてどうでもよくなった。
「りっちゃんは、今日なにが食べたい?」
「りつはね、シチューがいいなあ!」
夕日がさす帰り道。
おなかが大きくなった母と歩いた帰り道。
もうすぐお姉ちゃんになるからね。
そう言われて、誇らしい気持ちになった。5歳の秋だった。
「律は、弟と妹。どっちがいい?」
夕食時、父にそんなコトを尋ねられた。
湯気がたちこめるシチューに目が行っていた私は少し考える。
……イマイチ、よくわからなかった。
私は女の子だけれど、男の子よりも強い。
でも、父は私よりも力がある。
性というものがわからなかった。
おままごとをしたり、ヒーローごっこをしたりと男の子らしい遊び、女の子らしい遊びはた
くさんある。けれども、私はそれをどちらも楽しいと思っている。
むずむずする。
私は女の子だ。
だから、お姉ちゃんなんだ。
でも――
「わかんない……。でも、りつは強いお姉ちゃんになる!」
父はそれを聞いて、少しだけ驚いた顔をして――
「律は大きくなったな。
弟でも妹でも、律が守ってあげるんだぞ」
そう言って、頭をなでてくれた。
「ゆいちゃんってカスタネット上手だね~」
「えへへ~」
いつものように、友達と砂のお城を作っている最中、そんな声が聞こえた。
声の方向を振り向くと、とぼけた女の子と凛々しい女の子が話をしていた。
……見たところ、私と同じ年の子だ。
ふわふわとした雰囲気の女の子は、照れくさそうに笑っている。
その表情は、どうにも馬鹿っぽくて、どうにもドジくさい。
つまるところ、その女の子は私とは逆のタイプで、守ってあげたくなる子なのだろう。
私は無論、そういったタイプではない。
「おねえちゃん!」
「あ、ういー」
小さな子が、とぼけた子のもとに駆けていく。
よく似た顔をしている。
……そうか。二人は姉妹なのだ。
ぼんやりと三人を眺める。
ああいうのが、女の子なのだろう。
私は――いったいなんなのだろうか。
私は、果たして姉に成りうる存在なのだろうか。
子供ながらに、そんな哲学的なコトを考えると、母が迎えに来てくれた。
「りっちゃ~ん。帰るわよ~」
「……あ。は~い。じゃあね、てらちゃん!」
腕を千切れるかのような勢いで振り回す。
母の顔を見ると、先刻まで考えていたつまらない思考も吹き飛んでしまった。
上着を羽織って、鞄をロッカーから取り出す。
今日のご飯はなんだろう。
私の単細胞じみた頭は、すでにそんなことを考えていた。
「――! 田井中さん!? 田井中さん!?」
背後からドン、というなにかが落ちた音と先生の声。
振り返ると――
「い、た……い……あ……あ」
今まで見たことない。
苦しそうな顔をした母の姿があった。
「りっちゃんはここでテレビを見て、お留守番しててね。今から先生がお母さんを病院に連れていくからね」
「りつも行く!」
「ごめんね。りっちゃんはここでお留守番よ」
先生の切羽詰まった顔。
園長先生が私の頭を優しく撫でる。
置き去りにされる自分。
――それで、察した。
その時が来たのだと。
私が姉になる日が、とうとう来たのだと。
「……わかった。りつ、ここで待ってる」
「いい子だ。園長先生とお菓子食べようね」
大福が手のひらに置かれる。
小さな手よりも、ほんの少しだけ大きい白い物体。
口に運ぶと、酸っぱい味がした。
見ると、赤いイチゴが入っていた。
「赤ちゃんも、こういう風にママのお腹の中にいるのかな」
「そうかもしれないね。
りっちゃんはお姉さんになるんだから、いい子にしてないとね」
……私は、テレビの内容もわからないほどに考え込んだ。
良いお姉さん、というものを。
――しばらくして、職員室の電話が鳴った。
園長先生は受話器を持ち、話し始める。
はい、はいと頷き、こちらを見る。
……寒気がした。
嫌な予感、とでもいえる。
園長先生の顔は険しい。
「わかりました。お子さんは私が――はい。それでは……」
受話器が置かれ、園長先生は私のまえにかがむ。
優しい笑顔。
父もそうなのだが、男の人はどうしてこんなにも気持ちがいい笑い方ができるのだろうか。
母の笑顔は、心が安らぐ。
でも、父や園長先生の笑顔は――どういうわけか私も笑顔になる。
「今日は園長先生とおうちに泊まることになったから、帰ろうか」
手をとられて、幼稚園の隣の園長先生の自宅に招かれる。
――その日食べたカレーライスの味がわからなくなるほど、私は混乱していた。
それからのことは、なにも覚えていない。
ただただ、思考の海に呑まれていた。
私は姉でいいのか。
私は女なのか。
どうしていいか、わからない。
なにをすればいいのかもわからない。
眠っているのだろうか。
起きているのだろうか。
それすらもわからない。
ただ、わかることがあるとするならば――
――朝日がさす病院で、小さな。本当に小さな弟を眺めていたことだけだ。
名前は『聡』。
聡明な人間。という願いをかけて付けられた名前。
私の――たった1人の弟である。
それから二年経って、私は小学生になった。
桜ケ丘第二小学校に入学した私は、入学初日に面白い子に出会った。
「あー! 綺麗な髪だねー!」
「ふあっ!」
綺麗な、暗闇に溶けてしまいそうなほどに黒く、長い髪を持った少女。
会っていきなり、その綺麗な髪を褒めると彼女は真っ赤な顔をして手を頭にのせた。隠して
いるつもりなのだろうが。そうはいかない。
闇色の髪は日の光を浴びてさらに艶やかに光る。
私の茶色がかった髪ではありえない光の反射だ。
……にかり、と笑いかける。
「私ね、田井中律っていうの。君の名前は?」
「……澪。
秋山、澪っていうの」
「澪ちゃんか~! よろしくね! 私のことは律でもりっちゃんでもなんでもいいから!」
澪はべそをかいた目を擦って、口元を緩ませる。
「……よろしくね。りっちゃん」
外では桜が舞っていた。
もうすぐ終ってしまうであろう桜が舞っていた。
これから先も、ずっとずっと一緒にいる親友とは、そんな日に出会った。
――澪は、昔から恥ずかしがり屋の怖がりだった。
なにをするにも自信がなくて、なにをしようにも怖がって。
黒いつり目は、ことあるごとに涙でうるうると揺れていた。
「澪ちゃんはすごいんだから! もっと自信持った方がいいよ!」
「でも……間違えちゃったら……」
「いいじゃん! 別に間違えたって!」
「間違えたら、みんなに嫌なこと言われるんだもん」
なにをするにもマイナス思考で、
なにをしようにもネガティブで、
この世に自分よりもダメな人間はいないと思ってて、
いつも涙目で、いつも弱音を吐いていた。
それが、幼いころの澪だった。
別にそれが嫌いだったわけではない。
むしろ可愛らしいと思う。
なにも考えず、絶対に止まらずに行動する私よりも、ずっと女の子らしい。
ただ、少し彼女は消極的すぎるのだ。
「秋山ァ! てめえかけっこでビリだったじゃねえか!」
「ひっ!」
体育の時間が終って、着替えている時だ。
クラスの中でもひときわ体の大きい井上が、澪に絡んでくる。
先刻の体育はかけっこだった。
小学生にとって、身体能力というのはそのままクラス内の地位に繋がる。
幼い故に、考えが動物的で、腕力が強ければ偉いという見方になるからだ。
井上は、その典型だ。
自分に力があるから、それに過信して、そればかり誇りにする。
だから、劣る人間を下に見ている。見る以外に、彼の在り方はないからだ。
「なんとかいえよう!」
「や、やめ……」
井上が澪の体操服を引っ張る。
裾が伸びてしまうほどの力だ。体格で劣る澪はすぐに転ばされてしまう。
びたん、という大きな音。
それに気が付き、クラスの視線がこちらに向く。
しかし、誰も助けない。
井上には勝てないことを、皆が知っているからだ。
「りっちゃん……」
私も、立っているだけだ。
澪の悲しげな瞳が、私を見る。
だから――
だったら――することなんて決まっている。
「やめてよ――!!」
井上を、突き飛ばした。
井上ゆうすけを机に向って思い切り。
「な、なにすんだよ! 先生に言うぞ!」
「それはお前だ!
澪ちゃんのこと、なにも知らないくせに!」
机が倒れ、井上も倒れる。
幼稚園児だったころから変わらない。
自分から危害を加えておいて、自分が害を被ったら被害者の顔をする。
そんな井上が、昔から大嫌いだった。
変わらないところは、私も同じだが。
……それでも、聡が生まれてからは大人しくしていた。
お姉さんというモノは、女というモノは大人しくしているものなのだと先生に聞かされたか
らだ。良いお姉さんになるために、私は頭にきても我慢していた。
――でも。
今回のことは許せない。
大事な友達を馬鹿にされた。
大事な友達が叩かれた。
大事な友達が泣いている。
だったら、私は女の子らしさなんていらない。
――誰も守れない強さに、意味なんてないと思うから。
「澪ちゃんはすごいんだ! 頭もいいし可愛いし左利きだし――お前たちとは違うんだ!」
「足が遅いじゃねえかよ!」
「それがなんだ! 澪ちゃんは――澪ちゃんは――」
……なんだか、泣きたくなってきた。
頭の中がグルグルして、目がじんわりと熱い。
澪のことを守りたいと思った。
そのためなら、女らしさなんていらない。
でも――それを失ってしまえば、私はいいお姉さんにはなれない。
「それでも――私は澪ちゃんが好きだ!!」
教室全部に響くように、私は叫んだ。
それ以来、澪はあまり泣かなくなった。
というより、少しだけ泣くのを我慢するようになったのだ。
「ねえ、りっちゃん」
学校からの帰り道、澪は心配そうな顔で私の顔をずっと見ていた。
……当然と言えば当然だろう。
私の顔には頬、鼻、デコの三か所に絆創膏が貼られており、腕にも擦り傷が残っている。痛
い話が苦手な澪にとって、私は言うならば歩く
ホラーとでも言えようか。
「痛くなんてないからな。みおちゃんが痛い思いするよりも、ずっとずっといいから」
「そ、そんなこと……。
りっちゃんが痛いことされるの、私はいやだ」
「そうなのか? へへ、ありがとな。みおちゃん。
だから――泣きやんでよ。ね」
澪の頬に両手を添える。
ひんやりとして、冷たい頬は柔らかくて気持ちがよかった。
なんだか、澪とならずっとずっと仲良くしていられる。
そんな気がしたんだ。
「今日、うちに遊びに来ない? 聡の誕生日なんだぁ!」
「そうなの? じゃあ、遊びに行くね」
夕日に照らされた澪は、本当に綺麗だったんだ。
私が理想とする、女の子の姿だったんだ。
最終更新:2010年03月09日 00:00