「ただいまー!」

「おじゃまします……」

「あら、みおちゃん。いらっしゃい」

 家に入ると、母がキッチンから出てくる。
 ケーキの香りがする。
 お店のケーキとは違って、すこし不器用な香り。
 私はその香りで、誕生日のパーティーの楽しさを感じる。
 そのうえ、今日は大好きな弟の誕生日なのだ。気持ちが昂ぶって、居ても立っても居られな
 い。

「ケーキ、私も手伝っていい?」

「ええ。澪ちゃんはどうする?」

「えと……。えと……。やってみたい……」

 まるで蚊の泣くような声で、顔を真っ赤にして、俯いて澪は答える。
 それと同時に、私はエプロンを用意した。
 右手にはオレンジ色の、ひまわりの絵が刺繍してあるエプロン。
 左手にはピンク色の、ハートの絵が縫ってあるエプロン。

 どっちが着たい? 
 と。澪に尋ねると、澪はなにも言わずにピンクのエプロンを指さした。

「こっち? さすがはみおちゃん!」

「可愛い~」

「か、可愛くなんてないよ……」

 いや、ホントに可愛いのだ。
 澪はなんというか。なにを着ても似合うのだ。
 小学一年生とは思えない雰囲気は、テレビで見る同世代の子供タレントとは違う。アレはテ
 レビに慣れてしまって初々しさがない。
 澪は……そうだ。
 そういった不慣れな感じが。可愛く思えるのだろう。

「それじゃあ、聡のためにケーキ作ろうか! 澪ちゃんも食べるんだよ!」

「う、うん! がんばるね、りっちゃん!」

「できたー!」

 真っ白なイチゴケーキが完成した。
 紆余曲折あったが、とにかく、甘酸っぱいイチゴがたくさん乗ったケーキが今ここに完成し
 たのである。
 家で、母親と共にケーキを焼く。
 それは本来ならば、小学生の女の子が何度も体験することであるのだが、私はこういったこ
 とは初めてだった。
 料理だとか、そういったことは母の仕事だったからではない。
 私はなにをするにも張り切り過ぎてしまうから、加減が大事な料理に向いていないのだ。
 だから、母もそれを知って私に手伝いをさせるときは皿を運んだりといった簡単なことしか
 任せなかった。別に、それを私は不快に思ったことはない。
 皿運びであっても、必要とされているのならそれでもいいと思う。

「やったねみおちゃん!」

「うん。美味しそうだね」

「今は5時か……。それじゃあ、パパが帰ってくるまでに他の料理作ってるわね。
 二人は遊んでなさい。聡は寝てるから、起しちゃダメよ」

 二人揃って返事をする。
 二階の、私の自室にあがってゲームを始める。

 ――それからほどなくして、父が帰ってきて、聡の誕生会は始まった。


 四人掛けのテーブルに広がるご馳走。
 フライドチキンやちらし寿司。海老フライやトンカツなどの揚げ物と、普段ならば同時に食
 卓には現れない料理が一堂に会していた。
 主役の聡は子供の椅子に座らされ、私のその隣に座る。
 澪も遠慮がちながらも私の隣に座って、ご馳走に目を輝かせている。

「美味しそうだね。りっちゃん」

「そうだね! 聡は――まだ食べられないか?」

「そうね。でも、これはいくつか聡も食べられるものを作ったからね。
 澪ちゃんも、たくさん食べてね」

「律も、たくさん食べるんだぞ」

 ――ああ。
 本当に、幸せだ。
 これが、当たり前の家庭だ。
 これが、当たり前の日常だ。
 だというのに、この幸福感は何なのだろうか。

 小学生の私には、素敵な友達と美味しい食事。それに温かい家族があれば幸せだ。

 ……少なくとも、当時の私はそう考えていた。


 人間の成長過程に於いて、女児は基本的に男児よりも先に成熟する。

 それ故に、小学校高学年当たりだと女子のほうが男子よりも運動能力に優れる時期が存在す
 る。男子が成長過程に差し掛かる前に、女子が成長していくからだ。
 ……私にはそれは関係ない。
 昔から、田井中律は男の子よりも強かったのだ。
 かけっこでも一番だった。
 ボールを凄く遠くまで投げることができた。
 それを男の子たちは眺めているだけだった。

「すげー! 田井中のやつハットトリックだよ」

「カズダンス~!!」

「りっちゃんかっこいい~!」

 運動ができればモテる。
 それは小学生が全国共通で持っている認識だ。
 理由は簡単だ。思考が動物に近いので、力を持っている人間に寄り添ったほうが有利だとわ
 かっているからである。
 強いライオンが、もっとも子供を残すのはそのためだ。弱い遺伝子は淘汰される。
 ……その理屈は、男の子にのみ適応されるのではなくて私にも当てはまった。
 そう。

 バレンタインデーでも、私はあげる側ではなくてもらう側だったのだ。


「律はモテるな。ホントに」

「チョコは好きだけど……こんなに貰ってもなぁ。
 澪は誰かにあげたの?」

「あ、あげられるわけないだろう!」

 恥ずかしがり屋の澪の鉄槌。
 澪のやつ、運動は苦手のくせに力は強い。
 それに――心なしか私よりも背が高くなった。

「6年生にもなって、恋の一つもしてないのか?」

「律だって同じだろ。
 ……なあ律、あれって……」

 澪が指さした方向には、高学年の男の子に囲まれた弟の姿があった。


「てめえの姉ちゃんがよぉ! 生意気ィ!」

「し、知らないよ!」

 あの身体の大きさ。
 あの腹の立つ声。
 あの因縁のつけかた。

 間違いない。
 毎日のように、私に対して嫌がらせを働き、またその回数分私に殴られてきた井上ゆうすけ
 だ。鉛筆を盗って、消しゴムを折って、ノートに落書きをしてきた。
 時には、澪にその手が及ぶこともあった。
 私一人なら、パンチ一発で済ませる。
 ただ、親友の澪に手を出すのは許せない。
 その上――

「聡に手を出すなんて――絶対に絶対に赦せない――!!」


 ランドセルを澪に投げ放る。
 両親に買ってもらった赤いランドセルが、音を立てて澪の手に落ちる。
 足は空地へ。
 顔は――どんな表情をしているのだろうか。

「ちびのくせに生意気なんだよぉ!」

「お、お姉ちゃん!」

「聡――!」

 ……気がつけば、私はとんでもないことをしてしまっていた。

 井上に全治1か月の重傷を負わせてしまったのだ。

 よく覚えていない。

 まず、井上に殴りかかった。
 右拳は井上の左頬を抉り、井上は地面に叩きつけられた。
 聡は動かない。とにかく怯えているだけ。
 それは――誰に?
 井上か?
 子分たちか?
 それとも――私か?
 わからない。覚えていないというのはそういうこと。
 聡が、なにか言った気がした。
 それも、わからない。
 子分たちが私を制止しようと羽交い絞めにする。
 ……邪魔だ。私よりも背丈が低いクセに、そんなコトができる筈がない。
 羽交い絞めを振り払い、井上に第二の鉄拳を見舞う。
 3
 4
 5
 6
 数えきれない。
 果たして何回、私は井上を殴りつけたのだろうか。
 最後に覚えているのは、聡の顔。

 悲しそうな顔。
 寂しそうな顔。
 悔しそうな顔。

 ――ほどなくして人が来た。
 澪が呼んできたのだろう。
 そのとき、私には意識なんてなかった。


「律、り、つ」

 声がした。
 目を開けてみると、そこは病室だった。
 見知らぬ天井に溜息を一つだけついて、ベッドの隣に座っている人をぼんやりと見た。身体
 中が痛いが、見るくらいはできる。
 ……二人だ。
 椅子は二つあって、それは満席。だったら、私の傍にいるのは二人になるだろう。

「よかった。目が覚めたか。大変だったな、律」

 澪が私の頭を撫でる。
 怖がりなクセに、こういうときばかりお姉さんになるのは彼女の性質だ。
 温かい気持ちになったが、そのかわり身体が痛む。
 どうやら、右手を怪我しているみたいだった。

「お姉ちゃん……」

 泣きべそをかいているのは弟の聡。
 おいおい、泣きたいのはこっちなんだぞ。と諭す。
 すると聡は涙を乱暴に拭いて私を見据える。
 5歳年下の弟の目は、私が知っている弟ではなかった。

「俺、きっとおね……。姉ちゃんを守れるようになるから――。だから、もうこんな喧嘩は……」

 ――ああ。
 わかったよ。
 そうだ。聡は、もう自分でなんとかできるようになるんだ。
 いつまでもお姉ちゃんについてくる弟じゃなくて、男として。
 小さな身体に宿った覚悟と決意を確認すると、また眠くなってきた。

 澪は、ずっと私の頭をなでてくれていた。

 ……怪我も治って学校に帰れば、井上はもういなかった。

 療養のために、転校したらしい。
 転校というのはリセットと同じだ。
 井上は、怪我が治れば向こうの学校でも同じことをする。そうなれば、必然的に被害者がで
 きことになるのだ。
 それはだめだ。
 自分が助かって人を殺めるとか、そういうのは駄目だ。
 ただ、どうにもならなかった。
 小学生の私にとって、井上がいる場所はあまりにも遠いのだ。もとより、私はヒーローなど
 ではない。お金だってない。そんな私が、彼を真に裁こうなんてことはできないのだ。

「律、もうすぐ卒業だな」

 外には雪が舞っている。
 白い。
 そして冷たい。
 雪は、季節を彩ってくれる。
 同時に全てを白に変えてしまう。

 ――澪は、どうしてかさびしそうな顔をしていた。


 小学校を卒業して、私は『桜ケ丘第3中学校』に入学した。
 もちろん澪も一緒にだ。
 新しい制服に身を包み、新生活の匂いを胸一杯に吸い込んだ。
 背も伸びて、生理も来たのだが、いかんせんここは成長してくださらない。
 凹凸なしのぺったんこだ。それに比べて――

「律は、なにか部活とかやるのか?」

 いつの間にか。
 本当にいつの間にか、私を発育という面で追い抜いていった澪。中一だというのに、制服の
 上からでもその発育は見てとれた。

「なにもやらなーい。澪ちゃんがひとりになっちゃうだろ」

「……むう」

 澪が頬を膨らましてむくれる。
 頬をつつくと空気が口から溢れて間抜けな音を出す。
 それがなんとなく面白く感じた。
 もういい、と澪が黒板の方を向いてしまう。

「律……。
 私たちも――恋とか、するのかな?」

 振り向き様、そんなことを言った。


「田井中さんって足はやーい!」

「ホントだ! サラマンダーよりはやーい」

 今日の体育は体力テストだ。
 50メートル走をはじめとして、ほとんどの競技で最高記録を叩きだしている私に皆は賛美
 を言葉をかける。
 もちろん、誇らしい気持ちになる。
 どんなことでも褒められれば嬉しいし、貶されれば悲しい。
 私にとって、褒めるべき点が運動で、注意されることが勉強なのだ。

「田井中。陸上やらないか?」

 体育教師の長谷部が勧誘してくる。
 体育の時間といい、私が身体能力を披露すると大体がこうだ。
 ソフトボールも、水泳も、サッカーも、陸上も。
 全部が同じ反応ではつまらないではないか。
 私はいつものように『せっかくですが遠慮します』とだけ答えて、50メートルぽっちで息
 が上がっている澪の方へと駆けだした。
 そう。
 この時の私には、澪が一番だった。
 その他の、澪に離れてしまうことは全て下らないと思ってしまう程に。

 あの時までは。


 ――私は、恋をした。
 今までの私を知っている人には笑われてしまうかもしれない。
 でも、私も恋をしてしまったのだ。
 同い年の男の子に。
 今までは、負かす対象でしかなかった男の子に。
 初めて、心を奪われてしまったのだ。

「田井中ー! こいつを止められるかー!」

 体育のサッカーでは、私は男子のチームでやっている。
 誰も文句は言わないし、女子が相手では話にならないからだ。
 私はゴールキーパーとしてゴールを守っている。
 陣地は攻め入られ、今や砦となるのは私だけ。
 ゴールを穿とうと足を上げている彼は『福山直樹』。陸上部のエースであり、生徒会長を務
 めている。それだけでも凄いのに、成績もトップクラスというまさにパーフェクト人間(お
 まけに性格もいい)。私には接点なんてありえない。
 ただ、その人は――

「ちっくしょー! 止められるか! そんな火の玉ボール!」

「俺がサッカーだ!」

 ただ一人。
 私が勝てなかった男の子だった。


 恋をしてしまうと、人はどうにもなにもできなくなる。
 中学二年生になった私にとって、恋というのはそれほどまでに甘美だったのだ。
 握っているシャーペンで、文字を書くことを忘れる。
 話しかけられても、彼の方を気にして上手く話せない。
 小さな胸が疼く。
 こんなにも、恋というのは気持ちが悪(い)いのか、と。
 誰かに相談すれば、少しは樂になるのだろうか。
 澪に、否。
 こんな私が恋の相談なんて出来る筈がない。
 きっと、笑われてしまう。

「前髪、下ろしてみようかな……」

 実は、私の前髪は長い。
 このヘアースタイルが気に入っているから、カチューシャで持ち上げられなくなったら切
 る、という感じなのであまり可愛い髪型にはならない。
 ……そうだ。
 彼が、こんな可愛くない女を好きになってくれる筈がない。
 ガサツで。
 子供で。
 いつまでも意地っ張りで。
 それが私だ。

「――」

 福山の横顔を見るだけで、こんなにも身体が熱くなってしまうのに。
 どうして――手を伸ばせないのだろう。


 家に帰ってきても、悶々とした気持ちは続く。
 むしろ暇なぶん、より一層気持ちがざわつく。
 ベッドに寝転がる。
 ……ふわり、と汗のような匂いが鼻腔につく。

「女の子のベッドでは、ないよな」

 思春期の男の子のような匂いがする。
 棚からファブリーズを持ってきて消臭する。
 退屈だ。
 なにもすることがない。
 勉強なんてできない。集中できないから。

「退屈だなあ。
 聡が帰ってきたら、ゲームでもしようかな」

 ……窓から外を見ると、カップルが歩いている。
 あの制服は、桜ケ丘商業高校のものだ。いつか、私も福山とあんなふうに――

「うわー! らしくねえ! こうなったら寝るぞー!」

 さっさと寝てしまおう。
 そう思って、私は乱暴に布団をかぶって目を閉じた。


 今まで私は、恋を馬鹿にしていた。

 恋なんて、結局はアクセサリーじみたものだと。
 自分はあの人が好き、ということで周りと同調するか優越感に浸るかで安心しているだけ。
 その感情を恋だとか愛だとか。そういった類いのものと勘違いするから、人は自らに陶酔す
 る。

 私は可愛い。
 でも、報われない私は可哀想。
 誰か私を見てくれないかしら。

 そんな構ってほしいという感情こそがホンモノだ。
 陶酔しきれない人間は、精神的に支障をきたす。
 言ってしまえば、そういう人間がメンヘラと呼ばれる者たちになる。
 物事を斜に構えて見ているクセに、実際に自分のこととなると完全に主観的なことしか考え
 られない。まるで死を理解できない動物だ。
 だから――そうならないために、人は感情を勘違いする。
 私の考えはこれだった。
 なんということだ。自分が否定した、人のカタチを。まさに自分が、今ここで陥っている
 じゃないか。
 ロマンチズムに満ちた自分が、可愛いと思ってしまっている。

 鏡を見ると、私は可愛くなんてない。

 可愛いというのは、澪のことだ。

 私なんて、腰巾着に過ぎないのだ。


「りつー! ごはんー!」

「いらなーい!」

 ベットで横になっていると、考えることは一つだけ。
 福山のことを考えていると本当に胸が痛い。
 食欲なんて、どこかにいってしまった。
 暗い自室で天井を見て考える。
 私には、運動ができることしかない。
 性格がいい、と特にいう程ではない。
 美人か、というとそうではない。
 頭がいいか、といわれると否と答えるだろう。
 趣味もない。
 そんなつまらない女を、彼は好いてくれるだろうか。

「なってくれるわけ、ないよな……」

 と。
 ドアをノックする音がする。

「姉ちゃん。入っていい?」


 聡の声だ。
 いいよ、と答えるとドアが開き弟が入ってくる。
 小脇に抱えているのはPS2だ。

「テレビ、姉ちゃんの部屋の方が大きいからさ。スト2やらない?」

「飯はどうしたんだ?」

「あとで食べるよ。
 姉ちゃんと、さ」

 ……思わず、口がほころんだ。
 コントローラーを手にとって、下らないことを忘れて遊んだ。


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最終更新:2010年03月08日 03:28