部屋は 暗い

 家は 暗い

 心は 暗い

 総てが 暗い

 なにも頼れない

 頼るコトなんてできはしない

 私は 独りだ

 泣いても

 笑っても

 怒っても

 どうあっても――

 誰かが 私を 助けてくれるまで

 暗い部屋で 私は独り 泣いていた


 外は風が吹いている。
 窓から見えた木の葉は頼りなく、ふわりと揺れている。
 茶色の木の葉は、おそらく明日には木から離れてしまうのだろう。

「ムギちゃんのお茶、美味しいね~」

「ですね。シュークリームも美味しいですしね」

「カスタードうめえ!」

「たくさん食べてね」


 ……ここは音楽準備室で、私たちは軽音部だ。
 それを知らない人が見たら、ここはどう映るのだろうか。
 きっと、喫茶部とでも言われてしまうのだろう。
 練習なんて、ここ三日行っていない。
 というのも、最近は軽音部のメンバーが昔話をすることが定例的になっているからだ。おと
 といは紬が話し、昨日は律が話した。
 二人とも、辛い過去があったのだ。
 そして、楽しい意味がある。

「だからさ、私の話も聞いてくれないかな?」

 私にも話すことが、あるのだから。


「澪ちゃん、どうしたの?」

「……私も、昔の話をしようかなって」

 カップをソーサーに置き、溜息をつくように答える。
 唯は可愛らしい目を伏せて、いいの? と問う。
 いいさ、と簡単に答える。

「澪、本当に――」

「いいんだよ。ムギもお前も話してくれたんだから、私もみんなに話したい」

 私の昔話。
 今はもう、過去のものとなった自分のこと。
 大切な人が側にいなくては、どうにもならなかった。あの時の話を。
 目を瞑って、言葉を紡ぐ。

「――私が、馬鹿な子供だったころの話だよ」

 外からの風切り音だけが、私の耳に聞こえた。

「みおちゃん! おままごとしよう!」

「うん!」

 幼いころの私、秋山澪は社交的だった。
 男の子でも女の子でも、一緒に遊んでくれる人ならば怖くもなかった。
 だって、私に好意を持ってくれているのだもの。それを邪険にする理由なんてない筈だ。
 というより。
 幼稚園児にとって、世界というモノは悉くが『自らを愛してくれている』と考えている。私
 もそう考えていたし、きっと周りの子供たちも考えていた筈だ。
 母も父も、祖父も祖母も、なにもかもが自分を愛して尊んでくれるものだと考えているのだ
 から、自分から世界を遠ざけるコトなんてしない。する必要がないからだ。
 故に私は、外部の人間と触れることが楽しかった。

「みおちゃんって可愛いよね~」

「ありがと! ママも私の髪、きれいって言ってくれるの!」

 にこり、と笑って話をする。
 ほめてくれるのは、本当に気持ちがいい。

 ――褒めてくれるのは、ホントに――気分がいい。


 私の黒髪は、母譲りのモノだ。
 シルクのようにきめの細かい髪質。
 まるで暗黒のような、黒く、美しい色。

 私にとって、この髪は宝物だった。
 母も、私の髪を大切にしてくれていて、毎日櫛を通してくれた。
 その時間は、私が世界で一番気持ちがいいと思う瞬間だ。

「みおちゃんはお母さん役ね」

「いいよ!」

 母のような人間になりたい。
 そう思っている私は、ままごとでも母役を志願していた。
 母のように、料理が上手になりたい。
 母のように、優しくありたい。
 そう思ったからだろう。 


 夕日が落ちてくると、母が迎えに来てくれる。
 みお、と私の名前を呼んで母が手を振る。
 私もそれに倣って手を振って母の元へと走る。

「ママー!」

「あらあら、澪は甘えん坊ね」

 それでも、母は私を抱いて帰り道を歩く。
 母の匂いは、本当にいい匂いでいつまでも嗅いでいたいと思った。
 幼心に、私は母がどれだけ強い人かを知っていたからだ。

 家に帰れば、ほんの少しの我慢が必要になる。
 外では社交的でも、家では静かにならざるを得ない。
 母も家に近づくにつれて、表情が暗くなる。

「ママ?」

「――!
 澪ちゃん、今日はカレーだからね」

 私に暗い顔を見せないようにとする母の顔。
 それを見るのが、なによりも辛かった。
 だって――きっと私もそんな顔をしていると思うから。

 玄関のドアを開けると、ひんやりとした空気を感じる。
 自分の家だというのに、どうしてもこの厭な感じが抜けない。

 靴を脱ぐ。
 きっちりと、揃えて。
 そうしないと――

 手を洗って、うがいをする。
 大きな音なんて立てられない。
 そうしないと――

 幼稚園の制服を脱いで、普段着に着替える。
 もたもたなんてしていられない。
 そうしないと――

 夕食ができるまで、本を読んで過ごす。
 テレビなんてつけられない。
 そうしないと――

「……あの人に、叩かれる――」

 母も、それに怯えて静かにしていた。
 目を伏せて、私に笑いかけてもくれない。
 それがこの家のルールだった。


「澪ー、ご飯できたわよー」

 小さな声で母が私に教えてくれる。
 鼻腔を擽る香りは、確かにカレーのモノだ。
 そのうえ、母が庭で作ったトマトを使ったサラダもある。
 私は、母が作った野菜が大好きだ。
 思わず――声が漏れた。
 歓喜の声。
 5歳の子供が、好物を見たときにあげる。当たり前の声。

 それが、この家ではタブーだ。

 どうしてか――。

「おい、うるせえぞ!」

 二階にいる――あの人の癇に障る行為だからだ。

「……澪、ごめんね。
 パパには、あとで言っておくからね」

 そうだ。
 今の怒鳴り声は、私の実の父の声なのだ。

 こどもにとって、父という存在はどういったものなのだろうか。

 大好きなサラダを食べながら、そんなことを考える。

 私にとって、父とは嫌悪と恐怖の対象でしかない。
 物心ついてから、一度として頭をなでられたことがないからだ。
 あるのは、ひたすらの怒号と暴力じみた行為だけ。
 ときには物を使って叩かれたこともあった。
 泣けば、それはエスカレートする。
 彼にとって、子供というのは動物でしかないのだ。
 殺したら、自分の立場が危うくなってしまう。だから、生かしておく。そこに愛情なんてな
 にもない。
 自分の都合と、自らの業を、私という弱い存在に八つ当たりしているだけだ。

「美味しい?」

「……うん」

 涙が、目に溜まる。
 どうして母は、私に笑いかけてくれるのだろうか。
 私が邪魔ならば、父同様態度に示してくれればいいのに。

 愛してくれるから。
 私も――愛してしまうではないか。


「……そろそろパパにご飯、持っていかなくちゃね」

 母が席を立ち、父の分のカレーをよそる。
 毎日繰り返されてきた、この動作。
 母にとって、父とはどんな存在なのだろう。
 絶対に、幸せではない筈だ。
 父が、母に対して暴力をふるったことは、私だってよく知っている。母が、それでも笑って
 いるから父は矛先を私に向けたのだから。

 階段を上がる音だけが聞こえる。

 静寂が、こんなにも怖い。
 幼稚園の喧騒が、夜になれば懐かしく感じる。
 スプーンを持つ手が震える。
 涙で、視界が歪む。

 バシン、という音が家に響く。

 次いで、なにかが割れた音がする。

 ――ああ。
 どうして、私の家族はこんなにもおかしいのだろうか。

「やだ……やだよ……。こんなの……」


 ――私は、父が何をしているのかを知らない。
 どうして部屋に籠っているのか。
 どうして私たちを殴るのか。
 わからないのだ。
 知らないのだ。
 理由なき暴力を、受け止めなければならない。
 そんなのは、どう考えてもおかしい。

「ママ……」

「どうしたの? おかわり?」

 いつもと変わらぬ笑顔を、母は浮かべている。

 それで――私が安心するとでも思っているのだろうか。
 むしろ逆だ。
 不安になってくる。
 人間味がないから。
 母は、はたして感情を持った人間なのかという思いが積み重なる。

 ――私の家族は、皆が壊れている。

 私の母は、『いつだって』笑っていて。

 私の父は、『いつだって』怒っていて。

 私は――『家では』いつだって怯えていた。

 そうして、私は人が恐ろしくなっていった。

 心が成長していくにつれて、人は『相手の顔色を見ること』を覚える。
 自分勝手な考えと振る舞いを、皆が続けていけば社会は成り立たない。自分自身が妥協をす
 ることで、物事が上手くいくことが殆どだからだ。

 本来ならば、それを知るのは小学校に入ってからだ。
 接していく社会が狭い場では、顔色を窺わずに、素の自分でいることができる。
 しかし、それが広がっていけばそうはいかない。故に、対応していくのだ。
 ……それが早いか遅いかは、それぞれの家庭によるものが大きいだろう。
 私は、どちらかといえば早かった。
 勝手な振る舞いをすれば、痛い思いをする。

 ――そんな、動物じみた考えを刷り込まれた私が社交性を失っていくのは当たり前ともいえ
 た。

「みおちゃん! ドッヂボールしようよ!」

「……私は、いいよ」

「みおちゃん! 砂場で遊ぼう!」

「……ごめんね」

 こうして私は人を遠ざけていった。

 心が成長すればするほど、私は独りでいるようになったのだ。


 家でも、幼稚園でも、私は独りで遊んでいる。

「……」

 口数も少なくなっていった。
 時折、幼稚園の先生が心配して声をかけてくれる。
 大丈夫?
 その言葉が、恐ろしい。

 聞かないで。
 私は――大丈夫じゃない。

 でも……。それを言ったらもっと怖い目にあう。
 だから――私は大丈夫だと答えるしかないのだ。

 他人の顔色ではなく、私は自分の顔色を窺うようになった。

 自分がどうしたいのか。

 それは――私が行ってもいい事柄なのか。

 小学校に上がるまでに、私の性格と人格はほぼ完全に構成されていた。

 人を恐れて。
 人を遠ざけて。
 人を――憎んだ。

 母は、それでも笑っていた。

 新しい、ピカピカのランドセル。
 可愛い赤色のランドセル。
 それを見て、私は空想した。

 父が笑って私の頭を撫でてくれる。
 母もホントの笑顔を浮かべてくれる。
 私も希望を持って学校へと向かう。

 そんな、叶わない幻想じみた空想を浮かべた。
 笑ってしまう。
 叶わない夢なんて、現実とならない思いなんてないのと、同じだ。
 赤いランドセルを抱えて思う。

「私にも、友達、できるのかな」

 私の本心をぶつけられる。

 そんな友達――親友が、私にもできるのだろうか。

 小学校の入学式前日、私はそんなことを思いながら眠りについた。

 ひらり、と桜の花びらが髪につく。
 上を見ると、桜の花が満開になっていた。

「ずいぶん長い桜の花ね。
 もう、4月にはほとんど散ってしまうだろうに」

 母もそれを見て和んだ顔になった。
 少しだけ、本当の表情だ。
 私の顔も綻ぶ。
 クラスの表を見ると、1年3組に名前が書いてあった。
 母の手を取って、その教室へと向かう。

 ――足が、震えた。

 たくさんの子供、大人。
 つまるところ、人、ひと、ヒト、他人――。

 顔が蒼くなり、それでも母に悟られず席に座った。
 出席番号1番、秋山澪。
 そう机にシールが貼ってあった席に俯きながらもだ。


 教室の端で、大きな声を出している子がいる。
 茶色がかった、短い髪をカチューシャで上げている女の子。見ようによっては男の子にも見
 えるその子は、私を見るや否や走ってこう言った。

「――綺麗な髪だねー!!」

 長らく褒められなかった、私という存在。

 自慢だった筈なのに――私は赤くなった。
 母と同じ、漆黒の髪は誇りだった筈なのに、恥ずかしかった。
 周りの人たちは、私のことを見る。
 たまらず、小さな手で髪を隠そうとした。
 涙目になって、どうにもならなくなる。

 その子の名札には『田井中律』と書いてある。

 彼女は――こんなにも情けない私にも、屈託のない笑顔を向けてくれた。

 外では桜が舞っている。
 私と律が、初めて会ったのはそんな日だった。


 私と律が仲良くなるのに、時間はいらなかった。

 律はいつだって全力な女の子だった。
 勉強も、運動も、なにもかも。
 本気でやりとおす。そんな人間だったのだ。
 故に、彼女には嘘がなかった。

 取り繕う体裁も、誤魔化すための嘘も。
 なにもかもなかった。
 ならば、私は律に付いていく以外にない。
 怖くない人間。
 叩かない人間。
 愛してくれる人間。
 そんな人が、本当を見せてくれる人が欲しかったのだ。

「りっちゃん。私ね、絵を描いたの」

「マジで! 見せてよ、見せてよ!」

「恥ずかしいけど、りっちゃんならいいよ。はい」

「うめえええええ!!!!!!! 澪ちゃんはすごいんだな!!!!」

 暑苦しいくらい、彼女は私に接してくれた。

 ――くれた?
 否、それは違う。
 彼女にとって、それが普通なのだ。
 ひまわりのような笑顔を見ると、家のことを忘れていられた。


 それでも、変わらない。

 どんなに律と仲良くしても。
 どんなに笑顔で和んでも。
 どんなに忘れられても。

 結局は変わらない。
 家に帰れば、昔に比べて痩せた母と不当な暴力をふるう父がいる。
 そこに本当のものなんてない。
 母の笑顔も、見れば見る程能面じみていて吐き気がする。
 父の声も、聞けば聞くほど自分勝手で嫌気がさす。
 ひどい目にあってるクセに。
 ひどいことをしてるクセに。
 どちらも、ホントじゃない。

「澪ォ! こっち来い!」

 ――7歳になってから、私は父の部屋に呼ばれるようになった。


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最終更新:2010年03月08日 04:10