父の部屋は、真っ暗だった。
 パソコンのモニターだけが白く光り、それ以外は総てが暗かった。
 空の本棚と、ぐしゃぐしゃになったベッド。そこに人間らしさなんてかけらもない。自分を
 憎むのに、飽きて世間を恨んだ。そんな人間の住みかだった。
 足元には破れた本が二冊。
 換気もしていないため、むわり、という厭な空気が身体を撫でる。

「澪――」

 父の声。
 身体中、鳥肌が立つ。
 男の人の、太くて低い声――。

「は……はい」

 震えた声で返事をする。
 恐怖が支配した身体は、もはやまともには動いてくれなかった。
 父のビンタが頬を叩く。
 口が少し切れる。
 鉄の、味。

「なんとか言えよ!」

 なにも言えない。
 なにもできない。
 涙も出ない。
 ひたすらに――早く終わらないかな、と考えた。

 ――お風呂に入ったとき、少しだけ『身体』が痛かった。


 ――私は自分に自信が持てなかった。

 当然だ。
 そんなモノを持っても、意味なんてないのだから。
 褒められもしない。
 とにかく、貶されて踏みつぶされるだけ。
 そこに得なんて在り得ない。

「澪ちゃんはすごいんだから、もっと自信持とうよ!」

 律が私に言った言葉の意味がわからなかった。
 すごい? そんなわけがない。
 私はいつだってワーストな人間だ。先刻の体育だって、私は最下位だったじゃないか。
 身体の痣が見えないように体操着を脱いで、洋服を着る。
 律の綺麗な体を見ると、少しだけ羨ましく思える。

「おうおう秋山ァ! おまえさっきのかけっこ、ビリだったなあ!」

 そんな時だった。
 クラスでも一番体の大きい、井上が私に絡んでくる。
 珍しいことではないが、今は着替え中なのだから遠慮してもらいたい。
 ……とにかく目を合わせないように努める。

 ――黙っていれば、痛い思いはしなくて済むから。


「なんとか言えよう!」

 服の裾が引っ張られる。
 それでもいい。ただ、母が買ってくれた服が伸びるのが少しだけ嫌だった。
 ――だから、ほんの少しだけ抵抗をしてみた。
 手を離すように、井上の手をつねってみた。
 ……それでも力は治まらない。むしろ強くなって、私の体は床を滑って、転んだ。
 周りの人間が私を見る。

 ――ヤメテ。
 ワタシヲミナイデ。

 惨めな私を、そんなふうに見ないで。
 井上がにやにやとした表情で私に対して手を挙げた。
 その時――

「――やめてよ!」

 大きな音がして、井上は机に叩きだされた。
 顔をあげると――そこには涙目で立っている、律の姿があった。


「お前たちなんか! 澪ちゃんのこと、なにも知らないくせに!」

 律が叫ぶ。
 私のコトで、律はこんなにも怒ってくれている。
 涙目になって――否、涙が大きな瞳からポロポロと零れ落ちている。
 律が、泣いていた。
 こんな私のために。

「澪ちゃんは――澪ちゃんは――」

 ……私の目にも、涙がこぼれた。
 律の声も聞こえない。
 とにかく、私の黒い瞳からも涙がこぼれて、どうしようもなくなっている。
 父にひどいことをされても。
 周りが私を見放しても――この人は私の傍にいてくれる。

「私は――澪ちゃんが好きだ――!!」

 私もだ。
 声には出せないけれど、私も律が大好きだ。
 この世界中のだれよりも――律が大好きだ。
 本当に、律が大好きだ。

 気がつけば、私は律にしがみついて、大きな声をあげて泣いていた。

「りっちゃん……大丈夫?」

「こんなの平気だって! コバライネンコバライネン!
 それに、私は澪ちゃんが痛い思いするよりも、ずっとずっといいよ」

「そんなことない。りっちゃんが痛い思いするほうが嫌だ」

「そうなのか? ヘヘ、ありがとな。澪ちゃん。
 ――だから、ほら。泣きやんでよ」 

 ひんやりとした手が頬に触れる。
 律の顔は、柔らかい笑顔だ。
 おでこと頬、鼻に絆創膏が貼られたその顔は、女の子の状態ではないけれど、私を守って
 くれた証としてそれはあるのだ。ならば、私がなにかというのは間違っている。
 ……火照った頬が冷やされる。
 気持ちがいい。
 優しい冷たさだ。

「あ、そうだ! 澪ちゃん。今からうちに来ない? 今日は聡の誕生日なんだ!」

 赤いランドセルが大きく跳ねる。

 赤い夕陽に照らされた律は――まるで私の理想とする、幸せな小学生の姿だった。


「ただいまー!」

「おじゃまします……」

 律の家に来るのは、初めてではない。
 今までだって、何度もお邪魔しているのだが、どうしても慣れない。というのは、この家
 が、あまりにも普通で、あまりにも幸せだったからだ。
 律が靴を脱ぎ散らかす。
 無論、我が家では考えられない行為である。見つかったら、なにをされるかわからない。
 律の母親が笑顔で迎えてくれる。
 これもありえない。私は、家に友達を連れてくることができないからだ。

「あれ? いい匂い……」

 ふんわりとした、いい匂いがする。
 これは――ケーキを作っている匂いだ。今まで、私は家族そろってケーキを食べたコトなん
 て、一度としてない。母と幼稚園の行事でケーキを作ったこと以外に、ケーキについての思
 い出がないのだ。


 律が目を輝かせる。
 彼女は行事というか、イベントが大好きなタイプの人間だ。誕生パーティーと聞いて、ケー
 キを作っているとわかって黙っていない筈がない。

「ケーキ、私も手伝っていい?」

「ええ。いいわよ、澪ちゃんもやる?」

 身体が固まってしまう。
 顔が熱くなって、のどが震える。
 律以外の人と話すときはいつもこうだ。
 それでも、女性と話すときは声くらいはでる。
 ただ、男の人とは話せない。どうしても、父を思い出してしまうからだ。

 ――それだけ、私は人間が嫌いになっていたのだろう。

「……えと。やってみたい……」

 それを聞いて、律は走りだす。
 棚から取り出したのは二つのエプロン。

 ひまわりの絵が刺繍してあるオレンジ色のエプロンと――

 ハートが刺繍してある、ピンク色のエプロンだ。

「どっちがいい?」

 律の問いに、なにも言わずにピンクのエプロンを指さす。
 彼女は満面の笑みで、私にピンクのエプロンを渡す。 

 オレンジのエプロンは、律によく似合ってると思ったから。

「澪ちゃん可愛い!」

 エプロンを着た私を見て、律が言ってくれる。
 そんなことはない、と答えるのだが律も引いてはくれない。
 彼女は嘘は言わない。
 だから。
 私は、本当に可愛いのかもしれない。
 ただ、それは彼女が私を知らないからだ。
 律の言葉は嘘ではない。
 ただ、知らないだけ。
 知らないことに、罪はないと思う。

「それじゃあ聡のためにケーキ作ろう! 澪ちゃんも食べるんだよ!」

 甘いケーキを想像する。
 すると、少しだけ元気が出た。
 律の張り切った顔を見ると、私も頑張らなくてはと思った。

「う、うん! がんばるね! りっちゃん!」


「できたー!」

 途中、律がイチゴをまるまる1パックつまみ食いしたり、律が玉子を割りまくったり、律が
 スポンジだけをかじってしまったりと色々あったが、とにかくイチゴたっぷりのケーキは完
 成に至った。 
 白い、まるで雪のようなクリームが私の食欲を駆り立てた。
 ……それと同時に達成感。
 誰かと一緒になにかをすることが、こんなにも楽しいコトだなんて思いもしなかった。
 自己主張のできない私は、協力できない。コミュニケーションがとれないのだから、息を
 あわせたり、そういったことができないのだ。
 だから、私はいつも弾きだされていた。
 男の子に言い返せない私は、言われるままに独りでいたのだ。

「美味しそうだね!」

 でも、律は違う。 
 言葉なくとも、伝わるものがあった。
 呼吸を合わせることに、まったく困難なコトがなかったのである。

「それじゃあパパが帰ってくるまで二人で遊んでなさい。
 聡が寝てるから、起しちゃだめよ」

 二人揃って返事をする。 
 2階の律の部屋に上がって、いつものようにゲームを始めた。

 ……ほどなくして、律の父親が帰宅した。
 聡の誕生日パーティーの始まりである。


 4人掛けのテーブルに、所狭しとご馳走が並べられている。

 フライドチキンにステーキ、ちらし寿司など、私が食べた事のないようなご馳走が並んで
 いた。
 もちろんその中に、私たちが作ったケーキもある。
 律は早々と自分の席に座って皿と箸を配る。私専用の箸があることが、なんとなくうれし
 い。

「澪ちゃんも座って、たくさん食べなさい」

 なにをしていいかわからず、おどおどとしている私に、律の父が声をかけてくる。
 びくり、と身体が反応した。
 この人は、怖くない。
 頭では分かっている。
 でも――体はそれを理解していない。
 男の人が、恐ろしい。
 そう刻み込まれた体は、たとえどんな相手にも拒否反応を起こすようになっていた。

 当たり前の家庭。
 当たり前の食事。
 当たり前の幸せ。

 それを――私は羨ましいと思っていた。

 それを――楽しめない体だと分かっていても、だ。

 家に帰ると――いつもと変わらない日々が続く。

「澪……。今日は――」

 へばり付いたような笑顔で私を迎える母も嫌だ。
 殴られて、蹴られて、酷いことをされていても笑っているのだ。
 同じ、笑顔で。
 変わらぬ、笑顔で。
 幼い私でも、それは気持ちの悪いものとして映るのに――

 どうして、母はやめてくれないのだろう。


 ――それから5年ほど経ったある日のことだ。

「……うう、痛いよぅ」

 朝から、下腹部にじんじんとした痛みがある。
 トイレに行くと、陰部から血が滴っていた。
 病気になったのかと思って、律に泣き付いた。
 律は笑って『先生に相談しような』と言ってくれた。
 ……私の体は、女性になっていったのだ。
 保険の先生から、ナプキンの使い方や痛みの和らげ方を教えてもらった時も、律は私の
 手を握っていてくれた。
 手を握り返すと、律は笑って――

「大丈夫だよ、澪」

 そう言ってくれた。
 自分の身体が恐くて、震えていた私を離さずに――しっかりと――


「ありがと、律」

「いいって、それより澪のほうが先に生理が来たのがびっくりだ。背だってでかくなってるしな」

「――ホントだ」

 いつも見上げてた。
 律のほうが大きくて、律のほうがすごくって。
 私なんかじゃあ、一生律に追いつけないって思ってたのに。

「とにかく、今日は家に帰ってゆっくりしろよな」

「う、うん」

 どんなときも、私は律に悟られまいとしてきた。
 だけど、今の私は――ほろりと言ってしまいそうだ。
 これが……女の弱さなのだろうか。

 ――母はいつもと変わらぬ笑顔で、私に赤飯を食べさせた。


 ――季節は、冬になっていた。
 小学校で過ごす、最後の冬であるがいつもと変わらない。
 雪が降って、それで遊んで、楽しんで。
 そんな冬の筈だ。
 ただ、カレンダーを見るとそんな気持ちは吹き飛んだ。

「もうすぐ、バレンタインだ……」

 2月14日。
 日本の求愛文化が生み出したイベント。それがバレンタインのチョコだ。
 今まで、私は誰かにチョコをあげたコトなんてない。普通の女の子ならば、父親にチョコを
 送ったりもするのであろうが、私はそんなことは一度もできなかった。
 男性が怖いモノと認識している私は、恋なんてしたことがなかった。故に、私はバレンタイ
 ンデーを特別な気持ちで過ごしたことなんてありはしない。

 だが、私の前で居眠りをしている彼女、田井中律を見ると胸がドキドキする。

 女の子同士なのに、この気持ちはなんなのだろう。

 抑え込めると、さらに大きくなる。この悶々とした気持ちは一体――


「律は、バレンタインチョコ作ったりするの?」

「……ふぇ? ああ、しないよ……めんどくさいし、あげるやついないしさ」

 当然だ。 
 律は、昔からあげる側ではないからだ。
 その卓越した身体能力と男まさりの性格は、女の子から絶大な支持を得ている。今だって、
 律の寝起き顔をチェックした女の子は多い筈だ。
 つまるところ、律はもらう側なのである。
 去年は下駄箱、および机の引出しから溢れる程にプレゼントがあったくらいだ。嫌がらせの
 レベルだというのは律の言葉。

 ……そうだ。
 彼女にとっては、嫌がらせに思えるかもしれないけど――
 私は、律に気持ちを伝えたい。


 家に帰ってくると、すぐに取りかかった。

 なにも考えていない。
 私が、ここまでなにも考えずに行動したのは初めてだ。
 がらり、と音を立ててボールを用意する。
 湯を沸かし、可愛い型を探す。

「やっぱり、ハートがいいなぁ」

 私はハートだとか、そういったファンシーなものが好きになっていた。
 おそらく、現実が辛いから。そういったもので自らを慰めようとしていたのだろう。自由帳
 には、創作した物語が絵付きで書いてある。それくらいに、私の心は癒しを求めていたの
 だ。可愛い型を見つけて、上機嫌にチョコを溶かし出す。
 鼻歌交じりに、チョコをかき混ぜていると――音がした。

「……ママ」

「な、なにしてるの?」


 笑顔を浮かべて私に問う。
 父を恐れているのか、冷や汗を浮かべている。
 それでも笑顔なのだから、母の表情はいよいよ死んだというべきか。

「チョコ。バレンタインまでもうすぐだから。
 ……私も、チョコあげてみたい人がいるの」

「……そう」

 買い物袋をゆっくりと降ろして、母は私を見た。

 ――否、私ではない。

 私よりも向こう側にいる――男のことを見ていた。

「おい……」

 静かに、父は私に声をかけた。
 身体は動かない。
 焦げたチョコレートの独特の臭いが部屋に充満する。
 火を消すこともできない。
 愚かだった。
 こんなにも、自分が愚かしいと思わなかった。
 この私が、世間一般の女の子と同じことができると思った。その思考が、あまりにも愚かし
 い。この人がいる限り、私は――この家では娘ではないのだ。

「――」

 母は黙っている。
 黙って、俯いて、被害が及ばないように縮こまっている。

「ご、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい!」

 とにかく――謝った。
 謝っても、なにをしてもこの人は私を殴るだろう。
 でも……私の身体は反射的に謝罪の言葉をひねり出した。
 小さな頃から、殴られるときはいつもこうだ。
 止まないコトも分かっているのに、
 絶対に、この人は許してくれないのに、
 それなのに、
 私は、ひたすらに謝っていた。

 母の目の前で、私は暴行されたのだ。


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最終更新:2010年03月08日 04:14