それでも――母は嗤っていた。


「痛いよ……痛いよ……」

 父も、学習している。
 否、予見している。
 今のまま殴っているのでは、私の体にある刻印でバレてしまうことを。
 故に、あの人は私に傷跡を残さないように殴っていた。
 道具を使わず、拳で、脚で――。

「汚いよぉ。汚いよぉ……」

 お風呂でしか、泣けない。
 ここなら、誰もいない。
 ただ――大きな声では泣けない。
 この件に関して、私が頼れる人なんて――誰一人としていなかったのだ。

「りっちゃん……りっちゃん……ごめんね……」

 あわよくば、このお湯に混じった涙を――誰かが知ってくれればいい。

 そんな無駄なコトを考えながら、静かに私は泣いた。


 ――中学校にあがって、律はさらにかっこよくなった気がする。

「すごいよ田井中さん! 50メートル6秒ジャスト!」

「秋山さんは9秒4だよ」

 クラスの中でも断トツの身体能力。
 運動部の男子にもひけをとらないそれは、私にとって羨望の的だった。
 というより。

「やったぜ! お前の親友こと田井中律は全国トップの成績だぜ!」

 彼女の。
 田井中律の親友でいられることが、なによりも誇らしかった。
 本人には言えないけれど――周りの妬ましいとも言える視線が、私にとっては気持ちがい
 い。世界中のみんなに言ってやりたかった。


 ――私は、田井中律の親友なんだぞ、って。

 中学2年になったころだった。

 律の目が、私よりもある人の方に向いていることに気がついたのは。
 誰に向いているのか。それもなんとなくはわかる。律は単純だから、自分では気がついて
 いないと思っているのだろうけれど、案外ばればれだ。
 同じクラスの人間だ。
 それは、間違いない。
 律の視線は、彼の方向へと向いている。
 ……ああ。なるほど。いい物件だ。

「福山! 今日こそお前に勝つ!」

「いいだろう! この俺には決して勝てんことを思い知らせてくれる!」

 福山直樹。
 生徒会長で、陸上部のエースで、なおかつ顔もいい。おまけに性格までいいとくれば、
 おそらくは女子からの人気も爆発的だろう。
 私には恐怖の対象でしかないのだが、律にとって、彼は唯一といってもいい存在だ。

 なんせ、彼だけが律を負かすことができるのだから。

 福山直樹――彼だけが、田井中律を女性だと分からせる、唯一の男なのだから――


 少しだけ、ショックだった。
 確信は持てないけれど、律はきっと福山が好きだ。
 律以外に、好きな人がいなかった私だけれど、律のことはなんでもわかるつもりだ。
 家に帰って、ベットに横になるとそのことが頭に浮かんだ。
 目が痛い。
 これは――どうしてだろ。

「律……もしかして私を独りにしないよね」

 叩きだされる。
 温かい世界から。
 放りこまれる。
 冷たい世界へ。

 そうなったら、きっと私は壊れてしまう。
 律の存在が、私を人間たらしめているのだから。

 携帯に着信。

『澪! 明日チョコ作るぞ! うちで!』

 ブツリ、切れた。

 目をつぶって、深呼吸をする。

 だったら――私にだってチャンスをくれたっていいじゃないか。

 次の日になって、律は異常なまでに張り切っていた。
 彼女がチョコレートを作った話は聞いたことがない。つまりは未経験なのだ。
 それなのに、彼女はチョコレートをいきなりフライパンにかけるなど、無謀な調理法で開始
 5分で躓いた。

「律。やっぱりというかもしかして、チョコ作ったことないのか?」

「あるわけねえだろ! チョコなんざ貰うもんでい!」

「だよな。律、かっこいいもん」

「そ、そんなわけあるかあ!」

 律の顔が赤くなる。
 いつもは豪快なくせに、こうやって褒めたりするとすぐに恥ずかしがる。
 そういうところを知ってるのは、私だけだ。
 私だけなんだ。

「聡はどうしたんだ?」

「まだ寝てる。腹空かして降りてくるだろうからさ。チャーハンでも作ってるよ」

「りっちゃーはん。美味しいものな」

 私たちのチョコレート作りは、そんな感じでまったりと進んだ。
 律は、私が誰に渡すかを聞かなかったし、私も作っている最中は訊かなかった。


 次の日も、私は律の家で思いっきり遊んだ。

 たくさん笑って、
 たくさんはしゃいで、
 たくさん愛して、

 だって、これで終わりかもしれないから。
 律にフラれたら、もう私は独りだろうから。
 人としての尊厳。
 人間らしさ。
 その最後の花火のように、私は遊んだ。

 ――それでも、楽しい時間は早く過ぎ去る。
 夕日が差し込む玄関で、私は律を空地に呼び出した。

「りっちゃんは――誰にチョコ、あげるの?」

「――生徒会長の、福山にあげるんだ」

 ――ああ。やっぱり。

「大丈夫だよ。私のりっちゃんだもん。きっと、大丈夫」

 泣きそうな心を抑えて、笑った。
 これじゃあ、母と変わらないな。感情を抑えるのは得意だけど、律の前では使いたくなかっ
 たな。

 そんなことを思いながら、帰り道、作ったチョコを叩き割って、コンビニのゴミ箱に捨て
 た。


 朝、目が覚める。
 幾度も繰り返した行為だが、今日はどうにも馬鹿らしい。
 もう2度と起きたくない、そう思って眠りについたのにいつもの時間に起床している。

「――ああ」

 失恋した。
 律は、男の子が好きなんだ。
 私が異常なんだ。
 同性愛。それがマトモではないコトは、私だってよく知っている。
 ただ――律はカッコいいし、可愛いんのだもの。どうしても、魅かれてしまう。

 パジャマを脱いで、普段着を着ようか制服を着ようかで硬直した。
 溜息を一つついて、いつも通り制服に袖を通す。意気込みだけの自分に嫌気がさす。
 カーテンを開けると、そこにはいつもと変わらない情景があった。
 ……なんだ。私がどんなに辛くっても、世界は変わらないじゃないか。
 そんなことを思った。

 だから――変わらないのなら。

「律のこと、助けてやらなくちゃな」

 今頃、シャワー浴びて化粧水つけたりと慣れないコトをしているだろう。
 そんな不器用な『親友』を助けてやるべく、私は自宅から飛び出した。


 田井中家を見ると、少し胸が痛んだ。

 きっと律は――
 今頃律は――
 これから律は――

 そんなことを考えてしまう。
 恋の相手を、馬鹿みたいに想っている。
 かぶりを振って、いつもの私に戻る。
 律が出てきたらなんて言ってやろうか。
 気の利いた事を言ってやろう。でも、今から考えるなんてできない。
 ――なら、いつもの私でいい。
 ヘンに気を使うなんて、私たちらしくない。

 扉が静かに開く。律の緊張が伝わる。

 ――律の驚いた顔。私が家まで迎えに来たことなんて一度もないからだ。

「よう律。ちゃんとチョコは持ってきたんだろうな?」

 気取った台詞なんて必要ない。
 それだけで、私の親友は笑ってくれる。
 初めて会ったころとなにも変わらない。屈託ない笑顔で――

 話しはそれるが、どうやら私はモテるらしい。
 先日も下駄箱に手紙が入っていて、待ち合わせ場所に行くと男子生徒が待っていたりしてい
 た。そうなれば、することはひとつだ。

「付き合ってくれ!」

 ……でも。
 そんなことを言われても私は頭が空っぽだ。
 周りを気にして、常に助けを探している状態の私にはなにも聞こえない。
 男性恐怖症である私に対して、こんなことは逆効果でしかない。
 怖くて仕方がない。
 それでも――足は動いてくれた。
 男子生徒は、私の眼を見つめている。きっと、答えが聞きたいのであろう。

「うわあああああああああああああああ!!!!!!!!!!」

 そんなの関係ない。
 怖いものからは逃げるのが一番だ。

 こんなことが、今年に入って9度。
 最近では手紙を見ただけで怖いので逃げている。
 このことを律に話すと、律は笑って――

「もてるねえ。いらねえけど分けてもらいたいよー」

 と、嫉妬もジェラシーもない雰囲気で言い放ったのである。

 要するに、自分で言うのもなんだけれど、この学校で私のチョコを欲しがる人は相当数い
 る。ということである。


 くだらないことを考えていると、律は震えた手で福山にチョコを渡している場面だった。
 しまった。決定的瞬間を見逃してしまった。
 律には来るな、と言われているが来ないわけにはいかない。

「――」

「――」

 距離が離れているため、声は聞こえない。
 ただ、律の肩がふるえているのが見えた。
 ……ああ。そうか。
 ここからは、見てはならないだろう。
 律の家で、待っていよう。


 きっと、泣いて帰ってくるだろうか。
 私が支えてあげないと、ダメな子だから。

「私も、支えてほしいな……」

 そんな願望は後回し。
 急いで帰って、律が好きなものでも作ってあげよう。

 彼女は、やはり泣いていた。

 なにも考えずに抱きしめた。

 だって、泣いているんだから。 

 律は私の胸で、ずっと泣いていた。

 私も、律をずっと抱きしめていた。

 声をかける。

「りっちゃん。私がいるよ……」

 卑怯な女だ。

 弱っているところにつけこんで――

「澪……澪……」

 いつも強くて、私を守ってくれていたヒーロー。

 それがりっちゃん。

 いつも無理して、無茶して、私を守ってくれた。

 だから――今度は私が包んであげないと、さ。


 律といる間、私が家から持ってきたDVDを見ていた。

「こういうときは音楽でも聞いて、見て、紛らわそうな」

 いつもなら、少し離れて見ていた。
 いつもなら、スナック菓子を食べて、コーラを飲んで。話しながらDVDを見ていた。
 でも。 
 今はいつもではない。
 私は律をしっかり抱いて、律の小さな身体を温めていた。
 上映しているのは『QUEEN』のエイズ撲滅キャンペーンのライブだ。伝説のライブと呼
 ばれていて、音楽に興味のなかった私が、目を奪われるほどだ。

 流れるのは『We are the champions』。ラストの曲らしい。

 ――僕らがチャンピオンだ。 
 ――友もチャンピオンだ。

 小さな律は、少しだけ体を動かした。

 こちらを向く。
 その目は、先刻まで泣いていた彼女のそれではない。

「これ――だ」

「え?」

「これだよ! これ! 澪! バンドやろう! バンド!!」

 それが、私たち。
 言ってしまえば『放課後ティータイム』の先駆けとなる言葉だ。


 私に断る理由なんてなかった。

 だって、音楽をやれば律は側にいてくれる。
 一人にしないで、一緒にいてくれる。
 律がいれば私は生きていける。
 律さえいてくれれば、世界はこんなにも輝いている。

「でも……」

 ベットに寝転がって思考する。
 楽器を買うお金はある。
 嗜好品は母が買い与えてくれたし、そもそも娯楽のためにお金を使わない。必然的に、使わ
 ないので支給されたお金は貯まっていくのだ。
 それ故、楽器を始めることに関しては問題はない。
 ただ、そろそろ話そうと思う。

 律に――この家のことを。

 重く、辛い事実かもしれないけれど。

 彼女には、知ってもらいたいと思うから。


「……どうしたんだ? いきなり」

 午前2時。
 冬の空気は張り詰めた弓のように静かだ。
 暗黒に包まれた空地に、二人だけ。

「あのさ――律――」

 ここに来てのどが震える。
 いいのだろうか、と踏みとどまろうとする。
 言わないのなら、このままだ。
 親友として、生きていける。
 言うのなら――わからない。
 律が私から離れていってしまうのかもしれない。

 そんなのは厭だ。

 でも――今のまま苦しいのはもっと厭だ。

 震えた声で、私は話した。

 今まで、私がされたことを。

「私は――父親に……」

 殴られて、蹴られて、叩かれて――
 話を始めると、まるで溢れるように言葉が口について出た。
 まるで、決壊するダムのように涙と言葉が止まらなかった。
 いつしか律は私を土管に座らせて、頭を撫でながら聞いてくれた。
 まるで、先日の立場を逆転させたように――


 独白は終わった。
 随分と、話していたような気がする。
 律は黙って聞いていた。泣いている私を、ずっと撫でながら。
 昔から変わらない。
 私が守られて。
 律が守る。
 私の方が背が高くなっても、それは変わらない。
 情けないけど、頼もしい。

「……」

 律は黙って私を抱きしめた。
 ふわり、といい匂いがして柔らかい体に顔を埋める。
 震えている。
 律は、怒りに満ちた顔で立ち上がって――

「ごめんな澪。
 私、おまえの親父さん、殺す」

 そんなことを、言った。


 止めなかった。

 ただ、呆としていた。
 律の後ろについていって、律が我が家の扉を開けるのを見ていた。
 どうしても、止める気にならなかったのだ。

 きっと、自分の父に対してはなにも思わなかったからだろう。
 死んだとしても。
 殺されたとしても。
 なにがあっても。
 自分は、変わらないと思ったからだろう。


 台所の包丁を、律が手に取る。
 目は虚ろで、なにを思っているのかがわからない。
 私はというと、なにも考えていない。
 強いて言えば、『ああ、父は殺されるんだなあ』だとかそういった、他人ごとのような考え
 で、それを眺めていた。
 まるでドラマを見ているかのような絵空事。
 律はなにも言わずに階段を昇る。
 きらりと煌めくは出刃包丁。
 無心。
 なにも感じない。

「ここ」

 父の部屋を指さすと、律は表情の亡い顔で――

「いいのか?」

 そう問うた。
 だから、私は答えた。

「別に」

 それと同時に、律は扉を開けた。

 色が、ない。
 それが父の部屋を見た第一印象だ。
 黒、もしくはパソコンモニターの白色。
 のそり、と大柄な男が動く。
 律の表情が険しくなる。
 否、もとより表情なんて見えないのだから今、律がどんな顔をしているのかなんてよくわか
 らない。
 おそらく、恐い顔をしているのだろう。
 ベットで横になっている男は、眠っている。
 それを確認して、律は私を見た。
 その目は、いいんだな? と再度私に問う目だ。
 顔をそらした。
 醜い男。
 枕もとには、かつて自分が出版した小説。
 みっともない、と思う。
 いつまでも過去の栄光にすがって、それが過去だというふうに理解できないから、こうして
 色んな人を傷つけながら、愚かに、怠惰的に生きて。
 生きているだけの人間は、それはもう生きてるんじゃない。
 死んでいないだけだ。
 それなら、いっそ――


「でも……」

 聞きたい。


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最終更新:2010年03月08日 04:20