――私にとって 環境とは 才能だった

 生まれ持った環境

 生まれ育った状況

 それが 私にとっては才能そのものだった

 周りには 楽器

 音楽が溢れている

 でも そこにきっと意味はなく――

 結局 私という存在は 本当を知ることができなかったのだ

 だって 私は結果に溺れてしまったのだから

 外は、夕日のオレンジ色に包まれていた。
 冬という季節は、夏に比べて日が落ちるのが早い。それ故に、4時半という現在の
 時間でも日は傾き、黄金色の光はオレンジ色の光に変わっている。
 紅茶の水面に、オレンジ色の光が差し込む。
 練習を全くしていないが、これはこれでいいものなのだと思う。
 紬たちがいなくなってしまったら、このティータイムも終わってしまうのだろうか。

「あずにゃんあずにゃん。はい」

 唯が私にケーキを食べさせようとする。
 柔らかい、というよりも締まりのないその顔は、どうしてか私のしてほしいことを
 的確にしてくれる。
 練習以外のことは、彼女は私にとってベストパートナーなのだろう。
 それはともかく、唯が持つフォークの先端にはケーキがひとかけら。きっと、これ
 を私にくれるのだろう。

「あー! 梓ばかりずるいぞ! 私にも私にも!」

「り、律。私があーんしてやっても――」

「そうよ、りっちゃん! 私は見てるから、澪ちゃんにあーんしてもらって」


 ……騒がしい部活だ。
 軽音部だというのに、楽器の音よりも人の声のほうがよく聞こえる。
 それが桜高の軽音部なのだ。それを、嫌った自分がいたことは、今となってはどうで
 もいい。
 どうでもいい。
 過去の、自分なんて。
 だったら、私もこの人たちに話してもいいと思う。
 私の、昔の話を。
 三人の先輩は、隠さずに話してくれたのだから。

「あの、律先輩」

「ん? なんだ?」

「あの、私の昔話とか、聞きたかったりします?」

 どうして律に尋ねたのか。
 それはわからない。
 ただ、なんとなくこの人に聞けば気持ちのいい答えが返ってくると思ったからだ。
 三日前に聞いた、紬の過去。
 それから始まって、この部活は自らの昔話を順番にしていっている。不思議なもの
 だ。その人の過去を聞いて、ようやく私はその人を知ることになったのだから。

「……梓が話したいなら、いいよ。聞くから」

 珍しい。
 この人が、こんな曖昧な返答をするなんて。
 ――まあ、それでもいい。

「あずにゃん……」

「いいんです。この夕日を見てると、そんな気持ちになるんですよ」

 昔に思いをはせる。
 そんな、ノスタルジィに浸りたいのだ。



 ――中野梓は、言ってしまえば芸能人の娘である。
 ジャズミュージシャンの両親を持ち、家には楽器や音楽が常にあふれていた。生まれた
 時からこうだったから、決して不思議には思わなかった。両親がギターを弾いているのを
 見て、素直にかっこいいと思ったし、尊敬もしている。

 私が幼いころ、そんな両親は言った。

「なあ、梓。音楽って、どんな字を書くと思う?」

「――?」

 父の言葉の意味を知るのには、私はあまりにも幼すぎた。
 当然だ。
 私は、5歳だったのだ。
 字を書くことも、読むこともできない5歳時には、この質問は複雑すぎる。

「梓には少し早かったかな。でもな、梓――」

 父が新聞の折り込みチラシの裏に、ボールペンで字を書く。

 音楽

 その、たった二文字だけを書いて、私の目を見た。


「これ、なに?」

「これが、音楽っていう字だよ。音を楽しむって書くんだ。わかるかい?」

「うーん……」

「ハハ。まだわからないよな。
 でもな、梓。音楽は、みんなが楽しめるようになって初めて音楽っていうんだ。それを、
 決して忘れるんじゃないぞ」

 いつもはギターが置かれる膝に、父は私を乗せる。
 にこりと笑って、私の頭を少し乱暴になでる。
 父譲りの紺色の髪は、私にとって誇りだ。
 その髪を撫でられているだけで、私はこの人に愛されているんだと感じた。

 ――父の言ったことの意味がわからなくても、それでもいいと思えるくらいに。

 私には、父や母と同じように、楽器を演奏する才能があるんだと思えるくらいに。


 ――幼稚園での私は、誰よりも普通な子供だった。
 それも当然だ。
 別に、両親がミュージシャンだからといって、その子供まで特別かというと、決してそうで
 はない。
 人にはそれぞれ、ペースというものがある。それは在り方にも当てはまる。
 父と母が、有名なのは私も知っている。
 だからといって、私が同じような人生を歩むことはない。
 ミュージシャンの子供でも、当たり前の夢があるのだから。

「あずさちゃんは、大きくなったらなにになりたいの?」

 友達から、こんなことを訊かれる。
 周りの大人が、私の回答に耳を傾ける。
 私の回答に、期待する。 

「えとね。私は――お嫁さんになりたいな」

 白いドレス。
 白いベール。
 白い教会で。

 私は愛する人と結ばれたいと。
 そんな、普通の子供と同じ夢を持っていた。

 ……そう。
 私は、普通の女の子なのだ。
 両親が何者でも関係ない。
 私という存在が変わらぬ限り、私は中野梓なのだ。
 故に、誰かに将来を決められたりなんてしない。
 自身の考えと、夢をしっかりと持って生きているのだから。

「梓ちゃんは、パパやママみたいになるの?」

 幼稚園の先生が、私に向かってそんなことを言う。
 私は――その言葉が大嫌いだった。

 ――パパやママみたいになる。

 馬鹿らしい。
 それでは、私個人の夢はどうなる?
 周りの勝手な展望に、私の未来が決められるなんて、そんな馬鹿なことがあっていいもの
 か。私は私の夢のために、私は私の大切な人のために生きていく。

 ――たとえ家に楽器がこれ見よがしに置いてあっても、私は私なのだから。


 家に帰っても、誰もいない。
 送迎バスで帰ってきて、玄関のドアを開けても、ただいまと大きな声で言っても、なにも
 返ってなどこない。
 両親は忙しいのだ。
 そう自分に言い聞かせて、ソファーに座る。

 ……うす暗い部屋。
 呆として過ごすには、ちょうどいいくらいの暗さ。
 外からは子供の声が聞こえる。
 大きな声ではしゃいでいる、子供の声。

「ちょ、りっちゃん、早すぎるよぉ」

「うぇええええええええええええええええい!!!!!!」

「りっちゃああああああああああん!!!!」

 耳障りだ。
 リモコンを持って、テレビを点ける。
 液晶テレビには、笑顔の青年が子どもたちと踊っている。
 ……心が、苦しい。

 両親が返ってくるまでの間、私は毎日毎日、独りでソファーに座っていた。

 小さなギター。
 でも、それは父や母が使っているのと同じ形だ。
 ピカピカの、新しい――

「――梓、弾いてみな」

 ストラップを掛けて、構えてみる。
 父と同じように。
 母と同じように。

 ピックを持って、弦に引っかける。

「――!」

「あ」

 指から、赤いもの。

 血。

 私のギター初体験は、弦に指を引っかけて血を出すという苦い思い出だった。

 それ以来、しばらく私はギターを弾かなくなった。
 初体験にして、血を出したことがトラウマとして残っていたからだろう。

「ねえ、あずさちゃんってかわいいよね」

「そう? ありがとう」

 幼稚園の砂場で、いつものようにお城を作っている時だった。 
 突拍子もなく、友達のマキちゃんがそんなことを言ってきた。
 意図がわからない。
 ただ、褒められたのだから素直に感謝をする。
 マキちゃんは私よりもほんの少しだけ背が高い。
 というより、私は周りの子に比べて特別背が低い子だったので、マキちゃんだけが背が高い
 と感じたわけではない。

「すべすべー」

 マキちゃんが、いきなり私の頬をなでる。
 嫌とは思わない。
 ただ、女の子同士でこういうことをするのはどうなのかなって思った。

「カワイイー!!」

「あ、ありがと」

「カワイイよ。ママもパパも言ってたもん」

 彼女は、考えたことを全て行動に移す。
 神経や思考が、考えを常識の範囲に収める前に動き出すから、彼女は何度も怪我をしてい
 る。それでも、大けがが一度もないのが彼女のすごいところだ。否、大けがをすれば無茶も
 しなくなるのに、それがない。

「だからね。ママが昨日私に言ったの――」

「……なんて?」

 ――私は、聞き返さなきゃよかったのかもしれない。

「中野の子供とは、仲良くしなさいって」

 仮初の笑顔と、本物の笑顔がわからなくなってしまうから。


 ――それから小学校に上がるまで、私はずっと周りの人たちの笑顔がウソに見えていた。

 私の家は、決して裕福ではない。
 たまたまミュージシャンの両親がいるだけで、それ以外は普通の家庭と全く同じだ。そ
 れなのに、周りはそうはいかない。
 一度テレビに出たり、CDが売れれば、たちまち見る目というものは変化する。
 私のことを深く知らない人たちにとって、私は裕福な家の子供でしかないのだ。

 故に取り入ろうとする。
 中野の家と仲良くすれば、なにかおこぼれがもらえるかもしれない、と。

 ――ああ。
 馬鹿らしい。
 そんなこと、あり得ないというのに。
 私を、私の家を買い被り過ぎだ。

 小学校に上がってからも、私は人の心理を計れずに生きていた。



 ――誰かと話す時、私は目を見ることができなかった。

 否、顔を見ることができなかったのだ。
 私は稀有の目で見られていたから。
 それをわかっていたからだ。
 中野梓の親は、芸能人だ。
 その前提で、人は私を見る。

 授業参観でも、
 運動会でも、
 合唱コンクールでも、

 なにもかも。

 私は中野梓で、中野の娘なのだ。
 だから、ミスは許されなかった。
 親の顔に、泥を塗ってしまうことを避けている私は、小学6年生の時点で夢というもの
 がなんなのかを見失っていた。

 幼いころに夢見た、白い教会も。
 幼いころに憧れた、両親の姿も。
 幼いころに望んだ、小さな幸福も。

 なにもわからなくなった。

 ただ、私には音楽の才能があるんだろうな。と思っていただけだった。


「中野さん」

「……はい」

 音楽の時間。
 これほどに、私を苦しめる時間はない。
 教師も、周りの生徒も私に注目する。
 両親がミュージシャンだから、私にも期待している。
 ……そうではない。私に対して偏見じみた目線を向けているのだ。

 ――環境とは、才能に直結する。

 才能は、そのまま実力となる。

 それは、私自身もわかっていた。
 事実、私はクラスで最も楽器を演奏するのが上手で、歌だって上手だ。
 昔から音に囲まれていたので、それがそのまま現れているのだろう。
 音楽教師に言われるままに、リコーダーを吹く。

 レ、ミ、ソ、ファ、ド#、ソ、ミソララ。

 簡単な曲だ。何も、苦労なく吹ける。


「上手ですね。それでは、西沢さん。吹いてください」

 私の後ろの席に座っている西沢が、自信なさげに立ち上がる。
 ちらりと、彼女を見る。
 リコーダーを持つ手も震え、音はなんとも情けない。

 レ、ソ、ソ、ド、レ#、ミ、ソララ。

「もう少し、練習しなさい。中野さん。放課後、西沢さんに教えてあげて頂戴」

 それも、私の宿命なのか。
 初めてだけれど、別に戸惑いはしなかった。
 西沢に『じゃあ、放課後に』と簡単に対応して、その時間は終わった。 


 放課後の教室は、夕日に照らされている。
 花瓶はオレンジの光を反射して、少しまぶしい。西沢がカーテンを閉める。

「カーテン、別に閉めなくってもいいのに」

「そうかな。ちょっとまぶしくって、えへへ」

 西沢は、少し抜けたところがある。
 体育の時間は転ばない日がないし、給食だってひっくり返す。
 早い話がどんくさい。
 普通なら、そのことでクラスの男子からはいじめられたりするものなのだが、不思議なこと
 に彼女にはそういったことが起こらない。むしろ、周りが気を使って、彼女が居やすい雰囲
 気を作る。
 それが、私には不思議でたまらなかった。
 だって、彼女は周りの足を引っ張っているのだ。咎められないのは、おかしい。
 西沢が椅子に座る。私よりもほんの少し背が高い彼女は、どうしてか私よりも可愛らしい。


「えと、始めよっか。よろしくね、中野さん」

 やる気は、ある。
 しかし、実力と結果がそれに追いつかない。
 何度吹いても、彼女のリコーダーからは情けない音しか鳴らない。

「……うーん」

 どうしてかはわからない。
 原因を探そうとしているのだが、イマイチよくわからない。
 指の動かし方も、姿勢だってよくできているのに、どうしてこうなるのかが理解できない。
 もしかしたら、西沢が持っているのはリコーダーではないのかもしれない。

「うーん。西沢さん、もしかして――」

「ねえ、中野さん」

 西沢が、私が話しだすより早く口をあける。
 言葉を、紡ぐ。

「中野さんは、どうしてさっきから私の顔を見てくれないの?」

 そして、そんなことを、聞いた。


 答えられなかった。
 意識してのことじゃない。 
 ただ、人の顔を見られなくなっただけだ。
 ホントの表情を見せてくれる人は、私の周りには誰もいない。
 だから、嘘の表情を見せられるくらいなら、私は人の顔なんて見ない。そう、心の中で
 決めてしまっていた。
 でも、そうは言えない。
 人と人は信用していなくてはならない。
 たとえそうではなくても、それを表に出すことは人間関係を構築する中では、禁忌とされ
 ている。
 目を見て、話す。
 話を聞いて、自分も話す。
 これが基本。
 だというのに、私は声だけでコミュニケーションを取っていた。目線は、いつだって相手の
 足元だ。

「――」

「中野さん?」

 西沢の顔は見れない。
 故に、どんな表情をしているのかはわからない。
 泣いているのか。
 笑っているのか。
 それとも――

「ち、ちが、ちがう、あ、うう、ち――」

 言葉にならない。
 問い詰められているわけではない。
 西沢は、私の在り方に疑問を抱いて、それを素直に口に出しただけだ。
 それなのに……。

「あ! 中野さん。ごめんね? 泣かないで」

 泣く?
 なんのことだ。私は――

「え?」

 頬に、熱くも冷たいものが流れる。
 手で触れてみる。それは、涙だった。
 オレンジ色の教室で、私は実に6年ぶりに、人の顔を見た。


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最終更新:2010年03月08日 23:36