その顔が、本当に美しかった。

 にこり、と。

 ひまわりのような、笑顔だった。

 ――ああ。これが。

 これがホントの顔なんだ、と。

 心の底から、感動した。

 陳腐な言葉だけれど、綺麗だと思った。

 この人になら、きっと、私は私を見せられる。

 そう思った。

 茶色がかった髪の色。

 赤と黄色のヘアピン。

 ふんわりとした雰囲気。

 理解した。

 彼女が、周りから愛される理由を。

 それから、私と彼女は親友になった。


「――ねえねえ、梓ちゃん」

「ん?」

 小学校卒業まで、あと一カ月のある日、西沢は私に提案をしてきた。
 小学生の卒業なんていうものは、殆ど意味なんてない。ただ、6年間この学校にいて、もう
 ここにいる必要がなくなったから、中学校に場所を変えるというものだ。程度にしてみれ
 ば、引っ越しと変わらない。
 故に私は、中学に入ってから部活をしようだとか、そういったことはなにも考えていなかっ
 た。 このままでもいいと、自分の中で納得していたからだろう。
 しかし、西沢は違った。
 完全に、中学に入ったら別世界のように思っており、あれをしたい、これをしたいと私に色
 々と話していた。
 私はというと、その話に耳を傾けて、適当に相槌を打つだけ。
 なんとも面白くない子供だと、自分ながらに思う。

「でねでね! 私、梓ちゃんに見せたいものがあるんだぁ!」

 ものすごいテンションである。
 あほな子供、というよりもむしろネジが壊れた猿の人形だ。シンバルをまるで白痴のよう
 に叩いている様が、彼女によく合っている。


「それでね! 梓ちゃんにたなびたいことがあるんだよ!」

 ちなみに、彼女は噛んでいない。
 たなびたいこと、というのはこのクラスで流行っている『頼みたいこと』の上位版だ。って
 いうか、私に見せたいものがあるのに、たなびたいとはどういうことなのだろうか。

「梓ちゃんの家に行きたい!!」

「なんでさ」

「憧れているんだ。中野家に」

 親友を家にあげないわけにはいかない。
 実際、私は何度も彼女の家に、お邪魔していたのだから。
 そういうわけで、私は西沢を家に招待したのであった。


「お邪魔しまーす!!」

「だれもいないけどね」

 中野家は、基本的には静かだ。
 なんといっても、人がいないのだから。
 このところ、両親は家を空ける時間がさらに多くなった。今では、寝るために帰ってくる
 か、もしくはそれすらもせず、帰ってこないということも珍しくない。
 故に、この家に物音はしない。
 音を鳴らさない楽器には、意味なんてない。


「それで、見せたいものって?」

「えへへ~。
 じゃーん!!」

 ランドセルからリコーダーを獲り出す。
 おもむろに、彼女は演奏を始めた。

「……あ」

 そうだ。
 この曲は、私が彼女と友達になった日に練習した曲だ。
 練習して、こうして完璧に吹けるようになっている。

「ま、まちがってない?」

 演奏を終え、西沢が私の顔を覗き込む。
 ……思わず、頬が緩んだ。
 どうしてか、彼女が愛おしくなった。

 思えば――それが私の初恋だったのかもしれない。


「梓ちゃん! 梓ちゃん!」

「――え?」

「どうだった? どうだった?」

 それから、私はどれくらいの間呆然としていたのだろう。
 こんなにも、本当の温かさを感じたことが、なかったから。
 こんなにも、うれしいことなんて、きっとなかっただろうから。
 彼女の顔を、見られなかった筈の、他人の顔を眺めていた。

「うん。すごい、上手だったよ」

「やったー! 私ね、少し心配だったの。梓ちゃんが私の演奏聴いて、怒りださないか」

「そんなことないよ。なんでそう思ったの?」

 西沢は、ひまわりのような笑顔を浮かべて答える。


「だって、梓ちゃん。音楽の才能が滅茶苦茶あるんだもん。よくもこんなキチガイ演奏を
って言われちゃうのかと思ったんだよ」

 ……音楽の、才能。
 そんなことを言われたのは、初めてだ。
 確かに、私には環境があった。
 しかし、それは両親が作りだしたもの。私には関係がない。
 だから私は、音楽が嫌いだった。両親が作った環境があるからこそ、自分が認められるん
 だという、現実が嫌だったから。
 それは、否だったのだ。
 私には音楽の才能があるのだ。

「――よぉし」

 クローゼットを開ける。
 かつて、父が買ってくれたギターを引っ張りだす。
 ――そうだ。
 私には、才能があるのだから。


 そうして、卒業式を迎えた。
 通学路の桜はピンク色に染まり、私はその中を走りぬけていた。
 隣には、誰もいない。
 いつものように、両親は地方に行ってしまっているからだ。

「――ああ! もう!」

 どうして走っているのか。
 簡単な話だ。
 今現在、時刻は8時を過ぎたところ。
 早い話が、遅刻である。
 卒業式に遅刻という、なんとも不名誉な状態に、私はあった。

 昨晩はギターの練習をしているうちに、深夜3時になっていたのだ。
 それから眠ってしまい、気がつけば7時半。髪を整える時間もない。
 故に、いつものツインテールは諦め、髪を下していつもの通学路を走っている。

「……あのクルマに乗せてもらえればなあ」

 信号待ちをしているリムジン。黒い高級車に乗っているのは、見るからにお嬢様の
 女の子。きっと、私と同じくらいの年ごろだろうが、どうしてか表情は暗い。まるで、
 かつての私のように。

「……」

 目があった。 
 太いまゆ毛は下がり、憂いを感じる表情をしていた。

 彼女と私は――きっと、永遠に交わることはないのだろう。
 その時の私は、そんなことを考えながら学校までの道のりを全力疾走していた。


 学校に着くと、すでに生徒たちは教室前で入場の準備をしていた。
 下級生から受け取った花飾りを胸に付ける。周りの女子は、ある程度胸が成長して
 いるのに、私はまったく成長していない。
 どういうことなのだろうか。

「梓ちゃん! 遅かったね!」

「寝坊、しちゃってさ」

 息を整えながら、西沢と話す。
 小学生としての中野梓は、今日で終わりなのだと思うと、少しだけ寂しくなった。
 それでも、やっぱり終わりというものは訪れる。
 どうにもならないこともあるのだ。

「それじゃあ、卒業生は入場しますよー」

 担任の号令で、廊下は静かになる。
 胸に何を秘めているかは、千差万別だが、今日は卒業式、区切りの日だ。

「卒業生、入場!」

 たとえ、両親がいなくても私は私なのだから。


 ――中学生ともなると、多くの人が音楽に対して憧れを持つことになる。

 テレビで流れてくる音楽、
 CDで聴く音楽、
 演奏する音楽、

 それらに対して、今までとは違う気持ちで観賞するようになってくる。
 私は幼年のころより、音楽に触れる機会が多かったため、音楽に対しての認識が固まる
 のが人よりも早かった。
 しかし、大多数の人間は、この中学生の時期に音楽への思いを固める。
 演奏する者もいれば、聞くだけの人間もいる。
 演奏するとなれば、人は仲間を欲しがる。
 仲間がいることで、自分の趣味の幅が広がるからだ。

「おい中野。おまえ、親がミュージシャンなんだって?」

 故に――

 私の周りに、そういった人たちが集まってくるのは必然ともいえるわけだ。


 彼ら3人曰く、バンド活動をしたいということらしい。
 小学校からの同級生であり、昔からピアノをやっていたという『千住』。
 中学校で初めてクラスメートになった。ドラム志望の『高山』。
 この二人は知っていた。クラスは違ったりしたが、小学校が一緒だったからだ。もっとも、
 彼らの顔を見ることは一度としてなかったが。

 もう一人はベースボーカルを志願している『荻久保』だ。彼とは小学校が違ったため、
 今日が初対面だった。
 彼、荻久保は少し不良っぽいところがある。上級生が彼を呼び出すことも、入学して1カ月
 経ったが一度や二度ではない。

 ……よくある話だ。

 きっと、彼らは異性から注目されたいのだろう。
 自分は他の男とは違う。俺はミュージシャンなんだ、と。
 そのために、私に声をかけた。
 私の両親がミュージシャンであることを知っていて、近寄ってきた。

 ――ああ。
 そういうのは厭だ。飽き飽きしている。

 だから――私は――

「そう。がんばってね」

 と。
 一言だけ告げてその場を離れた。


「梓ちゃん! なんだって!?」

 教室に戻ると、西沢がものすごい勢いで尋ねてきた。
 一年付き合ってきてわかったことだが、彼女を表現する際は『ものすごいテンション』と
 いう言葉が非常に的確だ。
 何事にも一生懸命で、何事にも手を抜かない。
 手を抜かないが、結果としてはドジを踏んでしまう。
 だから失敗してしまう。だが、それだからといって、周りから批判されるということはな
 い。彼女の懸命さを、みんながわかっているからだ。
 私だって、彼女がいつだって頑張っていることくらいはわかっている。
 先刻の話をすると、西沢はさらに笑顔になった。
 これ以上ないくらいの笑顔。否、さっきまでの笑顔だって、私にしてみれば特上のも
 のだ。それを超える笑顔なのだから、これはビッグバン級だ。

「なんでやらなかったのさー!」

 両腕をブンブンと振り回しながら抗議する。
 彼女は、人のために何かを考えることに、本当に長けている。故に、信頼を得る。
 だから、支えてあげたくなるのだ。

 そんな人間が彼女、『西沢結』だった。


「なんでだろうね」

 確かに、言われてみればそうだ。
 私は一年前、西沢に言われた。

 才能がある、と。

 ならば、どうして音楽をやらないのだろう。
 今だって、毎日ギターの練習をしている。なのに、どうして断ったのだろう。
 理由がわからない。
 ただ、やっぱり知らない人というか。顔を見れない人とバンドをするのが厭だったから
 だろうか。
 それとも、彼らの願望が透けて見えてしまったからだろうか。
 どうにも掴めない。
 自分で、自分がわからない。

「梓ちゃんは才能まみれの人間なんだから、やってみなよー」

 ぶーぶー言いながら文句をたれる。
 それを訊くと、なんとなく私も意見が変わってくる。

「じゃ、じゃあ少し考えてみるね。あんまり、気が進まないけど……」

「うんうん。よい返事を期待しておるぞ。それと、帰りにクレープ食べに行こう!」

 本当に、彼女には敵わない――。


「――あのさ。梓ちゃんって、私のことなんて呼んでる?」

 私たちがよく行くクレープ屋は、少し特殊だ。
 喫茶店のような、アンティークな店内には5つのテーブルが用意されている。注文やクレー
 プの受け取りはカウンターで行うのだが、そのテーブルで食べることができるのだ。
 クレープの種類も、ハンドタイプとディッシュタイプと全て合わせると60種類を超える。
 西沢は、いつかこれを全制覇することが目標だと言っていた。
 私が今食べているのは、ディッシュタイプのチョコレートバナナクレープ。上品な皿に盛り
 つけられたクレープの生地は厚めで、まるでケーキのようだ。
 この味で、この環境で、さらに値段も安くて穴場という、まさに神条件が揃った店が、こ
 こ、『クレープ羊の斎藤』である。
 店主は白髪の男性であるのだが、まったく年老いているようには見えない。190センチを
 超える体躯に、発達した筋肉が伺える腕は、年齢を予想させない。
 そんなところで、私は西沢と話をしていた。

「……西沢って呼んでるね。普通に名字」

「素敵だわー。友達、いいや。親友だというのに名字で呼ぶ! 実に他人行儀で素敵だわー」

「なにが言いたいの?」

「名前で呼びやがれってんだー!!」


 そういうことなのである。
 彼女のこういう一面を見るのは、きっと私だけであろうが、彼女は時としてこんな突拍子も
 ないことを言い出す。
 嫌いではないのだが、以前、鶏を家で飼うと言い出したのには驚いた(そして止めた)。

「親友ですよ、私たち。ベストフレンド! だというのに、梓たん」

「梓たんはやめて」

「梓たんは私のことを名字呼び放つわけですよ。デンジャラス!」

「やめてってば。それと、デンジャラスは危ないって意味だからね」

「MJ?」

「なんでMJ知っててデンジャラス間違えるの」

 彼女のすごいところは、こういった突拍子のない行動と言動もそうなのだが、知識が
 謎というくらいに偏っているところだ。
 いったい、どういう生活をすればこういう偏り方ができるのだろうか。


「とにかく、私のことは名前で呼んでね。そうでないと私は梓たんを永久に梓たんと呼び
つづけるよ。もしくはあずにゃん」

「あずにゃんはおかしい」

「梓たんは猫っぽいから。さあ、どうする? Who's Bad!?」

「世界に聞いてるの?」

「梓たんに聞いてるの」

「だよね。
 わかったよ。これからは結って呼ぶように心がけるよ」

 こうでも言わなきゃ、彼女は引き下がらないだろうから。
 それに、呼称に関してこだわってるわけでもないわけだし。

「ふむ。それではあずにゃん」

「そっちが気にいったんだ。でもそれは許さないよ、結」

 それから、私たちは他愛のない話しをして過ごした。

 本当に、意味のない話を。


 家に帰っても、誰もいないことはわかっていた。
 暗い玄関に電気をつけて、音のしない廊下を歩く。

「……ふぅ」

 ソファーに座って、テレビをつける。
 見たいテレビなんてない。
 ただ、こうでもしないと、本当に独りだと思ってしまう。
 音が、欲しい。

「あ。この人――」

 テレビには、卒業式の日に見かけたクルマに乗っていた女の子が映っていた。
 どうやら、彼女は絵のコンクールで最優秀賞を獲ったらしい。
 周りの記者からは称賛の声が飛んでいる。
 質問されたことに淡々と答える彼女は、本当に嬉しそうではなかった。
 本当につまらなそうで、本当に悲しそうで。

「この人、私と似てるかもしれない」

 私には結がいる。
 この人にも、そんな人がいるのだろうか。
 いればいいと思う。

「ごはん、作ろう……」

 作る、とはいっても冷凍グラタンだけれど。
 ソファーから立ちあがって、冷凍庫から、一人の食事を取りだした。


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最終更新:2010年03月08日 23:41