ここは、とある街の、さびれたボクシング会場。

私はそこのリングの上に立っている。
観客はまばらで、照明は薄暗い。
もちろんテレビ放映なんて絶対にされない汚いリング。
それでも日々の生活のため、私はそこに上がらざるを得ない。

私の名前がコールされる。

赤コーナー 156センチ 111ポンド
25戦14勝10敗1引き分け
14勝のうち8勝がノックアウト

女子フライ級
平沢 唯


対戦相手が迫ってくる。
若い、勢いのある選手だ。
私は派手な試合をするつもりなんて微塵もない。怪我をしてしまうと痛いし、治療費がかさむからだ。
今更ボクシングなんかに愛着も何もない。
ファイトマネーさえ貰えればいい。
クリンチでごまかして攻勢を凌ぎつつ、よそ事を考える。

そうだ、今ごろさいたまスーパーアリーナでは、澪ちゃんのタイトルマッチがやってたはずだ。
見たかったなぁ、澪ちゃんの9回目の防衛。

そんなことを考えていると、徹底したクリンチに痺れを切らした相手が思いっきり頭突きをしてきた。
観客席から汚い野次が飛ぶ。
いったぁ…完全に故意のバッティングじゃん。
タイトルマッチとかではめったにお目にかかれない光景だけど、この辺のレベルじゃよくいるんだよなぁ、こういうの…

試合は相手の反則負けとなった。
ま、ファイトマネー貰えたしいいや。
これで2、3週間は食ってけるもんね。
そうだ!ちょっとお酒でも買っていこう、今晩は憂と二人でささやかなパーティーだね。


―平沢家
唯「うい~、ただいま~」
憂「おかえり!お姉ちゃんどうだった!?」
唯「一応…勝ったよぉ」
憂「ほんと!?やったー!おめでとうお姉ちゃん、すごいよ!」
唯「えへへ…はいビール、今夜は飲むよ~」
憂「おー!」

憂「あ、そうだお姉ちゃん、澪さんの試合テレビでやってたよ」
唯「おお、どうだった?」
憂「1R KO。澪さん9度目のWBA世界フライ級王座防衛成功」
唯「へぇ~、また勝ったんだ!1RKOかぁ、やっぱり澪ちゃんはすごいなぁ」
憂「うん…あ、お姉ちゃん、そこの棚からお醤油とってくれる?」
唯「? いいよ~、どこ?」
憂「その一番高いとこの棚だよ。
この足じゃ…取りづらくってさ」
唯「…そっかぁ。じゃあもうちょっと低いところに置いとくね」
憂「うん、ありがとう」

―私の名前は 平沢 唯。
高校では軽音部で、仲間たちとダラダラして。
部活後はボクシングジムに通って汗を流して。
そんな充実した青春を過ごした。

そう、みんなには言ってなかったけど、実は私がいくら食べても太らない理由はジムで運動してたからなんです!

そんな、ダイエット目的で始めたボクシングだったけど
高校卒業後、大学にも行かず、仕事に就こうにも何も資格を持っていなかったから
ネタでボクシングのプロテストを受けたらまさかの合格。
その後10年間、プロボクシングの世界で生きてきた。
通算成績は26戦15勝(8KO)10敗1分。まぁ平々凡々ってやつだ。スターには程遠い。
ただでさえ女子ボクシングの、しかも軽量級の選手。
スターになれなきゃ、ファイトマネーは雀の涙。
更に、アテにしていた妹の憂が、交通事故で下半身不随になり、働けなくなった。
程なくして両親も死んでしまったため、私は一人で二人分の家計を稼がなければならなくなってしまった。


当然ファイトマネーだけでは生活していけないので、ヤクザの下で借金の取り立て屋さんなんかをして稼いでいる。あ、このことは憂には内緒だけどね。

だけどやっぱり何をやってもさえない私。

借金の取り立ても、相手が可哀想になってしまって脅すことができず、満足な成果は得られていない。いつも上のヤクザの人にどやされる毎日だ。
そして今日も。
昨晩の憂とのパーティーで金をつかいすぎてしまった為、小遣い稼ぎに取り立ての仕事を貰ったのだ。
今日は…小さな精肉工場を経営してる人だって言ってたな。
なんか浪費癖がたたって多額の借金を溜め込んでるんだって…めんどくさそうだなぁ。
ま、いいや、とにかく行ってみよう。
私はヤクザの人に貰った地図に示された場所へ向かって、ゆっくりと歩き出した。

冬も間近だ。寒い。私は高校生の時、憂に貰った手袋をして歩く。
工場へ向かう間の道中、澪ちゃんのことを考えていた。
高校時代は同じ軽音部で、同じ部屋にいて、同じようにムギちゃんの紅茶を飲んで…
共に笑い合い、語り合い、共に三年間を過ごした。
そんな澪ちゃんも、今では私の手が届かない場所に行ってしまった。

「KOクイーン」秋山 澪
通算成績27戦全勝、うちなんと22勝がノックアウト勝利。軽量級としては異常な数字だ。
サウスポー・スタイルでの隙のないテクニックと、一撃必殺のカミソリのようなパンチを併せ持つ

彼女は高校卒業後、大学のボクシング部に入って瞬く間に才能を開花させ、オリンピックでメダルを取った後、大学を中退しプロの世界に飛び込んだ。
そして現在WBA世界フライ級王座を9連続防衛中、無敵のチャンピオン。
あまりに強すぎて試合が成立しないため、昨日の相手なんて2階級も上の元世界チャンピオンだ。それでも1RKO勝利。
もはや男と試合したほうが良いのではとまで言われている。
その美貌も相まって、今や国民的大スターだ。昨日の試合の瞬間最高視聴率は40%を超えていたらしい。


やっぱり澪ちゃんは何をやってもできる子だ。高校時代からそうだった。
それに比べて私は…

なんで、世の中はこんなに不公平なんだろう?

こんな何の才能もない私に、チンピラみたいな生活を送っている私に、生きてる意味なんてあるのだろうか?
いっそ潔く死ぬべきではないのだろうか?
最近よく、そんなことを考える。

だけど、それを考える度に、憂の笑顔が頭に浮かぶ。
私のたった一人の妹であり、最大のファン。
私の勝利を誰よりも喜んでくれ、誰よりも私を慕ってくれる。
そうだ、多分憂との何気ない日常が、私にとっての最後の「生きがい」なんだろうな。
憂がいてくれなかったら、私とっくに…


そんなことを考えていると、精肉工場に到着した。
なるほど、外観からしてもう明らかに儲かってなさそうな工場だ。
私は入口の前に立ち、声を張り上げる。

唯「ごめんくださ~い」

返事はない。

唯「誰もいませんかー?」

返事は返ってこない。

唯「あの~、借金、返して貰いたいんですけどぉ」

私が「借金」という言葉を口にした瞬間、静まり返っていた工場内から、ガタガタッといういきなり飛び起きる音や、ガシャーンと何かを倒す音が聞こえた。
こりゃ相当動揺してるな…なんかかわいい♪

唯「あの~、利子だけでもいいから、返して欲しいんですけど~」

「ちょちょちょ、ちょっと待ってくれ!今月競馬とパチンコで全部すっちまって…今2万くらいしか手元にないんだ!勘弁してくれ!」

中から口調に似合わぬかん高い声が響く。

唯「あれ…?この声、もしかして…」


唯「あの、とりあえず、ドア開けて下さい」
「いやだ、殺される~!」
唯「乱暴はしないから、ドア開けて…」

私がそこまで言った瞬間、罵声と共にドアが勢いよく開き、ドアの外に立っていた私ははね飛ばされた。

唯「うう…いたた」

「うるせえんだよ取り立てのチンピラが!いいかよく聞けよ?
私は今や国民的ボクサーになった秋山澪の同級生で親友なんだぞ!?
しつこく取り立てに来んなら澪を雇っててめーらをフルボッコに……ってあれ?」

「お前……ゆ…い?」


声でなんとなくわかっていたが、やっぱりだ。
私の前に仁王立ちした人物に、私は見覚えがあった。

小柄な体、私と同じ茶髪の頭には黄色いカチューシャ。
10年たっても高校時代と全く変わらない、若々しく気の強そうな顔…には、借金苦からか、疲れの色が浮かんでいるが…

唯「りっちゃん!!」
律「…唯!唯じゃないか!どうしたんだ?久しぶりだなぁ!」

唯「どうしたもこうしたも…今、私借金の取り立てやってるんだけど」
律「そ、そうなのか…」
唯「けど、折角のりっちゃんだから、今日は取り立てナシ!」
律「ほ、本当か!?唯ぃ~、お前は天使だ!エンジェルだ!」

ああ、後でヤクザの人に怒られるだろうなぁ…
ま、いっか!こんなところでりっちゃんに会えるなんて、今日は本当にツイてる!

唯「久しぶりに会ったんだし、何か喋ろうよ!」
律「大歓迎だ、ほら、精肉工場だからちょっと臭いけど中に入ってくれよ」
唯「りっちゃん家は?」
律「家は…金がなくて売っちまった。今はここに寝泊まりしてるんだ」
唯「り、りっちゃんも大変なんだねえ…」
律「ああ、何も仕事なくて、一念発起して工場経営者になってみたものの
この不況で赤字続きさ」

工場の中に、りっちゃんが寝泊まりしている小さな部屋があった。
りっちゃんは私をそこへ招き入れる。

律「けど、唯も大変だよなぁ、ヤクザの下で働かないと仕事もないんだろ?」
唯「不況だからね…高卒じゃ、どこも雇ってくれなくて」
律「そうだ、ボクシングはどうなんだ?まだ続けてるのか?」
唯「いちおう続けてるよ~、けどファイトマネーだけじゃ…ねえ」
律「そっか…、澪のファイトマネーは一億円を超えてるってのにな」
唯「あはは、澪ちゃんは次元が違うよ~、もう住む世界が違うんだよ」
律「はは、そうだよな」
唯「澪ちゃんは外を歩くだけでファンが群がってくる大スター。
けど、私なんて、試合をしてもどこの誰も気付かない。
名前すら誰も知らないんだよ」
律「そっか…けどな唯、お前がボクシング続けてるなら、私は澪と同じくらいお前のことも応援するからな」
唯「ふふ…ありがとうりっちゃん」

ああ、やっぱりりっちゃんは私の心の友だ、親友だ。
再会できて、本当に良かったなぁ。


その夜、私とりっちゃんは、少ないお金を出し合って、さびれたバーで再会を祝った。
お酒が回るうち、りっちゃんはどんどんハイになっていき、荒っぽい口調で私に愚痴をこぼした。
高卒で働き口が見つからず、工場を建てることを決意して独学で経営学を学んだこと。
しかし現実は上手く行かず、借金に苦しんだこと。
借金を返すためにギャンブルに手を出し、余計に金を失ったこと。
最初は聡くんが金を貸してくれていたが、遂に愛想を尽かされたこと。
社員に支払う今月分の給料すら確保できていないこと。
荒々しく、時に罵倒とも取れる言葉を吐き出しながら、全てを話していた。

しまいには完全に酔っ払って暴れ、グラスを投げつけたり、店のものを破壊したりしだしたので、私が店の外に引っ張り出した。


律「なんでだよ!どこで道を間違えたんだ!死んじまえ!金持ちなんてみんな死んじまえ!澪もムギも、死んじまえ!」

真夜中、雪が降っていた。初雪かもしれない。
車一台通らない路上で、震えながら叫ぶりっちゃん。
本心ではないだろう。私にはわかる。
りっちゃんは澪ちゃんもムギちゃんも大好きなはずだから。
ただ、今の自分が惨めで、どうしたらいいかわからなくなってるんだろうな。
だから、どうしようもなく、何かを攻撃したくなって、暴言を吐く。
そうだよね、りっちゃん。

フラついて立てないりっちゃんに肩を貸し、寒空の下を歩きつつ、私は思う。
私も、りっちゃんも、同じだ。
2人とも、人より少し不器用なんだ。
今の自分を否定しつつ、嘲笑いつつ
けど何をしていいかも分からず、結局何もせず
スポットライトの下の華やかな世界を羨みつつ
この薄汚いさびれた街で、泥と汗にまみれて生きている。


私はりっちゃんを工場まで送り届け、彼女に対して感じた親近感のようなものを噛み締めながら帰途についた。

時刻は夜中の3時を回っていた。
憂はもう眠っている時間だ。起こさないよう、そっと扉を開ける。外よりはいくらか暖かい。私はかじかんだ手をこすり合わせる。

小声で「うい~ただいま~」とだけ言う。
家に帰ってきた時はそれを言わないと落ち着かないのだ。
靴を脱ぎ、とりあえず水を飲もうと、台所に移動する。
そこに、憂はいた。
車椅子に腰掛けたまま、机に突っ伏し眠っている。
あれ?どうしたんだろう?こんな所で…
まさか、私の帰りを待ってたのかな?
なんでだろう?


疑問に思う私の目に飛び込んできたのは、机の上に置かれた大きなケーキだった。
ケーキの上にはろうそくが刺さり、プレートにはこう書かれていた。

「お姉ちゃん、お誕生日おめでとう
いつも、ありがとう」

そのメッセージを見て、はっと思い出す。
そうだ、今日は11月27日、私の誕生日じゃないか。自分でも忘れていた。

車椅子では作るのに苦労したであろう、その不格好なケーキと、安らかな寝息を立てる憂の顔を交互に見る。
不意に涙がほろりと零れ落ちる。
暫く私は、暗い台所の片隅で、声を殺して泣き崩れていた。

部屋から毛布を持ってきて憂にかけてあげた後、ろうそくに火を灯し、そしてすぐに吹き消し…真っ暗闇の中でケーキを食べた。
形は不格好だが、味は上々だった。
憂の頭をゆっくりと撫でながら、思う。
私は、生きてく。不格好でも、なんでもいい。憂がいる限り、私は生きていける。
これまでも、これからも ずっと…
雪はしんしんと降り積もり、この街から音をかき消していた。その静けさが、耳に残る夜だった。


―12月
東京都 協栄ボクシングジム

「大変だ!秋山の10度目の防衛戦の対戦予定相手が骨折した!」
「なに?2月の試合には間に合うのか?」
「間に合わない!至急、代役を探せ!」

会長「……ちょっと待て」

会長「ちょっと秋山、こっちに来てくれ」
澪「なんですか?会長」
会長「今度の対戦相手、お前が決めろ。これが今闘える無名のボクサーのリストだ」
澪「どういう事です?」
会長「まったく無名のボクサーに、対戦機会を与えるんだ。王者に挑戦する機会を与えるんだ」
澪「はぁ…」
会長「考えてもみろ、お前は今、悪魔のような強さで王座に君臨してるが、あまりに強すぎるため完璧で冷徹なイメージがつき始めてる。
そこで、今回、無名選手に夢を与えるこの企画だ。ファンにお前の心の広さを見せつけることになり、イメージアップに繋がる。
お前は楽に勝てるし、人気もますます上がる。どうだ、いい話だろ?」
澪「はぁ…そうですね」(うう…あんまり人気出過ぎると恥ずかしいよぉ)

会長「さ、じゃあさっそく、このリストから相手を選んでくれ。どいつもお前なら30秒もかからずにKOできる奴ばかりだ」
澪「わかりました…」(会長、私をタレントみたいに売り出すの止めてほしいなぁ…)

澪「はぁ…めんどくさいなぁ」

澪「こいつも、こいつも、こいつも…聞いたこともないような選手ばっかりだな…
こんなのと闘うのか、やだな」

澪「もうちょっとマシな選手は…と」

澪「…ん?この顔写真」


澪「ま、まさか、唯!?」

澪「あいつ、まだボクサー続けてたんだ、全然知らなかった…」

澪「対戦成績は、26戦して15勝8KOか…
KO率はまあまあだけど、大したことないな」

澪「そうだなぁ…久しぶりに唯にも会いたいし、チャンスを与えるにしても全然知らない奴よりは友達のほうがいい…か」

澪「よし、決めた!」


―クリスマス・イブ

2人分のお酒を買って帰ってきた私を待っていたのは、血相を変えた憂だった。
憂「お、お姉ちゃん、大変だよ!」
唯「な~に?憂、そんなに慌てて」
憂「今…家に澪さんのジムの人が来て…」
唯「え?澪ちゃんの?」
憂「それで…あのあの、お姉ちゃんに」
唯「な、なぁに?」
憂「澪さんの防衛戦の相手をつとめてほしいって、打診が来たの!!」
唯「……へ?」

私は、最初憂が何を言っているのかわからなかった。
澪ちゃんは澪ちゃんだよね。現在WBA女子世界フライ級王座を9度防衛中のチャンピオン、秋山澪。
その、記念すべき10度目の防衛の相手が……私?

唯「ええええええええええええっ!?」


唯「どどど、どういうことっ!?」
憂「私にもわかんないよ、お姉ちゃん!」


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最終更新:2010年03月10日 02:12