そうだ
そんなこと、あるわけがない。
ボクサーとしての私の名前を知っているのなんて、コア中のコアみたいなボクシングファンの中の、そのまた100人に1人くらいなもんだ。
そんな私が、いきなり澪ちゃんとタイトルマッチ?
出来るわけがない。実現したとして、勝てるわけがない。
私は長い間フリーでジムにも所属せず、まともな練習もしていない。
どう考えたって、大観衆の前で恥をさらすようなものだ。
確かに、いつもテレビで見ているあの澪ちゃんと闘ってみたい気持ちはあった。
たとえ負けても入ってくるであろう高額のファイトマネーも魅力だった。
この試合を受ければ、当分の間、憂と贅沢な暮らしができるだろう。
…しかし。
澪ちゃんとの試合ともなれば、憂は確実に見にくる。
私は憂の前で、私の最高のファンの前で、無様に負け恥をさらすことになるだろう。
さいたまスーパーアリーナの大観衆の前で恥をさらすより、そちらのほうが私にとってはよっぽど重大なことだった。
それは、私の中にほんの僅か残った、プロボクサーとしてのプライドだった。
やっぱり…この試合を受けるわけにはいかない。
私は試合を断ることを決意した。
しかし、翌日のクリスマスの晩
澪ちゃんのジムに断りの電話を入れようか(ついでに澪ちゃんと久しぶりに少し話したいな)と考えていた私は、テレビを見ておったまげた。
澪ちゃんの緊急記者会見がゴールデンタイムに放送されたのだ。
そこで澪ちゃんは語った。
自分の防衛戦の対戦相手が骨折して試合が間に合わないこと。
そこで、今回は、無名の選手にもチャンスを与えるため、才能のありそうな一人の選手に試合を打診したこと。
澪「試合を打診した相手の名前は…平沢唯、私の高校時代の同級生で、親友です」
おいおいおい
この記者会見、視聴率何%だ
冗談じゃないぞ。
その日は大変だった。
あっちこっちの知人から電話がかかってくる。お祝いの電話。
その中には、懐かしいメンバーからの電話もあった。
紬「唯ちゃん!!テレビ見たわよ、タイトルマッチ決まったのね、おめでとう!」
ええ!?まだ決まってないよぉ。
梓「先輩、まだボクシング続けてたんですね!どっちを応援したらいいのかわかんないですけど…とにかく当日は絶対見に行きますから!」
あずにゃん…もう見にくる気まんまんだよ…
和「あなたがボクシングを続けて…こんなところまでいくなんて…うう」
の、和ちゃんが感動して泣いてるよおお。
どうしよう。
もう、後にはひけなくなってしまった。
やっかいなことに、このタイトルマッチ実現を一番喜んでいるのは他ならぬ憂なのだ。
ここで私がタイトル挑戦をやめれば、憂は心の底から悲しむだろう。そうなれば試合で無様に負けるのと同じことだ。いや、それ以下かもしれない。
私にはもう、澪ちゃんと戦う選択肢しか残されていなかったのだ。
けど、どうする?やるからには善戦したい。
今の私じゃ絶対に無理だ。30秒ともたずにKOされるだろう。
もし、「あの人」がトレーナーになってくれれば。
私は頭の中で、一人の人物を思い浮かべる。
あの人がいれば、多少はマシになるかもしれない。
私は家を飛び出し、とあるボクシングジムを目指して走った。
時刻は深夜1:00
クリスマスも終わり、街に恋人達の姿は見当たらない。
誰もいない大通りを疾走し、私はボクシングジムの前に到着した。
「山中ボクシングジム」
小さなジムではあるが、私がプロボクサーになりたてのころ、お世話になっていた所である。
あの人はトレーナーとして二階に住み込んでいるはずだ。私は外の非常階段を上がる。
そして、彼女の部屋の前まで来た時、急に不安にかられた。
あの人が、また私を受け入れてくれるだろうか…?
心に迷いが立ち込め、暫くドアをノック出来ずにいる。
すると、ノックもしていないのに、いきなりドアが開いて、中から一人の女性が出てきた。
驚いて言葉も出ない私に、その人は話しかける。
「あら唯ちゃん、奇遇ね。私もちょうど、あなたの家に行こうと思ってたのよ」
唯「さわちゃん先生…」
数年振りの、師弟の出会いであった。
そう、私達軽音部の顧問、山中さわ子先生の実家は、このボクシングジムだったのだ。
さわちゃんはこのジムで、トレーナーとして幾多のボクサーを育ててきた名伯楽だ。
唯「さわちゃん…久しぶり」
さわ子「ここに来たってことは…、受けるのね、澪ちゃんとの試合」
唯「うん…」
さわ子「任せて!私に唯ちゃんのトレーナーとセコンドを務めさせて欲しいの!私が教えれば絶対に澪ちゃんに勝てる!」
私は、さわちゃんの熱意に惹かれながらも、彼女に対してある憤りを感じていた。
唯「さわちゃん…今頃になって、そんな調子のいいこと言うの?
…あの日、私を見捨てて、ジムから追い出したのに…」
さわ子「唯ちゃん…」
さわ子「それは、唯ちゃんが、才能はあるのにこれといった努力もせず、自堕落な生活を送っていたから…」
唯「けど、さわちゃんがいてくれたら、ここまでにはならなかったよ…
私だって昔はチャンピオンを夢見てた。
今は私にそんな才能ないって分かる。
けど、昔は確かに夢見てたんだよ。
そんな私がさわちゃんに追い出されて…どれだけ辛かったと思う?」
気がつけば私の両目からは涙が溢れていた。
さわ子「…ごめんね唯ちゃん。
けど、今からでも遅くはない」
唯「嘘だ!」
さわ子「嘘じゃない。唯ちゃんには才能がある。あなたが自分でも気付いていない、チャンピオンを十分に夢みていい才能がね!」
唯「ざわぢゃん……」
さわ子「私は才能のない子にはあんなに厳しく当たらないわよ…
あなたが才能を持ちながら何のやる気もないことに腹が立って追い出したの。
けど、今のあなたにはやる気がある。そうでしょ」
唯「うん…ういを喜ばせるんだよ」
さわ子「なら、涙をふいて」
さわちゃんが眼鏡を外す。
さわ子「覚悟しとけよ、コラ」
次の日から、さわちゃんと私の猛特訓が始まった。
小さな山中ジムには最低限の設備しか揃っていなかったが、それで十分だった。
さわちゃん指導のもと、がむしゃらな猛特訓に、私は耐えた。
そしてある日、りっちゃんが突然私の家を訪ねてきた。
唯「どうしたの?りっちゃん、まさか工場まで担保に……?」
律「違う違う!澪との対戦が決まったお前に、話があって来たんだ」
唯「話?」
律「ああ、スポンサー契約の話さ」
唯「…スポンサー?」
律「入場の時お前が着るガウンに、『田井中精肉工場』のロゴを入れるのさ。そしたら宣伝になって私の工場が儲かるぜ」
唯「……田井中精肉工場って、なんかださいよぉ」
律「ほっとけ!な?お願い唯ちゃん?タダでとは言わないからさ」
唯「え?何かくれるの?」
律「ああ、サンドバッグをやるぜ」
唯「ほんと!?」
律「ああ、ちょっとついてこいよ」
そう言ってりっちゃんが私を連れて行ったのは、あの精肉工場だった。
怪訝に思う私をよそに、りっちゃんは工場の中をどんどん進んでいく。
そして、ある扉の前まで来たりっちゃんは、私を中へ入るよう促した。
肉の匂いが充満している。
それもそのはず、この部屋には、無数の巨大な肉が冷凍されて上から吊されているのだから。
唯「えーっと…どこにサンドバッグが?」
律「これさ!」
りっちゃんは肉を指差す。
こうして、私は自主トレ用サンドバッグも手に入れたのだった。
私は毎日、特訓に明け暮れる。
毎朝生卵をミキサーにかけてジュースをつくり、タンパク質を補給。
その後ランニング。
家から、港を通り、近くにある美術館の階段のてっぺんまで、毎朝がむしゃらに走る。
唯「はぁ…はぁ…やっぱり階段を登りきると息が切れる
この程度じゃ息切れしないようにならないと、とてもじゃないけど長いラウンドは戦えないよ…」
そしてランニングが終わると、さわちゃんのジムでの猛練習。
さわ子「いい?今から付け焼き刃のテクニックを身につけた所で無駄よ。
中間距離での澪ちゃんのテクニックは完璧…絶対に完封されるわ」
唯「じゃあ、どうすればいいのぉ?」
さわ子「懐に飛び込んで、乱打戦にもっていくのよ、とにかく消耗させるの」
唯「けど、澪ちゃんはフックやアッパーも得意だよ?」
さわ子「大丈夫…恐らく打たれ強さは澪ちゃんより唯ちゃんのが上よ。
それにパンチ力も…これから練習すれば試合の日には澪ちゃんを上回ってるわ」
唯「ええ~、そんなバカなぁ」
さわ子「いいえ、あなたのパンチ…特に左のボディブローは本物よ
当て感もいいし…」
唯「ボディかぁ」
さわ子「そう、ボディから崩すの、相手のスタミナを奪って、疲れさせて勝負をかけるのよ!」
過酷なトレーニング、さわちゃんの熱烈な指導。
私は朝の10時から夜の9時まで、その指導を受けながらジムで過ごす。
そして練習が終わりジムを出ると、田井中精肉工場まで一目散に走る。
そこで夜通し、肉を殴り続ける。
手の皮が剥け、感覚が無くなっても、それでも打ち続ける。
鬼気迫る表情でパンチを打ち続ける。
最初はやるしかないと思って。
他に道はないと思って始めた、トレーニングだったけど。
その為に沢山の人の力を借りて、沢山の人の期待を背負って。
わかったことが一つだけある。
間違いなく今の私は、明確な生きる意味を持って毎日を過ごしている。
そう、あの時のように。
自慢のギー太をかき鳴らし、親友たちと文化祭ライブに燃えた高校時代のように…
もう前までのような、自堕落なチンピラみたいな私じゃないんだ!
もう憂のためだけの試合じゃない。
自分自身を、人生を変えるための試合でもあるんだ。
そう思うことが私のモチベーションを、さらに高めていくのだった。
唯「やるぞーっ!!」
試合前日。
調印式で澪ちゃんと私は再会した。
普通なら仲良く話しこむところだが、澪ちゃんは2、3言葉を交わしただけで向こうへ行ってしまった。
記者会見でも、握手の時も、目を合わせようとしない。
すでに戦闘モードに入っているのだろうか。
いや、握手した手が震えていたから、緊張しているのかもしれない。そういうとこは昔から変わらないなぁ。
私は緊張はしていなかったが、勝てる自信はまったく無かった。
やれることはやった。全力でやった。
けどそれで勝てるほど勝負の世界は甘くない。ましてや相手は最強王者だ。
記者会見後、個別インタビューは人気者の澪ちゃんに集中し、私は解放されたので、早めにホテルに戻った。
その日の夜のテレビで記者会見の模様が放送された。
テロップには、「最強王者秋山澪、いよいよ明日10度目の防衛戦!相手は無名の美少女、平沢唯!」と表示されていた。
ちょっと嬉しくてニヤニヤしてしまった。
そして
私と、同じ部屋に宿泊していた憂は、久しぶりに一緒に眠った。
憂は自分でベッドに入れると言ったが、私は憂を車椅子から抱きかかえ、ベッドまで運んであげた。
窓から見えるさいたま市の近未来的な夜景がロマンチックだ。
夜霧がゆっくりと街を包んでゆく。
冬も終わりにさしかかったとはいえ、まだまだ寒い。
くっつくように、ぴったりと体を寄せ合う。心地よい感触と温もりが、私を安心させる。
憂「お姉ちゃん、どう?明日は、勝てる自信ある?」
憂がストレートに聞いて来たので、私も正直に答える。
唯「ないよぉ、ていうか、勝てるわけないじゃん、普通に考えてさ」
今まで、心の奥にしまっていた弱音だった。
憂「そうだね…普通に考えたらね」
憂も、そこは肯定する。
憂「けど、お姉ちゃんなら、何かやってくれそうな気もするんだ!」
唯「何かかぁ…何もできないかもしれないよ、ただ…」
憂「ただ?」
唯「明日、勝てなくてもいい、あの澪ちゃん相手に、最終、12Rまで立っていることができたなら、私がただのゴロツキじゃないってことを証明できる。そんな気がする」
憂「うん…」
唯「明日、2月22日は、憂の誕生日だよね。誕生日に勝利をプレゼントする…とまでは言えないけど、絶対に立ってる。
最終Rまで、何があっても、ボロボロになっても、絶対に立ち続けるって誓うよ」
憂「うん…それが、最高のプレゼントだよ、お姉ちゃん」
憂はそう言って笑った。
私はそんな憂を抱きしめ、安らかな眠りにつくのだった。
―そして
実況「遂にやってまいりました、本日のメイン・イベント!
伝説のKOクイーン、秋山澪が、ここさいたまスーパーアリーナで10度目の防衛戦!
対するはまったくの無名、謎の美少女、平沢唯!
さいたまスーパーアリーナは満員御礼です!」
実況「普通、女子の試合は2分10Rが主流ですが、今回は特別ルールにより3分12Rで行われます!
しかし昨日、澪選手は『12Rもいりません、1Rで倒します』と宣言しました。
このところ3試合連続1RKO防衛を果たしている澪選手、4試合連続が出るかについても注目が集まります!
解説は、長○川穂積さん、○田興毅さんのお二人でお送り致します。よろしくお願いします」
長谷川「よろしくお願いします」
亀田「しゃーオラー!!!」
「みおー!」
「みおー、結婚してくれー」
「みお、やっちまえーっ」
リングアナ「まずは青コーナーより、挑戦者、平沢唯選手の入場です!」
私の入場曲、ふわふわ時間が、アリーナにこだまする。
緊張は感じない。
さわちゃん先生と肩を組み、ゆっくりと、花道を歩んでいく。
ガウンには田井中精肉工場のロゴ。りっちゃんと私の友情の証。
私の入場だというのに場内は澪コール一色。あらら、完全アウェーだなぁ…
ああ、神様お願い。
3分12R、インターバル入れて40分ちょっと。
その40分の間だけでいいから、私に力を下さい。私にDream Timeを下さい。
リング前で祈りを捧げた後、ロープを跨ぐ。
いつもとは違う、明るい綺麗なリングだった。
続いて赤コーナーから、「Don't say lazy」に乗って澪ちゃんが登場すると、場内は割れんばかりの大歓声に包まれた。
おお、本当にすごい人気。
けど呑まれることはない。大丈夫。なんだかすごく落ち着いてる。
リングアナ「これよりWBA女子世界フライ級タイトルマッチを行います!
青コーナー、挑戦者、26戦15勝10敗1引き分け、15勝のうち8勝がノックアウト
山中ジム所属
謎の~美少女! ひらさわ~ゆ~い~!!」
名前がコールされると同時に軽くシャドーボクシングをしてみせる。
リングアナ「赤コーナー、27戦全勝、うち22勝がノックアウト
協栄ジム所属
WBA女子世界フライ級王座を9連続防衛中、無敵のチャンピオン
KO~クイーン! あきやま~み~お~!!」
また大歓声、けど澪ちゃんは知らんぷり。
ふふ、恥ずかしがってるか緊張してるかどっちかだろうなぁ。
最終更新:2010年03月09日 00:08