「おい律、講堂使用許可証はどうしたんだ?」

(おい、害虫の件はどうするんだよ?)

「か、書いたよ、ちゃんと!!夏休みに!」

(ちぇっ、こないだ話し合った件、しっかり覚えてるんだろうな。)

「書いても出さなきゃ意味ないだろうがっ!」

(優柔不断だなぁ、早く切り出せよ)

「し、しまった!……ぐえっ、唯、ムギ、助けてくれえ~」

(糞、なんで私が害虫駆除なんかしなきゃならないんだ。自分でやればいいじゃないか。人任せにしやがって)

澪は怒った顔をしていたが、どこか楽しそうな顔だった。

律は苦しげにしながらも苦笑を浮かべていた。

紬も梓も、呆れて笑っていた。

……なんでこのヒト達、笑っていられるんだろう。なんで楽しげにできるんだろう。

唯はこんな状況だというのに、人体の神秘に感心せざるを得なかった。


その日授業でどんなことを勉強したのか、唯は全く思い出せない。

集中しようにもできないのだ。何十人ものクラスメートの“声”が邪魔をするから。

(糞教師、今日も授業時間伸ばすんだろうな)

(あたしらに流し目なんか使いやがって。ペドかっつー)

(キモい)

(ウザイ)

……これでは図書館で勉強しても同じことだろう。こんな調子がいつまでも続くのなら、単位を落として留年するかもしれない。

“能力”をカンニングに利用するほど、唯は頭がよくなかった。


クラスメートの“声”で特によく“聞こえる”のは、やはり律と紬のそれだった。梓に対する罵詈雑言が、いやというほど“聞こえて”くる。

この二人や澪は、どうやら鬱屈とした行き場のない感情を陰で梓にぶつけることで固く結束しているようだった。……これではいじめと何にも変わらない。

しかし唯は、梓に同情する気はさらさらなかった。彼女もまた、陰で唯以外の三人の先輩を憎悪することで鬱憤を晴らしている卑屈な人間なのだから。

自分に誰も悪意を向けていないことを知っても、唯は少しも安心も満足もできなかった。むしろ軽音楽部の仲間達への失望感で潰されそうだった。


……“力”のことを知って興奮したのが、前世のことに思える。


昼休みになっても食欲は全くなかった。普段は四時間目には胃がキリキリ痛み出すくらい空腹に悩まされるのに。憂が作ってくれたお弁当がこれほど煩わしいのは初めてだった。

「なんだよ、唯。全然箸が進んでないじゃん」

「やっぱり体調が悪いの?」

(いいな、憂ちゃんの手作り。うちのババアのより全然うまそう)

「……りっちゃん、あげる」

唯は弁当箱ごと律に差し出す。律は目を輝かせて喜ぶ。……あの真っ暗な目をどうやって輝かせることが出来るんだろう。不思議だ。

「本当か?ならくれ、全部くれ!サンキュー、唯!」

(ありがたやありがたや……さて、害虫駆除の案でも練りますか)


まただ……。

唯は律の肩を強く揺すって、梓への悪意を全部吐き出させてやりたかった。こんなのりっちゃんのキャラじゃないよ……!

(どうしてやろうか。梓のお茶の中に唾でも混ぜてやろうか、ケーキのがいいかな)

(だけど唾じゃわからないよなぁ。味が変わるわけじゃないし)

(もっと強烈な物……例えばカラシとか納豆とか)

しばらく律の頭の中を、「強烈な物」のイメージが浮かんでは消えた。

(あ、そうだ。これなんか使えるんじゃないか。使用済みの生理ナプキン)

……え?


(うんうん、これでいこう。後は……犬の糞でも混ぜておくか?チョコケーキかエクレアにでも)

(ショートケーキには鳩の糞か?ケケ、やってみたいやってみたい)

……何を考えてるんだ、このヒト。

唯の心に、律の汚い妄想が流れ込んでくる。妄想はどんどんエスカレートして、さらに汚いものになってゆく。

……このヒトが、憂のお弁当を食べてる。憂のお弁当が汚される。やめて、返して……!

(梓、餌だよ。……澪先輩、これゲロですよね?……なんてな、ケケケ)

唯の中で何かがはじけた。もう我慢できなかった。立ち上がって拳をプルプルと震わせる。椅子が必要以上に大きな音をたてる。

「……どうした、唯」

「ちょっとトイレ行ってくる」

唯は精一杯普通の声……そうであればいいのだが……を出す。

「汚い奴だな、こっちは食事中だぞ」

へへ、ごめんね。麻痺した顔を無理やりに笑いの形に歪めてから、唯はトイレに向かって走り出す。

妙に足がぐにゃぐにゃする。頭が熱くてたまらない。


唯は空いていた個室に駆け込むと、便器に叩きつけるように激しく嘔吐した。

便器に跳ね返って、水とも反吐ともつかないものが顔に飛んでくる。しかしそのわけのわからない液体ですら、唯の心でのたうち回るおぞましい妄想には勝てなかった。

吐きながら唯は泣いていた。大粒の涙がボロボロとこぼれ落ち、鼻水が溢れでる。


どのくらい時間がたっただろう。

涙と鼻水と涎で悲惨な状態になった顔をペーパーで拭い、唯はぎくしゃくした動きで個室から這い出てきた。

鏡を見る。顔が真っ青で、目がどんよりと濁っていた。川岸に打ち上げられた魚の死骸よりも悪い。

唯はもともと勉強熱心な人間ではないが、今ほど授業に戻りたくないと思ったことはなかった。また何十人もの“声”を聞かされることになるのだから。

全部この“力”のせいだ。いや、あの時の私のせいだ。あの日、あんな事故にさえあわなければ、こんな力は……。

……ねえ、あの頃の私。私、あなたのこと、……絶対許さないから。

「あれ、唯?」

「の、どか、ちゃん」

唯は死んだ舌を動かし、必死に返事を返す。和は相当に驚いたようだ。……無理もないだろう。今の顔は誰にも見せたくなかった。

「どうしたのよ、あなたはっきり言って……相当ひどい顔してるわよ」

「……具合悪くなっちゃった。久々の学校だから」

唯は反吐の悪臭を防ぐため、口を覆って会話しなければならなかった。だが今は和と話せることが嬉しかった。少なくとも彼女の“声”は正直に唯を心配していた。


「具合悪いのなら、無理に授業に出続けることないのよ。保健室行こうか」

「……じゃあ、お願いしようかな」

(保健室……ベッド)

(唯をベッドに押し倒したい)

あれ?

(暴れる唯を叩きのめして泣き出したところでチュッチュッしたい)

あれ?あれ?

(唯のおまんこ舐めたい)

あれれれれ?

(唯の処女奪って号泣させたい)

「……ごめん、やっぱり一人で行くよ」


唯の胸が煮え立つような吐き気で泡立つ。和から発せられる欲望が、すでに律の妄想が蹂躙し尽くした心を汚す。

「無理よ。このまま放っておいたら、唯倒れちゃうわよ」

「大丈夫だって……ほら、ちゃんと一人で歩けるよ」

(……人形のくせに、生意気なのよ)

唯は思わずビクッと体を震わせる。和から発せられた、はっきりとした悪意のナイフが胸にねじ込まれる。

「とにかく……大丈夫だから!ごめんね、また今度!」


和の苛立ちの“言葉”から逃れるように、唯はおぼつかない足取りで歩き出す。

途中、何人かの生徒とすれ違った。彼女達の“言葉”は容赦なく疲弊しきった唯に襲いかかる。


やたらと重くなった腕を上げ、唯は保健室の戸を開ける。そのまま前につんのめるように入り込む。薄っぺらな紙にでもなった気分だ。

保健室のベッドには誰も寝ていなかった。保健の先生すらいなかった。よく眠れそうだ。もしかしたら、寝ている間にすべてが元通り……唯の思う元通りになっているかもしれない。

そう思った時、唯に“声”が飛び込んできた。

「さ、さわちゃん……」

(……女子高の教員なんかになるんじゃなかった)

「……さわちゃん、あのー……」

(騒がしくて糞生意気な小便臭いガキの分際で、恋愛ごっこなんかにいそしみやがって)

「さわちゃん……もしもーし、さわちゃん……」

(ベタベタ引っ付いて、みっともないったらありゃしない。私が学生の頃は……)

「……さわちゃんっ!!」

「え?……ああ、唯ちゃん。どうかした?」

「あの、ベッドを……貸して下さい。体調が悪くて……」

「あら、大変。ゆっくり休んでいきなさい」


唯はすぐに自分の判断を後悔した。さわ子の女子高生へ向けられた憎悪の“言葉”に何時間も悩まされるハメになったから。

……嫉妬。そうとしか言いようがない。さわ子の思考は実にシンプルな素材でできていた。唯達女子高生の若さへの僻み。

眠ろうにも、さわ子の“言葉”がうるさくて眠れない。しかも静かにしろと言って済む問題ではないのだ。

(若いくせに軽率)

(私の子供の頃は決して)

(いやらしいったらありゃしない)

……もしかしたら、私は永遠に眠ることが出来ないのではないか。唯は恐ろしい想像にとりつかれる。


今はまだいい。自宅に帰れば憂以外の声は聞こえないのだから。だがもし自分の“能力”が発達して、もっと広範囲の人間の“言葉”が“聞こえ”るようになったら……。

唯は“言葉”をシャットアウトしてみようと努力する。だがいくら力もうと力を抜こうと、さわ子の“言葉”はいつまでも遠いお経のように響いてくる。

……それはそうだ。閉め方もわからず、おまけにどこにあるかすらわからないドアを誰が閉めることが出来るだろう?

唯が無駄な抵抗を続けているうちに、とうとう最後の授業が終わってしまった。


さわ子に礼を言うと、唯は荷物を取りに教室にふらふらと歩き出す。なんだか保健室に来る前よりも体調が悪化した気がした。

……家に帰ろう。帰ってからゆっくりと一人だけの世界にこもろう。“声”が“聞こえ”ない世界に。

……一度こもってから、もう一度外の世界へ出てゆく自信はないが。

「あれ、唯。こんなとこで何してんの?」

「……澪ちゃんか。保健室で寝てたんだよ」

澪の“声”には少なくとも悪意は込められていなかった。だが唯は知っている。悪意なんてものは、紙飛行機を折るよりも簡単に作れるのだ。


「それより澪ちゃん。今日の部活はお休みさせてほしいんだけど」

「ええっ?もうすぐ学祭のライブなんだよ?出てもらわなきゃ困るよ」

「でも私、授業もお休みしちゃったし、なんか体の調子が……」

「黙ってりゃ大丈夫だって!だいたい、朝はあんなに元気だったじゃないか」

唯のなかに黒い怒りが灯る。その元気を奪ったのは、いったい誰だと思ってるんだ。

「とにかく、休むのは絶対にダメだ!どうしても休みたいなら明日にしてくれよ」

「……わかったよ。わかったから荷物だけ取りに行かせて」


澪に乱暴に手を引かれながら、唯は何か巨大なモノにじわじわと押しつぶされてゆくような気分だった。ナチのガス室に向かうユダヤ人も、こんな気分を味わったのだろうか。

あの事故の前、“能力”が備わる前まで、唯にとって部室は大好きな場所の一つだった。部室の空気を吸い、部室の香りを嗅ぐだけで心が浮き立ったものだ。

ところが今は……心を蝕むガス室でしかなかった。“言葉”というガスの充満する。

……神様。もし叶うのなら、せめて澪ちゃん達とあずにゃんを仲直りさせて下さい。

唯は心から願う。せめて部室にいる間だけは、醜い“声”を聞きたくなかった。


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最終更新:2010年03月10日 01:02