唯「だ、誰なの…」

唯「おばけの…お兄さん…」

唯は震えながら発する。

「すまない、初対面の女性に対して名乗らずにいるとは…」

「わたしは、アドルフ。」

アドルフ「アドルフ・ヒットラー、と言います、お嬢さん。」

"ッ"の部分を小気味よく発音し、青年は唯にこたえる。


唯「あどるふひとらー??外国人??」

アドルフ「そう、ドイツ人、だよ。」

青年はそう答える。

唯「…」

唯「が、がいじんのおば…け…」

唯は再び震えを覚える。

アドルフ「怖がらせてしまって、いるね…」

青年の表情から笑みが消え、そのはにかみは一層痛々しさを帯びる。

唯「あ…」

唯はすぐに悟る。
この青年の表情は、澪が度々その面に映す…

唯「あ、ご、ごめんない…おばけのお兄さんにおばけなんて言って…」

アドルフ「こちらこそ…すまない。どうやら今の私は…」

アドルフ「君の認識どおり、人外の存在らしいから…」

唯「…」

唯は青年に憐憫を覚える。
この青年は、表面上は、はきはきしているとはいえ、
澪並の人見知りだと理解する。


唯「あやまらなくちゃいけないのは私のほうだよ。」

憐憫を覚えると、唯の心から恐怖が消えていく。

唯「え、と、あどるふさん?」

アドルフ「呼び捨てで構わない。
     アドルフでも、ヒットラー、でも。」

青年は答える。
表情に笑みが戻りつつある。


唯「アドルフ…」

唯「なんか照れるね…」

唯も可愛らしくはにかみつつ、微笑む。

唯「気にせずに。」

青年も微笑む。

唯「アドルフはどうして私の部屋にいるの?」

当然の質問だ。
側にいるのが生身の人間なら、間違いなく変質者扱いだろう。

アドルフ「私にもよくわからない。」

アドルフ「ただ…」

アドルフ「どうやら、君がもっていた"小撥"と関係があるらしい。」

唯「こばち(小撥)??」

アドルフ「君が昨晩ギターを奏でるのに使った、鼈甲製の。」

唯「あ、ムギちゃんのお父さんに借りたピック…」


アドルフ「その小撥は、私が、甥のレオに与えた小細工物の"一部"だ。」

唯「へ、そうなんだ。じゃあ、このピックは元々アドルフの物なんだね。」

唯からはすっかり、怖れ、が消え、
持ち前の人懐こさ、と好奇心が頭をもたげつつある。

アドルフ「もともとは、義母の髪飾りだったはずだが…」

唯「義母…」

アドルフ「ああ。父の前妻のことだ。私の母は後添えでね。
     甥の母、姉のアンゲラとは腹違いになる。」

唯「ふ、ふくざつな家庭じじょうだね…」

アドルフ「気にしなくてかまわないよ。」

アドルフはそう言う。

アドルフ「ああ!」

アドルフ「忘れていた!まったく私としたことが…」

アドルフの表情に再び、はにかみ、が浮かぶ

唯「?」

アドルフ「君の名前を聞くことを…」

唯「わたし?」

唯「私は、ゆい。ひらさわ ゆい だよ。」

アドルフ「日本人はシナ人と同じく姓、名前、の順だから…」

アドルフ「平沢お嬢さん、ですね?まったく私としたことがすいませんでした…」

唯「?」

唯「わたしも、呼び捨てで、"ゆい"でいいよ?」

アドルフ「え!?いいの、かい?」

唯「うん♪」

アドルフ「身内と妻以外を、名前で呼ぶのにはなれないものでね。」

唯「妻!?結婚してるの!?」

アドルフ「ああ。私が…」

アドルフの表情が強く歪む。

アドルフ「私の生を終える直前に、結婚式を挙げたんだ。」

そう答えるアドルフ。

唯「…」

唯は、彼の表情を読んで、それ以上聞こうとはしなかった。

唯「ご、ごめんなさい…」

アドルフ「気にしないでいい。」

アドルフは、そう答える。
無理やりに、はにかみ微笑んで。

唯「と、とにかく…」

唯は話題を戻す。

唯「なら、このピックはアドルフに返した方がいいかな…」

アドルフの表情は、再びにこやかなものに戻っている。
けれど、それは、笑みを装った、唯を安心させるためのものだが。
これから先、アドルフが表情を崩すことはほとんど無くなる。

アドルフ「気にしなくていい。
     君が今までどおり使ってくれたまえ。」

唯「いいの?」

アドルフ「ああ。」


唯「ありがとう♪」

唯は微笑む。

アドルフ「ところで、私も死人なのでね…」

アドルフ「ここが日本だということはわかったが…」

アドルフ「ベルリンが落ちてから、どのくらい時間が経っているんだろうか?」

唯「べるりん、て何?」

アドルフ「…」

アドルフの質問も悪いが、彼は現代日本の、
平均的女子高生の教養について全く知らない。


アドルフ「ドイツ国の首都なんだが…」

唯「あ、そ、そうなんだ!?
  私、東京とアメリカのニューヨークしか知らないから…(汗)」

アドルフ「…」

アドルフ「…なら確か、日本は皇帝陛下臨御のもと、その皇紀2600年を祝…」

アドルフはそう言いかけてやめる。

アドルフ「現在は西暦何年だろうか?」

一番的確な質問だ。


唯「えっと…」

唯「えとね…」

側においてあった携帯を手に取り、なにやら始める唯。

アドルフ「…」

ちなみに、アドルフは天然女性が苦手ではない。
自身の妻がそうであったように、その手の女性に対してはかなり寛容なほうだ。

アドルフ「その、機械、はなんだい?」

唯「え?携帯電話だよ?」

アドルフ「けいたいでんわ??」

アドルフは、数秒思案する。
が、技術発展、という概念とともに思考をやめる。

唯「あ、今は2010年だって!!」

アドルフ「!!」

アドルフ「…」

アドルフ「65年…!!」

彼はそう口にする。

唯(ってことは、アドルフは60年前に死んでるんだ…)

アドルフ「ああ…」

アドルフ「ああっ!!」

アドルフは強く、強く悲痛な表情を帯び、ベッドの横にしゃがみ込む。


数十秒後。

アドルフ「…」

アドルフ「ゆい。」

アドルフは唯に青い瞳を向け、問う。

アドルフ「今のドイツは…どうなっている…

アドルフ「…のだろうか?」

悲痛な表情のアドルフ。

唯「え、えと…」

唯は答えることができない。
アドルフに気兼ねして、というよりも、
その知識材料が"ビール"と"ソーセージ"と、両親が現在滞在してる場所
ということぐらいしかない。

唯「あ!」

両親が少し前に送って来た土産を思い出す。

唯「たしか東西ドイツ統一記念20周年がうんたらかんたら…」

唯にしては珍しい。

アドルフ「東西ドイツ統一記念20周年!?」

アドルフ「どういうことだ…」


アドルフ「…」

アドルフ「ゆい、君は見たところ学生のようだが。」

唯「うん!高校3年生になったばっか!」

アドルフ「歴史、は学校でならっているだろうか?」

唯「うん!世界史取ってるよ!」

アドルフ「…」

早速アドルフは、自分のことよりも唯のほうを心配する。

アドルフ「教材があれば見せてもらいたいのだが…」

唯「教科書なら多分バックに入ってると思うんだけど…
  ちょっと待って…」

アドルフ「…」

唯「あ、あった!」

アドルフ「!!」

アドルフ「すまないが早速読ませてもらっていいだろうか!?」

唯「もちろん!」

アドルフ「早速…」

アドルフ「…」

アドルフ「く…」

アドルフ「どうやら私は…物体に触れることができないようだ…。
     ページを開いて、もらえないだろうか?」

唯「おーけー!!」


それから、アドルフは第二次大戦後から現在までの、
中道的な教科書の内容にそった、歴史の歩みを知り…

アドルフ「…」

唯「あ、あどるふ?」

アドルフ「やはりアメリカが…
     マルクスなどかわいいものじゃないか…」

アドルフ「…」

唯は、アドルフが生前、何者だったのかに気が付いていない。
先ほど彼と一緒に眺めた、教科書の記述や写真には
山ほどの情報がアドルフについて記されていたのに。

アドルフ「いや、覚悟はしていたことだ…」

アドルフ「けれどしかし、私のことをさも悪魔のように…」

アドルフ「いや、堕天使…」

アドルフは独りごつ。

アドルフ「何より…イサァクの種どもは再び蔓延り…あろうことか国家まで…」

アドルフ「忌まわしい…げに忌まわしい!!」

アドルフ「汚らわしい種族汚染者どもめ!!」

唯「ビクッ…」

アドルフ「やはり、私の歴史観は全く正しかった!!」

アドルフ「しかし…」

アドルフ「今、私の意識が目覚めていること…
     神は私を罰されているということか…」

アドルフ「ドイツを救えなかった、この私を…」

アドルフ「…」

アドルフ「いや…」

アドルフ「いや違う!」

アドルフは、唯のベッドに腰掛ける。

アドルフ「今、この私の意識が再び蘇ったということは…」

そう言うと、アドルフは右手で、ポン、と一度右ひざを打った。
霊体?のはずの彼から、小気味良い音がする。

アドルフ「…」

アドルフ「神よ。」

アドルフ「感謝します。」

そう言い終えると、アドルフは潤んだような目で、虚空を見つめる。
押し黙ったまま。

唯は少し混乱していた。芽生えた恐怖を再び、ほんの少しだが、覚えつつ。
これが先ほどまでの、内向的だが、しかし、人の良さそうに見えた青年のそれだろうか?
そして何より唯は、このような顔をする人間を、面とむかっても、テレビでも、目にしたことは無い。
あどけない少年の眼差しを持ちながら、老獪さを隠そうともしない、表情の男を。


明けて翌朝。

唯「うーんんんん…」

唯「むにゃむにゃ…」

眠っている唯。
そして、ガチャ、と唯の部屋のドアが開く。

憂「あねーちゃんーーん!朝だよぉ!」

憂が姉を起こしに来る。

唯「あと、ごふん…」

憂「おねーちゃんっ!!」

憂「遅刻しちゃうよ!早くゴハン食べよ!」

唯「わかったよぉー」

ムクリ、と起き上がる唯。

起き上がった唯の、その視線の先には、
青白く輝く人型。

唯「!!」

唯「ヒッおば…」

と言いかけて昨夜のやり取りを思い出す。

アドルフ『おはよう、ゆい。』

アドルフは唯の机の前の椅子に腰掛けていた。
やさしく唯に微笑みかけ、言葉をかける。

アドルフ『もちろんこれは、夢ではないよ。』




※以降のアドルフの台詞には二重括弧を使います。


唯「あっ、やっぱりそうなんだ…」

憂「どうしたの??」

憂が首をかしげる。

唯「あっ!」

唯「この人はアドルフって言うんだけどね…」

憂「?」

アドルフ『ゆい、やめておきなさい。』

アドルフ『どうやら妹さんには、私の姿は見えていないようだよ。』

アドルフが諭す。

唯「そうなんだ…」

憂「??」

憂は格別気にしない。
唯が寝ぼけて変なことを口にするのはいつものこと。

朝食をとる唯と憂。
アドルフは唯の隣の椅子に腰掛け、平沢邸の内部を見回している。

唯「もぐもぐ…」

アドルフ『…』

唯「…」

唯(すごく変な感じ…)


現在のシチュエーション、
平沢姉妹とその横に座る白人男性の幽霊。
確かにシュールである。

憂「ちゃんと牛乳も飲むんだよ!」

唯「うん!」

アドルフは微笑みながら、二人のやりとりを見守る。


そして登校。
仲良く並んで歩く平沢姉妹。
一歩下がってその後を、アドルフがついて行く。

唯は時折、ちらちら、と、アドルフに視線を送る。

唯「…」

憂「どうしたの?おねーちゃん??」

唯「ううん!な、なんでもないよっ!」

アドルフが声をかける。

アドルフ『ゆい、黙って聞いてくれたまえ。』

唯「…」

アドルフ『どうやら私は、その鼈甲の小撥と離れてはいられないようなのだ。』

唯「!」

唯(地縛霊ってやつだね…)

ちなみに、ある場所や建築物に縛られているのが地縛霊である。
その理論でいけばアドルフは地縛霊でない。



律「うーっす、ゆいー、ういちゃん」

澪「おはよう。」

唯「おはよう!りっちゃん、みおちゃん!」

憂「お早うございます!」

律や澪と行き会う。


校門近く。
桜高の生徒が多く歩いている。

アドルフの表情は、無表情のそれに近くなっていた。
彼は、あまりアジア人種のことを好いていない。
というか、はっきりいえば嫌悪の対象である。

唯に対してだけは、まったく違うようだが。


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最終更新:2010年03月22日 04:01