そして、場所は音楽室。
授業がはじまる。

さわ子「はーい、さっき配った譜面に注目。」

アドルフは唯の座席の隣に立ち、
音楽の教科書と、先ほど配られた譜面に目を向ける。

アドルフ『おお!これは…』

唯(そういえばアドルフって、ドイツ人だよね?
  でも、日本語は読めるみたい…)

生前の彼は、ラテン語すら満足に読めず、
ドイツ語以外の言語はまったく解さなかったはず。
ところが今は、日本語を読み取ることができるらしい。


さわ子「とりあえず私が伴奏つきで歌います。
    一回目だから、感覚をつかむ程度に聞いてね。」

軽快なピアノの調べがはじまる。
そして歌い始めるさわ子。

さわ子「はるかに はてなく ♪」

アドルフ『!』


さわ子「ドナウの水は ♪」

アドルフ『!!!』

ヨーハン・シュトラウスの『美しく青きドナウ』である。

ハードメタルビッチの彼女も、もちろん音楽教師。
一応、というか、かなりマジで上手い。
対して、うっとりするような表情のアドルフ。
さわ子の歌にすっかり聞き入っている。

アドルフ『…』

唯(…)

こうして、唯の一日が進んでいく。

けれど音楽の授業以外ではむしろ、
アドルフは終始むっつりとした表情を浮かべていた。
アジア人への嫌悪に加え、桜高は女子高である。
生来の恥ずかしがり屋であるアドルフにとっては酷な環境だ。

そして、現代日本人の挙動を観察し、アドルフは強く思う。

アドルフ(…)

アドルフ(野生への回帰…野蛮なる文明…)

アドルフ(日本人はアーリヤ人に劣らず、
     高い規律と徳性、品格をもっていたはず…)

アドルフ(…)

アドルフ(なんという退廃!!)

アドルフ(これは、もしや…)

アドルフ(わが祖国も…)


そして、放課後の音楽室。

唯「みんなおはよー!」

音楽室に入る、唯とアドルフ。

澪「唯っ!大遅刻だぞ!」

梓「ほんとにもう!!」

唯「ごめんね~」

アドルフ(姦しい…)

律「やっと来…」

律「…」

律「!?」

律が目を剥く。

律「お、おまえが持ってるその大量の本は…」

唯「えへへ…図書室行ってたんだ。」

アドルフの頼みで、唯は図書室から借りられるだけの本を借りてきたのだ。
現代史や現代政治、現代の経済事情etcについての。

律「ど、どうしちゃったんだよ…」

梓「せん…ぱい…」

律と梓がひどく心配そうな表情で唯を見る。

律「おまえが自分から…活字を読もうとするなんて…
  やっぱり…」

紬「ゆいちゃん!なんで相談してくれなかったの!!
  私たちお友達でしょう!?」

澪「いや、唯もこう見えてナイーブなところがあるから…」

唯「え…え!?」

アドルフ『?』

唯が精神的にどうにかなってしまったのでは!?
ということで、暗黙のうちに全員が一致している。


唯「えっと…」

律「なあ唯!こころあけっ広げにして、お前の思うところを語ってくれよ!
  我慢するなよっ!!」

梓「もっと抱きついて来ていいですからっ!
  スキンシップをはかりましょうよっ!」

唯「あ、あのね…」

唯「この本、私が読むわけじゃないというか…」

律「!!」

梓「…もしかして憂のかわりに、とか?」


唯「そ、そうだよ!憂に頼まれてね!」

結局、梓に調子を合わせる唯。

律「…」

律「なあーんだ…。たく…」

律が白けた様な顔をする。

澪「唯、心配させるなよ…」

アドルフ(もしや、ゆいは、あたまが酷くよ…)

アドルフはそう思い至ろうとするが、結局やめた。
えてして多くの女性とはそういうもの、と自分に言い聞かせて。

律「あー白けた白けた。」

梓「もう、ほんとに…」

紬「唯ちゃんにもお茶入れるね♪」

唯「うん、お願い!」

そう紬に答えると、唯は自分の"指定椅子"に座る。


アドルフ『この子たちは、音楽室に遊びに来ているのか…?』

アドルフの、あきれたような声。

唯「あは、あははは…」

アドルフの素直な感想に、唯は反論できない。

アドルフは音楽室に来る途中、唯から、
彼女の素性や、この桜高について簡単に説明を受けていた。

アドルフ『けいおんがくぶ??』

アドルフ『いったい、どのような音楽を…』

紬「はい、どうぞ♪」

紬はコースターに乗ったティーカップを唯の前に置く。

唯「ムギちゃん、ありがと♪」

紬「あ、そうだわ!唯ちゃん!」

唯「?」

紬「きのう唯ちゃんに貸してあげたあのピック!
  あの元の持ち主について、お父さんから色々聞いてきたの!」

唯「!!」

アドルフ『!』

律「へー、そりゃまた。」

律がさも興味なさそうに、そう言う。

紬「あの持ち主のラウバルさんて方は、故人だったんだけどね、
  そこそこ有名なドイツのギタリストで…」

澪「持ち主は亡くなられてたのか…」

アドルフ『…』


紬「それでね、彼の家族、というか親戚がかなりの有名人だったの!」

唯「え、どういう…こと??」

紬「彼はね、ラウバルさんはね…」

紬は一息ついて、さらに語りはじめる。

紬「あのアドルフ・ヒトラーのね…」

紬「ヒトラーの…お姉さんの子孫に当たるらしいの!」

唯「!」

アドルフ『!!』


律「まぢかよ!?すげーなそりゃぁ…」

紬「お父さんがドイツの音楽会社の方からね、数枚あるうちの一つを…」

唯「アドルフって…有名人なの??」

きょとん、とした顔で、唯が質問する。

梓「え゛…」

澪「ま、さか、アドルフ・ヒトラーを知らないとか…ないよな?」

唯「?」

律「うちの馬鹿聡ですら知ってるぞ…ってか…」

律「…」

律「はいる!!ひっとらーー!!」

律は突然そう叫ぶと、右手を前方斜め前に差しかざす。

アドルフ『…』

アドルフは気にも留めない。
彼は、自分とNSDAPを揶揄して、いわゆるナチス式敬礼を真似る"戯れ"が
旧連合国で流行っていたことを知っている。
かの国々で、自分が嘲笑の対象であったことも、勿論知っている。

律「…ってぐらいは聞いたことあるだろ??」

唯「あ、そういえば…」

唯の中で昔、聞いたことがあるような、
そんな、おぼろげな記憶が浮かび上がってくる。


澪「第二次世界大戦を引き起こしたドイツの独裁者で、
  ユダヤ人を何百万人も虐殺した人間だぞ。」

アドルフ『…』

唯「え…」

唯の頭の中に、混乱が生まれはじめる。


梓「アンネの日記読んで、私何度も泣いちゃいましたよ…」

梓は哀しい目になり、そう言う。

唯「え…どういう…」

唯「どういうこと??」

そう言うと唯は隣に立つアドルフへ視線を向ける。
彼の顔を仰ぎ見るように。


アドルフの視線と、唯の視線が交差する。
澄んだ青い瞳。澱みがまったく含まれぬ、混じり気の無い。

唯の魂が揺れる。静かに、波立つように。

アドルフ『ゆい。私はかつて―』

アドルフは語り始める。

アドルフ『ドイツ国の大統領兼首相だった。』

アドルフ『いや、それ以前に…』

アドルフ『一人の政治家だった。』

アドルフ『そして、死よりも忌むべき不名誉と絶望の中から、
     ドイツを再び蘇らせた。』

アドルフ『私の生涯は闘いだった。』

アドルフ『すべては、神の御旨のもと、われ等が祖国のため―
     私は闘った。』

唯「戦争を起こして…」

唯は問う。

唯「たくさんの人を殺したの?」

目の前の男から視線をそらさずに。
まっすぐに、見つめて。

律「そうだぞ、ってなんであさっての方向に言ってんだよ…」

唯の問いは、友人たちに向けたものではない。

アドルフ『確かに私は戦争を始めた。しかし、私は戦争が好きなわけではない
     戦争は必要悪であることは確かだが、人間はやはり平和のうちに普段を生きるべ
     きだ。しかし…』

アドルフ『しかしだ!』


アドルフ『我々を彼らは、悪魔だ、戦争狂だと言う!』

アドルフ『そんな者たちこそ、私から言わせれば憂鬱症で草臥(くたび)れただけの、
     相手にすることすら躊躇われる馬鹿者たちだ!』

アドルフ『そのような者達は、生の本質から目を背け…日々を生きているに過ぎない。』

アドルフ『彼らは歴史と世界の歩みを、まったく理解しようともしないし、
     また、できない。』

この男は何のために、唯に、いったい何を語っているのだろうか?
抽象的な論旨だが…
これは、弁明なのだろうか?それとも、自分の矜持を誇っているだけなのだろうか?

アドルフ『ゆい。確かに好き好んで戦争をはじめる人間もいる。』

アドルフ『けれど、そのような者たちの末路などは、そら寒く悲惨なだけだ。』

アドルフ『私は、祖国の人々のために闘いを選んだ。
     そうせざろう得なかったのだ。しかし、それから逃れようとすれば…
     同じく、悲惨な結末が待っているだけだろう。』

唯「…」

この男の言葉は、何かを帯びている。
声音に宿っているのか、その精神のうちから湧き上がってくるのか。
その澄んだ青い瞳に潜んでいるのか?

その身振り手振りは大仰にもなり、祈りを捧げるような、
小さくまとまった"かたち"にもなる。



男の言っていることを、正直、唯は理解できていない。
けれど、一つだけ、解り出した、というか、ふと思い浮かんだことがある。

唯(アドルフにも、きっと…)

唯(きっと、じじょー(事情)があるんだ…)

唯「わかった。うん。」

唯「わかったよ。」


梓「本当ですか??あやしいなぁ…」

アドルフ『そうか…』

澪「まあ、唯のことだから…」

アドルフ『ゆいが理解してくれたのなら、私もうれしいよ。』

優しく微笑むアドルフ。

唯「うん!」

唯(そうだ、そうだよ。)

唯(こんなに純粋で優しいアドルフが…)

そのときである。突然に、部室の扉が開く。

さわ子「おはろー!」

さわ子が来たようだ。

アドルフ『!』

さわ子「ムギちゃん、お茶ー。砂糖はいつもの倍ね。」

そう言うと、律の隣に腰掛けるさわ子。

背もたれに大きく体重を預け、大股を開いて両足を無造作に放り出す。

さわ子「あー職員会議まじダルかった…」

首元からブラウスの中にに手を入れ、ぽりぽり、と脇を掻くさわ子。

アドルフ『…』

アドルフは目を疑っていた。


これが今朝、『美しくあおきドナウ』を優雅に歌い上げた、
あの女性だろうか?
奥ゆかしい"清純"な女性だった、はず。

さわ子「でさぁ、その間中ずっとね、」

さわ子「体育の○○先生が、チラチラいやらしい視線むけてくんの。」

澪「うわぁ…」

律「マジで!?付き合っちゃえよ!」

さわ子「冗談!あんな筋肉ダルマこっちから願い下げ、
    というか正直キモいだけ。ほんとまじウザいわ。」

アドルフ『これは、酷い…』

唯「あははは…」


さわ子「ん?そのピック…」

唯「あ…」

テーブルの上においてあったピックを拾い上げるさわ子。

さわ子「鼈甲製じゃないの?」

さわ子「高校生の分際でこんな物百億年早いわよ。」


澪「アドルフ・ヒトラーの親戚のギタリストの形見、
  みたいなものらしいんですけど…」

さわ子「ホントに!?」

突然、さわ子の目がきらきら輝きはじめる。

律「さわちゃんどったの?」

さわ子「大学生のころね、ナチスの服装真似てライブやってた時があったのよ!」

澪「親衛隊の黒い制服、とかでですか…?」

さわ子「そうそう!あたしはヴァッフェンSSの将校服だったわぁ…」

ヴァッフェンSSとは簡単に言えば、
ナチス党は親衛隊の、純軍事部門である。

梓「うわぁ…」

露骨に嫌悪感を示す梓。

アドルフ『…』

アドルフも梓に同じく。

さわ子「総統の『わが闘争』を入場券代わりにしたりとか…
    色々やったわねぇ…」

さわ子は昔の"杵柄"に思いを馳せているようだ。

さわ子「で、どっちの子孫?ウィリアムパトリック??アンゲラ・ラウバル??」

紬「ラウバルさんて方の物らしいんですけど…あ、紅茶どうぞ♪」

紬が紅茶を運んでくる。

さわ子「サンキュー♪」

さわ子「へー、じゃあ総統のお姉さんの孫かひ孫か…」

律「ヒトラーって兄弟がたくさんいたの??はじめて知った。」

さわ子「総統自身は上から三番目だっけ。
    小さいころに死んじゃった兄弟もいたらしいけど…」

さわ子「上の二人、兄のアロイスと姉のアンゲラと総統は、
    腹違い、お母さんが違うの。」


さわ子「ウィリアムパトリックは、アロイスの息子よ。」

さわ子「で、あとはお母さんが同じな妹、パウラ・ヒトラー。
    成人できたのは総統をあわせてこの4人よ。」

さわ子「アンゲラには息子一人と娘が一人いて、
    息子のレオには子孫がいるわ。」

さわ子「アロイスの息子がウィリアム・パトリックとハンツ。
    名前見てわかるように、
    ウィリアム・パトリックの方のお母さんがイギリス人で、
    アメリカに移住したんだけど…」

さわ子「ウィリアム・パトリックにも三人、男の子供がいて
    現在もその三人は生きてると思ったけど…」

律「よく知ってるな…」

さわ子「結構調べたもの!」

アドルフ『ああ…!』

アドルフは憐憫の表情を浮かべている。

アドルフ『なんと、なんと可哀相な娘だ…このような娘が、美しい歌をうたい、
     そして、教育者であるなど…』


アドルフ『日本人に深い同情を覚えるよ…』

唯「あは、あはは…」

唯はもう笑うしかない。

さわ子「…」

さわ子「ねぇ、ゆ、い、ちゃん??」

猫なで声を上げるさわ子。

唯「な、なにっ!?」ゾクッ

さわ子「そのピック、私に、ちょーだい?」

唯におねだりする、さわ子。


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最終更新:2010年03月22日 04:04