【AM0:00  真鍋 和】

澪「は……?」

部屋の外からは、原付の走り去る音が聞こえる。
十二月の寒空の下を走るのは、なかなか堪えるだろう。
私は原付なんて乗った事はなかったが、なんとなくそれが予想できた。
風も吹いているようだ。
窓ガラスは子供が何かを訴えるように、がたがたと泣いている。
いや、面白半分に私を煽っているだけかもしれない。

壁時計が0時を回ったところで、私は澪に告げた。
電話越しに聞こえてきた澪の声は、予想通り意味不明といった様子だ。

澪「ごめん和。よく聞こえなかった」

二度言うのはさすがに恥ずかしい。
一度目ですら、言葉と共に自分の尊厳が漏洩していく感覚に襲われた。
私は豪胆な性格ではないが、良識は持っているつもりだったから尚更だ。
だが、話の内容を飲み込んでもらえないと、澪に相談している意味がない。

時計の秒針はお構いなしに時を刻んでいる。

和「唯と一緒にいると……エッチな気分ていうのかな……そういう感じになるの」


しばらく澪からの返事はなかった。

澪がこの手の話を苦手としているのは重々承知の上だ。
きっと澪は今、私の言葉を反芻し、どろどろになるまで噛み砕き、何とか消化しようと必死になっているのだろう。

右耳に押し当てた携帯電話のスピーカーから澪の声が聞こえてきたのは、時計の長針がかちっと音を立てて動いてからだった。

澪「えーと……えっちな気分ってのはつまり……どういう事?」

和「自分でもよくわかってないんだけど……」

澪「うん」

和「唯ってよく抱きついてくるでしょ?今まではなんとも思わなかったんだけど、最近はそうじゃなくなってきたの」

澪「うん」

和「もっと唯に触りたい……とか……キスしてみたいとか……」

そこでまた澪は、私の言葉を理解するために黙ってしまった。


澪から電話がかかってきたのは、まだ時計が午後11時台を指していた頃だった。
二十分程、世間話をした後に、澪は切り出してきた。
全く自覚していなかったが、ここのところの私は浮かない顔をしていたらしく、それを心配して電話したのだと澪は言った。
恐らく受験で悩んでいるとでも思ったのだろう。
澪は何かあるなら私に相談してくれと言ってくれた。

しかし、どうやら私の悩みというのは、澪の予想の範疇から大きく外れていたようだ。
私はこの事を誰かに話すつもりはなかったが、自分一人でこれを飼い慣らせるほど、私のケージは大きくなかった。
私はベッドの上で丸めた膝の上に握り拳を作り、澪の返事を待たずに話し始めた。

和「澪に話したっけ?ちょっと前から私の家で唯に勉強を教えてるの。
   最初は唯の家でだったんだけど、あの子どうも自分の部屋だと集中できないみたいで」

澪はまだ黙り込んだままだ。

和「それで私の部屋で勉強を教えてたんだけどね、唯はいつもの調子で抱きついてくるし、私はこんな調子だし、どうしていいかわからなくて。
   それがストレスになってたのかな。澪は、律と一緒にいてそういう事ない?」

澪「ないよ」

それはそうだろう。
同性の友人に欲情する人間なんてそうそういるものではない。
それくらいわかっていたが、私が普通じゃないという事実に認め印を捺されたような気がして、ショックだった。

それくらい、澪ははっきりと否定した。


私は聞こえよがしな溜息をついてから、また喋り始めた。

和「やっぱりそうよね。それが普通よね。私、どうしちゃったんだろう。」

澪「あ、ごめん。えっと……和が変とかじゃなくて、うーん……今の話は私もちょっとびっくりしたから」

ちょっとどころじゃなさそうだけど。

澪「そういう人ってさ、和だけじゃないよね?実際世の中にはけっこういるみたいだし」

澪は困惑しながらも、私を気遣ってくれている。
しかし、慰めは解決にはならない。

和「ねえ、どうしたらいいと思う?」


澪「和はどうしたいの?」

和「わからない」

澪「えっと……唯と付き合いたいんだよね?」

和「わからない。付き合いたいってわけじゃないと思う」

澪「え?唯の事好きなんだよね?」

和「好き……とも少し違うと思う」

そこが厄介だった。
これが単なる恋愛感情だったら、相手が同性という事を除けば、普通の恋愛と同じように悩めばいいだけだ。
しかし、私の場合は、恋愛感情という大義名分を通さずに、性欲がまず動いている。
私が唯に抱いている感情は、恋愛よりももっと原始的で、本能的だった。
そのくせ下手な恋愛よりも私を揺さぶっていた。


澪「つまり、恋愛じゃなくて……単純に唯と、え……えっちな事したいってこと?」

和「うん。そういう事だと思う」

澪が私に幻滅し、軽蔑し、見放しても、私は澪を恨まない。
今の私は、言ってしまえば、欲望の赴くままに女性の身体を触る痴漢となんら変わらない。
ただ、実行するかしないかだけの違いだ。

澪「それは……良くないと思う」

和「私もそう思う」

澪「唯の事が好きっていうなら、難しいかもしれないけど私も応援できるんだけど」

和「好きとはやっぱり違うと思う。
   私も中学の時は好きな男の子がいたけど、あれとはぜんぜん違う」


澪「だったら和が我慢するしかないんじゃないか?」

澪は決して人を甘やかすような子ではない。
私もそうだ。
だからこそ、澪の言葉は理解できたし、同時に手厳しくも聞こえた。

和「うん……そうよね」

澪「我慢できそう?」

和「……自信ない」

私が弱音を吐くなんて初めてかもしれない。
これまでも年相応の悩みはあったが、それを吐露するのを抑えるだけの分別も備わっていた。
しかし、今の私はそれが機能していない。
そんな私が、唯に対する情欲をこの先も抑えられるとは思えなかった。

澪「いや、そこは我慢しないと唯が可哀想だろ?」

和「わかってるけど……」

澪「だったら」

和「わかってるけど自信がないの……」

澪はまた黙り込んで、言葉を探しているようだった。


和「だって唯ったら、こっちの気も知らないで手を握ってきたり、抱きついたりしてくるのよ?  唯が何もしてこなければ我慢できると思うけど、今のままじゃ自信ない……」

私はまた溜息をついた。
自分の息が、受話器越しに聞こえてくる。
少し嫌みっぽかったかなと後悔した。

和「ごめんなさい。頭じゃわかってるんだけど」

澪「いや、気持ちはわからなくはないけどさ。
   私も、ダイエット中にみんながお茶してると、我慢できなくてケーキ食べちゃうし」

澪はそう言って笑ったが、私は笑い返せなかった。

澪「和、相当参ってるんだね……」

和「うん。相当ね……」

私は隠さなかった。
友達に欲情しているなんて事を話してしまった以上、今更何を隠しても意味はない。
私という人間をいくら取り繕っても、とっくにそれは綻びているのだ。


澪「もしかして、他の女の子を見てもそうなっちゃうの?」

和「それはないわ。唯にだけよ」

今のところは……と言いかけて、私は言葉を切った。
澪に無用な警戒心を抱かせたくなかったし、実際、唯以外に欲情した事はなかった。
それはこれからも変わらない。
その事に何の根拠もなかったけれど。

澪「そう。じゃあ一時的なものなんじゃない?    
   私たちの年頃って、ホルモンバランスとか……そういうのが乱れやすいみたいだし。    
   よくわかんないけど……」

和「それならいいんだけど……。    
   でもその一時的なものが通り過ぎる前に、どうにかなってしまいそうで怖いのよ……」


澪「じゃあ、唯と少し距離を置いてみたら?    
   唯が可哀想な気もするけど、それくらいしかないんじゃないか?」

それはもうやってる。
唯が私の部屋で抱きついてきても、私はなるべく構わないようにしていた。
しかし、唯は唯だ。
そんなのどこ吹く風で、腕を絡めてくる。

和「もうやってるわ。でもさっきも言ったけど、唯はそんなのお構いなしなの。    
   勉強は自分でするようになってきてるけど、くっついてくるのは相変わらずよ」

澪「唯のあしらい方は、和が一番よくわかってるはずだけど」

和「……どうやってたっけ、私」

ここのところ、私は明らかに唯に甘い。
以前の唯は、私か憂に頼りっきりだったため、私は時に心を鬼にして唯を突き放していた。
それが唯のためだと思っていた。
しかし、今の唯は自立の道を歩み始めていた。
そのため、私に頼る頻度は下がっていた。
私はそれを嬉しく思う一方で、寂しいとも思っていたのだろう。
私の劣情の出所はきっとそこだ。
それがどういうわけか、性欲に変わってしまっているのだ。
これが私の自己分析だった。

今の私には、唯を軽くあしらう事なんて出来なかった。


澪「それなら、もういっそ唯に打ち明けちゃったら?」

和「私はあなたを見ていると、いやらしい気持ちになる……って?」

澪「いや、そこはもっと他の言い方で……ドキドキするとかそういうので」

ドキドキ?
私が唯に抱いている感情は、そんな可愛いものじゃない。
確かにものは言いようで、その言い回しを使っても嘘にはならないのかもしれないけど。

澪「案外、唯は喜ぶかもしれないよ。チューするくらいなら平気かも」

和「私がそれ以上の事をしようとしたら?」

澪「それ以上って……どうかな……。さすがに拒むかもしれないな」

和「そうよね」

澪「私が唯だったらな。でも、私と唯は違うから。    
   貞操観念だっけ?私はちょっとそのへんが堅すぎるのかもしれないし。    
   子供なのかな、私」

それも言い方の問題だ。

和「子供じゃないわ。しっかりしてるのよ澪は。私よりずっと」


澪「唯はそのへんどうなんだろうな。
   私よりはガチガチじゃなさそうだけど」

和「最後の一線は守る子だと思う。羞恥心やプライドはまるでないけどね」

澪「じゃあやっぱり、チューするくらいで和が止めればいいんじゃないか?」

和「それも自信ないわ……」

澪「和らしくないよ」

和「私もそう思う」

とりあえず私が我慢すれば、根本的な解決にはならなくても、その場しのぎにはなる。
ただ、その我慢の糸が脆すぎるのだ。

澪の提案に対して我慢できないの一点張りな私は、唯よりもよっぽど子供だった。


澪「明日も唯に勉強教えるの?」

和「うん」

澪「明日は我慢できそう?」

和「多分まだ大丈夫だと思う」

澪「辛いかもしれないけど、そうやって我慢していくしかないんじゃないかな」

私は何も答えなかった。
「我慢できない」なんていうのは、つまるところ、「我慢したくない」というだけの事だ。
私が澪に求めていたのは、我慢せずに問題を解決する方法の提示だった。
そんな神懸かり的な方法なんて、どこにも存在しない事くらいわかっていたが。

澪は私の沈黙からそれを察してくれたようだった。

澪「そんなに……えーと……唯としたいの……?」

和「……うん」


澪「唯の何がそんなに……あー……そそられるんだ?
   私は毎日一緒に部活してるけど、そういうのは全然……」

和「それが普通だと思うわ」

澪は困ったように笑った。

和「唯の声とか、匂いとか、感触とか……唯が纏っている空気とか……そういうのにそそられてるんだと思う」

澪は何も答えなかった。

和「ごめん。不潔よね」

澪「そんな事ないよ。高校三年にもなって、そういう話もできない私が子供なんだよ、きっと」

そこまで言って、澪は何かを考えるように黙り込んだ。
そしてゆっくりと、子供が親にイタズラの告白をするように、話し始めた。

澪「あの……そういう時ってさ……自分で処理する人もいるみたいだよ……」


澪が何を言っているのか理解するのに、数秒かかった。

自慰の事を言っているのだとしたら、澪も今、随分恥ずかしい思いをしているのだろう。
それを押し殺してまで解決策を考えてくれている澪には、頭が下がる。
実際、悪くない案だった。

和「でも私、それ、した事ないわ……」

澪「私だってないよ……」

和「……それをしていれば、唯と一緒にいても我慢できるのかな?
   前みたいに気兼ねなく、唯を甘えさせてあげられるのかな?」

澪「わかんないけど……私にはもうそれくらいしか思いつかないよ……」

和「わかった。ありがとう。試してみる」

澪「ねえ、私今、すっごく恥ずかしい事言ってるよね?」

和「そうね」

澪「うぅ~…」

和「私も大概だけどね」

そう言って、私と澪は苦笑した。


澪「どう?ちょっとは元気になった?」

和「うん。ありがとう澪。こんな時間まで変な話しちゃってごめん。
   電話代大丈夫?」

澪「いいよそんなの。それに、変な奴にはもう慣れてる」

そう言って笑い合った後、また明日と言って、私達は電話を切った。
ずっと携帯電話を押し当てていたせいで、右耳が疼いた。

壁に目をやると、時計の針はすでに午前1時を回っていた。
何かが解決したわけではなかったが、澪が話を聞いてくれた事は、袋小路に追いつめられていた私にとって救いになった。
そこから抜け出すための活路が自慰行為というのは、我ながら情けなくなったが。

私は早速ベッドに潜り込み、唯の事を考えた。
自分でもどこで見知ったのかわからなかったが、それのやり方は心得ていた。
私はショーツの上からゆっくりと指で恥部をなぞった。

外を吹く風は、私を嘲るように、窓ガラスをしつこく揺らしていた。

【AM1:12】




【AM06:47  秋山 澪】

カーテンを開けると、風はまだ吹いていたが、電線の揺れが小さい事から幾分か弱まっているとわかった。
今日のところはお役御免になった目覚まし時計が鳴る前に、私はアラームを解除した。

箪笥から下着を取り出し、ハンガーで壁にかけていた制服を抱えて、私は自分の部屋を出た。
階段を降り、脱衣所に入ってパジャマ脱ぐと、長い髪がぱちぱちと静電気を起こした。
磨りガラスのドアを開けて浴室に入ると、冷えきった空気が肌を刺した。
蛇口を捻って少したつと、シャワーヘッドから勢いよく流れる水が熱を持ち始めた。
私はそれが十分に温まった事を手で確認すると、頭からお湯を浴びた。

昨夜の和の話は、私にとって大分刺激的だった。
和を軽蔑したり、幻滅したりする事はなかったが、和という女の子に対する私の見方は大きく変わってしまった。
私は犯罪の片棒を担がされたような気がして、朝までまどろむ事もできず、一晩中ベッドの中で、和が私に言っていた事、私が和に言った事を思い返していた。


我ながら恥知らずな提案をしたものだ。
それを受け入れた和も和だ。
まさかそこまで切羽詰まっていたとは思いも寄らなかった。
髪と身体を洗い、浴室を出て、バスタオルで全身を拭き終わると、私は下着をつけた。
また少し胸がきつくなっている。
律や唯は羨ましがっているが、今の所、胸が大きくて得をした事などない。
せいぜい、水着が栄えるって程度だ。

シャツを着て、制服のジャケットを羽織っても、胸の膨らみがよくわかった。
衣服で覆い隠してもなお、自己主張をやめようとしないこの胸が、私はなかなか好きになれなかった。
男の人、もしくは和みたいな人にとって、この無用な膨らみが魅力的に見えるというのも理解に苦しむ。
いや、和は胸の小さい唯に夢中になっているんだから、やはり胸の大きさなんてステータスにはなり得ないのではないだろうか。

私は部屋に戻ると、ドライヤーで髪を乾かした。
下品な胸と違って、私はこの髪をとても気に入っていた。
小学校の頃だったか、律が綺麗と言ってくれた髪だ。
それで騒がれたのは不快だったが、褒められた事は素直に嬉しかった。


ママに呼ばれて台所へ行き、朝食を済ませ、テレビのニュースをぼんやり眺めていると、インターホンのベルが鳴った。
私は通学バッグを肩にかけ、マフラーを巻き、玄関で靴を履き、家のドアを開けた。

律「おっす。おはよう澪」

澪「おはよう」

今日は当たりだ。

小学校で仲良くなって以来、律とはよく一緒に登校していたが、毎日というわけではなかった。
いい加減な性格の幼なじみは、私の家に寄ったり寄らなかったり……要は気まぐれで登校しているのだ。
学校を休む時は一応私に連絡してくるが、それもまちまちだった。
私の日常に賑やかさを与える律無しの登校は、寂しいとまではいかないが、どこか物足りない。
今みたいに寒い時期は尚更だ。
それはiPodで埋められるものではなかった。
そのため、律が私の家に寄ってくれた日は、私にとって当たりだった。
私が毎朝律の家に寄ればいいだけの話だが、それが出来るほど私は素直な子に育たなかった。

澪「いってきます」

律「おばさーん!いってきまーす」


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最終更新:2010年03月29日 01:50