律「うぅ……さっみいいいぃ……」

信号待ちの最中、律は私の隣で身体を小刻みに震わせた。

律「おでこ出してるから余計に寒いぜ……」

澪「じゃあ出さなきゃいいじゃん」

律「これが私のアイデンティティなんだよ。トレードマークなの!」

信号が青になり、私と律は横断歩道を渡り始めた。
私のほうが身長は高い。
歩幅も私のほうが大きい。
横断歩道の白線を基準にして見比べると、それがよくわかった。

律「なんだよ。ジロジロ見て。そんなに私の脚は艶めかしいか」

澪「え?あ……いや、別に」

律「はぁ……?」

幼なじみという点において、和と唯、私と律の関係は共通している。
これから和の悩みを私が軽減させてあげるために、私は律を観察してみる事にした。


私が唯の立場だったら、どう思うんだろう。
つまり、律が私を色情を以て見ていたら。

律「みお~?どうした?
   なんか今日変だぞ?うんこ我慢してんの?」

私は律の変化にあまり鋭くなかったが、律は私の変化に敏感だ。
その上でからかってくるからタチが悪い。

律の頭を小突いてから、私は答えた。

澪「うーん……昨日よく眠れなかったから、頭がぼーっとする」

律「私はお前に殴られて、頭がガンガンするんだけど……」


頭をさすりながら、律は言った。

これがいつもの私と律だ。
この律が、何かのきっかけで私に欲情したら……どうだろう、多分、律は和みたいに悩まないのかもしれない。

やらせろ! とでも言って襲いかかってくるのだろうか。
いや、それは違う。
律は強引なところがあるけれど、最後には気を遣うタイプだ。

じゃあ甘える感じで迫ってくるんだろうか。
それも違う気がする。
甘えたところが無いわけではないが、最初に意地を張って、喧嘩になって、仲直りして、それからようやくほんの少しだけ甘える程度だ。

結局のところ、私が知っている律は、「私を友達として見ている律」であって、「私に欲情している律」ではない。
それはもはや違う人間だ。
律が欲情したらどう迫ってくるかなんて、幼なじみの私といえど想像不可能だ。

という事は、唯も「唯に欲情している和」は知らないわけだ。



律「そうそう、私さ、昨日センターの過去問やってたんだけど、英語8割いったんだぜ!
   すごくない?」

澪「へえ~。すごいな。頑張ってるじゃん」

私は8割5分が当たり前になっていたが、ここでそれを言うのも野暮なので、黙っておいた。

律「へへ~。おかげさまでなんとか一緒の大学に行けそうだな!」

たまにこういう事をしれっと言うところが、またタチが悪い。
私はたちどころに嬉しくなってしまい、それを顔に出さないように努めなければならない。
胸のあたりがむずむずする。
口を開いたらにやけてしまいそうだ。
頭がふわふわして、言葉に詰まる。

律「お?ははっ!澪が照れてるぞ~!」

さすが、私の変化に敏感なだけあって、それもあっさり見破られてしまった。

澪「バカッ!」
私は照れ隠しで律の頭を小突いた。
さっきよりも強く。
こういう事は念入にやっておかないと、すぐにまた律は、私が尻尾を振りたくなるような台詞を連発する。
たまったもんじゃない。

また信号は赤だ。
立ち止まった私と律の前を、車が何台も通り過ぎていく。

律「いてて……。これじゃせっかく覚えた熟語も飛んじゃうじゃん……」

そう言って口を尖らせながらぶつぶつ言っている律は可愛い。
可愛い……そう、私が律を可愛いと思う事は、ある。
だがそれは決して性欲ではない。
恋愛感情でもない。
それでも、もし律が私に欲情したら……どう迫ってくるかは置いといて……それが私の知らない律だとしても、もしかしたら私は受け入れてしまうかもしれない。
律との縁がぷっつり切れるよりは、そっちのほうがマシだ。

小学校で知り合って以来、私の人生の大半は、律と共有していて、律によって決められていた。
もちろん、最終的に自分の行く先を決めるのは私の意志だ。
しかし、常に律が殿を務めていてくれたおかげで、私は安心して道を進む事が出来た。



風が少し強くなった。

律「おい澪。ぼーっとし過ぎだって。唯じゃないんだからさぁ。
   ほら、もう信号青だぞ。行こうぜ」

そう言うと律は私の手をとって、横断歩道を小走りで渡った。
私の冷たい手を引く律の小さい背中は、不覚にも頼もしく見えた。
律は冬の風をものともせず、道を闊歩している。
律が私に欲情して、私と律がそういう関係になったとしても、結局それはいつもそうだったように、まさに今そうであるように、律に新しい道を示してもらうだけの事で……特別な事ではないのかもしれない。


じゃあそれを受け入れたとして、私は律とそういう事ができるだろうか。

律とキスしたり、互いの身体を触り合ったり。

……なんだこれ。
私にしては随分過激な事を考えてるな。
徹夜明けの、論理も倫理もなくなっている頭じゃなかったら、とっくに卒倒してそうだ。

律が私の身体を触る事は……まぁよくある。
ふざけて胸を揉まれた事もある。
そのたびに、私が律を叩いてやめさせる。
しかし、私が今仮定している状況は、律は真剣に私を触り、私も律を止めずに律の身体を真剣に触るというものだ。

無理だ。
無理無理。
恥ずかしい。

恥ずかしい?

じゃあ恥ずかしさを取っ払ったらどうなる?



嫌ではない。

触ってほしいとは別に思わないが、触られて嫌だとも思わない。
やはり私は、受け入れてしまうかもしれない。

律が、私が恥ずかしい思いをしないように配慮してくれるという条件つきで。

私でさえそうなのだから、羞恥心のない唯なら、あっさり和を受け入れるのかもしれない。



私は律に手を引かれたまま、教室に着いた。

律「おーい。いつまで握ってんだよー」

いつの間にか私は、子供が母親の手にしがみつくように、律の手を握っていた。
私は慌てて手を離した。
律に抱かれる自分を想像しながら手を握っていたなんて、いくらなんでも寝ぼけ過ぎだ。

暖房がよく効いた教室に、人はまだまばらだった。
私はその中に和を見つけた。
唯の姿はまだない。
今頃は憂ちゃんと仲良く登校中なんだろう。

澪「おはよう和」

私はマフラーを外しながら挨拶した。

和「おはよう。
   昨日はごめん。ちゃんと眠れた?」


澪「ん……ちょっと寝不足。でも気にしなくていいから。
   和こそ大丈夫?」

そこまで言ったところで、私は昨夜自分がした提案を思い出して恥ずかしくなった。

和「うん。おかげさまで」
ばつが悪そうに、和は答えた。
どうやら本当に実行したらしい。

律「む?澪さーん、なに赤くなってるんですか~?」

澪「うるさい!なってない!」

さっきまで律を使っていやらしい妄想を展開させていたくせに、和が昨夜していたであろう事を思い浮かべたら、私の頭はあっと言う間にフリーズしてしまった。


和「澪、昼休みにまたちょっと話したいんだけどいい?」

週番だった和は、黒板の端に「12月14日」と、今日の日付を書きながら言った。

昼休みまでに私の頭が熱を冷ましてくれていれば何の問題もない。
が、今ここで和の申し出を断る事もできなかった。

澪「うん。いいよ。私も昨日の事で話したい事があるし」

和はありがとう、と答えた。
そこでその話題は打ち切られ、私と和と律は世間話を始めた。
少しして、教室に入ってきたムギもそれに加わった。

唯が教室に姿を現したのは、ムギが来てから5分程経ってからだった。


唯は教室に入ってくるなり私たちのほうへ寄ってきて、バッグを肩にかけたまま輪に入ろうとした。

和「唯、先にバッグ置いてきたら?」

唯「あ……えへへ、そうだね」

なるほど、そう言って笑う唯は確かに可愛い。
が、やはり欲情はしない。
和は特に変わった様子が無いけれど、今も胸の内はドキドキしているんだろうか。

バッグを置いた唯は、和の隣で再び私たちの輪に加わった。

私たちの会話の内容のほとんどは、受験に関するものだった。
ちょっと前まで受験の仕組みすらわかっていなかった唯と律も、今では当たり前のように、赤本だ偏差値だ判定だという言葉を口にしている。


不意に、何かに気づいたのか、ムギがそわそわし始めた。
なんだろうと思い、ムギの熱い視線の先に目をやると、会話をしながら唯が和にすり寄っている。

そのまま唯は和に抱きつく格好になり、和はそれを意に介さない様子で私たちと会話を続けている。

私はとっさに目を逸らした。
こういう光景は見慣れていたはずだが、和の事情を知ってしまった今、正視に堪えない。
不快ではないが、得体の知れないぬったりとした背徳感が、私を覆った。
自分が世界一道徳に悖る人間に思えた。
私の考え過ぎかもしれないが。

律はそんな私に気づいたようだった。
でもそれも、私の考えすぎかもしれない。

【AM8:19】




【AM11:52  田井中 律】

唯「えーっと……カノッサの……う……なんだっけ……」

二限目の授業中、私が頬杖をつきながら世界史の資料集をぺらぺらめくっている横で、先生に当てられた唯は必死で教科書をめくりながら答えを探している。

屈辱な。
カノッサの屈辱。
今のお前も屈辱だけど……いや、唯に限って屈辱なんて事はないか?

和「唯、屈辱だよ」

和が声を潜めて、唯に答えを教えた。

唯「和ちゃんひどいよ……。そりゃ確かに屈辱だけどさぁ……」

律「ぶふっ!」

教室で笑いが起こった。
先生も吹き出した。
和は呆れたように頭を抱えている。
澪とムギは苦笑いだ。
唯だけが何もわからないといった顔をしている。

席に着いた唯は、和に説明されて、ようやく状況を把握したらしく、気恥ずかしそうに頭をぽりぽりと掻いている。


世界史は嫌いだった。
英語、国語、数学なら、理屈で考えればまあ答えは出る。
生物も、理屈で考えればそれなりになんとかなる……時もある。
世界史はそうもいかない。
物事を暗記している事が大前提だ。
目下、受験勉強で最も私を苦しめている科目だった。

それでも、世界史の授業自体は嫌いじゃなかった。
私は世界史の資料集に載っている、遺跡やら絵画やらを眺めるのが好きだったからだ。
退屈な教科書と違って、これは読む人を楽しませる作りになっている。

今日、私の目に留まったのは、「曼陀羅」とかいう、仏教系の絵図だ。
人間の魂が、現世と天国と地獄をぐるぐる回っている絵。
生前の行い次第で、天女になったり、犬畜生になったり、人間になったりするらしい。
天女になったらもう安泰……と思いきや、そうでもないらしい。
天女もいつかは枯れる、とここには書いてある。

天女ねえ。相当美人さんなんだろうなぁ。

このクラスが一つの世界だとして、天女っぽいのは……まぁ澪だろう。
幼なじみの欲目があるのかもしれないけど、あいつは見た感じ女として完璧だ。
すぐ殴る事を除けば。

もちろんそんな事は、いくら口数の多い私でも、本人には言わない。
言う事があるとしたら、からかうついでだ。あぁ、小学生の時はしょっちゅう言ってたっけな。



ムギも天女かなぁ……。
私と唯と和は人間ってところだろう。
犬畜生ではない……と思いたい。
あ、唯なら犬畜生っていうか、ワンコっぽいかも。

そんな具合にアホな事を考えてる間に、授業は終わった。
授業が終われば、もう資料集なんぞに用はない。
私はさっさと机の上を片づけ、バッグから弁当を取り出して、意気揚々と唯の席へ向かった。

なんでかわからないけど、私も澪もムギも和も、昼休みは決まって唯の所に集まって弁当を広げるようになっていた。

唯には人を引き寄せる妙な力があった。
もしかしたら、唯は犬どころか、神サマレベルなのかもしれない。

私は唯の隣の席の子がいなくなったのを確認すると、その机を借りる事にした。



唯「いや~赤っ恥かいちゃったよ」

唯は菓子パンを頬張りながら言った。

コンビニで買っているのか、あるいは授業前に売店に行っているのか、唯の昼食は菓子パンが一つか二つ、それと100円そこそこのパック飲料と決まっていた。
今日の唯の昼食は、いちごジャムパンとイチゴ牛乳。
うわ……甘ったるいなぁ。

こいつ、いつか糖尿病になるんじゃねーの?
いくら食べても太らないって事は、内臓に脂肪がついてるって事だ。
あずにゃん分より糖分をとらないと死ぬようになっちゃうぞ。

ていうか、憂ちゃんがいるんだから、弁当くらい持たせてくれそうなもんだが。

律「唯、前から思ってたんだけどさ、憂ちゃんって弁当は作ってくれないの?」


唯「うん。朝はお母さんがいるから、お昼はこれで食べなさいって五百円くれるんだ~」

律「ふーん。そうなのか」

それは憂ちゃんが弁当を作らない理由にならないだろ……と思ったが、あぁ、なるほど、憂ちゃんはそうやって親を立てているのだ。
しょっちゅう旅行をしているくらいだから、けっこうな稼ぎのある仕事を、唯の両親はしているはずだ。
例えば一流商社とか……まぁ子供の私にはよくわからないけど。
帰りの遅い良心に代わって、家事全般を取り仕切っているのは憂ちゃんだが、朝くらいは母親に母親としての仕事を任せて、自尊心……と言うときこえは悪いが、それを満たしてやっているのだろう。
それが例え五百円玉を渡すだけの仕事だったとしても。

なんにせよ、私がこれ以上平沢家の事情を詮索するのは、無粋ってやつだ。
現状、唯の家は家庭円満と言って差し支えなさそうだし。
五百円玉がランチなんてのは、どこの家庭でもある事だ。
それで唯が不憫だなんて事はない。


唯「ごちそうさま~」

そう言って唯は、私とムギの弁当を物欲しそうに見た。

律「むっ……やらないからな!」

唯「そんな事言ってないよ。言ってないけどさ~……おいしそうだねぇ」

私は唯にとられる前に、急いで弁当箱を空にした。

唯「ああっ!私の卵焼き……」

律「私のだっつーの」

こういう時は、ムギと澪と和が、唯に餌を与える。
いや、唯が神サマならお供え物か?

唯「んま~。ムギちゃんありがとう~」

唯は満面の笑みを浮かべて、ムギから献上されたマッシュポテトを飲み込んだ。

そこでようやく私は気がついた。

律「あれ?そういや澪と和は?」


唯「あ、用事があるって言って、昼休みになったらすぐに二人でどっか行っちゃったよ~。あやしいよねぇ…」

そう言って唯はにやりと笑った。

律「あ~、そういや朝そんな事言ってたなぁ。二人で何をコソコソやっているのやら」

私もにやりと笑う。

澪と和が仲良くしていたところで、今更私が動揺する事はなかった。
前に和絡みで澪と気まずくなった時は、私はまだ和をよく知らなかったが、今はそうじゃない。
和も友達の一人だ。
澪と和の仲が深まったところで、澪をからかうネタが一つ増えるってだけだ。

どうせ今も連れションか何かだろ。
すぐ戻ってくるだろうと思い、私は唯とムギと談笑しながら、二人が戻ってくるのを待った。

しかし、二人が教室に戻ってきたのは、昼休みが終わってからだった。
澪はどこか落ち着かない顔をしている。
いや、正確には、落ち着かない事を隠そうとしている顔だ。

眉間にシワを寄せて、しきりに瞬きをしている。

これはからかうチャンスだ。


律「お二人さ~ん、何やってたんですか~?」

和「うん、ちょっとね」

唯「なになに~?内緒話?」

和「まあ、そんなところ。ほら、授業始まるわよ」

律「あやしいなぁ~。逢い引きですか澪しゃん?」

澪「別になんでもないよ。律には関係ないだろ」

ぶっきらぼうに澪は答えた。

和「澪、大丈夫?」

澪「あぁ……うん。平気」


あらあら、こいつら本当に仲良いな。
デキてんのか?

それになんだっけ、内緒話?

そういえば、私と澪は今まで秘密を共有した事がなかった。
私はそういった事を澪に求めてはいなかったが、和はほんの2年かそこらで、私に出来なかった事をやってのけてくれたわけだ。

おいおい和、お前の仕事は唯の世話だろ?
澪を見守るのは私の仕事のはずだ。

……アホか。
これじゃあの時の二の舞だ。
考えるな、私。

憂ちゃんが家で母親を立てているように、和が私を立てるなんて事は期待できない。
そもそもそんなややこしい関係は御免だ。

私が澪と和にさらに突っ込みを入れようとするのを待たずに、先生が教室に入ってきたため、私は渋々席に着いた。

その授業が終わっても、澪はまだそわそわしていた。

【PM2:50】


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最終更新:2010年03月29日 01:52