【PM0:35 真鍋 和】
昔の桜高は、一つの学年に十クラス以上あったらしい。
それが今は少子化の影響もあってか、クラス数は減り、校舎内にはいくつか空き教室ができていた。
和「ここでいいかしら」
澪「うん、いいよ」
私と澪は、その空き教室の一つを使って、昨日の話の続きをする事にした。
カーテンは開いていて、日の光が射していたものの、室内は薄暗く、空気も冷えていた。
私が入り口に並んだ横のスイッチを押すと、蛍光灯が点いて、室内は明るくなった。
暖房が低いうなり声をあげて稼働した。
が、室内を暖めるには時間が必要なようだった。
適当な机と椅子を並べて、私と澪はそこに弁当を広げた。
和「あ……ごめん。食事中にする話じゃないわね……」
今更になって私は気づいた。
まあ、食事中じゃなかったところで、この話をするのに相応しいシチュエーションなんて思いつかないけど。
澪「いいよ。気にしなくて。具合が悪くなったら耳塞ぐから。
……っていうかそんなにキツい話をするつもりなの?」
和「じゃあなるべくオブラートに包んで話すわ」
澪「……お願いします」
話すと言っても、もう相談ではなく愚痴でしかなかった。
昨日の時点で、私が我慢するしかないという結論はもう出ているのだ。
私が今からするのはただのガス抜きだ。
それを澪みたいな繊細な子の仕事にしてしまった事は、本当に申し訳なく思う。
和「えっと……それで、昨日の澪の提案を試してみたんだけど……」
澪の顔がみるみる赤くなっていく。
和「あ、ごめん。やっぱりやめとく?」
私がそう言い終わる前に、澪は耳まで真っ赤になっていた。
澪「だ……大丈夫!続けて」
和「……一応それで悶々とした気持ちは収まったんだけどね、罪悪感がすごかった」
澪「……罪悪感」
澪が私の言葉を反復した。
和「今までああいう行為をした事がなかったのもあるけど、唯を汚しちゃった気がして……。
変な言い方になるけど、畏れ多い事のような気がしたの」
澪「……うん」
和「これから先、ああやって自分を保っていかなきゃいけないのよね」
澪「うん……。確かにそれはそれで大変かもね。
そう言えば朝も唯は和に抱きついてたけど、やっぱりああいう時も我慢してて苦しくなるの?」
朝?
そう言えば、確かに唯は私に抱きついてきた。
そうか、ああいう話をしてしまった以上、私と唯の日常も、澪にはポルノ映画のワンシーンに見えるようになってしまったのだ。
和「う……よく見てるわね」
澪「だって……」
和「みんながいる時……人目がある時は大丈夫なの。
理性がちゃんと働いてるから、妙な衝動に駆られる事もないわ。
澪に言われるまで、抱きつかれた事を忘れてたくらいよ」
澪「そういうものなんだ……」
和「私が変になっちゃうのは、唯と二人っきりで、唯がくっついてきた時だけ」
澪「そっか。私、朝も唯と和を見て恥ずかしくなっちゃって。
……ああ、そうそう。それで私も色々考えてみたんだけど……」
そこで澪は言葉を続ける事を躊躇った。
澪「和、絶対誰にも言わない?」
……?
なんだろう。
和「言わないわ」
澪「本当に?絶対に絶対にぜーったいに誰にも言わない?」
和「うん、絶対言わない」
澪は深呼吸をした後、意を決したように話し始めた。
澪「よく考えてみたんだ。私が唯の立場だったらどう思うかって。
つまり、和が唯に対して感じている事を、律が私に対して感じていたらどうだろうって」
私は小さく頷いた。
澪「昨日は、私が唯だったら拒むかもしれないって言ったけど、案外そうでもないかもしれないんだ。
私、受け入れちゃうかも」
和「受け入れる?」
澪「だから……つまり……そういう事されても許せるかもってこと」
そこまで言って、澪は顔を両手で覆った。
これ以上この子に恥ずかしい思いをさせるのは心苦しい。
恥ずかしいのは私も同じが、私の場合は自業自得だ。
私は澪が言わんとしている事を、代弁する事にした。
和「同じ立場の唯も、私に迫られても拒まないんじゃないかって事?」
澪は顔を両手で覆ったまま頷いた。
それはどうだろうか。
恐らく澪は、あれこれと想像した上で、そういう結論に達した。
私の話を聞いて、心の準備とでも言うか、それがあるからこそ、受け入れる事ができると思ったのではないだろうか。
和「それはどうかしら……。
澪は私の話を聞いて、律が迫ってきた時の事を考えられたからそう思うんじゃない?」
澪はようやく顔を上げた。
さっきよりも顔は赤い。
早めに話を切り上げないと、この子は本当に倒れてしまいそうだ。
澪「……そうかも。和の話を聞いて想像したから、覚悟ができたのかも。
そうじゃなかったら、多分私は律を殴って……ううん、それすら出来ずに怯えるだけかもしれない」
怯える。
確かにそうだろう。
唯も何の心の準備もなく私に何かされたら、絶対に怯えて、私達の関係は破綻する。
そして二度と元には戻らないだろう。
澪「そっか……。
じゃあ、唯も私みたいに、一度ちゃんと考えた上でなら構わないんじゃないか?」
澪の恥ずかしさは峠を越えたようだが、顔はまだ真っ赤なままだった。
和「それだと唯に話さなきゃいけないよね。昨日も言ったけどそれは無理よ……」
澪じゃなくても、さすがにそれは恥ずかしい。
まして私は、十年以上、唯に姉貴風を吹かせていたのだ。
話した時点で唯が怯えて私から離れていく可能性だって十分にある。
澪「だよね……。でも私でさえ大丈夫なんだから、唯は尚更大丈夫そうだと思うよ。
私はなんだかんだで律に引っ張られてきたし、和と唯もそういう感じでしょ?もし……」
澪はまた恥ずかしそうに俯いた。
澪「もし唯と和が……え、えっちな関係になっても、それは特別な事じゃないと思うんだ」
それは新説だ。
仮に首尾良く私と唯が肉体関係を持ったとしても、私はその先の事も案じていた。
私と唯の関わり方が今までと変わってしまうのは嫌だった。
澪「今まで私は、良い事も悪い事も、色んな事を律に教わったてきた。
……えっちな事を教わっても、結局そういうもののひとつでしかない気がするんだ。別に特別じゃない」
エッチが特別じゃないなんて、貞操観念がしっかりしている澪とは思えない大胆な発言だった。
きっと彼女にとっては、エッチ以上に、律という人間が友達として特別なのだろう。
和「なるほど……。確かにそういう考え方もできるわね」
澪「唯が私みたいに考えるって保証はないんだけどね……」
和「うん。それを唯に求めるのは身勝手よね……。
だからやっぱり、私が我慢していくしかないんだと思う。
自分を慰めて罪悪感を感じるのも、自業自得なんだし」
結局、最初からこの結論以外に答えはないのだ。
私が禁忌を破らなければ、何の問題もない。
自分からそれを口に出来たという事は、どうやら私のガス抜きも終わったようだ。
和「ありがとう澪。大分楽になったわ」
澪「はぁ……」
澪が安心したように、大きく息を吐いた。
会話の流れは昨日とあまり変わらなかったが、私も澪も相当深いところまで自分をさらけ出していたため、疲弊の度合いは昨日よりも高かった。
澪「……ていうかさ、私さっきから当たり前のように、律が私を~って言ってるけど、実際そんな事は全然ないんだよな。
なんだか律に申し訳ないよ……」
澪にそんな想像をさせたのは私だ。
万が一、それがきっかけで二人の仲がこじれてしまったら、私はいくら詫びても許されたものではない。
和「ごめん」
澪「あ、そういうつもりで言ったんじゃないよ。
気にしないで」
和「そろそろ教室に戻りましょう。律に焼き餅焼かれちゃうし」
澪「あいつがそんな繊細なわけないって。
それに、私まだ落ち着かないっていうか……めちゃくちゃな想像した後だから、律の顔見たら倒れそう。
それこそ律に何言われるかわかったもんじゃないよ」
確かに、澪の顔はまだ真っ赤だ。
和「じゃあ、とりあえず昼休みが終わるまではここでいいかしら」
澪「うん。さ、お弁当食べよう。私たち、話に夢中で一口も食べてないよ」
そう言って笑い合った後、私達は弁当に箸をつけ、お互いの幼なじみの昔話をしながら、昼休みを不用になった教室で過ごした。
結局、私達が部屋を出る頃になっても、暖房は室内を暖める事ができていなかった。
【PM1:22】
【PM1:24 秋山 澪】
和「はぁ……落ち着かなきゃ」
教室のドアの前で、和は自分に言い聞かせていた。
なんだ、和もそうだったのか。
動揺しているのは私だけじゃなかったんだ。
私と和は深呼吸をした後、教室のドアを開けた。
自分の教室は、やはりさっきまでいた空き教室とはまるで違う。
最初から蛍光灯が点いているし、埃っぽくない。暖房も良く効いている。
何より活気がある。
12月の中旬という、受験生が最もピリピリする時期と言えど、人がいるのといないのとでは訳が違った。
和の後に続いて教室に入った私の目に、唯とムギと談笑している律の姿が入ってきた。
律はすぐに私に気づいた。
私はとっさに律から目を逸らした。
頭の中で、現実では絶対にありえない律を空想してしまったという事が、私の心を軋ませた。
それが羞恥心なのか罪悪感なのか、私にはわからなかった。
律「お二人さ~ん、何やってたんですか~?」
和「うん、ちょっとね」
律の冷やかしを和があしらう。
ほら、やっぱり律は焼き餅なんて焼かない。
こいつは私をからかう事を生き甲斐にしているような奴だ。
それにしても、和なら受験の話をしてたとか何とか言ってごまかせそうなものだが、瞬間的にそれをできなかったという事は、それだけまだ動揺しているのだろうか。
律「あやしいなぁ~。逢い引きですか澪しゃん?」
律は相変わらず律だった。
私をからかう律の目には、情欲の色なんてまるでない。
また心が軋む。
澪「別になんでもないよ。律には関係ないだろ」
駄目だ。これじゃ何かあると言ってるようなもんだ。
和のあしらい方のほうが、ずっとマシだ。
つくづく私は蚤の心臓だ。
たまたま教室に先生が入ってこなかったら、律と唯に質問責めにされるところだった。
授業中も、私の頭の中は唯と和、それから律の事でいっぱいだった。
特に、律の事となると、妄想の内容は階段を三段飛ばしで昇っていくように、どんどん過激になっていった。
徹夜明けで正常に機能しない脳味噌が、それに拍車をかけた。
そのおかげかどうかはわからないが、私が授業中に居眠りという失態を演じる事にはならなかった。
授業が終わる頃には、私の空想上の律は私の上に跨り、私の乳房を舐め回していた。
こんな妄想やめればいいのに、どうしても止まらない。
やっぱり今日の私はどうかしている。
私は机の上に顔を臥せて目を閉じ、妄想をかき消そうとした。
律「澪~どうした?」
最悪のタイミングで律は話しかけてきた。
自分の顔が紅潮していくのがわかる。
顔を隠しておいて良かった。
澪「……ちょっと眠いからそっとしておいてくれ」
私は顔を臥せたまま答えた。
今の私の顔は人に見せられたものではない。
律「いや、次音楽だし。教室移動しないと。行こうぜ」
澪「わかってるって。ちゃんと行くよ」
律「えぇ?なんだよ、一緒に行こうぜ」
ああ、そうだ。
律はこういう奴だ。
澪「いいって。先行ってて」
机に突っ伏したまま私は答えた。
律「今寝たらそのままになっちゃうじゃん。ほら、行こうって」
澪「いいってば!放っといて!」
つい声を荒げてしまった。
しかしそのおかげで、妄想の大半をかき消す事ができた。
律「人がせっかく誘ってるのになんだよもー。
わかったよ。行こうぜ唯」
よし。
早く行け。
お願いだから早く行ってくれ。
唯「え?でも……」
律「澪は眠いんだってさ。ほらほら、もう行かなきゃ」
聞こえよがしに律が言った。
我が儘と思われてもいい。
顔を真っ赤にして卑猥な妄想をしていたとバレるよりはマシだ。
それからムギが、大丈夫?と声をかけてきた。
私は、うん、と気のない返事をして、先に行くように言った。
ムギは、遅れないようにね、と一言残し、唯と律のところに向かった。
和「澪、大丈夫?」
私はようやく顔をあげた。
事情を知っている和なら安心だ。
それに、もう妄想はなんとか止まっていた。
目を開けると、教室にはもう私と和しか残っていなかった。
澪「うん。平気」
和「教室移動しないと」
澪「うん」
私は立ち上がって、教室の電気を消し、週番の和は鍵を閉め、私達は音楽室へ向かった。
廊下の床は午後の日差しを反射して、さっきまで閉じられていた私の目を眩ませた。
和が歩きながら尋ねてきた。
和「平気なの?」
澪「うん。大丈夫だって。さすがに音楽の授業で居眠りなんてしないよ」
和「そうじゃなくて、律。さっきちょっと言い合ってなかった?」
言い合い?
唯と和は喧嘩なんてしないだろうから、和にはそう見えたんだろうか。
私と律はあんなの日常茶飯事だ。
……いや、さすがにさっきのは私が理不尽だったかも。
澪「うーん……平気だよ。あんなのよくあるし、律はもう忘れてるよ」
和「ならいいけど。一応謝っておいたほうがいいんじゃない?」
澪「一緒に教室移動しなかっただけで?
さすがにそれでいつまでも怒ってるほど律は子供じゃないよ」
和は、そう、と一言言ったきり、その事については触れてこなかった。
音楽の授業は合唱だった。
唯と律はソプラノ、私とムギと和はアルト。
パートの並びの都合上、私と律は端と端だった。
さわ子先生が弾くピアノに合わせて、モルダウを唄う。
楽しそうに歌う唯の隣で、律はつまらなさそうに口を小さく開きながら歌っている。
なんだ、もしかして律のやつ本当に怒ってるのか?
授業が終わるまでの間、私と律は何度か目が合った。
そのたびに律は目を逸らした。
いや、私が先に目を逸らしていたからそう見えただけかもしれない。
その日最後の授業の英語が始まる頃には、私の中の律はまた私の身体を触り始めていた。
【PM4:36】
【PM5:42 田井中 律】
朝はまだ普通だった。
ボーっとしているところはあったが、特に不機嫌ではなかったはずだ。
澪が変になったのは、昼休みが終わって和と一緒に教室に戻ってきてからだ。
帰りのホームルームが終わると、唯は週番の仕事を終えた和と一緒に、さっさと帰ってしまった。
和に勉強を教えてもらうのが、ここ最近のあいつの日課だった。
梓は寂しがるかもしれないけど、まあムギが音楽室に寄っているみたいだから大丈夫だろう。
それに、勉強しなきゃいけないのは私も同じだ。
律「澪、帰ろうぜ」
机に突っ伏している澪に私は話しかけた。
さっきは邪魔者扱いされたけど、私はデコも心も広い女だ。
水に流してやる。
澪「ごめん、ちょっと眠ってから帰る。先に帰っていいよ」
まただ。
音楽の授業の前と同じ。
律「ええ~?勉強教えてくれるんじゃないのかよ」
澪「自分でやれって」
なんなんだよ。
昨日まで普通に一緒に受験勉強してたじゃん。
律「そう言わずにさぁ。頼むよ。ねえ、みお~」
澪「しつこい」
顔くらい上げろ。
苛々する。
ていうか、もしかして本当に具合悪いのか?
律「全く……。大丈夫か?保健室行く?」
澪「大丈夫。じゃあね」
机に伏せて顔を隠したまま、澪は私に手を振った。
律「全然大丈夫そうに見えないんだけど。つーかもうみんな帰っちゃったぞ」
澪「眠いだけだから大丈夫だって言ってるだろ。
しばらく寝たらちゃんと帰るからもう放っといて」
そう言う澪の声は、本当に私が早くこの場を立ち去る事を求めているように聞こえた。
今日一日、私に何か落ち度はあったか?
ない。
こいつは昼休みが終わってから、勝手に私に怒っている。
最終更新:2010年03月29日 01:54