澪は私の何かが気に食わないのだ。
授業の合間の休み時間も、ホームルームの後に和の仕事が終わるのを待っている間も、澪は唯や和、ムギとは普通に喋っていた。
しかし、私とはろくに目も合わせようとしない。
みんながいなくなったら、今度は狸寝入りだ。
律「はぁ……。わかったよ。
じゃあ私もう帰るから。帰りに痴漢にあっても助けてやんないからな」
澪は何も答えなかった。
私は薄暗い教室に澪を残し、さっさと帰る事にした。
教室のドアを閉める前に、私は振り返って澪を見た。
澪は顔を上げていて、私の方を見ていたが、振り向いた私と目が合うと、また顔を伏せた。
その態度が気に入らなかった。
私は舌打ちをしてから勢いよくドアを閉め、教室を出た。
澪無しの登校は珍しくなかったが、私一人の下校は多分数ヶ月ぶりだ。
それも、こんな気分での下校は人生始まって以来だ。
こんなに私の家は遠かっただろうか。
夕闇に染まりつつある通学路に、まだ街灯は灯っていなかった。
制服のポケットに手を突っ込み、苛立ちを抑えられずに、私は早足になった。
頭に血が昇っているおかげで、風が吹いても全く寒さを感じなかった。
家に着いても、私はまだ苛立っていた。
階段を上がり、自分の部屋に入って、私は制服のまま身体をベッドに放り投げた。
それからバッグから携帯電話を取り出した。
澪はあの後ちゃんと帰ったのだろうか?
着信履歴の一番上にあるのは澪の名前だ。
昨日の午後9時。
あの時は確か、ケーブルテレビで私の好きなイギリスのインディーズバンドのライブがやってるって事を私に教えるために、澪は電話してきた。
私はその履歴から、澪に電話をかけてみた。
数回のベルのあと、留守番電話サービスに繋がった。
電話も無視かよあの馬鹿は。
枕に顔をうずめながら、考える。
理不尽だ。
澪は理不尽に私に怒っている。
怒っている?
いや、それはちょっと違う。
怒っているというより、私と関わらないようにしている。
澪が怒った時は、もっと直接的だ。
殴ったり怒鳴ったり説教したり……とにかく、話をしようとせず、顔を合わせようともしないなんてのは、澪のやり方じゃない。
なんだこの状況は。
私が何をしたんだ?
何もしていない。
心当たりが全くない。
私以外の、何かが、誰かが澪に何かをしたんだ。
誰が?
和しか考えられない。
昼休みに、和は澪に何かを吹き込んだ。
澪が私を邪険に扱うようになる何かを。
いや、和がそんな事をするような奴じゃない事くらいわかっている。
和は本当にいい奴だ。
あいつが誰かの陰口を言っているところなんて見た事がない。
他人を甘やかす性格ではないけれど、その一方でいつも他人を気にかけている。唯だけじゃなく、私の事も。
和のせいにするのは、邪推もいいところだ。
じゃあなんで澪はああなった?
考えても考えてもわからない。
でも私の思い過ごしとも思えない。
律「…………っく」
いつの間にか私はしゃっくりをしていた。
あぁ、そうじゃない。
そのずっと前に、私は泣いていた。
もしかしたら、結局私はずっと澪のファンの一人でしかなかったのかもしれない。
小学生の時、教室で一人で本を読んでいた澪に私が話しかけたのは、単純に澪が可愛かったからだ。
桜高のファンクラブの人達が澪を見る目と何ら変わらない。
人間が天女を崇めるように、私が澪に最初に抱いていたのは憧れのようなものだった。
友情なんてのは、その延長線上に芽生えたものだ。
人間は結局、空を舞う天女の気まぐれに一喜一憂するしかないのだ。
それだけの事なのかもしれない。
両手で枕の端をきつく握り、下唇を噛み締めながら、私は声を殺して泣き続けた。
唯から電話がかかってきたのは、午後九時を過ぎてからだった。
【PM9:08】
【PM6:27 平沢 唯】
私の部屋と違って、和ちゃんの部屋は殺風景だ。
日当たりは良好で、壁にかかった時計もオシャレだけど、可愛いぬいぐるみもギターもない。
本棚には難しそうな小説と参考書が並んでいて、マンガは数冊しかない。
あ、でも机の上のライトなんかは丸くて可愛いかも。
置いてある雑誌のセンスも悪くない。
もう少しピンクで彩れば、もっと可愛い部屋になりそうなんだけど。
前にそんな事を和ちゃんに言ったら、その前にあんたは自分の部屋を片付けなさいと言われてしまった。
ごもっとも。
和「唯、ごめん。私ちょっと寝るね。昨日あんまり寝てないから」
唯「え~?勉強は?」
和「わからないところがあったら起こして」
唯「は~い」
和ちゃんは制服のまま、私に背を向けてベッドに横になった。
私は添い寝したい気持ちを抑えて、参考書を開いた。
エアコンが苦手な私を気遣ってくれてるのだろう。
最近和ちゃんは自分の部屋でもエアコンをつけようとしない。
ホットカーペットが申し訳程度に私を暖めてくれていたが、決して十分ではなかった。
かと言って、寒いから勉強したくないなんて言ってられない。
さすがにもうちゃんと勉強しないとまずい。
授業中に当てられて答えられないようじゃ、みんなと一緒の大学になんて合格できっこない。
唯「でも和ちゃんが勉強しないで寝るなんて珍しいね。夜更かし?」
和「うん、テレビ見過ぎちゃって」
唯「うお……余裕ですな……さすが」
和「そんな事ないわ。判定もまだBだし。ちょっと寝たら私も自分の勉強するわよ」
唯「まだC判定の私って一体……」
和「じゃあしっかり勉強しないとね」
唯「がってんです!」
私は早速、今日赤っ恥をかかされた世界史から解き始めた。
多分、カノッサの屈辱はもう一生忘れないんじゃないかな。
唯「あ、和ちゃん。今日授業中に教えてくれてありがとうね」
和「どういたしまして。
でも私まで恥ずかしくなったわよ。次はちゃんと答えてね」
和ちゃんは私に背を向けたまま返事をした。
そんなに眠いのかな?
唯「でへへ……まかせて!」
私は世界史の続きを解き始める。
唯「あ、和ちゃん。今日りっちゃんと澪ちゃん何かあったのかなぁ?」
和「唯……話しかけられたら私寝れないんだけど……」
唯「あっ……ごめんごめん。えへへ」
和「あとで澪に聞いてみるわ。それより唯は勉強に集中!」
唯「ほいほい」
一年生の中間試験の時は、自分の集中力の無さに情けなくなったけど、いざ本腰を入れて受験勉強を始めてみたら、私もなかなかどうして集中できている。
ベッドで和ちゃんが寝息をたてている間、私はひたすらセンター試験の過去問を解き続けた。
私が勉強を中断したのは、午後8時を過ぎて、部屋がいっそう冷えてきてからだった。
さすがにエアコンをつけないと風を引いてしまう。
私はエアコンのリモコンを取ろうと思い、立ち上がった。
唯「いてて……足が痺れた……」
足の血管が圧迫され、じんじんする。
私はそれを解消するために、黒いタイツを脱いで、両手で足を揉んだ。
電流が走ったように足がびりびりしたけど、さっさと痺れをとるにはこうしたほうがいい。
医学的な根拠なんてないけど。
なんとなく。
足の痺れがとれると、私はベッドに目をやった。
和ちゃんがこっちに背中を向けて寝ている。
そうだ。
寒い時は、エアコンなんかより快適に暖をとる方法があるじゃん。
勉強もちゃんとしたし、そろそろくっついてもいいよね。
私はもぞもぞとベッドに潜り込むと、和ちゃんに馬乗りになった。
和「わっ!?ちょっと何!?」
唯「和ちゃんと一緒に寝る~」
和「ちょっと……ダメだって!」
唯「やだ~」
和ちゃんの制止を無視して、私は遠慮なく正面から抱きついた。
一度抱きついちゃえばこっちのもんだもんね。
私に乗られた和ちゃんは、抵抗をやめて嘆息を漏らした。
最近和ちゃんはこういう事を避けるようになっていた。
もう子供じゃないんだから、との事だったが、私はまだ子供でいいや。
和「もう……。ていうか唯、あんた下はどうしたの!?」
唯「え?脱いだよ~」
和「いや、脱いだって……」
唯「大丈夫だよ。
パンツもスカートもちゃんと履いてるし。ほら。
和「……ねえ唯。お願いだから離れて……」
それは無理な相談だ。
抱き癖がついている私は、一度くっついたらそう簡単には離れられない。
唯「はぁ~和ちゃんあったかい……」
私が和ちゃんに頬ずりした直後、天地がひっくり返った。
さっきまで、乗っかっていたのは私だった。
でも今は、和ちゃんが私の上に乗っかっている。
私の右手を押さえて、私を見下ろしている。
和ちゃんは泣くのを必死で耐えるような顔で私を見ている。
その顔が私を不安にさせた。
唯「あ、あれ?ご……ごめん和ちゃん。
調子に乗りすぎちゃった……」
和ちゃんは答えない。
その代わり、私の右手首を握る力を強めた。
唯「あう……。ごめんなさい……」
和ちゃんは答えない。
携帯電話のバイブ音が部屋に鳴り響いた。
唯「和ちゃん、電話鳴ってるよ……」
和ちゃんはまた何も答えなかった。
今までこんな事で、和ちゃんが怒った事はなかった。
ううん、そうじゃない。
和ちゃんは怒ってもこんな事をする子じゃない。
天井から吊された電気が逆光になっていたが、和ちゃんの表情はよく見えた。
怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える。
どうしたんだろう、和ちゃん。
私の足りない頭がそれをようやく理解したのは、和ちゃんの唇が私の唇に触れて、離れてからだった。
がたがたと音がする。
それは震える私の身体から聞こえたのではなく、外の風が窓を叩く音だという事に、私は気づかなかった。
もう携帯電話のバイブ音は鳴り止んでいた。
【PM8:08】
【PM6:32 秋山 澪】
律の言う通り、さっさと帰れば良かった。
私が妄想に区切りをつけ、目を開ける頃には、教室はもう真っ暗だった。
黒板の端に目をやると、「12月14日」の文字は消えていた。
恐らく週番の和が帰る前に消していったのだろう。
几帳面な和らしく、そこにはチョークの跡すら残っていなかった。
校門を出ると、あたりはすっかり暗くなっていて、一人で下校するには心許なかった。
律がいない下校なんて久しぶりだ。
だが、今の私には、一人なのをいい事に、道端の花を眺めたり、風の音景に耳を澄ませる余裕なんてなかった。
もっとも、冬の道に咲く殊勝な花なんてこの界隈にはなかったし、風もスカートを巻き上げるだけで、ろくなものではなかったが。
普段は気にも止めていなかったが、私の通学路は人通りも交通量もあまり多くない。
それこそ痴漢でも出そうな雰囲気だ。
案の定、電柱には「ひったくり注意!」と書かれた看板がかけられている。
気を紛らわせるために、書店によってしばらく雑誌を立ち読みする事にした。
ベース誌を開くと、アークティックモンキーズの元ベーシストが新バンドを始めたという記事が載っていた。
そういえば律は、アークティックのドラマーが好きとか言ってたっけ。
確かにパワフルで、16ビートを好むあたり勢いもあるドラマーだ。
テクニックに関しても定評がある。
そのへん、律にも見習ってほしいものだ。
その雑誌をレジに持っていき、会計を済ませ、書店を出ると、通りに往来はほとんど無かった。
これなら寄り道しないで帰ったほうが、まだ楽だったかもしれない。
こういう時はどうすればいいんだっけ。
誰かに電話だ。
電話しながら歩いていれば襲われにくいって、テレビの特集で見た気がする。
律とお揃いの携帯電話を開くと、ディスプレイに表示された時刻は既に午後8時を過ぎていた。
私は着信履歴を見てみた。
一番上の律……は無理だ。
さっきかかってきた律からの電話を無視してしまっている。
おまけに理不尽に下校の誘いを断っている。
今更、怖いから話し相手になってくれなんて言えない。
律の下には、また律の文字。
その下も、さらにその下も律だ。
どんだけ電話してるんだ私達は。
律の名前が五回続いた後に、
真鍋和の文字。
私はとりあえず和に電話する事にした。
しかし、和は出なかった。
今頃、唯に勉強を教えているんだろうか。
ちゃんと我慢できてればいいんだけど。
その後、唯に電話したが、唯も出なかった。
あの二人は勉強に集中しているのか、はたまた私が帰りのホームルーム中も繰り広げていた妄想と同じような事をしているのか。
昼休みの和の言葉から察するに、後者はないだろう。
そう思いたい。
多分、今日の私より和のほうがずっと冷静だ。
次に電話したのはムギだった。
2コール目でムギは出てくれた。
梓と音楽室にいるらしく、ムギがスピーカーホンにしてくれたおかげで、私は梓とも会話できた。
家に着くまで、私は二人と電話をし続けた。
どうやら梓は、ムギに作曲のいろはを教わっているらしい。
曲を書けるメンバーが増えるのは、バンドにとってかなりプラスになる。
ビートルズがあそこまで成功できたのも、ジョン・レノンとポール・マッカートニーという二人の天才的な作曲家が同じバンドに存在していたからだ。
その二人が仲違いした事で、バンドは崩壊の道を辿っていったが、ムギと梓に限ってそれはないだろう。
バンドのこれからについて話している内に、痴漢の事なんて頭からすっかり消えていった。
が、律に抱かれる妄想という誘惑の蛇は、首をもたげて虎視眈々と私に隙ができるのを待っていた。
自分の部屋に入り、挨拶を済ませ、私は電話を切った。
マフラーとコートを脱ぎ、椅子に座ってパソコンを開いた。
i Tunesを立ち上げ、ストーンローゼズのアルバムを私は選んだ。
さて、どうしたものか。
私は律を怒らせてしまった。
しかも、律に落ち度は全くない。
非があるのは完全に私のほうだ。
私が律の立場だったら、愛想を尽かしているくらい、今日の私は理不尽だった。
しかし、他にどうしようもなかった。
あんな妄想をしているなんて気取られるわけにはいかない。
まあ顔を赤くしているのを見ただけでは、さすがの律もそこまで見抜けないだろうけど、質問責めにされるのは目に見えていた。
和の事がある以上、私がボロを出すわけにはいかない。
おまけに、あの妄想のおかげで、とっさに言い訳ができるほど頭も回らなかっただろう。
昨日は寝てなかったし。
にも関わらず、不思議と今も眠気は無かった。
睡魔が襲ってくる前に、律の事をなんとかしないと。
パソコンの時計は午後9時を示している。
早く打開策を見つけないと。
普通に考えて、私が謝るのが筋だ。
しかし、ただごめんなさいと言うだけでは解決しない。
なにしろ、律は訳も分からず私にないがしろにされたのだ。
理由を説明しなければならない。
それが厄介だ。
何て説明すればいいんだ。
私はあなたを頭の中で裸にして、私の乳房を吸わせ、下着の中を弄られるのを想像していたので照れていました。
そんな事言えるわけがない。
そもそも、律とまともに話をできるかどうかすら怪しい。
事実、こうしている今も、油断したらまた私は妄想の虜になりかねない。
私が頭を悩ませていると、携帯電話が鳴った。
律からのメールだった。
音楽をかき消して、部屋全体に響くんじゃないかと思うほど、私の鼓動は鳴った。
律に何を言われるんだろう。
十中八九、罵倒だろう。
まさか絶交宣言か?
いや、さすがにそこまでの事はしていないはずだ。
メールを開くのが怖い。
しかし後回しにも出来ない。
このメールを読まずに、律と仲直りの作戦を練る事なんて出来ない。
私は指の震えを堪えながら、携帯電話のボタンを押してメールを開いた。
「なんで避けてんの?理由くらい教えろよ」
最終更新:2010年03月29日 01:56