ああ、これはまずい。
律は怒るどころか傷ついてしまっている。
語調は強いが、いつもの律ならここはバカヤローとでも言ってくるところだ。
明らかに私に非があるのに、律は弱気になっているのだ。
どういう思考を経て律がそうなったのかはわからないが、とにかく一刻も早く私がフォローして謝らないと、私と律の間には日本海溝よりも深い溝ができてしまう。

しばらくあれこれ考えた後、ふとパソコンの時計に目をやると、既に時刻は午後10時を回っていた。

スピーカーからは、kooksの曲、one last timeが流れていた。
別れた恋人の事を後悔を以て回想しながらも、もう顔が思い出せなくなっている悲しさを謳った曲だ。

律と早く仲直りしないと、私もこの曲の主人公のようになってしまう。

私は急いでコートを着て、マフラーを巻き、家を飛び出した。

外はもう真っ暗だ。
私はスカートの裾を手で押さえたが、さっきまでの風はもう止んでいた。


律の家が近くて良かった。

おかげで律の顔を思い出せなくなる前に会える。
何より、小心者の私が夜道を長々と歩く羽目にならずに済む。

私は律の家のインターホンのベルを鳴らした。

すぐに聡が出てきて、律を呼んでくれた。
バタバタと音を立てて、律が階段を降りてきた。

この時間の律は、いつもならパーカーにスウェットの部屋着姿のはずだが、今日は制服のままだった。

律はあまりに勢いよく玄関まで来たため、前につんのめってしまった。

澪「ちょ……ちょっと、大丈夫か?」

律「う……うん」

澪「入っていい?」

律「どうぞ」

私は律に案内されるまま、階段を上がって律の部屋に入っていった。



私がコートを脱ぐと、律はハンガーを渡してくれた。
こんな気遣いをするなんて、よほど律は弱っているんだろう。

律「あ、ごめん澪。私ちょっと部屋着に着替えるな。
   適当に座ってくつろいでてくれ」

思い出したように律は言った。

私はとりあえずベッドに腰かけた。

まだ仲直りをする前だ。
私と律の間に流れる空気は気持ちのいいものではない。
律は話すのを先送りにしたかったのだろう。
律は制服のタイをほどき、上着とシャツを脱いで、タンスを開けた。

ドラマーとは思えないほど、華奢な腕。
白いブラジャーに覆われた小さい乳房。
腹筋の上に程よく脂肪が重なって、くびれのある腰。

全部、今日一日私が思い浮かべていたものだ。

下着姿になった律を見た私は、この期に及んでまた妄想の波が迫ってきている事に気がついた。


律「お待たせ」

着替えを終えた律は、ベッドに腰掛ける私の前で、床に正座した。
いつもとは逆のポジションだ。
私がベッドを背もたれにして床に座り、寝ころぶ律を見上げるのがいつもの私たちだ。

早く律を元に戻してやらないと。

しかし、私は全くの無策でここに来てしまった。

今日の私を、律に何て説明すればいいんだろう。

澪「ええっと……私は別に避けてるわけじゃなくてだな……」

律「あれ……?なんだ、避けてるんじゃなかったのか」

うん、と言いかけたところで、律の私を見る目が驚くほど澄んでいる事に私は気がついた。

その瞳を見て、私は今日一日自分の頭の中でこしらえていた律が、見当違いも甚だしいと痛感した。

それと同時に、私はもう一つの事に気がついた。
いや、思い立ったと言うべきか。

今までとは真逆の事を。

律「澪?どうした?」

私の顔を覗き込む律の真っ直ぐな瞳を見て、私は自分の上唇を舌先でなぞった。

【PM10:39】




【PM8:09   真鍋 和】

私が生徒会長になったのは、別に出世欲や権力欲があったからではない。
所詮は生徒の長。部費の決定権すら、私にはなかった。
私が求めていたのはやりがいだ。
澪が部活に求めているものと同じ。

だから私には、出世欲や権力欲といった類のものはなかった。

しかし、所有欲はあった。

私が唯に求めていたのはまさにそれだった。
私に組み敷かれる唯をみて、ようやく自覚した。

私は唯を引っ張ってきたつもりだったが、そうではなかった。
ずっと唯が私を導いていたのだ。
私はずっと、光に誘われる虫のように、唯に引き寄せられていたのだ。
唯にはそういう力があった。
ライブハウスで高らかに歌う唯はそれを体現していた。

私はその唯を、自分も引き寄せたくなったのかもしれない。
子供が星を掴もうと空に向かって手を伸ばすように。

だが、今更それに気づいたところでどうしようもなかった。
所有欲はとっくに性欲に転嫁されていたのだ。

唯の携帯電話が鳴った。
私の耳には、それが警鐘の音に聴こえた。

唯「和ちゃん、私電話に出たい……」

私に組み敷かれ、スカートが捲れて太股を露わにしたまま、唯が呟いた。
唯の目には明らかに怯えの色があった。

私はそれを無視した。
唯の言葉も、心も無視して、唯の首筋に唇を押し当てた。

唯「んっ……あはは、くすぐったいよ……」

唯が笑ったのは、これがいつものじゃれ合いだと自分に言い聞かせるためだろう。

私は構わず、唯の耳、それから頬に唇を押し当てた。
愛撫というより、暴力という表現のほうが相応しい。

携帯電話が鳴り止んだ。


唯「和ちゃん……どうしたの……?
   なんで……?」

唯の声が変わった。
今にも泣き出しそうだった。

私は何か言おうとした。
しかし、何を言えばいいのかわからなかった。

結局、唯の問いに何も答えないまま、私は左手を唯の制服の中へすべりこませ、脇腹をなぞった。

唯「う……んっ……も、もう!
   くすぐったいよ和ちゃん!」

唯が少し声を荒げた。

私は唯の制服を捲ると、ピンクのブラジャーを押し上げた。
私はそのまま、唯の小さな乳房を触った。

唯「おかしいよこんなの……。
   ね?やめて……」

唯ははっきりと拒絶の言葉を口にした。
単に私がふざけているのだという一縷の望みを、唯はもう捨てていた。
唯が拒んでいる事は、最初にキスをした後の唯の目の色でわかっていた。

わかっていながら、私は唯の身体を触った。


二回目のキスをしようと私が唯に顔を近づけた時、唯は唇をきつく結んで顔を背けた。

私はそれでも強引に唇を押し当てた。
唯は耐えるように目をきつく閉じた。

唇が離れた後、唯は目に涙を溜めながら、私を真っ直ぐ見据えて言った。

唯「お願い。やめて……。
   今やめてくれたら、私忘れるから。ね?
   こんな事しちゃったら、今までの楽しかった思い出も全部ダメになっちゃうよ……」

唯の頬に、どこからか水滴が落ちた。
これはなんだろう。

唯の左手が、私の頬を拭った。


唯「和ちゃん、お願い」

唯の頬に、ぽたぽたと水滴が落ちる。
唯はまた、私の頬を拭った。

私はいつから泣いていたんだろう。

これが終わったら、私と唯が笑い合う事はなくなるのかもしれない。
いや、もう既に、私と唯の関係は崩れているのかもしれない。

混濁した私の頭をよそに、私の左手は唯の下着の中へ入っていき、恥部をなぞった。
昨日の夜、私がこのベッドの中で自分を慰めながら想像していたのと同じように。


唯「ん……んっ……」

嗚咽とも喘ぎともつかない声を唯は漏らした。
官能的であるはずのその声は、私を誘惑せずに、むしろ畏れさせた。

私が唯の恥部を弄ると、唯はまた同じように声を出し、私の指先は唯が出す液で濡れていった。

唯「やだ……   やだよ……   もうやだ……」

唯は抵抗をやめて、静かに泣いた。

これまで唯に何かあった時、唯が助けを求めるのは私だった。
今はその私が、唯を苦しめている。
唯にとって、これほど絶望的な状況はないだろう。
唯のその絶望が、彼女の震える手首から私の身体にも伝わり、私の狂った情念ごと私を覆い尽くした。

私は唯の胸に顔を埋めて、声をあげて泣いた。


泣き続ける私の頭を、唯は宥めるように撫で続けた。

唯は優しい子だ。
こんなに優しい子なんだ。
私はその唯を裏切ってしまった。

唯「和ちゃん、私そろそろ帰りたい……」

そう言って唯は、私の頭を撫でるのを止めた。
私の身体はゆっくりと力を失っていき、唯は私の身体を押しのけて、ベッドから立ち上がった。

和「唯、ごめん」

消え入りそうな声で私は言った。
それが唯に聞こえたかどうかはわからない。

唯は何も答えず、服の乱れを直し、机の上の筆記用具、参考書、問題集を自分のバッグに押し込んだ。

和「唯、本当にごめん。ごめんなさい……」

唯はマフラーを巻き、タイツを履いて、バッグを持つと、じゃあねと一言残して、私の部屋を出て行った。

その間、唯は一度も私のほうを見なかった。


唯を追いかけて、地に頭を擦りつけてでも、私は許しを請わなければならない。
それがわかっていても、糸の切れた操り人形のように力を失った私の身体は、ベッドに張り付いて動こうとしなかった。

十数年かけて、天まで届かんばかりに築き上げた私と唯の絆は、私の愚行によってわずか数分で崩壊した。
私はその瓦礫に埋もれながら、それを修復する術を必死で探した。
しかし、破れた鏡が二度と光を照らす事がないように、それはもう不可能な気がした。

私の一番古い記憶にある映像は、唯が甘えた笑顔を見せながら、私の園服を引っ張っているシーンだ。
唯に関する記憶ではなく、私の人生の記憶で、一番古いのがそれだった。
私は唯がいない世界を知らないのだ。
知らずに今日まで生きてきたのだ。

今になって、私がどれほど唯に甘えた人生を送っていたか、私は理解した。

唯がいない世界は、こんなにも暗いのだ。
地獄があるとしたら、きっとこういう世界なのだろう。

夕陽の光は、ここには届いてこない。
風が窓を叩く音ももう聞こえなかった。

私の部屋には、エアコンの室外機の無機質な音と、積み上げた石を崩された子供のような私の泣き声が響くだけだった。

【PM8:41】


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最終更新:2010年03月29日 01:57