次いで、和の声がする。
 床には、水が滴っていた。



 どうやら、私はお漏らしをしてしまったようだ。
 気がつけば、スカートは濡れていて、パンツはびしゃびしゃになってしまっていた。
 そうなってしまったのは、いつからだろう。
 思い出せない。

 ただ、周りの同級生は私を非難しなかったのを覚えている。
 保健室から帰ってきた私を、みんなは素直に心配してくれた。
 これも、普段の行動が影響していた。
 普段から、私は周りには優しくしていた。
 友達を作るためには、これが一番いい方法だからだ。
 遠回りなんて必要ない。
 私にとって、友達を作るという行動は祖母から与えられた『存在理由』だからだ。こう
していれば、私は私でいられるという条件じみたものだったのだ。
 故に――

 故に私は、無意識の中であるが『人に好かれるように』行動していた。

 だって、そうでもしないと周りは私に優しくなんてしてくれないと思ったから。


 その反面、私は勉強が苦手だった。
 というよりも、やる必要がなかったのだ。
 なにせ、私には友達を作る以外の必要性を学校という場所に感じなかった。ならば、
勉強なんてしたって意味はない。そう思ったからだ。

「唯、テスト何点だった?」

「えへへー。30点だったー」

 本能的に理解していた。
 人が、人の結果を訊く理由はつまるところ『優越感』を得たいがためだ。
 だから、私が悪い点数をとったところで友達たちは私に対して失望したりはしない。な
にせ、自分よりも下の人間なのだから、歯牙にかける必要はないからだ。警戒する必
要がある要素のない人間に対して、人はある程度は優しくなれる。もとより、私にはそ
ういった要素がなかったので、敵を作る理由もなかった。無害というものは、なによりも
強力な武器となりえる。

「和ちゃんは100点かー。すごいなー」



 そして、相手を褒める。
 これで完了だ。これで、自分と対象との友好な関係は継続される。自分を、必要程
度に自虐することで、対象はさらに優越感を感じる。
 それは、決して不快になるほどのものではない。運動も、限界に近くなるとつらく感じ
るように、こういったプラスの感情も度が過ぎると不快になる。
 だから、私は褒めすぎないし自虐しすぎない。

「でも、お母さんに怒られちゃうかもなー。この点数じゃ」

「大丈夫だよ。唯は他にもいいところがたくさんあるんだから」

 そうすれば、私に味方してくれる人だって増えるのだから。


 しかし、問題はあった。
 確かに問題は存在していたのだ。

「唯―。もう少し、勉強しなさいね」

 ほんの少しだけ、咎められる程度なのだが、母に叱られる。
 小学生にとって、両親というのは優しいものなのであるが最も畏怖するべき存在でも
ある。
 なまじ傍にいるから、評価が低かったり機嫌が悪かったりするとどうにもいい気持ち
はしないからだ。月に一度会う程度の人間相手には在り得ない感情が存在する。

「唯、ちょっと来なさい」

 自分の部屋でゴロゴロしていると、祖母がドアを開けて私を呼ぶ。
 憂は友達の家に遊びに行っている。
 祖母は最近、憂に色んなことを教えていて、そのことに私は少しだけやきもちを妬い
ていたのだが、久しぶりに祖母が私になにかを教えてくれるようだ。なんとなく嬉しい気
持ちになって祖母の部屋へと向かう。

 ――この家の唯一の和室。そこが、祖母の部屋だった。



 ――和室、というよりも私は祖母の部屋の匂いが大好きだった。

 なにか、やさしい。
 私を、心まで包んでくれそうな気持ちになる。
 そんな部屋が、私は昔から大好きだった。

「唯、ちょっとここに座って」

 祖母が優しく笑って手招きする。
 それに倣って、座布団に正座する。
 この部屋に来ると、なんとなく引き締まった気持ちになる。
 どうしてだろうか。

「どうしたの? おばあちゃん」

「うん。唯は、学校楽しいかい?」

 やんわりと祖母は話し出す。
 それに対して、私は大きく頷く。
 楽しいと、答える。


「そうかい。よかったねえ」

 皺だらけの顔に、さらに皺が増える。
 祖母は満面の笑みで、また皺だらけの手を私の頭に乗せる。
 それは、私が大好きな行動(こと)だった。
 でもね、と祖母は話を続ける。

「でもね、学校はそれだけじゃなくって。唯が大人になった時に困らないように、お勉強
する場所でもあるんだよ。だから、少しだけでもいいから、お勉強してほしいな」

 ――それが、私に与えられた新しい、存在理由だった。



 それからだ。
 私は、また一つ変わった。

 勉強をしてみることにした。
 そうでなくては、周りが私に興味を持ってくれないような気がしたから。
 以前とはまったく違ってしまった。

 価値観も、
 倫理観も、
 優先順位も、
 なにもかも。

「ねえ唯ちゃーん! 外で鬼ごっこしようよー」

「……私、図書室行くから、いい」

 友達との関係、それがどうでもよくなっていた。
 以前まではなによりも大事なのだと心から思っていたのにも関わらず、今の私はまる
でロボットのように学習という一つの行動に傾倒していた。
 手には本が握られていて、なによりも優先するべきは知識を増やすことだった。
 それが何を意味するのか、私にはわかってなどいなかった。

 今まで築き上げてきたものを放棄してまで続けるということが、なにを意味している
のかを。



 ――気がつけば、私は1番になっていた。

 テストでは90点以下を獲ることはなくなった。
 授業中も集中して先生の話を聞いていた。
 休み時間は勉強して、次の授業に備えた。
 昼休みは友達の誘いを断って図書室で本を読んだ。

 私は楽しかった。
 頑張った結果が出ることが、なによりも楽しかった。
 周りは私の結果を褒めてくれる。
 先生は私に良くできたと言ってくれた。
 100点をとると、周りは私に注目してくれた。

 でも――どうしてか。

 どんどんと、友達はいなくなっていった。
 そう。
 誰も、私を遊びに誘ってなどくれなくなっていたのだ。
 親友だった筈の、和も含めて。


「唯って、変わったよね」

「うん。付き合い悪くなった」

「いつからだっけ? 4年のころからかな」

「そうだね。確かそれくらいだった気がする」

「6年になってから唯と遊んだ?」

「ううん。だって、ずっと勉強してるか本読んでるんだもん」

「唯って、変わったよね。和」

「ホントに。昔は、あんな子じゃなかったのに」

 教室の端から、声がする。
 私の話をしている。
 でも。
 どうでもいい。
 私は私。
 彼女たちは彼女たち。
 だから、私はこのままでもいいと思う。



 小学6年生ともなると、『異質なもの』に気づく。

 自分とは違うもの。
 否、自分たち、コミュニティとも言っていいそれとは違うもの。
 道を違えたもの。
 異端。

 そういったものに気がつき、排除しようとする。
 子供というものは素直故に残酷だ。
 捉えたものは捉えたもの。自分の価値観を絶対としているがために決して曲げな
い。
 自分がオカシイと決めたモノには容赦なく烙印を押す。
 もとより、動物とは群れで行動するものが多いのだから、人間もそれに該当してもお
かしくない。
 だから人は群れる。
 コミュニティを作って、部外者との線引きをする。
 自分を抹殺せしめんとする天敵に対して、これ以上なく残酷な振る舞いを見せる。
 だからこそ、子供は恐ろしい。
 ただ、私も自分の価値観を絶対として、それを行動基準として動いているのだから、
文句は言えないのだが。
 周りの子供たちにとって、突如、一心不乱に勉強に打ち込みだした私は異質なもの
でしかなかった。
 だって、私は彼らに対してあまりにも存外な態度だったのだから。
 彼らも、私に対してそういった態度をとったって、おかしくはないのだ。


「――」

 私はなにも答えない。
 ちらり、と和の顔を見てからはもう一度本に目を落とすだけだ。
 和は私のその態度に怒ったのか、手をとって引っ張る。
 ……少し、痛い。

「クレープ。食べに行こうよ。唯」

 静かに、和は言った。
 周りの和の友達は『そんな奴なんかに構わないで早く行こう』といった顔をしている。
なんて、冷たい表情だ。
 本を机にしまって、もう一度和の顔を見る。

「――あ」

 泣いていた。
 その目には、涙が光っていた。
 顔を赤くして、肩を震わせて、泣いていた。

 あの日とは違う。
 私が泣かせてしまった恐怖と怯えの涙とは違う。

 ――私を、心底心配する涙だった。




「和ぁ……いいよ、こんな――」

「――そんなふうに言わないで! 私、唯が独りでいるのが寂しそうだと思ってたの!  
小さいころから一緒に遊んでたのに、突然本を読みだして勉強しだして、テストだっ
て、私よりもできるようになって……。ホント言うと、邪魔だった……」

 そうだ。
 私は、和の居場所を奪ってしまった。
 クラス、否。学年1の秀才という称号を、和から奪い取った。
 だから、私は彼女に嫌われて当然だった。
 嫌われるものなのだと、私は5年生のころに気がついたからだ。

「でも――! でも唯は私の親友なの。ほっとけなくて、変わってて、そんな唯が大好き
なの。それは……どうしても嘘をつけない……。嘘なんて、つけないの……・」

 和が私に抱きつく。
 私よりも少し大きい彼女の体は震えていて、私に抱きつくというよりももたれかかって
いた。
 ――それでも、わからなかった。

 これだけの言葉を聞いても。
 これだけの言霊をぶつけられても。
 ここまでの思いを知ったとしても。

 私には、彼女の気持ちが理解できなかった。



「……」

 どうして。
 どうして、わからないのだろう。
 それが厭だった。
 親友だった人が泣いているのに、その気持ちを全く理解できない。
 ただ『ああ、この人は悲しいんだなあ』程度にしか感じない。
 肘の裏をつねられている感じだ。触られているのは分かっても、痛くも痒くもない。
 人の気持ちがわからない。

 それは、ほんの少しの恐怖に思えた。
 足が、震えてくる。
 寒気がする。
 他者の痛みを感じないのは仕方がない。私は他者ではないのだから。ただ、理解で
きないというものは意味が違う。男は出産や生理の痛みを知ることはないが、痛いと
いう感覚はわかる。だが、私には悲しいという感情を理解しきれない。
 和の顔を眺めていると――先生が焦ったような顔で、教室に入ってきた。 
 泣いている和のほうへと向かうのかと思った。先生とはそういうものだから。しかし、
先生は私に向かって――

「平沢さん! おばあちゃんが病院に運ばれたそうです。先生が送っていくから早く来
て、憂ちゃんはもう向かってるから」

 そんなことを、言った。



 病院へと向かうクルマのなかでは、なにも話さなかった。

 先生も急いでいて、何も話さなかった。

 どうして、この人は他人のために頑張れるのだろう。

 そんなことを考えていた。

 だって、祖母のことは先生には関係がないじゃないか。

 なのに、こんなに真剣になって病院へと急いでくれている。

 動機も理由もわからない。

 でも、その行動は美しく思えた。

 人のためになにかをすること。

 それを素晴らしいことなのだと知っていても理解ができなかった私は初めて――

 ――その由縁を知ることができたのだ。


 病院に到着すると、先生は受付で祖母の病室を尋ねた。
 323号室。それを聞くや否や先生は私の手をとって、走りだした。
 その表情には切羽詰まったものを感じる。

「ここね。平沢さん、おばあちゃんはここにいるわよ」

「――うん」

 ドアを開けて、愕然とした。

 だって、私が見たのはいつも優しい、ほんわかとしたおばあちゃんではなくて――

 皺だらけの手で、頭を撫でてくれるおばあちゃんではなくて――

 笑顔が素敵な、私の生きる理由を与えてくれたおばあちゃんではなくて――



 ――機械につながれて、ようやく生きながらえている、ニンゲンだったのだから。


 手が震えた。

 死、というものを連想させられた。
 したくてしたんじゃない。これは、連想せざるを得ない状況なのだ。
 ベッドの周りには父と母が悲しそうな顔で私を見ている。憂はすでに大粒の涙を零し
ている。
 祖母の顔が、見える。
 青白い。
 体調が悪いとか、そういうレベルではなくて――もうこれは。

「唯、おばあちゃんに声かけてあげて」

 母が私を祖母の側に座らせる。
 私は、なにをしていいのかがわからなかった。
 声をかける、ということも忘れていた。
 あまりにもリアルで、あまりにも現実的に、死がある。
 命を失ってしまう瞬間、私にもいつか来てしまうその瞬間がここにあった。
 喉が、鳴る。
 なにも、わからなくなった。
 すると――

「ゆ、い――」

 声がした。
 それは他ならぬ、目の前にいる祖母その人からだった。


「――おばあ、ちゃん?」

 かすれた声に、耳を傾ける。
 きっと、これが最後だと思うから。
 死というものは、最後だから。
 それを迎えれば、その人の存在は亡くなってしまう。
 覚えている限り、人は生きているというけれど、そんなものは綺麗事だ。死ねば終わ
りだ。その人はその場にはいないのだから。
 ――故に、手を握った。
 僅かばかりの体温。
 これを、しっかりと。きっちりと克明に刻んでおかなくてはならない。

「唯は、頑張れる子だけれど……。新しいことを覚えると、他のことを忘れちゃう子だか
ら……今度は笑顔を振りまける人になりなさい。唯は、笑顔が一番可愛いんだから。
憂を、守ってあげられるお姉ちゃんに――」

 ああ。
 そうする。
 絶対に、笑顔を振りまける人間になる。
 馬鹿みたいに、笑顔でいよう。
 憂を、守ってあげられる姉になろう。

「――憂と一緒に、ね。唯」

 ――それを最後に、その人の体温は消えた。


 祖母の死。


それを実感したのは、棺に入った祖母を見たときではなかった。

周りの人たちは暗い顔をしていた。

憂はずっと母に抱かれて泣いていた。

それを見た時でもなくて。

火葬場から見た煙でもなくて。

 祖母の、白い骨を見てしまった時だった。

 それを見た瞬間、実感した。理解した。

 ――もう、おばあちゃんはいないんだなあ、と。


 空っぽになってしまった和室に、私と和は座っていた。

 なにも話さない。
 座布団を敷いて、そこに正座していた。
 お線香の匂いと、畳の匂いがする。
 この部屋の匂いは、大好きだったのに。
 今は、なにも感じない。
 寂しいだけだ。
 祖母がいないこの部屋には、なにも情感がわかない。
 和も寂しそうな顔をして私を見ている。
 目の前にあるのは、一つの箱。
 木の箱だった。

「――唯、これ……」

「うん」

 蓋に手を掛けて、開ける。
 中には一枚の紙と、小さな紙袋が二つ入っていた。
 唯へ。と書かれた紙袋と――
 ――憂へ。と書かれた紙袋が二つ、入っていた。


 自分の部屋で外を呆と見ていた憂を部屋に呼ぶ。
 まずは紙を開いてみろと和は言う。
 大切な友人の提案は聞き入れる他ない。故に、私たち姉妹はまずその一枚の紙を
開いてみた。

「あ」

 それは、手紙だった。
 祖母が私たちに遺した、手紙だった。
 柔らかい字で、ゆっくりと書いてあったそれを読むと、目の前が見えなくなった。
 滲んで、字が読めなくなる。
 喉から声が溢れる。
 これは嗚咽だ。
 私たちのために――祖母は用意していたのだ。

 いなくなってしまったときのために、私たちに遺してくれていたのだ。

 自分の死なんていう、絶対に受け入れたくないものを受け入れて――

 ――私たちに、笑っていてほしいと手紙を遺してくれていたのだ。

 そう思うと涙が止まらなくなって、鼻水も止めどなく溢れてきた。

 11月26日と日付が書いてあるのを確認したとたん、私は半狂乱になって泣き崩れ
た。みっともなく、畳に顔をこすりつけて泣いた。


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最終更新:2010年03月30日 01:30