そして、紙袋を抱きしめた。
 思えば、私が一番大きな声で泣いたのは、この日だった気がする。
 きっと。いいや。絶対にそうだろう。


 それから、私はまた一つ変わった。

 以前のように、友人を作るという一点にのみ重きを置いた人間ではなくて、

 以前のように、勉強をすることだけに集中した人間でもなくなって、

 私の周りに、笑顔が溢れているようにと行動する人間になったのだ。

 そう。

 今の私は、このとき生まれた。

 言ってしまえば、今までは生まれてさえいなかったのだ。

 利己的な私は、人間として形成されておらず、今、生まれたのだ。


「唯は、部活とかやったりする?」

「部活?」

 中学校に入れば、ほとんどの生徒が部活動なるものを始める。私にはそれがどうに
もいいものに思えなかったので、部活に関してはなにも考えていなかった。
 だって、つまらないじゃないか。
 1つか2つ、年が上の先輩という人種にコキ使われて、へーこらして、そういうのはホ
ント勘弁というかノーサンキューなのである。
 そういうわけで、和の発言は意外とも思えた。
 彼女も私と同じような考えの持ち主だったので、部活動なんて始めたりはしないだろ
うなと思っていた。だから、彼女の言葉は意外性があったのだ。

「やらないよー。だってだって、私、運動音痴だし」

「……そうね。唯ったら、未だにキャッチボールもできないものね。でも、文化部とかは
――」

「やりません!」


 私だって、一般的な常識はある。
 文化部、例えば吹奏楽部なんかは女子生徒が大半のため、人間関係はドロドロ。
演奏どころではないということは常識である。常識のある私は、それだってちゃんと知
っている。
 美術部だとか合唱部だとか、文化部はいくつかあるが、殆どが女子が主導の部活
動だ。そうなれば、環境は違えど状況はほとんど同じだ。友達を作ったりして楽しむの
はいいけれど、媚を売りながら時間を浪費するのは大変賢くない。
 そも、どうしてそんなに和は部活動を薦めるのか。

「和ちゃん、なにか部活動でもやるの?」

「私はやらないわ。だって、唯の面倒見なきゃいけないもの」

「そんなことある!? 私だって子供じゃないんだからさ、大丈夫大丈夫」

「子供以下よ。イマドキ、調理実習でフライパン爆発させる子いないわ」

「そうかなあ……。結構いると思うんだけど……」

 いるとは思う。
 だって、ここにいるんだから。

「とにかく、憂に心配掛けさせるんじゃないわよ。あの子、小学生なのにずいぶん大人
びちゃって」

「憂は自慢の妹だよ! 和ちゃんもそうおもうでしょ?」

「ええ。あの子はホント、よくできた子よ。
 ――本当に、心配になるくらいに」


 私の家は4人家族ではある。
 ただ、私が中学校に上がってからは父の仕事が忙しくなって、母もそれに付き合う形
で海外に出張する機会が多い。
 そうなると、残される私たち姉妹は食事などの世話を真鍋家に頼る形になっていた。

「唯ちゃん。おかわりする? 憂ちゃんも」

「二人とも可愛いなあ。おじさんとお風呂入るか?」

「ちょ! お父さん、唯は中学生なのよ!」

「じゃあ、憂ちゃん」

「お父さん!」

 こんな感じで、真鍋家の食卓にはいつも笑顔があった。
 私が大好きな、笑顔だ。
 いつまでもここにいたいと思うくらいに、笑顔だ。

「えへへ……」

「どうしたの? お姉ちゃん」

「どうしたんだろうね。でも、楽しくない? 憂」

「……うん!」

 そのなかでも――
 妹の笑顔は、なによりも大好きだ。


「最近、憂が和ちゃんの家に行ってるよね」

「そうね。お母さんから、お料理を教わってるみたいね」

「料理!?」

 ショック。
 姉である私を差し置いて、妹は料理を習得しようとしている。
 いつだって私にくっついてきた、あの小さな妹がだ。

「そうよ。結構筋がいいみたいで、本人も楽しそうよ」

「ほえー」

 憂にも、打ち込めるものができたんだなあと思うと安心にも似た気持ちになる。
 今まで憂は、ずっと私や和の後ろにくっついて来た。その憂が、私のもとから離れて
頑張っている。
 それを知って、感慨深く思う。

「とにかく。唯だって料理の一つや二つできるようにならないと。憂が苦労しないよう
に、頑張りなさいよ」

「そーだねー」

 とはいっても、私はこのままでいいと思う。
 のほほんと。
 ゆったりと。
 そんなこんなで、生きていてもいいと思ってたのだ。



 ――そうして、一年が過ぎた。

 二年生となっても全く変わらない私は、家で絶賛ゴロゴロ中なのである。
 やめる気はない。
 なにせ、私にとってのゴロゴロとはアイデンティティそのものなのだから。

「うへへー」

 それにしても退屈だ。
 外は雪が降っていて、出かけるのは億劫だ。
 中学生になった憂は、今日の晩御飯を作っている。和の両親はご飯を食べに来ても
いいと言っていたのだが、憂は自分で頑張りたいとそれを聞き入れず、今や海外にい
る母も認めるくらいの主婦っぷりなのである。
 確かに後ろ姿は、女の私が見てもお嫁さんっぽくて抱きしめたくなる。
 居間に漂う香りから察するに、今日はカレーだ。憂が作るカレーはよくわからないけ
れどすごくおいしい。どういうカラクリかはしらないけれど、すごく美味しいのである。

「ういー。アイス食べたい」

「ご飯食べてからね」

「うぅ~。アーイースー。アーイースー」

 ゴロゴロしながら連呼する。
 やることもなく、打ち込むものなんてものなくなった私には、これくらいしかすることが
ない。妹からアイスをねだるという、なんとも情けないっぽい行動だが、実はこれがなん
となく楽しい。
 憂はクスリと笑って私を眺める。
 その表情はなによりも大好きなものだ。
 私の、たからものなのだから。


 また、春が来た。
 桜が咲いて、散っていく。
 この時期が、実は私は一番好きだ。
 花弁が頭にふわり。それだけで幸せな気持ちになる。

「唯、花弁が頭に」

「似合う?」

「頭の中もお花だらけの唯には、お似合いという言葉すら足りないくらいよ」

 その言葉は喜んでいいのだろうか。
 喜んでおこう。きっと、彼女は私を褒めたのだ。
 右手に握られたアイスが、ぼとりと地面に落ちそうになる。

「ほら、アイス」

「おっとっと!」

 公園のベンチに座って、二人でアイスを食べる。
 毎週火曜日の楽しみだ。今日の私はバニラのソフトクリームを食べている。ふんわり
とした舌触りがなんともいえない。



「ねえ、唯は修学旅行どうしたい?」

「どうしたいって。長野でしょ? わさびアイスを食べたい!」

「……唯はアイスのことばかりね」

「アイスは私の生きがいだからね!」

 そんな軽口を叩いていると、少し離れた公園の入口から、憂が見える。
 手にはエコ袋といわれる買い物袋がぶら下がっている。どうやら、今日の買い物をし
てきたようだった。
 その表情は、なにか寂しい顔をしていた。


「憂って、学校の友達とかいる?」

 和がそんなことを尋ねてくる。
 まったく心外だ。
 憂は人当たりもよくて、周りからも私からも頼られる存在だ。その憂に友達がいない
なんてことは在り得ない。実際、憂は友達を家に連れてくるのだから。

「そんなことないよ。この間も純ちゃんって子と遊んでたよ」

「――そう。ならいいけれど……」

 意味深な言葉が聞こえる。
 顔をのぞき見ると、その顔は心底心配している。私よりも、彼女のほうが憂の姉に相
応しいとさえ感じてしまうほどに。
 昔から、和は憂の姉としての役目を担っていた。
 それはほかでもない。私が馬鹿だったからだ。
 私が他のものに異常なまでに執着し、固執したがために生まれたパラドックス。姉で
ある私は成長せず、妹ある憂だけが成長していった。
 そして、その成長を生んだのは和という存在だ。
 幼いころから、和は憂に色々なことを教えていた。
 一人っ子の和は、憂を本当の妹のように可愛がっていた。
 私が――可愛がらなかったから。

 ――私のような姉で、憂は本当に幸せなのだろうか。

 そんなことを考えてしまう、4月のある日だった。



「ここは長野です!」

「誰に言ってるのよ」

 6月。私たちの学生生活に於いて、最も大きなイベントの一つである修学旅行が行
われた。
 行先は長野。お寺や山、その他にも見学の名所があるとされる土地なのだが、私は
如何せんよく知らない。とにかくみんなと旅行に行けるということが楽しみで、嬉しくて、
それだけしか考えていなかったので、長野について調べることなんて一度もしなかっ
た。
 そうして、実際に来てみれば――

「さむい!」

 そう、寒いのである。
 別に北海道ほどだとか、それほどではないのだが山には雪が残っているところを見
ると、やはり私たちが住んでいる土地に比べて遥かに気温が低い。

「唯も和も早く行こーよ。わさびアイス食べるんでしょ?」

 同じグループになった神田が急かす。
 彼女も私に負けず劣らずのアイスマニアで、学校でもよくアイスの情報交換を行って
いる。
 その彼女が調べた店なら、きっと最高のわさびアイスが食べられる筈だ。


 ――その一日は、あっという間に過ぎてしまった。

 気がつけば夜になっていて、私たちはホテルの一室に集まってテレビを囲んでいる。
 クラスの中でもリーダー的な存在である高槻の手には、一本のDVD。
 その内容は、いくら『そういう知識』に疎い私にもわかる。
 というよりも、それくらいは知っていないとまずいだろうとも思う。私にだって、いつか
好きな人ができて、その人とデートしたり、その人とキスしたり、その人と――

「……むむ」

「あれ? 唯、赤くなってる?」

「な、なってないもん! 私だって――」

 口にするのははばかれる。
 だって、私もうら若き乙女だもの。そういうことを口にするのは大変はしたない。
 テレビ画面に移された情景を説明するのも恥ずかしい。
 でも……ああなってるんだ。へえ……。

 私にとっての修学旅行は、そういった。ほんの少しの色気(?)もまじったような3日
間だった。



 ――修学旅行も終わり、家に帰ってくると憂は眠そうな顔で出迎えてくれた。

「おかえり、お姉ちゃん。楽しかった?」

「もちろん! すっごく楽しかったよ! はい、おみやげ」

 おみやげに買ってきたのは長野土産ではおなじみ、フルーツはちみつである。憂はト
ーストなどに執拗にジャムを塗りたくる性質なので、きっとはちみつも似たようなものだ
ろう。
 憂はそれを受け取ると、にこりと笑って――

「おいしそうだね。ありがとう。今日のご飯はカレーだよ」

「カレー!? うわーい! ういーだいすきー!」

 憂に抱きついて、喜びを身体中で表現する。
 頭がよくない私には、これくらいでしか自らを表現できない。
 と。
 憂の身体に、ちょっとした違和感発見。



「憂、もしかしてまたおっぱいおっきくなった? お姉ちゃんよりおっきくなっちゃやーよ」

「そ、そんなことないよ!
……確かに、最近ブラがきつくなったかもしれないけど」

 やっぱりそうだ。
 年齢の違いが1つしかないのだから、仕方ないといえば仕方がないのだが、憂は私
よりもプロポーションがいい。
 なにかこう、メリハリがある。そのうえ、柔らかいので抱きしめ甲斐のある身体をして
いる。かくいう私はというと、胸は小さくないのだが(同級生の間ではという話ではある
が)腰つきだとか、そういったところの発育があまりよろしくないのである。
 同じ血が流れているというのに、どうしてこうも違うものなのか。憂の成長を目の当た
りにする度に思うことだ。

「――あ。お肉買ってくるの忘れちゃった。
 お姉ちゃん、野菜の皮、剥いておいてくれる?」

「まかせんしゃい!」

 憂でもそんなことがあるんだな、と驚く。
 しかし、憂も人間なのだからそんなことだってあるだろう。今の私に与えられた任務を
こなすことのほうが大事だ。
 台所には二人分のカレーの材料。
 じゃがいもに人参に、玉ねぎやカレールーだ。それに加えて、憂のカレーにはホウレ
ンソウが入れられる。


「……そのまえにジュース飲もっと」

 近くのスーパーに行ったとはいえ、すぐには帰ってこないだろう。修学旅行から帰って
くるバスのなかは乾燥していたためか、喉が渇ききってしまっている。確か、冷蔵庫に
コーラが入っていた筈だ。

「あれ?」

 確か、憂はカレー用のお肉を買いに行くと言っていた。
 ならば、この冷蔵庫の中にある豚肉はなんなのだろうか。
 ……手にとって見てみる。
 別段色がオカシイわけでもない。どうやら、憂は思い間違いをしてしまったようだ。
 憂にも、こんなことがあるんだなと再度確認。ちょっぴりでも抜けていてくれなくては
姉である私があまりにも恥ずかしいし、妹としても可愛くない。小さなころから、こういう
ミスをあまりしなかった憂の意外な一面だろうか。

「――」



 ――和の言葉を思い出す。

『とにかく。唯だって料理の一つや二つできるようにならないと。憂が苦労しないよう
に、頑張りなさいよ』

 いつ、そんなことを言われたのか。
 それは思いだせない。
 それでも、確かにそんなことを言われた。

 言われた。
 かけがえない、親友に。
 言われた。
 言われたのだ。
 そして、目の前にはチャンスがあって。

 ――なら、そうだ。

 やることなんて、一つしかない。
 包丁の刃に映ったのは、不気味に歪んだ口元。
 それが誰のものかはわからなくても問題はないだろう。




Interlude

 私、平沢憂はしっかりしている。
 ……と、周りからは言われている。
 自分ではそうは思わないのだが、世間的にそう言われてしまっているのならやること
なんて決まっている。

 ――人の性質とは、つまるところ『他者の自分への評価』に依存する。
 周りからどう思われているか、ではなくて周りからどう言われているか。それが重要な
のだ。
 それは、決して他人でなくてもいい。
 親でもいい。兄弟だっていい。ようするに自分以外の人間によって、人の性質とは決
定づけられる。
 故に、親は子供を褒める。
 たとえ勉強が出来なくとも、それだけで人は尊敬を集める研究者に成長する。

 ――そう。人の成功や実力とは才能ではない。『努力』なのだ。

 評価に値する人間になるために、
 自分で自分を褒めてあげられる人間になるためには、

 才能のない私には、努力しかなかったのだ。

 それしか、知らなかったから。
 だから……豚肉を買って、家に帰って来た私は唇を噛んだ。

 だって――そこには、容易く結果を出す人(おねえちゃん)がいたのだから――

Interlude out



 帰って来た憂の顔は、凍っていた。

 どうしてそんな顔をしているのか。
 どうして、手が震えてしまうのか。
 どうして私はそれでも笑うのか。

 両手に握られた鍋には、私が作ったカレーが入っている。
 味見をしたのだが、問題なく美味しい。これなら憂も喜んでくれるだろうと安心した。
安心したのだが、今の憂の表情はなによりも強張っている。
 怒っているようにも見える。
 悲しんでいるようにも見えた。

「うい? どうしたの?」

 顔を覗き込む。私よりもほんの少しだけ、憂は背が低い。
 昔から私よりも少しだけ、ほんの少しだけ小さな妹は唇を噛んでいる、なにかを堪え
るように。
 それは……そうだ。怒りに近い。
 憂は、怒っているのだ。

「ご、ごめんね? 私……私……」

 ただ、なにに怒っているのかがわからない。
 私は憂のためにカレーを作っただけだ。本当だったら感謝されたっていい。それなの
に、憂は唇をかみしめて哀しい怒りを露わにしている。
 ……それは、なにか理不尽ではないのだろうか。

 私は、いいことをしたというのに。


 昔から、憂は努力家だった。
 昔から、私は天才肌だった。

 その差は、埋められない。
 どうしたって私のほうが上になってしまう。
 たとえ憂が努力をして、私よりも結果を出せるようになってしまっても、それは容易く
流点する。幼いころから、取り組んでしまえば私のほうが上だったのだから。


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最終更新:2010年03月30日 01:34