そこまではわかっていた。
 だから両親は私に家事をさせなかった。
 常識的なレベルにとどまる、憂にやらせることでバランスを保った。憂の自尊心。そ
れが家事だったのだ。
 姉にはできないけれど、自分にはできる。
 ここまではわかっていた。
 ただ、それが意味するものを理解していなかった。

 なにせ、平沢憂はその優越にも似たバランスに依って保たれていたのだから。

 それが、崩壊していくのを私は知らないでいた。

 結局、妹は姉の持つ悪魔的な才能と、神にも愛されるような在り方に絶望していたのだ。


「……」

 沈黙は誰のものだろうか。
 二人で向かい合って採る食事は、あまりにも殺伐としていた。
 黙々と私が作ったカレーを口に運ぶ憂は、こちらを一切見ようとせず、テレビに写さ
れる本来の目的を逸脱したクイズ番組を見ている。
 笑みなど浮かべず、ただただ呆と見ているだけだ。
 その姿に、言葉は投げかけられない。
 まさに拒絶。
 私という存在と、一線をおく行動だった。
 ……憂は食べ終わり、食器を流しへ持っていく。
 ごちそうさま、とも言わない。いただきます、を言っていないのだから当然ともいえ
るが、彼女は決してそういった礼儀を忘れる娘ではなかった。故に、それはもとより故
意のものなのであろう。
 食器を洗う音。
 テレビの笑い声。
 それだけが、居間を支配する。

『ちゃうねん。いいか、矢口は自分がヘキサゴンファミリーになってへんと――』

 つまらない。
 リモコンを取って、テレビの電源を落とす。それとほぼ同時に水道の音も止む。
 誰かが階段を上がる音がする。きっと、憂は自分の部屋へと行ったのだろう。

「……ごちそうさま」

 誰に言うわけでもなく呟く。
 その言葉は、誰もいない居間に響くだけだった。


 頭では理解していた。
 それなのに、この手は止まらない。
 たとえ憂が、自分の居場所を無くしてしまったと感じたとしても、私は家事をするのを
やめない。
 否、やめられない。
 常に忙しくないといられない。常になにかしていないと生きていけない。そんな錯覚さ
え覚えるほどに、私は変わってしまっていた。

 恐ろしい。
 だって、自分でも不理解(わから)ないのだ。
 今、私はなにを望んでいるのか。
 頭と体が、まるで別のイキモノみたいに分かれてしまっている。
 頭では拒絶しているのに、
 身体はそれを執拗に求める。
 打開できないパラドックスだ。今までとは全く違う。

 過去、私は色んな人を傷つけてきた。
 ブレーキのないクルマは、誰かを傷つけることしかできない。
 それと同じく、私は触れる人や関わる人を傷つけることでしか自信の存在を認識でき
ない。
 何かに、固執して。
 何かに、執着して。
 そうでもしないと生きていけないのだ。

 誰も食べてくれない食事を作っていると指を切った。
 赤い血が流れるのを見て安心した。

 ――なんだ、私もとりあえずは人間なんだ、と。



 私が憂の居場所を奪ってしまってから一週間が経った。

 朝、憂よりも早く起床する。
 朝食を作って、憂を起こしに行く。
 私に起こされた憂は何も言わない。ただ虚ろな目で私を眺めて、着替えだすだけ。ま
るでカラクリの人形のようだ。生気のない。ただただ生きているだけの彼女をこうしたの
は私だ。
 だというのに。
 だというのに、私は憂の部屋でニコニコと笑っている。
 こんなには、どう考えてもおかしいのに。
 おかしいのに、私はどうにも可笑しいと認識する。
 朝食を食べて、憂を送り出す。
 以前とはまるで逆の立場だ。

「さて、今日もがんばらなきゃね」

 頑張る必要なんてない。
 妹が笑っていないのに、それなのに私は無責任に笑っていた。
 そんな自分が厭になる。
 こんな自分が本当に厭だ。
 わかっていても、この身は動く。
 絶え間なく、動き続ける。


「ねえ、唯」

「なぁに? 和ちゃん」

 秋も深くなって、教室は緊張していた。
 休み時間だというのに、多くの生徒は席について参考書を読んだり問題集を解いて
いる。
 もうすぐ受験ということなのだろうが、私にはそのことについての悩みはなかった。
早々に志望校だけは絞っておいたからだ。
 桜ケ丘高校。和と同じ高校に行きたい。ただそれだけの理由で決めた高校なのだ
が、私は如何せん偏差値だとかそういったものを知らないでいた。
 どれくらいの点数を取ればいいのか。どれほどの学力ならばいいのか。それすらもわ
からないままに決定していたのである。
 和が話しかけてきた理由。それは――

「アンタのテストの結果見たけど、あれじゃあ桜高厳しいわよ?」

 そんな、至極まっとうなことであった。



「ふぇ?」

「ふぇ? じゃなくて、アンタ5教科合計で200点しかとってないじゃない。今のままじゃ
はっきり言って無理よ」

「そんな!」

 ……そういえばそうだ。
 最近は家事しかしていない私は、まったく勉強というものをしていなかったのである。と
いうよりも、家事をする前から、そんなものはしていなかったのだ。
 とすれば、この状態は当たり前ともいえる。
 私という人間は、ある一つのことにしか特化できないのだから。

「どうしよ……」

「どうするもなにも、やるしかないわね。勉強」

「和ちゃん。なんとかして!」

「無理よ。自分で何とかしなさい」

「うう~」


 机にうなだれる。
 今、私は家事に特化した人間だ。
 故に、今の私に勉強は不可能だ。どうにもならない。
 こうなったら――

「ねえ、和ちゃん。パンツ見せたげるから勉強教えて!」

「なによそれ。
 ……わかったわ。今日、唯の家に行くから」

「私のパンツ見たいの!?」

「見ないわよ!」



 放課後である。
 退屈極まりない授業は終わり(全部寝てた)今はその帰り道にいる。
 いつもとは違って、街中は避けて帰っている。
 それは和の提案というか、命令に近い指示が原因である。

『――アンタはアイス屋さんとかブティック見たらすぐ入るから、そこは避けるわよ。い
い?』

 私にだって我慢くらいできる。

 ……否。できない。無理だ。限りなく。

「和ちゃんて、お姉さんみたいだよね」

「そう? ま、アンタの友達やってると自然にそうもなるわよ。妹がいきなり二人なん
て、なんか変な気分になるわね」

「憂は昔から和ちゃんにべったりだったもんね!」

「憂の場合は、私よりも唯にべったりだった気がするわよ」

「そんなことないよ。和ちゃんもお姉ちゃんって言われてたじゃん」

 確かに、そんな時期もあった。
 あれは、そうだ。和がやめさせたんだった。
 憂には唯がいる。だから、自分を姉と呼ぶのはやめてくれと。
 そんな昔話をしているうちに、我が家についたのであった。



「ただいまー」

「お邪魔しまーす」

 ……とはいっても、誰もいない。
 憂も帰ってきておらず、両親はまだドイツにいる。
 私たちの声は廊下の向こう側まで響くだけだ。
 ホントに、広いには広いが人がいない家である。

「さて、和ちゃん! お菓子食べよう!」

「勉強しなさい」

 なんてテンプレートなお言葉。
 母に言われたことがない代わりに、和に耳にタコができるくらいに聞かされた言葉
だ。



「前言撤回。和ちゃん、お母さんみたい」

「よく前言撤回なんて知ってたわね。それと、お母さんはホントにやめて。まだ二児の
母にはなりたくない」

 この間読んだ漫画に載ってたから使ってみたのだが、どうやら使い方は正しかったよ
うだ。
 和は本当に母性がある。
 優しくて、いい匂いだし、胸だって――

「和ちゃんのボインちゃん!」

「唯!?」

 特に胸だ。
 胸が大きいのは妙に許せない。
 私なんて、成長しているにはしているがそのスピードがやたらとゆっくりだ。故に、私
はいわゆる貧乳というレッテルを貼られている。

 ところで、レッテルってなんだろう。


 ジュースと少しばかりのお菓子を持って自室へと向かう。
 やはり勉強を教えてもらうのだから、おもてなしくらいはしないといけない。和だって、
割と甘党で、ファミレスに行くと必ずパフェを頼んでいる。
 その和なのだから、お菓子を断ることは在り得なかったのである。

「さ、やるわよ」

「なにを?」

「帰るわ」

「ごめんなさい! やりますやります! やらせてくだせえ!」

 と。
 こんな感じのミニコントに興じたところで勉強開始である。
 教科書を開いて、シャーペンを取り出して、ノートを広げる。

 ……。

 ……うん。

「全然わかんないよ。和ちゃん、This is penってなに?」

「え?」

 そんな、スタートだった。
 その日、憂は家に帰ってこなかった。



 朝、目が覚めて部屋に行っても憂の姿はなかった。
 どこに行ったのだろう。
 心配になる気持ちのその反面、妙な気持ちがざわついた。

 ――あんな子、どうなってもいいや。

 そんな気持ちにかぶりを振って否定する。
 なんてことを考えたんだ。私は。
 妹が、帰ってこないのに心配にならない姉なんていない。
 その筈なのに。

「憂の……馬鹿……」

 否。馬鹿なのは私だ。
 どうしてわからない。
 理解しない。
 しようとしない。
 他人の気持ちをわかろうとしない私は、人間じゃない。

 そんなことを考えると――

「う……おえ……!」

 びしゃり、と床に吐瀉。
 黄色い液体が口元と跪いた膝をぬめりと濡らす。

「学校、行かなきゃ」

 和に心配は掛けさせたくない。
 その一心で、学校へと向かった。



「ねえ、唯」

「――」

 外を見ていると、気分がよくなった気がする。
 秋の空。
 秋の風景。
 なんとなく、情緒が深い。
 私は、昔から秋が大好きだった。
 誕生日が秋だから、というわけではなくて、ただ純粋に秋という季節が生み出す情景
が好きだったのだ。
 幼いころ、父に連れられて行った湖を彩っていたのは紅葉だった。
 赤い紅い紅葉は、私の目を支配した。

「ねえ」

 だってそうだろう。
 あんなにも美しい赤なんて、他にはないんだから。


「そういえば、和ちゃんの眼鏡も赤いね。だから私、和ちゃんが好きなのかな」

「眼鏡をかけ出したのは小学校高学年からでしょ。それと、いきなり告白しないの」

「えへへ。それで、どしたの?」

「昨日、帰ったら憂が泣きながら私の部屋にいたんだけど――」

 驚嘆した。
 それはなにも憂が和のところにいるという話に、ではなくて――

「憂、私に抱きついて『死にたい』なんて言ってたわよ……」

 憂が抱いていた、絶望にだった。



 和は、私には何も話さなかった。
 ただ、憂は追い詰められている、と。
 それだけしか言わなかった。

「――そんな」

 彼女にとっての存在理由はなんなのだろうか。
 平沢憂は、自分をどのようにして保っていたのか。
 人間は、バランスを取らなくてはならない。そうではないと、比重が傾いた人間はマト
モにはなれないのだ。
 憂にとって、バランスをとるには家事という役割が必要だった。
 家庭の中でのポジション。言うまでもなく、それが彼女の居場所でもある。
 それを奪ったのは誰か。
 他でもない。この私だ。
 それには気が付いていた。
 気がついていても、それでもなお、私は憂の居場所を奪い続けて笑っていた。

 なんて、下衆な女。

 まるで、売女だ。

「う……あ……」

 心の中で、憂が呟く。

『――私の場所をとらないでよ。異常者』

 瞬間。頭の中が、真っ白になった。



 目が覚めると、私は保健室のベッドに寝ていた。

「私、どうなったの?」

「倒れたのよ。体育の時間にね」

 ……ああ。そうだった。
 私は憂のことを考えていて、目の前に迫るバスケットボールに気がつかなかったの
だ。
 鼻がじんじんとする。どうやら、鼻血もでていたようだ。
 でも、そんなことはどうでもいい。

「ねえ、和ちゃん。ここ、誰もいない?」

「ん? 誰もいないわよ。先生も職員室だしね」

 だったらいい。
 これから言うことやすることは、他の誰にも聞かれたくないし見られたくない。
 いつも明るくて、
 いつも元気で、
 いつも笑っている。

 そんな、平沢唯が崩れてしまうから。


 ――それから、私は時間を忘れてしまった。

「ホント、唯は甘えんぼね」

「うん。ごめんね?」

 和が私の頭を撫でる。
 こういうことをしたあとの和は、いつだってすごく優しい。
 なんだって聞いてくれそうな。
 なんだってしてくれそうな。
 そんな雰囲気になる。
 それに、私はいつだって甘えてきた。
 どうして、こんなことをしたのだろう。

 きっと、からっぽだから。
 私の中には、なにもないから和を求めて、その空っぽの自分を慰めようとしたのかも
しれない。

「唯、なにかあったんでしょ?」

「……うん」

「やっぱり。憂のことでしょ? なにがあったのか話してくれない?」

 ――和の表情は柔らかくて、優しい。
 その目を、自分に向けてほしいから、私は上手になったのかもしれない。

 だから――私は話した。
 居場所を奪ってしまったこと。
 自分が、どうしようもない壊れた人間だということを。


 私が話をしている間、和は何も言わなかった。

 ただ黙って。

 ただ黙って、時折、頭を撫でて話を聞いてくれていた。

 眼鏡をとった和は、いつもとは違っていて――

 ――涙を流しながら話す私も、いつもとは違っていた。

 好きだった。

 憂も、和も、離したくなかった。

 好かれたかった。

 それが裏目に出てしまって、結果はこうだ。

 話が終ると、和の白い肌が私を包み込む。

 まだ、終わりじゃないと。

 それだけ言って、和は私に服を着せてくれた。



 学校が終わってすぐ、私たちは真鍋家の前にいた。

「大丈夫よね。唯」

「うん! 私、憂と仲直りするんだもん」

 目的はたった一つだ。
 憂と仲直りする。
 壊れかけの姉妹の絆を修復しようと、私たちはここにいる。
 秋の、少し冷たい風が私の背中を押す。

「それじゃあ、憂を居間に連れてくるわ。憂だって、いきなり唯が部屋に来たら驚くだろ
うし」

 そういって、和は自分の部屋のほうへと歩き出す。
 私はというと、真鍋家の居間の椅子に座って、待機している。
 昔は、ここが私の家庭の食卓だった。
 それが憂の料理になって、それを奪うように私は自分を壊した。


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最終更新:2010年03月30日 01:34