いつも通りの朝。
のはずだったのに、今日は何かが違いました。

唯「……あれー?」

リビングに降りてきても、一向においしそうな匂いが漂ってきません。いつもならもうとっくに憂が朝ご飯を作ってくれている時間帯。なのにリビングはしんとしていて物音一つ聞こえません。


唯「憂ー、うーいー」

呼びかけてみても答えはなし。今日休みだったっけ? と首を捻ります。ううん、ちがう。憂は休みの日も早起きだし。私のほうが先に起きるなんてこと、今まで一度もなかったはず。
寝坊かな? だんだんと不安になってきて、私は階段を駆け上がりました。


唯「憂、いるー?」

ドアをノックして訊ねると、少しだけ間を置いて反応が返ってきました。

憂「おねーちゃん……?」

よかった、いた。ほっとした私はドアを開けて憂の部屋に入ります。中は薄暗く、心なしか重たい空気が漂っているような感じがしました。
ふざけた口調で、ベッドに寝たままの憂をからかいます。

唯「もー、びっくりしたよ。起きたら憂がいないんだもん」
憂「ごめんね……ごほっ、ごほっ」
唯「憂……?」

憂の口から漏れた咳に、私は目を丸くしました。暗がりの中でもわかるほど憂の顔は赤くなっていました。


ベッドに近寄り、おそるおそる問いかけます。

唯「憂、もしかして……風邪ひいたの?」
憂「うーん、たぶん……」

苦笑しつつ、憂は頷きました。普段のおっとりとした表情じゃなくて、どこか辛そうな感じで。健康そのものに見えた憂が風邪をひくだなんて思わなくて、私は心の底から驚きました。
考えてみれば昨日からその兆候はあったような気がします。口数は少なかったし、食器の後片づけをしてすぐ寝ちゃってたし。でも具合が悪いなんて一言も言っていなかったから気づくことができませんでした。
「あ、でも」と言い足して、憂が身体を起こします。

憂「いつもより長く寝たから、もう大丈夫だよ。ごめんねお姉ちゃん、すぐご飯の用意するね」
唯「え? あっ、えーと、えーと」

憂がベッドから降りようとしたところを言葉を濁して押し止めました。風邪をひいてる憂に、朝ご飯なんて作ってもらうわけにはいかないよ……!


唯「ご、ご飯ならもう食べたよ!」
憂「えっ、そうなの?」

ぶんぶんと首を縦に振ります。憂が首を傾げて私の顔を覗き込んできます。

憂「食べるものって、何かあったっけ……。昨日の夜に全部使っちゃったはずなんだけど」
唯「パン食べた、パン。食パン!」
憂「食パンなら昨日の朝食べたので最後だったよ」
唯「間違えた、あんパンだった! おいしい粒あんだった!」
憂「買ってきてないよ、あんパン。……お姉ちゃん、本当に食べたの?」

もちろん! と言おうとしたときでした。
突如、部屋にぐう~~~という音が鳴り響きました。

唯「あ……」
憂「……」

室内が途端に気まずくなります。
お互いに顔を見合わせること、数秒。部屋を出て行こうとする憂を、私が全力で妨害するというちょっとした攻防戦がはじまりました。


唯「だめだようーいー! 今起きたらしんじゃうよぉ~!」

憂の腰にしがみつきながら叫びます。憂のほうも無理やり前に足を踏み出そうとします。

憂「でもこのままじゃお姉ちゃん、遅刻しちゃう!」
唯「私のことはいいんだよぉ~! 朝ご飯くらい食べなくてもっ」
憂「平気なの?」
唯「え?」
憂「朝ご飯なくても、平気なの?」
唯「……」

黙ってしまった自分がなさけない……っ!


憂「私のことはいいから、下行こう?」
唯「でもっ」

憂は私の肩を叩いて一足先に部屋を後にします。憂の足取りは見るからにふらついていました。案の定次の瞬間には、ドアの段差に足をとられてバランスを崩してしまいます。

唯「憂!」

憂が倒れそうになったところを慌てて腕で支えました。憂の身体に触れた私は、思わず驚きの声を上げてしまいました。

唯「熱い……」

憂の身体は、とても熱くなっていました。
呆然とする私に、憂が力のない笑みを向けてきます。

憂「えへへ、ごめんね。ちょっとくらっと来て」
唯「――やっぱりだめ!」

両肩を掴んで憂の身体をベッドに押し返しました。こんな状態で無理したら本当にしんじゃう!


唯「今お薬持ってくるから、憂は寝てて!」
憂「……お姉ちゃん、心配性~」

不満げな憂の声を尻目に、私は部屋を飛び出します。リビングに戻ると早速お薬のある場所を探しました。が。

唯「お薬どこだっけ……」

あらかた棚を探しましたが、風邪薬が出てくることはありませんでした。全身から血の気が引いていきます。どうしてこんな肝心なときに!


軽いパニックに陥りつつも、私は洗面所のほうに目を向けました。
と、とりあえず先に濡れタオルを用意しよう!
リビングを抜けて廊下を通り、駆け足で洗面所まで移動します。タオルは私でもすぐわかる場所に畳んでありました。手頃なタオルを洗面器に浸して憂の部屋に戻ります。
その途中でした。
あまりに急いでいた私は、制服姿だということも、タイツを穿いていたことすらもすっかり忘れていて。
洗面器を持ったまま、いつかのときみたく盛大に転んでしまいました。

唯「Oh Yeah!?」


水浸しになった自分を見下ろして弱々しく唸ります。

唯「あー……」

逆さまになった洗面器を眺めていると、次第に視界がぼやけてきました。
なんでこんな……妹の看病もろくにできないんだろう。自分の不甲斐なさに嫌気が差します。

憂「お姉ちゃん」

頭上から声が投げかけられました。憂が壁に手をついて一段ずつ階段を下りてきます。
涙目で「う~い~」と泣きつくと、苦笑いした憂に頭を優しく撫でられました。

憂「大丈夫? お姉ちゃん、怪我とかしてない?」
唯「怪我はしてないけど心が痛いです……」

これじゃあまるでどっちが姉かわかりません。


ブルーの極みに達した私に、けれどなぜか憂はお礼を言ってくれました。

憂「ありがとう、お姉ちゃん」
唯「そんな……」

お礼されることなんて何もしてないのに。むしろ余計に迷惑をかけただけなのに。

憂「お姉ちゃんが私のために頑張ってくれるだけで嬉しいよ。ありがとう」

憂はどうしてこんな満面の笑顔を浮かべてくれるんだろうと、私は不思議な気持ちでいっぱいにな
ました。何も言うことができないまま、廊下を掃除する憂にならって私も手を動かします。
結局掃除が終わる頃には、授業のはじまる時間をとうに迎えてしまっていました。


唯「あ、もしもし。りっちゃん?」

休み時間を見計らって電話をかけると、聞き慣れた声が返ってきました。

律『唯? どうしたんだ、急に学校休んで』
唯「うん、実はね……」

わけを説明しようとすると電話先がなにやら騒がしくなる気配を感じました。
「うわっ」とか「やめっ」とかいう声がスピーカーを通して伝わってきます。
しばらくして電話に出てきたのはなんとあずにゃんでした。


梓『唯先輩! 憂ってそっちにいますか!?』
唯「ふえっ。あずにゃん? なんでそこにいるの?」

クラスどころか学年も違うのに。電話の向こうではりっちゃんが『携帯返せよ~』と呻いています。

梓『だって、憂が学校休んだりするなんて思わなくて』
律『だからって上級生のクラスにまで来るか? 普通』
梓『心配しちゃ駄目だって言うんですか!』
唯「まあまあ」


どうやらあずにゃんは憂が休んだ理由を訊きたくて私のクラスまで来たみたいです。友達思いのあずにゃんに頬が弛みました。
どうしよう、憂に替わってあげたほうがいいのかな。あ、でもその前に。

唯「憂がね、風邪ひいちゃったんだ」
梓『風邪……?』
唯「うん。それで今まで看病してたの」

あずにゃんがりっちゃんたちに事情を説明します。受話器にノイズが走り、話し相手がまた替わりました。


紬『もしもし唯ちゃん。憂ちゃん大丈夫?』
唯「ムギちゃん、おはよー! うん、さっき寝たところ」
紬『よかった。今日部活終わったら、お菓子持ってお見舞いに行こうと思うの。お邪魔していい?』

お菓子!
私は大きく頷いて「どんとこーい!」と答えました。りっちゃんたちの呆れた笑い声がかすかに聞こえてきます。
休み時間ぎりぎりまで話して携帯を閉じると、私はもう一度憂の部屋に向かうことにしました。


お薬を出したり、濡れタオルを用意したり。
そういうことを憂が一人で全部やってしまったので、結局私は手持ち無沙汰になってしまいました。これじゃ何のために学校休んだのかわかんないや。休んだのは制服がびしょ濡れになっちゃったからだけど。
憂は放っておいたら体調が悪いにもかかわらず家事をはじめそうなので、早々に部屋に戻ってもらいました。ちゃんと休んでるかな……? 起こさないようなるべく音を立てずにドアを開きます。
憂は穏やかな顔ですうすうと眠っていました。


唯(よかった……ちゃんと寝てた)
心持ち胸が軽くなりました。憂のことだし、「今日休んだぶんの勉強をしておかないと」とか言って机に向かっていそうな予感がしたから。
ベッドに腰かけて憂の寝顔を観察します。こうして寝顔を見るのはずいぶんと久しぶりな気がしました。同じ部屋で眠っていたときは、二段ベッドの下を見下ろせばいつでも憂の寝顔を見られたのに。部屋が別々になってからは憂の色んな仕草……見られなくなっちゃったなあ。
唯(成長してるのかな。憂も私も)
憂の前髪を撫でつつ、微笑みます。カーテン越しに射し込む日光が、憂の白い肌を照らしていました。


――懐かしい匂い。
苦しむ私に、お母さんが心配そうな顔を向けています。
「だいじょうぶ。おかあさん、ここにいるからね」
温かな眼差しに包まれて、前髪を撫でられて。額に感じるマシュマロみたいな柔らかさと温もり。
ああ、そうだ。これは……。
「だからゆいちゃん、はやくげんきに――」


唯「ん……」

はっとして顔を上げます。びっくりした、いつの間にか寝ちゃってたんだ。
窓から入ってくる光は橙色に変わっています。ベッドのほうを見ると、憂は特に変わった様子もなく眠り続けていました。
私は無我夢中で身を乗り出して、憂の上に覆い被さります。
唯(今の夢……そうだ、こうすれば!)
私たちが幼いときにお母さんがしてくれたことを、私は思い出していました。憂の前髪を濡れタオルごと掻き分けて、額を露出させます。露わになった額に、私は自分の唇を近づけます。


唯「大丈夫。お姉ちゃん、ここにいるからね。だから憂、早く元気になって……」

唇を通じて伝わってきたのは、憂の高い体温と、濡れタオルのひんやりとした感覚。
風邪をひいた私たちにとって何よりも強い力となったお母さんの唇の感触を、今の憂に感じさせてあげたくて。ただその一心で、私は憂の額にキスをしていました。


憂「おねえちゃん……」

真下から声が聞こえました。
唇を離すと、顔を真っ赤にさせた憂が上目遣いにこちらを見上げているのがわかりました。どう話しかけていいかわからず、私も黙って憂の顔を見つめ返します。

憂「……なんか、お母さんみたいだった」
唯「あ、憂も覚えてたんだ」

こくりと頷いて、憂は可愛らしくはにかみました。

憂「ちょうどその夢を見てたの。『憂ちゃん、早く元気になってね』って、お母さんが私のおでこにキスしてくれる夢」
唯「わあ、一緒だ。私もさっき同じ夢見てた」

覆い被さった体勢のまま笑います。それからは本当にもうかける言葉が見当たらなくて、お互い真面目な顔で黙り込んでしまいました。


時計の動く音だけがいやに大きく耳に入ってきます。

憂「……ねえ、お姉ちゃん」

憂の瞳には、憂と同じくらい真っ赤な私の顔が映っていました。

憂「あのね。今のじゃ足りないから、もう一度、今度は――」

ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴ったのは、そのときでした。


律「やっほー! お見舞いに来たぞぉー!」
梓「律先輩、声大きいですよ」

お昼に話していた通り、りっちゃんたちがお見舞いに来てくれました。後ろに立つ澪ちゃんとムギちゃんは買い物袋を手に提げています。

澪「唯のことだから、ご飯とか準備できてないだろうと思って」
紬「約束通り、お菓子も持ってきたわよ」

私はとても嬉しくなって、早速みんなを招き入れました。

唯「みんなありがとー! さ、入って入って!」


買い物袋はキッチンに置いてもらって、みんなを先に憂の部屋まで案内することにします。部屋に着くなりあずにゃんが憂のベッドに駆け寄っていくのが見えました。憂が目を丸くします。

梓「憂、風邪は平気?」
憂「梓ちゃん、わざわざお見舞いに来てくれたの?」
梓「わたしだけじゃないよ。先輩たちも一緒。ほら」

あずにゃんが身体を横にずらしました。ドア付近でりっちゃんが「やっほー」と手を振ってみせます。


ムギちゃんが不安げな声で訊ねました。

紬「本当に大丈夫? まだ気分が優れていなさそうだけど……」
憂「え。そ、そうですか? そんなことないですよ」

なぜか憂は少しうろたえ気味にそう答えました。ちらりと私に視線を送ったかと思うと、すぐにムギちゃんのほうに向き直ったり。喜んでるのはわかるんだけど反応がなんか変に思えます。

澪「今日は私たちが唯の面倒見るから、憂ちゃんは休んでてよ」
憂「そんな、悪いです!」
律「いーのいーの。こんなふうに休める機会なんてなかなかないっしょ?」
梓「いつも唯先輩に代わって家事やってるんだし」

みんなのじとっとした視線を感じて、私は「ふえ?」と小首を傾げてしまいました。あれ。もしかして私、責められてる?


唯「じ、じゃあ私はここで憂の看病を……」

身の危険を感じた私はそう言おうとしました。が。

律「はいはーい。唯は私たちと夕飯の準備をしましょうねー」
唯「でも私、料理できないし……」
澪「私たちが教えてあげる。とにかく何もさせないってことはないから、覚悟しなさい」

二人に肩を掴まれ、私は部屋から引きずり出されました。そ、そんな! じたばたしながら盛大な叫び声を上げてしまいます。

唯「いやー! りっちゃんたちにさーらーわーれーるーぅ!」
律「うえっへっへっへ。澪さんや、これまたうまそうな唯が一匹手に入りましたな!」
澪「何の芝居だそれは……」
梓「憂、あとで食べやすいもの持ってくるから」

あずにゃんたちも憂に手を振って部屋を後にします。ドアが閉じられるのを目の当たりにした私は、澪ちゃんたちに引きずられてそのままキッチンまで強制連行。……私に拒否権ってないの? なんてひどい! みんなの鬼! 悪魔!


急に静まり返った部屋が逆に違和感たっぷりで、私はつい寂しさに顔を俯けてしまいました。

憂「はぁ……」

ベッドに倒れ込んで天井を見上げます。ついさっき、ほんのついさっきまで目の前にはお姉ちゃんの顔があったのに。――あと少し顔を上げれば、唇が重なるくらいの距離に。

憂「残念」

自ら発した言葉に意外と嫌悪感は湧かなくて、むしろ清々しいくらいに思えて。私は軽く吹き出しました。「もったいない」という気持ちが心の奥底から溢れてきます。


お姉ちゃんの唇が触れたあたりを、指でそっとなぞってみます。
憂(すごい、どきどきしてる)
お母さんのときとは違う、私の胸を激しく高鳴らせるお姉ちゃんのキス。これがもし口と口だったら一体どんなふうになっちゃうんだろ、私……。
コンコン。

憂「ひゃう!」

ドアがノックされる音を聞いて、私は身を跳ね上がらせました。だ、誰か来た!

憂「ど、どうぞっ」
紬「憂ちゃん」

ドアの隙間から顔を覗かせたのは紬さんでした。


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最終更新:2010年04月01日 00:43