………
……
…
気がつくと私は誰もいない夜の公園に一人たたずんでいた。
あれ? ここはどこだろう? 私は何をしていたんだっけ?
なぜだろう、思い出せない…
もうあたりは真っ暗になっている。
早く家に帰らないと…
家…私の家って…どこだっけ…?
というか、そもそも、私は……私は……誰…?
………
いくら考えてみても、何一つとして思い出すことができなかった。
………
もしかして、これは俗に言う、記憶喪失というやつなのだろうか。
映画や小説の中ではおなじみのものだけど、
まさか自分が記憶喪失になるだなんて、夢にも思っていなかった。
いや、夢にも思っていなかったかどうかも、覚えてはいないのだけれど…
この異常な状況にもかかわらず、私は意外にも落ち着いていた。
とりあえず、ここはいったいどこなんだろう?
公園を出て、道を歩いてみると、何人かの通行人とすれ違った。
その人達を捕まえて、私は誰ですかと聞いてみたい衝動にかられたが、思いとどまった。
そんなことをしたらどう見ても不審者でしかない。
どうやら記憶はなくしても常識は残っているようだ。
だからといってこの状況が好転するわけでもない。
どうしたものかと考えながら歩いていると、一軒のコンビニを発見した。
このままあてもなく歩き続けてもしょうがないので入ってみる。
店員さんの機械的ないらっしゃいませの声とともに店内に入り、中を見渡してみた。
すると、鏡の中から、一人の女の子がこちらを見ている。
………
一拍おいて、それが自分の姿なのだと気づく。
まあ鏡なんだから、自分の姿が映っているのが当たり前なんだけど…
鏡の中の少女はのんびりしたような顔をしてこちらを見つめている。
なるほど、私はこんな顔をしているのか。
そう考えると、なんだか見覚えがあるような気がしてきた。
鏡から視線を外し、レジの奥にある時計を見ると、短針は10を指していた。
外は真っ暗なので夜の10時なのは間違いないだろう。
早く家に帰らなくちゃと思うけれど、家の場所を思い出すことができない。
それどころか、今いる場所がどこなのかすらわかっていないのだ。
………
考えていてもしかたがない、店員さんに聞いてみよう。
ただ聞くだけなのも悪いので、ガムを一つ持ってレジへ向かう。
店員「いらっしゃいませ、一点で120円になります」
私は財布から120円を出してカウンターに置く。
店員「ちょうど頂戴いたします、レシートのお返しです」
会計が済んだところで、意を決して尋ねてみた。
私「あの、すいません、実は道に迷ってしまって、ここはどの辺りでしょうか?」
店員「えーと、ここは桜ヶ丘駅のすぐ近くですよ」
桜ヶ丘駅、と言われても、記憶のない私にはぴんとこなかった。
店員「どちらへお向かいですか?よろしければ地図を持ってきますけど」
私の家へ行きたいんです、と言いたかったけど、
地図に記載されているはずもなく…
私「いえ、大丈夫です、どうもありがとうございました」
そう言って私は店を後にした。
さて、これからどうしよう。
私はコンビニの前で途方にくれていた。
とりあえずここが桜ヶ丘駅の近くだということはわかったけど、
家の場所がわからないのではどうしようもない。
交番へ行って事情を説明しようか…
それとも、病院へ行くべきなのだろうか…
映画や小説で記憶喪失になった主人公はどうしていたっけ?
女の子「…唯……?」
そんなことを考えていると不意に後ろから声をかけられて振り返った。
そこには一人の女の子が立っていた。
女の子「…唯…なのか……?どうして…こんなところに…?」
唯?それってもしかして、私のこと…?
私「えっと、だれ…ですか…?」
この人は私のことを知っているのだろうか。
女の子「あ………ごめんなさい、人違いだったみたいです、私の友達にとても似ていたので…」
女の子「すみません、それじゃあ…」
そう言って去ってしまおうとする彼女を、私は慌てて呼び止める。
私「あ、待ってください!」
女の子「はい?」
私「あの、こんなこと聞くのは、変だってわかってるんですけど…」
女の子「?」
私「…私は、誰ですか……?」
女の子「えっ?」
………
女の子「記憶喪失?」
私は先ほどの公園で彼女に事情を説明した。
私「はい、何も覚えてなくて…」
この人はさっき私のことを唯と呼んだ、それが私の名前なのだろうか。
唯「私のことを知っているんですか?」
女の子「ああ、少し雰囲気が違ったから、人違いかと思ったんだけど…」
女の子「雰囲気が違うのは記憶がないから…?いや、でも…そんなこと…あるわけが…」
彼女は信じられないといった目で私を見ている。
まあ、いきなり記憶喪失だなんて、信じられないのも当然だと思う。
唯「それで、自分の家の場所も思い出せなくて…ご存じないですか?」
女の子「え?ああ、うん、知ってるよ。連れてってやろうか?」
唯「はい!お願いします、えっと…」
唯「ありがとうございます、田井中さん」
律「いつもみたいに、りっちゃん、でいいよ。唯は初めて会ったときから私のことそう呼んでるから」
唯「あ、はい、り…りっちゃん」
………
家に向かう間、律さんに色々聞いてみることにした。
唯「あの、私と律さ…りっちゃんは、どういった知り合いなんですか?」
律「え?ああ、同じ高校の一年生で、同じ軽音部の仲間だよ」
唯「けいおんぶ…ですか?」
律「ああ、私がドラムで、澪がベースで、ムギがキーボード、それで唯がギターだ」
唯「唯って、私のことですよね…私が、ギター…」
そうか、私の名前は唯で、高校一年生で、軽音部のギターだったのか。
だけどなぜか、最後の部分には違和感があった。
自分がギターを弾いてるなんて、想像できなかった。
律「やっぱり、澪とムギのことも忘れちゃったのか…?」
唯「はい…ごめんなさい」
律「そっか、いや、いいんだ、そのうちきっと思い出せるよ…」
律さんも、私が記憶をなくしてしまったことに困惑しているようだ。
会話もどこかぎこちない。
律「ってことは、憂ちゃんのことも?」
唯「憂?」
律「唯の妹だよ」
妹、私には妹がいるのか。
時刻はそろそろ11時になろうかというところだ。
きっとその妹も心配しているだろう、帰ったら謝らないと。
律「ほら、着いたぞ、この家だ」
律さんがインターホンを鳴らすと、中から人が近づいてくる気配がする。
ガチャ
ドアが開いて一人の女の子が顔を出した。
憂「!お姉ちゃん!!」
唯「りっちゃん、この子が、私の妹の憂、ですか?」
律「ああ、そうだよ」
憂「!?お姉ちゃん…どうして…なにをいってるの…?」
律「憂ちゃん、この唯には記憶がないらしいんだ」
憂「記憶が? それじゃあ、私のことも…?」
唯「うん…ごめんね…」
憂「うう、お姉ちゃん、うわあああん」
憂は私に抱きついて、声をだして泣き始めてしまった。
無理もない、家族に自分のことを忘れられてしまったのだ。
逆の立場だったら私もきっと泣いていただろう。
憂が泣き止んだのは、それから10分後だった。
憂「ごめんなさい、取り乱しちゃって…」
唯「ううん、私のほうこそごめんね」
律「それじゃあ、二人とも、私はそろそろ帰るな」
憂「あ、律さん、どうもありがとうございました」
律「憂ちゃんも色々混乱してるだろうけど、唯のことよろしく頼むよ」
憂「はい」
唯「りっちゃん、今日は本当にありがとう」
律「ああ、唯、また明日な」
そう言って律さんはもときた道を帰っていった。
律さんに会えてよかった。
そうでなければ、私はずっと家に帰ってこれずに、さまよい続けていただろう。
憂「お姉ちゃん、中に入ろう」
唯「うん、えっと、ただいま、憂」
憂「おかえりなさい、お姉ちゃん」
憂「お姉ちゃん、おなかすいたでしょ、待ってて、今ご飯作ってあげるから」
唯「うん、ありがとう、憂」
憂は台所にいってしまったので、私はリビングに座って、部屋を見回してみた。
ここが私の家…
そういわれると、なんとなく見覚えがあるような気がしてきた。
それに、なんとなく落ち着いた気分になる。
だからここが私の家なのは、きっと間違いないのだろう。
憂「お姉ちゃん、おまたせ!」
しばらくして、憂が料理をリビングへ運んできた。
憂「どうぞ、召し上がれ」
唯「う、うん、いただきます」
でてきた料理はすごい量だった、それに、やけに豪華だ。
今日は何かの記念日なんだろうか、それとも、この家ではこれが普通なのかな。
唯「あ、おいしい」
憂「ほんとう!」
唯「うん、すごくおいしいよ、憂は料理上手いんだね」
憂「ふふ、よかった、たくさん食べてね」
そう言って憂は初めて笑顔を見せてくれた。
よかった、少し元気になったようだ。
唯「ごちそうさまでした」
憂「お粗末さまでした、お姉ちゃんは、テレビでもみて休んでて、私は食器洗っちゃうから」
唯「うん、ありがとう」
そういえば、先ほどから気になっていたことを思い出し、台所で洗い物をしている憂に尋ねてみた。
唯「ところで、私たちの両親って、今は?」
憂「お父さんは海外に出張で、お母さんはそれについていったよ。来月までは帰ってこないみたい」
そうだったのか、私は自分の両親の姿を想像してみた。
娘が記憶喪失になったと知ったら、いったいどんな顔をするだろう。
唯「家事とかは、いつも憂が?」
憂「え?うん、そうだね、だいたい私がやってるかな」
こういうのは普通、姉が率先してやるものではないだろうか。
なんだか申し訳ない気持ちになってきた。
唯「私も、何か手伝うよ」
憂「え?いいよ、お姉ちゃんには部活があるんだし、私も好きでやってるんだから、気にしないで」
あ、そうか、私はけいおんぶなんだっけ。
だけどやっぱり、自分がギターを弾いてるところなんて想像できないな。
食後、しばらくぼーとテレビを見て休んでいると、
洗い物を終えた憂がやってきた。
憂「お姉ちゃん、お風呂沸いたから」
唯「ありがとう、それじゃ…」
憂「一緒に入ろう」
唯「えっ!?」
憂「え?」
憂は今なんて言った?私の聞き間違いかな?
唯「憂、今なんて?」
憂「一緒に入ろうって」
残念ながら聞き間違いではなかったようだ。
唯「高校生にもなって一緒に入るなんて、その…変じゃないかな…?」
憂「そんなことないよ!姉妹なんだから、それくらい全然普通だよ!」
いやいやいや、絶対変だよ、記憶がなくても、それくらいはわかる。
唯「私たちは、いつも一緒に入ってたの…?」
憂「………うん、そうだよ!」
今なんか変な間があったよ。
憂「お姉ちゃん、私と一緒に入るの…嫌…?」
唯「あ…いや、そういうわけじゃ…」
………
憂「お姉ちゃん、ドライヤーしてあげるね」
唯「うん、ありがとう」
私は今、リビングで憂に髪を乾かしてもらっていた。
結局、一緒に入ってしまった…
憂、私より胸おおきかったな…
私のほうがお姉ちゃんなのに…
憂「はい、乾いたよ」
唯「ありがと、なんだか疲れちゃったから、もう寝ることにするね」
憂「うん、おやすみ、お姉ちゃんの部屋は二階の右側の部屋だよ」
唯「ありがとう、おやすみ、憂」
自分の部屋に入ると、リビングと同じようになんだか見覚えがあるような気がした。
だけど、部屋の隅に置かれたギターには違和感を覚えた。
なるほど、確かに私の好きそうな、かわいいギターだ。
少し弾いてみようと思い、重いギターを手にとってみたけど、
弾き方を思い出すことができなくて結局すぐに諦めた。
ピピピピ ピピピピ ピピピピ
突然、部屋の中に電子音が鳴り響き、びっくりしてギターを落としそうになってしまった。
ピピピピ ピピピピ ピピピピ
なおも音はなり続けている、私は音の発信源を探してみる。
どうやら机の引き出しの中から聞こえているようだ。
ピピピピ ピピピピ ピピピピ
引き出しを開けると携帯電話があった、どうやらこの携帯が発信源のようだ。
鳴り方からして電話やメールではないようだけど、アラームか何かかな。
ピピピピ ピピ
音を止めて、画面を確認する、予想通りスケジュール帳のアラームが作動していたようだった。
画面には一つの文章が表示されている。
『残りあと66』
画面にはただ一文だけ、そう書かれていた。
?いったいどういう意味だろう?
まあ、メモなんてものは自分がわかればそれでいいのだろうが、
記憶をなくしている私にはなんのことだかさっぱりわからない。
他のスケジュールやメールの履歴を見てみようと思ったけど、
それにはロックがかけられていた。
ロックをかけたのもおそらく私なのだろうけど、
今の私は暗証番号を思い出すことができない。
冷蔵庫のアイスの残りの本数とかかな?
書き方の適当さからして、さほど重要なことでもないだろう。
私は気にしないことにした。
もう寝ちゃおう
明日起きたら、記憶が戻ってるといいな。
そんなことを考えながら、部屋の電気を消して、ベッドに寝転んだ…
………
ういーはやくはやくー
おねえちゃんまってー
ほら、ほわいとくりすますだよー
わー
?おねえちゃん、これ
えへへ、くっしょんのなかみー
………
ジリリリリリリリリリリリ
バンッ
目覚ましを止めて、私は起き上がった。
せっかく、楽しい夢を見ていたのに…
私は恨めしそうに時計を見た。
唯「えっ?は、八時!?」
大変だ、寝過ごしてしまった。
私は慌てて制服に着替えて、リビングへと降りた。
憂「あ、お姉ちゃん、おはよう、どうしたの?そんなに慌てて」
唯「憂、だって、八時だよ!遅刻!遅刻!」
憂「お姉ちゃん、今日が何日だか覚えてないの?」
唯「え?」
最終更新:2010年04月01日 04:40