「逃がさないわよ!」
「いぃぃやあぁぁぁぁ!」

 こんな始まり方はどうかと思いますが、軽音部はこういうところです。
 もう慣れました。慣れたくなかったけど慣れました。

 慣れました。中野梓です。

 声の主は勿論、逃げ惑う澪先輩と、それをこれでもかと追いかけるさわ子先生。
 音楽室から始まったその攻防は、廊下を経て、下のフロアにて繰り広げられていたようだけ
 ど、結局、舞台を音楽室に戻したようです。
 クールな澪先輩も素敵だけど、こういう澪先輩もなかなか……じゃなくて。

梓「あれ、なんとかならないんですかね……?」

律「無理だろ、ああなるとさわちゃんは服着せるまで諦めないからなー」

 野生のカモシカを思わせるような、しなやかで可憐、
 かつ一切無駄の無いフォームで軽やかに室内を駆け巡る音楽教師の手には、
 白とピンクを基調としたフリフリの衣装。
 そんな恥ずかしい衣装を喜んで着るのは、唯先輩かムギ先輩くらいなものだと思うのだけれ
 ど。当の唯先輩はといえば、私の横でギターを練習していたりする。
 この日は珍しく、教えて欲しいと私にせっついて来たので、素直に教えてあげているところ
 なのである。
 どうしてかは分からないけれど、唯先輩にやる気があるのは私としても嬉しい。
 嬉しいけれど、一つだけ。今の私には気になることがある。

梓「あの、唯先輩」

唯「どうしたの、あずにゃん?」

梓「さっきから、ムギ先輩がものすごい笑顔でこっちを見てる気がするんですけど」

 「女の子同士っていいわよね」という素敵な人生のスローガンを掲げる百合と沢庵の申し子
 は、まるで女神のような笑みを携えて、明らかに許容量を超えたティーカップに、
 ゴールデンティップを多量に含んだ高価なダージリンを淹れ続けている。

唯「そうかなぁ。ムギちゃん、いつもあんな感じだよ?」

梓「いや、それはそれで問題な気が……」

 私達の方と澪先輩達の方とを交互に、首だけを回転させて、とてもいい笑顔で見つめてい
 る。 せめて、零れ続けている紅茶にも目を向けて欲しいものだけど。
 隣で「おーい、ムギー、帰ってこーい」と突っ込む律先輩の声など、何処吹く風である。

唯「それより、ここなんだけど」

梓「あ、そこはですね……」

 意識を唯先輩の方に移した次の瞬間――。

 ドカッ!

梓「きゃっ!?」

 不意に、突然私の背中に強い衝撃が走った。
 なにかが、ぶつかったような、なにかに、押されたような。
 前方へと傾く体。
 その先には唯先輩。

 ああ、ぶつかるな。

 そう思った時には、私の体は唯先輩に触れていて。

 ――ふわり、と良い匂いがした。

唯「あ、ずにゃん……?」

梓「……っ!」

 目を開くと、そこに唯先輩の顔があった。

 唯先輩は、ギターをかばうようにして倒れ、
 私は、倒れる瞬間にギターを背中に回していた。
 そのくらいのことができなければ、軽音部猫成分は担当できない。

 ……本当は偶然だけど。

 ともかく、唯先輩もギターも、無事のようだった。 

 いや、寧ろ問題は今の体勢なのであって……。

唯「……」

梓「……」

 押し倒されて、仰向け状態の唯先輩は、薄らと頬を赤らめている。

 嗚呼……、そんな顔をされると、唇を奪いたくなるじゃない。
 今のこの体勢。これは純然たるマウントポジション。
 抵抗のすべをなくした唯ちゃんは、もはや私の思うままッ……!

梓「……なに言ってんですか、ムギ先輩」

 背後から、私のモノローグを模した声で喋るムギ先輩に、冷めた視線を送る。

紬「あ、あら。ごめんなさい」

 ムギ先輩は、我に返ったようだ。
 全くもう、それじゃあまるで私が唯先輩のこと好きみたいじゃないですか……。
 私が好きなのは澪先輩であって、唯先輩のことは、べ、別に……。
 ……別に?
 いやいやいや、何を考えているんだ私。

紬「続けて」

梓「うぉぉい!」

 寧ろ私が我に返った。
 横には、さっきまでの攻防が嘘みたいに硬直している澪先輩とさわ子先生。
 そして。

唯「あずにゃん、大胆……」

梓「ち、ちちちちがいます!」

 言われてようやく、私は唯先輩の上から体を退け、乱れた制服を整える。

紬「落ち着いて、梓ちゃん。こういうときは息を早めに三回吐くのよ!」

梓「そ、そうですね。ハァハァハうぉぉい!!」

 二回目のうぉぉい!

梓「これじゃただのエロ親父ですよ!! 深呼吸でしょそこはー!」

 ぽん、と肩を叩かれる。振り向けばそこにはおデコ。

律「梓もやるようになったな! まさかノリツッコミをも習得しているなんて!」

 グッと、親指を立てる律先輩。
 最高に嬉しくない賛辞だ。脳ミソもおデコみたいにトゥルットゥルになればいいのに。

紬「さっきの動きもすごかったわ。まさかあの一瞬でギターも唯ちゃんも怪我をしない(素敵な)体勢に持ち込むなんて」

梓「どうして頬を赤らめながら言うんですか」

 あとさりげなく「素敵」っていうフレーズいれないでください。
 もうこの軽音部ダメかもわからんね。と思いつつ、唯先輩に声をかける。

梓「すみません、唯先輩……、大丈夫でしたか?」

 聞くまでもなく、けろっとしているのだが念のため。

唯「大丈夫だよ。ありがとぉ、あずにゃん」

さ「ごめんなさいね、二人とも。
  先生、澪ちゃんに服着せることに夢中で周りが見えてなかったみたい」

梓「……反省してくれてるなら、別にいいです」

 冷静になってくれたようだし、さわ子先生だって悪気があった訳ではない。
 ただ、内に滾る欲望をほんの少し抑えきれなくなっただけなのだ。
 それはさわ子先生に限った話ではない。誰にでもあることだ。
 だから、この程度のことを咎めていては、私の器量が知れるというもの。
 そう。例えば、愛すべき我が親友、平沢憂。
 彼女に唯先輩の話題なんぞ振ろうものなら、「ゆ」の字を発した段階で目が光る。
 比喩とかじゃなくて、こう、実際に色彩やら光度やらが八割強増す。
 そして、光速の三百倍程度の速度で彼女の顔面は、私の息のかかるポジションへと移動する
 のだ。 私はそこでいつも思う。

 『近い』と。

 憂は、お姉ちゃんから風邪をもらうならやっぱりキスしかない!
 と、平気でのたまうような生粋のスィスターコンプレックスだ。
 あそこまで自分の欲望に正直ならば、もはや清々しい。

さ「まぁ、澪ちゃんには着せるけどね」


 懲りてねえ。

律「さて、それじゃ今日は解散にするかー」

 ひと段落したところで、部長の律先輩がうまくまとめようと解散宣言。
 実際は、ひと段落もしてないし、練習もしてないけれど、
 この日の部活は終了となった。

澪「た、助かった……」

さ「ちっ」

澪「露骨に舌打ちしないでください」

律「唯~、帰りにアイス食おうぜ」

唯「おぉ~、いいね!りっちゃん!」

 ダメだ。
 私はようやく冷静になった。

梓「……」

 これじゃダメなんだ。
 なにがダメって、このだらけっぷりが。
 私だって最近はこの空気に慣れて、それが心地良いとすら思っているけど。
 でもいくらなんでもここ数日は練習してなさすぎる。
 普段であれば、澪先輩が皆を説き伏せる所なのだが、今日はそれができない。
 何故なら、さわ子先生に動きを封じられて、音楽室の隅で縮こまっているから。
 だからこそ、私がしっかりしなくちゃいけないのだ。
 そうでなければ、この人達は本当に練習しなくなる。

梓「あ、あの!」

律「どうしたー、梓?」

 だから私は、ひとつの提案を持ちかけた。

梓「明日、朝練しましょう!」

律「へ?」
唯「ほえ?」

 律先輩と唯先輩の首が、左右対称に傾く。
 ちょっとキューンってなった。

梓「今日も全然練習できなかったし、このままじゃよくないと思うんです」

律「朝かー、起きるのしんどいんだよなぁ」

梓「じゃあ放課後しっかり練習してください」

律「うぐ……、どうした梓、目がマジだぞ?」

梓「マジです、大マジですとも」

紬「まぁ、いいんじゃないかしら? 私は皆と一緒に居れる時間が増えるのはうれしいわ」

澪「そうだな、私も梓とムギに賛成。いくらなんでも、ここ最近だらけすぎてると思う」

 澪先輩ならそう言ってくれると思ってました。
 いつの間にかさわ子先生を退けてるところが素敵です。

唯「朝練かぁ、憂に起こしてもらわなくちゃ」

梓「たまには自分で起きてくださいよ」

唯「えへへ」

 褒めてねえ。

律「仕方ないな、そういうことなら明日から朝練頑張ろうか」

澪「だな」

 翌日。いつもの通学路。
 朝練の為、少し早めに家を出た私は、そこでよく知る人影を見つけた。

唯「よーしよしよしよし」

梓「……」

唯「にゃあにゃあにゃんにゃん!」

 えーと……。

梓「何やってるんですか、唯先輩」

唯「あ、あずにゃん! おはよ~」

 屈託のない笑みで振り返る唯先輩。
 それにつられて、自然と頬が緩んでしまった。
 時折、この人は本当に私より年上なのか疑うことがある。

 『お姉ちゃんってあったかくて気持ちいいよね』

 愛すべき親友のそんな言葉を思い浮かべながら、私は挨拶を返した。

唯「ほら、みてみて~」

 そう言って、すっと立ち上がり、こちらへと向き直る唯先輩。
 彼女の両腕に抱かれていたのは、黒い毛並みの猫。
 子猫というには少し育ちすぎているが、首輪もしているし、どことなく品も感じられる。
 少なくとも、野良猫とかではなさそうだ。
 唯先輩の腕の中が心地良いのか、猫は目を細めて気持ちよさそうにしていた。

梓「かわいい……」

唯「でしょー!」

 ここで、私の中にひとつの悪戯心が芽生えた。

梓「唯先輩も、かわいいですけどね」

 こてんと小首を傾げる唯先輩。

梓「唯先輩も、かわいいと思います」

 いつもそう言って抱きついてくるのは唯先輩の方。
 だから、たまには私の方から攻めてやるです。

唯「え~、そうかなぁ~」

 意外なリアクションが返ってきた。
 てっきり、「いやいや、あずにゃんには及びますまい」とか
 関取風の声で返してくると思ってたのに。
 しかし、照れくさそうにもじもじする唯先輩は、実際にかわいく見えた。
 カッコよくて優しい澪先輩も素敵だけど、
 唯先輩は唯先輩で、よく分からない魅力があったりする。

 そんなことを考えていたら、すっかり忘却していた昨日の出来事が脳内にフィードバックし
 た。同時に、自分の顔が熱くなっていくのが分かる。

 この展開はマズイ。

 有体に言えば「やべえ」

唯「えへへ~、ありがとぉ」

 だって

梓「っ……」

 照れているのは

唯「あずにゃんもかわいいよぅ」

 私の方じゃないか!

梓「あ、う、えーと、さ、さっきのはその……、違うんです」

 少し考えたら、こういう展開になるのは予想できただろうに。
 後悔する私と、よくやったという私が脳内で終わらない討論を繰り広げる。
 すると、二人の私の間にムギ先輩がにょっきりでてきて、朗らかに手を振りだした。
 そして、満面の笑みを浮かべたまま、後悔する側の私に駆け寄ってきて、
 鼻の穴にゴボウをねじこもうとしてきたので、私は無理やり現実に意識を戻した。

梓「どう考えてもゴボウは入りませんから!」

唯「ご、ゴボウ??」

梓「あ、すいません。こっちの話です」

唯「は、はぁ」

梓「ともかくさっきのは、違うんですよ」

唯「え~。あずにゃんいけずぅ」

 唯先輩に撫でられて紅潮する頬を隠すように、私は首を左右に振った。

梓「ちょ、ちょっとからかってみたくなっただけなんですよ!」

唯「からかうって、あずにゃんが? 私を?」

梓「私が、唯先輩を、です」

唯「……」

梓「……」

唯「ふっ」

 至極嬉しそうに、ニヤリと笑う唯先輩。

梓「ムカっ! なんですか、その含み笑いはー!」

唯「ふふ、嘘だよ。ごめんね」

 よしよし、と言ってまた頭を撫でてくる唯先輩。

 ほら、またそうやって猫扱いする!

梓「にゃぁ……」

 聞いてますか、唯先輩!

梓「にゃあぁぁ」

 私は猫じゃなくて……

梓「にゃん」

唯「よーしよしよしよし」

梓「ハッ!?」

 会話してるつもりが、にゃあしか言ってなかった!



 ……わざとじゃないですよ?

唯「そういえばこの子、あずにゃんに似てるかも」

 猫を見つめて、ほわ~ん、となりながら唯先輩。

梓「そうですか?」

唯「そうですさ」

梓「いや、そうですさって」

唯「そうでもない」

梓「どっち!?」

 あれ、この人意図的にボケる人だっけ。

唯「でも、本当に似てると思うなぁ」

 そう呟いた後、唯先輩は何かに気付いたように「はっ!」と声を上げた。

唯「もしかしてこの子、あずにゃんのこど」梓「違います」

唯「ぶー、あずにゃんが冷たいっ!」

梓「いや、そんなこと言われましても」

 私を何だと思ってるんですかこの人は。
 ……だけど、不思議と悪い気はしないかな。
 あずにゃん2号……じゃなくて3号か、ふふ。

梓「あ、撫でてもいいですか?」

唯「うん、どうぞ~」

 そう言って、唯先輩は自分の頭を差し出した。

梓「よーしよしよしよ、ちげえ!」

唯「……」

梓「……」

唯「ちげえって言った」

梓「……」

唯「あずにゃんがちげえって言った……」

梓「なんで泣きそうなんですか」

唯「私のあずにゃんが……」

 ていうか、私、何時の間に唯先輩の私物化されてるんですか。

梓「……こほん」

梓「そうじゃなくて、猫ですよ! 猫を撫でて良いか聞いたんです!」

唯「分かってるよ~、かわいいなぁもう、あずにゃんは」

 私は唯先輩の腕の中の猫にそっと手を伸ばす。
 猫の可愛らしさに、自然と頬が綻ぶ。

 なんか、ぽわ~んってなった。

唯「かわいいよねぇ……」

梓「えへ……」

唯「あずにゃんもね」

梓「そ、そんなことないです、よ……?」

 あれ? この物足りなさはなんだろう?
 なんかこう、いつもこのタイミングであるものが、無いような……。

 あ、そうか。
 唯先輩、猫抱いてるから、いつもみたいに私に抱きついて来ないのか。

梓「……」

唯「あずにゃん?」

梓「べ、別に残念だとか物足りないとか思ってないですから!」

唯「なにが?」

梓「え、いや……あ!時間!そろそろ行かないと朝練遅れちゃいますよ!」

唯「おぉぅっ!そうだった! またね、あずにゃん3号」

梓「ほら、走りますよ!」

唯「了解であります、あずにゃん先輩」

 後輩です。

 余裕を持って家を出たはずだったのに、気付けば遅刻五分前。
 猫は唯先輩の腕を離れると、どこか目的地があるかのように歩き出した。
 朝の散歩コースだったのかもしれない。
 それなら朝練のある日は、また会えるかな。

 猫と別れた私と唯先輩は、朝練時間を十分程オーバーして音楽室へとたどり着いた。


唯「皆やっほー」

梓「おはようございます」

紬「おはよ……あら、一緒に登校なんて仲が良いのね、うふふ」

 朝からいい笑顔のムギ先輩。
 とりあえずゴボウは持っていないようで安心した。

律「遅いぞー、二人とも。言いだしっぺが遅れてどうするんだよ」

澪「唯は仕方ないとしても、どうしたんだ、梓?」

唯「澪ちゃんさりげなく酷いっ!」

梓「すいません、途中で唯先輩に会っちゃって……」

 そう言って、ジト目で見る。
 私も猫に夢中だったから、唯先輩に擦り付けるつもりはないけれど、
 なんとなく、いじめてみたくなったりして。

唯「そんな……、あずにゃんまでひどいっ! 私を見捨てるのね!?」

 よよよ、と泣き崩れる演技の唯先輩。

律「ええい、言い訳など聞きたくないわッ!罰として今日の二人のお菓子は私がいただくッ!」

梓「そ、そんな!」

唯「え~、ずるいよりっちゃん!」

澪「唯、素になってるな」

紬「ふふ、演技よりお菓子なのね♪」

律「……ぷ、くくく……」

澪「何笑ってるんだよ、律」

律「いやー、梓もなんだかんだでティータイム楽しみにしてるんだなーって」

梓「う……」

 そう言われると、返す言葉もない。
 だって、ムギ先輩のお菓子はおいしいし……って、
 いつの間にか私の中でも練習前のティータイムが当たり前になってる!?

律「冗談だよ、冗談。さて、皆揃ったことだし」

澪・梓「練習だな(ですね)」

律「おう、練習だ!」

澪「え?」

梓「え?」

律「なんだよ、そのリアクションは」

澪「いや、いつもの律だったらそこで『お茶にしよう!』って言うから……」

梓「そうです、律先輩らしくないですよ」

唯「どうしたのりっちゃん、熱でもあるの?」

律「お前ら本格的に失礼だな……」

 いいえ、日頃の行いです。

律「いいか、私は部長としての責任に目覚めたんだ。これからはガンガン練習していくからな!」

澪「律……!」
梓「律先輩っ……!」

 なんということでしょう。
 まさか律先輩の口から、そんな真っ当な台詞が聞ける日がこようとは。
 私、律先輩のこと誤解してたかもしれません。
 本当はしっかりした人だったんですね。


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最終更新:2010年01月04日 02:36