唯「……大丈夫?」


憂「…………」


どうも平沢憂です。さっそくですけど大丈夫じゃないです。とってもお腹が苦しいです。
はちきれそうです。ヤバいです。得体の知れない何かが身体の内側で暴れ
狂っています。未知の激痛がお腹を苛んで、私を見つめるお姉ちゃんの心配げな
表情すらも酷く不明瞭です。

お母さん。

今ならあなたの気持ちがわかる気がします。


周りからよくできた娘なんて言われますが、ていうか自分でそう思わないこともないんで
すけど、それでもやっぱり白状すれば、年相応に両親に迷惑をかけたことはたくさんあります。

わがままを言って困らせたこともあります。

それでも私、平沢憂は今日までまっすぐ姉の平沢唯とともに真面目に気丈に女の子らしく生きてきました。

私たちの両親は行き過ぎた放任主義ゆえに家にいないことも多々ありましたが、
私たち姉妹は決して道を踏み外すことはありませんでした。


お母さん。あなたにはどんなにお礼を言っても足りないくらいです。
あなたが私に料理のスキルを叩き込んでくれたおかげでお姉ちゃんに毎日、おいしいご飯をたべさせて
あげることができました。

そしてお父さん。ごめんなさい。小学校で出された「お父さんの似顔絵の宿題」で思わず
カツラをとった寝顔を描いてしまって。

図工の先生に絶賛されたとき正直満更でもありませんでした。


本当に二人とも今日までありがとうございました。

そして松居一代さん。
あなたのお掃除術によって、今日も我が家は清潔に美しく保たれています。
ありがとうございます、松居棒。

--最後にお姉ちゃん。
私の大切なお姉ちゃん。
私の大好きなお姉ちゃん。
私がいなくなっても勉強に部活に恋愛、全部頑張ってね。
応援しています。

私はいつも、いつまでもお姉ちゃんを見ています。


様々な思い出が走馬灯のように脳裏をかけ巡ります。

まるでこれから天に召されるかのようです。

そもそろなにゆえ私はこんな悲惨な目にあっているのでしょうか。
いえ、というより今私が陥っている状況に認識が追いつけていないのです。

だんだん、視界がぼやけてきました。

額には気持ちの悪い汗が浮かびます。

激痛に思考にまでも暗幕がかかろうとしています。

瞼がどんどん重くなっていくのを感じます。


最後に視界の端で黒い二つの髪が揺れたのを見て、私の意識は途絶えました。




――何故こんなことになってしまったのか?



♪ある日の昼休み・学校の屋上!

和「わざわざ呼び出してごめんなさい」

憂「いえ、気にしないで下さい。ところで屋上って立ち入り禁止じゃないんですか?」

和「許可は取ってあるから大丈夫よ」

憂「それで用件っていうのは?」

和「唯のことよ」

憂「お姉ちゃんのこと、ですか」

和「単刀直入に言うわよ。唯を今すぐ鍛えなさい」

憂「……はい?」

和「言い方が悪かったわね。唐突な話だけど、憂ちゃん。仮にあなたが死んだら唯はどうなると思う?唯がひとりぼっちになってしまったら」


憂「……」

和「それに今の状態のままで唯が社会に出たら。考えてもみなさい。飼い猫同然の唯にとって
社会なんてものは盛りのついたオス猫の吹き溜まりみたいなものよ」

憂「社会って恐ろしいんですね。私まで社会に出る自信が無くなりそうです」

和「あなたなら大丈夫よ。ところで憂ちゃんは交尾中の猫の喘ぎ声の生々しさを知ってる?」

憂「知ってます。何て言うか赤ん坊の泣き声みたいですよね」

和「そうなのよ。春とか盛り真っ最中でしょ。夜中に勉強してると聞こえてくるから
集中できないのよね」

憂「なんであんな声になっちゃうんでしょうね」


和「アレはオスの性器に突起のようなものがついているからよ。だから性器を引き抜く時に
強烈な刺激がメス猫に与えられるらしいわ。それでその激痛によってメスは声をあげてし
まうの。でもその痛みがトリガーになって排卵を促すからオス猫の突起は絶対に必要なもの
なのよ。ああ、人間のオスにも突起をつければ少子化問題の解消につながるかもしれないわ
ね。いや、でもそうしたら今度は交尾をしたがらなくなってしまうかもしれないわね。
まあ、考え方次第ではアダルトビデオとかの流通が減るかもしれないから、教育的に見れば
悪くないかもね。そうそう話は戻るけど同じ系統のライオンも猫と同様らしいわ。ただ、
メスのライオンは、交尾中は恍惚とした表情を浮かべているのだけど、オスが性器を引き抜
こうとするとあまりの痛みに激怒してオスに噛み付こうとするらしいわ。その獰猛さにオス
のライオンは一目散に逃げ出すそうよ。そうそう、交尾と言えばウサギの交尾を見たこと
あるかしら。私は未だに拝んだことがないんだけれど。なんでもウサギはオスとメス
を一緒にして放置しておくと延々と交尾しちゃうらしいの。あんまりにしすぎちゃうもん
だから男性器が腐ってしまうらしいわ。ちなみにオスのウサギは達すると、バタンと倒れる
らしいの。しかも叫ぶらしいのよ。まるで人間みたいでしょ? え? 人間の交尾は見た
ことがあるのか……ってそ、そんなことは聞かないでほしいわね。正直に言うわ。見たこと
なんてないわ。別に人間には興味ないもの。え? 本当に興味ないのかって? いや、うん
まあそうね。全く興味が無いと言えば嘘になるわ。でも見たことがないのは本当よ。そう
よね、だったら想像ってことになるのだから知ったかぶりってことになるわね。まあそんな
ことは気にしないで。うん?しかも人間はイッてもバタンと倒れない? ええそうね。倒れ
ないわよね? でも面白いと思わない? とにかく交尾をさせすぎないようにウサギを監視
しておかないといけないらしいわ。そういえば、先日生徒会の関係で講堂に朝呼ばれたのよ。
ちょうどその時、鳥が二匹入ってきたのだけど、さっそく交尾を始めちゃったの。早朝よ。
早朝。でも、遠くから見てると強姦してるようにしか見えないのよ。天井の辺りでしていたの
だけど、何回か暴れすぎて片方が落ちてきたりして。気になっちゃって私、仕事どころ
じゃなかったわ。ところで憂ちゃんはクジラの交尾については(以下略)――」



憂「あの、本題に戻りませんか?」

和「ごめんなさい。ちょっとしゃべりすぎたわね。また聞きたかったらいくらでも話すけど」

憂「とりあえず本題を」

和「……どこまで話したかしら?」

憂「お姉ちゃんを鍛えるとか鍛えないとか、そんな話です」

和「そう、それ。簡単に言うと今の唯は一人で生きていく生存能力と社会的経験値が
圧倒的に足りないと思うの」

憂「確かに、そう思わなくもないですけど……」

和「唯が今のまま大人になったらどうなるか想像してみて」

憂「それは……」

和「もし社会人として一人で暮らすことになったら。生活能力の零の唯は自分で料理
も作ることができない。自炊もできない唯はインスタントで済ませる毎日を送る。
やがて、栄養の傾きに伴って病を患う。当然、掃除もできないので、気づいた頃
にはもうゴミ屋敷の完成。不衛生な環境は病気を呼ぶには十分ね」

憂「…………」

和「汚い大人がわんさかいる社会。欺瞞に満ちた社会。果たして純粋無垢な唯は
どうなるのかしら。簡単に他人に騙され、利用されるかもしれない。そうじゃなく
ても今までの世界とのギャップに、耐性の無い唯はやがて悪い薬に手を出してしまい……」

憂「和さん!私、お姉ちゃんちゃんが社会に出ても大丈夫なように今日から
お姉ちゃんを鍛えあげます!」

和「ありがとう。私の気持ちを汲みとってくれたのね。
私もできる限り協力するわね」


こうして私の闘いが始まりました。



♪その日の夜・平沢家!

お姉ちゃんは私のクラスメートの梓ちゃんのことを「あずにゃん」と呼びます。

なんでもその所以は、さわこ先生の用意したネコミミカチューシャが大変似合っていた
というそれだけの理由なのだそうですけど、それ以来お姉ちゃんは梓ちゃんのことを
「あずにゃん」と呼ぶのです。

しかし、自由気ままに怠惰な生活を送り、食べては寝てを繰り返すお姉ちゃんの方が
よっぽど猫に似ているのではないのかと、和さんの言葉を聞いてふと思いました。

何はともあれ、私は私自身と仏様と和さんに誓って、自分の使命を全うするのみです。

善は急げというので、とりあえず普段より早めにに夕飯を食べることにしました。

これが本当の膳は急げ……あれ、面白くないですか?


憂「お姉ちゃん、ちょっと聞いてほしい話があるんだ」

唯「ふえ?何?」

憂「あのね……」


それから私は今朝、和さんに言われたことを話し始めました。

本当は夏目漱石のかの名作先生のように思いの丈を手紙にしてありのままに綴り
たかったのですが、現実問題としてあれだけの量を手紙で送るというのは不可能らしい
ので断念しました。


唯「そっかあ。唯も和ちゃんもそんなにわたしのことを考えてくれていたなんて……」

お姉ちゃんがどこか感慨深そうに呟いた頃には、時計の針が三週目を終えようとしていました。

唯「憂、わたし立派な人になれるように頑張るよ!」

憂「私も全力を挙げて協力するからね!」


私たちは仲の良い姉妹らしく決意も新たに食卓を挟んで抱きしめ合いました。


……この時の私はあまりに楽観的だったのかもしれません。


私はこれでもお姉ちゃんのことなら誰よりも、無論、生みの親であるお母さんよりも
知っているつもりでした。

いいえ。

実際知っていることだけなら、おそらく誰よりも多いのでしょう。

しかし、それ以上に知らないことも山ほどあるということに、私、平沢憂はこれから
気づかされるのでした。


2
最終更新:2010年04月10日 23:34