不意に脳裏に閃く光景ぐありました。

未だ見たことのないはずのゴキブリ同士の交尾――執拗に絡み交わり合い子作りに励む――
の光景が想像でしかないのに網膜に焼き付いて私は図らずも梓ちゃんの右頬を
ぶっ叩いていました。

憂「いやあああああぁっ!!」

梓「のっほうぉおおおっ!?」

零距離からの見事な平手打ちに梓ちゃんは奇声をあげながら勢いよく吹っ飛びました。

沸騰した思考が緩やかに冷えてようやく私は正常な判断力を取り戻しました。


いったい全体どうして女の子同士でこんなことをしようとしているんでしょうか。

危うく流されて大事な何かを失うところでした。


梓ちゃんのお姉ちゃんへの想いを否定する気はさらさらありませんが、私も普通の
人間の例に漏れず、同性愛については正直ちょっとって感じなんで……


お姉ちゃんのことはもちろん大好きだし愛していますけどね。

梓「いたたた……って、あれ? 私なんでこんなとこに……憂?」

梓ちゃんが目をしばたたかせます。

光を取り戻した双眸が私を不思議そうに見つめました。

憂「梓ちゃん大丈夫?」

梓「うん……うん? 憂にほっぺを思いっきりはたかれた気がしたけど……気のせいかな?」

憂「気のせい。風のせい」

え……今度はなんですか?


どうも私にとって運のいいことに梓ちゃんは今の今の記憶を無くしてしまった
みたいです。

いや、梓ちゃん的にもゴキブリについて喜々として語っていたことなんて思い出したくも
ないことでしょう。女子高生的に考えて。

梓「今日憂の家に行くって……話したっけ?」

憂「う、うん。どっかで聞いたかも」

良心の呵責に押し潰されそうになってとりあえず謝っておこうかと思いましたが
よくよく考えれば、被害者はむしろ私のような気がしないこともないので、結局何も
言いませんでした。

和「あなたたちこんなところで何やってるの?」

まさか今の私の犯行の場面を見られた――そう思ってギョッとして和さんの方を
見ました。


和「どうかした?私の顔に何かついてる?」

逆に不思議そうな顔で見返されました。

どうやら犯行の瞬間は見られていないようです。

和「何かあった?」

憂「い、いえ、何も」

和「そう……ふぅ」

出し抜けに和さんは溜息をつきました。

額には僅かに汗が浮いています。


憂「和さん、力仕事でもしたんですか?」

和「卒業式が近づいているからその関係で色々と仕事が回ってくるのよ」

憂「大変ですね」

梓「よかったらハンカチどうぞ」

和「わざわざ悪いわね。明日には返すわね」

梓「そんなに気を遣わないで下さい」


しかし、ゴキブリについて舌に油でも塗りたくったかのようにまくし立てる梓ちゃん
はいったい何だったのか結局わからないままでした。



♪平沢家!

憂「ただいまー」

唯「おかえりー憂。よかった~早く帰ってこれたんだね。もうすぐ雨が降るって言って
たから心配してたんだよ」

憂「うん、思ってたより早く頼まれた仕事が終わったから」

唯「あれ? あずにゃんは?」

憂「梓ちゃんは、一旦着替えてから家に来るって」

唯「そうだ憂、聞いて聞いて」

憂「なに、お姉ちゃん?」

唯「わたし、自分でお米を炊いたんだあ」

憂「なんだ……って?」

憂「…………」

炊飯器を開けて私は絶句しました。私の鼻腔を刺激したのは普段とは違うにおいを放つ
お米でした。

憂「米研ぎが全然できていないよ」

それだけではありません。

水の量。本来であれば今日のカレーにあわせて水の量は通常よりも少なくしなければ
いけません。しかし、お姉ちゃんの炊いたお米はほんどお粥に近い状態でした。


憂「ていうかよりによって何で五合も炊いたんだろう……」


仮にお姉ちゃんが美味しくお米を炊いていたなら私は喜んで梓ちゃんにこの
カレーライスを食べさせてあげたでしょう。


梓『カレー美味しい!』

憂『このカレーライスのお米はお姉ちゃんが研いで炊いたんだよ』

梓『さすがは唯先輩!好きですチューしてくださいっ』

唯『あずにゃんカレー臭いよ~』



……的な展開も望めたかもしれませんが、このお粥では、

梓『これ、唯先輩のゲロですか』

唯『一生懸命作ったのにひどいよあずにゃん!』

梓『ゲロと見間違えるようなものを出すほうが悪いに決まってるでしょうっ!』

唯『ぷんぷん!あずにゃんなんてだいっきらいぃうええええん』


……ダメです。悪い想像しかできません。


憂「カレーのお米は固いほうがいいです。ええなぜかっていうとカレーライスには
当然カレールーをかけますよね。ですからそのカレールーによってお米は柔らかく
なるので、柔らかいお米でカレーをすると柔らかくなりすぎて美味しくないです。
ええではそんな美味しくないお米はいったいどうしたらいいのか?」

……あれ?私何言ってるんでしょう?もしかしてこれは古畑任三郎の真似ですか?

憂「簡単です。カレーとご飯を分けて食べればいいんです、或いは、ルーがほとんど
ないのならそのルーの入った鍋にお米をつっこんでカレーチャーハンにすれば
いいんです。んふふそうすることでお米の水分を弾き更に隅にまで残ったカレールー
もええぇ美味しく完食できるのです」

いや、こんなことを言っている暇はないはずなんですけど。
意外とこのモノマネ楽しいかもしれません。


「ええ、しかしさすがにお粥はどうしようもありません。風邪を引いた人か、
もしくは、ご老人にでも食べてもらうしかありません。ふふふ、平沢憂でした」


憂「こうなったら――」

私のこの時の思考は非常に奇妙でした。冷静に振り返ってみれば、あまりに
おかしすぎていっそのこと滑稽とすら言えたでしょう。

憂「いただきます」


大きな皿を二つ用意してお米五合をその二つの皿に移し終えると、私はおもむろにお粥
を貪り食いだしました。

自分でもビックリの奇行です。


頭に血が上っているのか、脳みそから変な分泌液でも放出しているのか、ただひたすら
私はご飯を口に放り込む作業に没頭しました。

流し台でね立ち食いとは、行儀の悪いことこの上ありませんでしたが、そんな
ことを気にかける余裕も思慮もありませんでした。


憂「……うげっ、食べれちゃった」


何とご飯五合――しかもお粥を――私は完璧に平らげてしまいました。

完食するのに十五分もかかっていません。ご飯五合です。

言うまでもなく、平沢憂はただの女子高生であっても、お相撲さんではありません。

ただ単にお米を捨てて、次のものを炊けばそれで終わったのに……私は茨の道を選択して
しまったのでした。

その代償はあまりに大きかったようです。

憂「…………っ?」

お腹に違和を感じたと思った次の瞬間には、耐え難いほどの激痛が襲ってきました。

それでも何とか最後の力を振り絞って私は、ソファーに辿り着くことができました。


唯「結構雨が本降りになってきたね、あずにゃん。おーい憂帰ってきたよ~
早くカレーライス食べようよ」

梓「おじゃまします」


――ちょうどその時、お姉ちゃんが帰ってきました。


唯「――、――ぅい、うい、憂!」


憂「!!」


目を開くとお姉ちゃんの泣き顔が視界いっぱいに広がっていました。


憂「お姉……ちゃん?」

唯「憂っ……よかったあ!」

梓「唯先輩、そんな風に抱き着くと憂が苦しそうですよ。大丈夫、憂?」

憂「うん、何とかね」

唯「本当に本当に大丈夫?」

憂「うん、心配かけてごめんねお姉ちゃんに梓ちゃん」


律「どうやら憂ちゃんは大丈夫みたいだな」

首にしがみついているお姉ちゃんの背中を撫でつつ、視線を後ろへ移すとそこには
律さん、いえ、軽音部の皆さんと和さんがいました。

憂「……っていうわけなんです」

何だか新手の罰ゲームを受けているような、そんな羞恥心を感じつつ、私は皆さんに
細かい部分――流し台で立ち食いしたとか――は省いて皆さんに告白しました。


私が意識を失った直後にお姉ちゃんがとった行動は救急車を呼ぶ、ではなく自分の
友達を呼ぶでした。

結果から見れば正解と言える選択でした。もし、救急車を呼ばれてたら色々とまずい
ことになっていたでしょう。

お腹は相変わらず妊娠八ケ月の奥様みたいに事故主張していましたが、痛みが治まった
だけでも幸いです。

今日私の人生の手帳に要らぬ武勇伝が印されてしまいました。

言わずもがなこんなのは誰にも知られたくないことで、胸のうちにそっと閉まっておきたい
というのが本音なのですが、普段から真面目でいい娘で通ってきた私の奇行はしばらく
は話の種になるでしょう。


世の中には思春期を迎えるにあたり、自分ではカッコイイと思いつつも第三者の視点
で見ると非常に痛々しい行動を起こしてしまい、後に自らその行動を思い返すと無性
に自殺したくなる死に至る病があるそうですが、もしかしたら今の私もそれに感染
しているのかもしれません。

紬「憂ちゃんは恥ずかしがることないと思う。あなたは姉である唯ちゃんのために
頑張ってお米五合も完食したんだから」

和「そうね。胸を張っていいと思うわ」

憂「今は無意味にお腹だけ張ってます」

憂「今は無意味にお腹だけ張ってます」

唯「そうだ!みんなまだご飯食べてないでしょ?今日は家で食べてってよ」

澪「急な話だな……いいのか?」

憂「ええ、皆さんには普段からお世話になってますし、今日は迷惑もかけてしまったんで。
差し支えがなければ是非家で食べてって下さい」

律「さっすが憂ちゃん『太っ腹ぁ』っていってえええええっ!何すんだ澪!」

澪「ごめん、何だか殴らないとダメな気がして……」

唯「とこれで、何たべようか?私はうどんすきに一票!」

律「いややっぱ皆でするって言ったら焼肉だろ!」

澪「ちじみとかヘルシーだしよくないか?」

紬「だったらお好み焼きとかは?」

梓「じゃあすき焼きをプッシュします」

和「しゃぶしゃぶなんか手がかからなくて私的にオススメなんだけど……」

憂「今のうちにトイレ行っておこう」



♪二十分後

梓「……で結局意見がまとまらないので簡単なゲームをして決めることになったんですが……」

律「じゃあいよいよ私とムギで決勝戦だな!」

紬「ええ、望むところよりっちゃん。私は私のお好み焼きの夢のために勝たせてもらうわ」

唯「おお!普段穏やかなムギちゃんが珍しく燃えてるよっ」

律「そこまで言うならムギに次の勝負のゲームを選ばせてやるぜっ」

紬「じゃあお言葉に甘えて。『イっちゃダメゲーム』をしましょ」

律「……なんだそれ?」

和「明らかに字を間違っている気がするんだけど?」


澪「何となく知ってる気がする」

律「どういうゲームなんだ?」

紬「極めてシンプルなゲームよ。一つの単語を選んで、その選んだ言葉をお互いに
言ってはダメというゲームよ」

律「なーる。つまり逆にその単語を相手に言わせたら勝ちってわけか」

紬「ええ。言葉は私が選んでいいかしら?」

律「いいよん」


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最終更新:2010年04月10日 23:45