♪ある日の放課後・音楽準備室
我輩は猫であ……りません。
たった二つの文字を相手に伝えることさえできない私は自分のことをチキンだと思っています。
あずにゃん……私のあだ名です。
もっともこのあだ名で呼ぶのはたった一人しかいないのですが。
最近私は困っているのです。
その人にそう呼ばれると、その、ええとうまい言い回しが
見付からないのですけど、つまり胸がこうキュンキュンというかドキドキというか
とにかく動悸がしてしまうのです。
もちろん病気ではありません。
いや、これが噂の恋の病?
「うんうん、それで?」
黄色い沢庵が感情豊かにに躍動して次の言葉を促しました。
梓「いえ、その、ですから……」
「恥ずかしがる必要はないの、梓ちゃん。女子高生が恋するなんてごく普通のことよ」
梓「で、でも女が女を好きになるっておかしいですよ……」
「何を言ってるの?男が女を好きになったり女が男を好きになるほうがよっぽどおかしいわ」
沢庵……ではなくムギ先輩は世間知らずのお嬢様って設定にかこつけてとんでもない
ことをしれっと言います。
紬「それにぐずぐずしてたら誰かが唯ちゃんをさらってちゃうもしれないのよ?」
梓「そ、そんな……そんなのいやです……」
紬「でしょう?そんなあってはならないことが起こる前に梓ちゃんは早く告白するべきよ」
梓「でもどうしたらいいのかわからないです……」
紬「そんな梓ちゃんにコレを差し上げましょう」
梓「……何ですかこの黒い液体の入ったビンは?」
紬「惚れ薬」
梓「……はい!?」
紬「この薬を飲んだ人はもう梓ちゃんにゾッコンになるの」
梓「……私に限定されてるんですか?」
紬「だってそれ約百本分の梓ちゃんの髪の毛が原料の一つだから」
梓「だからこんなに黒々としてるんですか!?」
というかいつの間にそれだけの量の髪の毛を回収していたんでしょうか。
紬「どうする?使ってみる」
私は質問に答える代わりにムギ先輩からビンを受け取りました。
梓「……でもこんな気味の悪い液体をどうやって唯先輩に飲ませればいいんでしょう?」
墨汁を限界まで煮詰めて熟成させたかのような液体は、たとえ砂漠の真ん中で
オアシスを求めてさまよっている旅人でも思わずためらってしまうような不気味さを
醸し出していました。
紬「紅茶にでも混ぜて飲ませてしまえば簡単でしょ?」
ムギ先輩の発想が最早お嬢様じゃなくて犯罪者のそれになっています。
紬「ちなみに飲む量によって惚れ具合が変わるから注意してね」
これは……慎重に決めたほうがいいかもしれません。
梓「どれくらいの量を紅茶に入れよう……?」
急いで脳内会議を開催して早急に案を出しては、吟味して取捨選択していきます。
梓「……最終的に絞り込んだこの三つの案から選ぶしかないっ!」
とりあえず最終的に絞りこんだ案は……
1.あずにゃんに首ったけ!
2.らぶりー 唯先輩 らぶ
3.好き好き大好き唯先輩っ
……ここは民主的に多数決で決めましょう!
※安価1
梓「……決めた」
開始五秒、結論五秒で脳内会議を終了させました。
さあ、私自信と唯先輩の
恋のためにもここでは、惚れ薬は全部紅茶に投入しちゃいましょう。
唯「ういーっす。先生に呼び出されて遅くなっちゃった」
梓「!」
今まさに準備にかかろうとしていたところに唯先輩が来てしまったのでした。
梓「ゆ、唯先輩、律先輩と澪先輩はどうしたんですか?」
唯「澪ちゃんとりっちゃんなら今日は掃除当番だから遅くなるよ」
梓「へえー大変ですねーところで唯先輩はなんで先生に呼び出されたんですか?」
唯「実はというと……」
梓「いや、その前にティータイムにしましょう」
こうなれば、お茶をしつつ会話中にさりげなく紅茶に惚れ薬を混入させるしかありません。
♪ティータイム
唯「いや~珍しいこともあるねえ」
梓「何がですか?」
唯「だってあずにゃんが、進んでお茶しようって言うなんて珍しいことだよ」
梓「そ、そうですか?まあ、私にもたまにはそういう日の一つや二つはありますよ」
無駄なところで無駄に鋭い唯先輩と会話しつつ、頭の方ではいったい全体どうやって
惚れ薬を紅茶に仕込もうかに全力で思考を働かせます。
この惚れ薬を仕込むには……って、
梓「な、ない!?」
唯「?」
梓「ないんてぃーないんすり~こいをしたーおーきみにむちゅ~……じゃなくてっ!!」
唯「急に告白されても困っちゃうな~あずにゃん」
梓「ち、違います!そうじゃなくて、私の……」
唯「何か無くしたの?」
梓「黒い液体の入ったビンなんですけど……どこいっちゃたんだろ?」
唯「黒い液体?何それ?」
梓「ええ……まあ、その黒酢です。私、これでも健康志向なんで」
紬「はい、紅茶できたわよ」
唯「おお、相変わらずいい香りだね、ムギちゃん!」
紬「ふふふ、ありがとう。ところで今日は新しい試みをしてみようと思ってるん
だけど……」
梓「!」
唯先輩の目の前で、ビンをかざすムギ先輩は天使のように邪気の無い微笑みを湛えたまま、
ビンのフタを外しました。
ていうかアンタが私から引ったくたんですかっ!
唯「ムギちゃん、これなに?」
紬「新手のガムシロップよ」
唯「へえーいいよムギちゃん、入れて入れて」
紬「ふふふ」
不意にムギ先輩が一瞬だけ私に視線を送りました。
『どれくらい惚れ薬を入れればいい?』
そう尋ねられたのが、わかり私は人差し指を立てました。
ムギ先輩がもう一度訝しむかのような視線を向けましたが、私の意思が通じたのか
ビンの中の液体を全部紅茶に注ぎました。
鈍い光を放って黒々とした液体が紅茶に溶けていきます。
紬「さあ、飲んで。そうそう今日のおやつはフルーツタルトよ」
唯「わーい」
唯先輩はおやつの魅力の前にすっかり私のことを忘れてしまったらしいです。
軽くショックです。
まあ、そういう子供っぽいところや無邪気なところが私にとって唯先輩が好きな所以
なのかもしれません。
梓「……」
唯先輩が惚れ薬入りの紅茶に、その無意識のうちにキスしたくなるような唇を近づけます。
あれを全部飲み干せば、唯先輩は私に惚の字…………
梓「唯先輩、ちょっと待って下さい」
唯「ん?なに、あずにゃん?」
梓「私に先に味見させて下さいっ!」
唯「へ?」
返答を待たずに私は唯先輩の手から、ティーカップを奪って、煎れたての紅茶を
飲み干しました。
次の瞬間、口の中に広がった味は得も言われぬものでした。
唯「あずにゃん、全部飲まないでよ~」
梓「…………ごっくん」
唯先輩の言葉は当然のように無視して全て嚥下しました。
……私は血迷っていました。
私が求めているのは純粋に純粋な唯先輩の想いであって
こんな風にあからさまにインチキな手を使って手に入れたいものではありません!
紬「あ、梓ちゃん、なんてことを……!」
梓「大丈夫ですよムギ先輩」
紬「大丈夫なわけないわ。
あの薬を自分で飲むなんて、なんて恐ろしいことをしてしまったのっ!」
梓「構いませんよ。
惚れると言うならそれこそ自分で自分に惚れてしまうくらいに最高にかっこよく
唯先輩にこの想いをぶつけてみせます!」
紬「梓ちゃん……」
唯「?」
梓「唯先輩……!」
唯「は、はい……」
我輩は猫であります。
チキンではありません。
猫にとって鳥はもっとも忌むべき存在です。
飼い猫でさえ空を舞う鳥に威嚇するのです。
そして私は猫であっても飼い猫ではありません。
外を気ままに勇猛に颯爽とかける野良猫です。
欲しいものは自分で手に入れてみせます!
梓「私、唯先輩のことg」
律「遅れてごっめ~ん」
澪「雰囲気が重いけど、何かあったのか?」
私の覚悟は水に触れた角砂糖のようにあっけなく崩壊しました。
ていうかこの薬を飲んでも何も起きないんですけど……。
以前もそうでした。
バレンタインデーを目前にしたある日の音楽室。
学校の屋上で、唯先輩の妹であり
同時に私のクラスメイトでもある憂に彼女への想いを赤裸々に語ったのです。
憂は本当に心優しくできた女の子です。
私の相談にも真剣にのってくれました。
私と憂はバレンタインデーに唯先輩に手作りのチョコブラウニーを渡すとともに、
告白しようという作戦を企てたのです。
実際、憂のおかげもあってかブラウニーのデキは素晴らしいものでした。
だというのに。
バレンタインデー当日。
私は、私は……
唯『どうしたのあずにゃん?』
梓『そ、その、今日は何の日かご存知ですか?』
唯『もちのろんだよ。バレンタインデーでしょ?あ、もしかしてあずにゃん……』
梓『な、なんですかっ?ていうか抱き着かないで下さいっ』
唯『えへへ、私にチョコをくれるんでしょ?』
梓『そ、それは……そうなんでs』
ガチャ。
澪『あれ、まだ二人しかいないのか?』
唯『あっ、ムギちゃんとりっちゃんなら今日は掃除当番で遅くなr』
梓『み、澪先輩っっ!!!!今日バレンタインデーですよねこの手作りチョコブラウニー
受け取って下さいっっ!!!』
澪『い、いいのか?』
梓『はい!!普段から澪先輩にはお世話になってますしそれだけじゃなく(以下略)』
唯『……あずにゃん、私の分は?』
梓『あるわけないでしょう』
緊張と混乱の極みに達した私は澪先輩にバレンタインデーのチョコを渡してしまったんです。
これがバレンタインデーの真実です。
思い出す度に私は過去に戻れないか、というおバカなことを考えます。
そして悶絶するのです。
というか澪先輩に渡せるのなら唯先輩にだって渡せただろうと、冷静に考えれば
考えるほどそう思うのですが、そこは私も人間です。
我輩は猫ではないのです。
猫のように欲求のおもむくままに行動できたらどれほどよいことか。
どうもおはようございますこんにちはこんばんは。琴吹紬です。
とりあえず言っておきたいことができたのでこの場を借りて言わせて下さい。
あの惚れ薬ですが、確かに実在していて実際に効果があることは既に実験で検証済みです。
しかし、私はミスをしてしまったのです。
持ってくるビンを間違えたのです。
いくら梓ちゃんから百合の匂いを嗅ぎ取ったからといって些か興奮しすぎたようです。
あれは『ごはんですよ』をミキサーにかけてビンに詰めただけのものです。
まあまあまあ、梓ちゃん。私は影からいくらでも観察……もとい応援しています。
頑張ってね。そして私を喜ばせて下さい♪
♪帰宅
梓「……はぁ」
もう何度目になるかわからない溜息が夕焼けに溶けていきました。
唯「あずにゃん、どうしたの?さっきから元気ないよ?」
梓「……はぁ」
唯「おーい、あずにゃーん」
梓「……はあ」
唯「……えいっ」
梓「ひゃう!?」
冷たい手の平が首に触れて図らずともすっ頓狂な声を出してしまいました。
梓「唯先輩!冷たい手で首、触んないで下さい、ビックリします!」
唯「だってあずにゃんったらさっきから溜息ついてしかいないんだもん」
梓「……あれ?ところで他の皆さんは……?」
唯「とっくにお別れしたよ。本当にあずにゃん大丈夫?」
不意に唯先輩が私の顔を覗きこみました。
一目見て私のことを本当に心配しているとわかる表情に思わず頬が緩んでしまいました。
が、
梓「ゆ、唯先輩……っ!?」
唯「じっとして」
梓「アワワワワワワワワ」
唯「うん、熱はないみたいだよ……って顔がりんごみたいに赤いけど、どうしたの?」
そう言ったときには、名残惜しむ暇もなく、私のおでこにくっついていた唯先輩の
おでこは離れていました。
仄かに残った唯先輩の温もりは妙に生々しくてそれがまた私のほっぺを熱くしました。
梓「な、なんでもありません。ただ……」
唯「ただ?」
梓「……なんでもですっ」
唯「変なあずにゃん」
梓「やっぱり今の私は変かもしれません。でも……」
唯「?」
梓「唯先輩が抱きしめてくれたらモトニモドルカモ……って私何言って……っ!?」
自分で自分が口走ったことに驚き、次いで羞恥心
と血液がつま先から顔にまでかけあがって強烈な目眩に襲われました。
最終更新:2010年04月13日 01:05