「じゃーん!ほら見て見て!」

「あっ、エア・トレック!しかも最新モデルじゃんか!どうしたんだこれ?」

「えへへ~、このあいだ私の誕生日だったでしょ?
お父さんにおねだりして買ってもらっちゃった♪」

彼女は、はにかみながら両腕でその靴を抱きしめる。
紺色のブレザーに抱かれてオレンジ色の靴はひときわその存在を主張している。


「こらっ唯、そんなもの学校に持ってきちゃダメじゃないか!」

「だってだって……」

内側によせて、守るように。隠すように。
平沢唯はもっと強く靴を抱きかかえ、潤んだ目つきで女の子を見上げた。

「だって……一番最初に皆に見てほしかったんだもん……」

――秋山澪は、彼女の一連の動作に一瞬ドキリとする。
唯はそうとも知らずにしていることなのだが……
ふわふわとゆれる髪。訴えかけるような上目づかい。一文字に結んだ唇。
そのどれもが澪から咎めの言葉を奪うには十分な要素であった。


「そ、それなら別にいいけど……」

「わは~い!ありがとう澪ちゃん!」

「わ、私は別に……」

澪はなんとなく恥ずかしくなって顔をふせる。
田井中律が、にやにやしながら澪の顔を下からのぞきこむ。

「はいはい素直になりましょうねー澪しゃん。
『唯がそれ持ってると、私も走りたくて走りたくてたまらなくなるのよ~!!』ってさ」



「う、うるさいバカ律っ!」

両腕を折り曲げ、目をキッとつむりながらいやいやのポーズをしてみせる律にむかって、澪は渾身の左ストレートを繰り出した。

見事命中。

カチューシャのおかげであらわになっているおでこをさすり、律は涙目になる。

「い、い、いたい……澪……手加減してくれ……」

「したっ」

「ねー、もしかして……」

唯は顔にありありと期待感をのぞかせて律と澪の方を向いた。
律と澪は顔を見合わせ、ニカッと笑い合う。悪戯を隠していた子供のような笑顔。
頭の後ろで手を組み、律が唯に話しかけた。

「ああ。私達もここんとこずっと練習してるんだ!」


――キーンコーンカーンコーン……
掃除時間の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
それは本来ならば部活動の開始も意味しているのだが、軽音部はそうした素振りをみせない。
彼女たちは談話に没頭している。

「も、もう律のバカっ。
……私が唯に言って驚かせようと思ってたのに」

「あははっ、ごめんごめん。
私も唯が持ってるの見たら止まんなくてさぁ」

律は悪びれずにニヤッと笑う。
澪も別段気にしていない様子で、彼女らの話題はその靴へと集中した。



「それでそれで!?二人ともどこで練習してるの?私も一緒にやっていい!?」

唯は二人がソレをやっていると知って嬉しさを隠しきれない。テンションの高揚は止まらなかった。
身をのりだして律の腕をとり、目を輝かせる。

「もちろんだよ、一緒に練習しようぜ唯!」



「最初から皆を誘うつもりだったしな」

ふふ、と優しい笑みを浮かべる澪に、唯は思いっきり抱きついた。
滑り落ちた靴を律が危なっかしげにうけとめる。

「澪ちゃ~ん、澪ちゃ~ん(はあと」

「は、はあとって……って唯!靴、靴!」

唯が胸の上で顔をすりつけるので、澪はすぐに真っ赤になって唯を引きはがそうとする。

「あ、落としちゃうとこだったよエア太!ありがとりっちゃん!」

「エア太って……」

二人はしょうがないなというように顔を見合わせる。

「良かったねエア太!これでみんな一緒に練習できるね♪
あとはムギちゃんとあずにゃんにも教えてあげて~♪」

靴を胸に抱いて、唯は幸せそうにクルクルと踊る。
頭の中はもう次の倶楽部会員のことでいっぱいになっていた。


彼女は、中野梓は、音楽準備室に入ってきた。いつものように。
ところが今日はいつもの言葉が聞こえてこない。
練習もしないで、だりーだのさみーだの言う声もなければ、
嫌だと言うのに自分のことを猫みたいに呼びながら先輩が駆けよってくることもない。

だけど梓にとってそのどれもが、自分になくてはならないものになっていた。
そうした日常も、無くなるとなんとなく寂しくなるんだなとふと実感する。


「(いないのかな?)」

彼女たちは、ドアからは死角になる部屋のすみにいた。
なにやら夢中になって話しこんでいる。唯の顔はギターを弾いているときのように満面の笑みだ。

「(なにしてるんだろう?)」

彼女の、平沢唯の笑顔の理由がわからずもどかしい。
梓は三人に近づいた。

「あの~」


「あっ、あずにゃ~ん!」

「わっ、びっくりした!梓か!
先輩を驚かそうなんて生意気な後輩だぁ~」

「そ、そんなつもりじゃあ……わっ!!」

彼女の存在に気づくやいなや、唯は駆けていって彼女に抱きつき、頬ずりをする。



梓は気になっていた一言を口にする。

「先輩方は何を話していたんですか?」

「ふふふ……じゃーん!!これ、エア・トレックだよ~」

そう言って唯が見せたのは、暖色のグラデーションのかかったスニーカー。
エナメル製のその靴は、窓からさしこむ冬の柔らかな日差しを浴びてキラキラときらめいている。
……が、そのスニーカーが普通の靴と様を異にしているのは。
靴底からのぞいている、二瘤ラクダのような二つの大きなホイール。

「えっと可愛いですけど……エア・トレック?そのローラーシューズのことですか?」

「えっ!梓、コレ知らねーの!?」

何も知らない風な梓を、律は驚いて問いつめる。


予想以上の反応に梓は戸惑い、詰め寄る律からじりじりと後退する。

「えっ、えっ?私何かまずいこと言いました?」

「お~言った、言ったぞぉ。
エア・トレック知らないなんて梓遅れて…モガッ!」

律の口が澪の手で塞がれた。
手をバタバタさせながら、何やらわけのわからないことを言っている律を、澪はやれやれというように見やる。


「こーら、全く……。全然大丈夫だよ梓。
もともとエア・トレックってストリートで活躍する男性用にデザインされたものだから、
女性にも使いやすいモデルが新しく作られたのは最近だし、知らなくても無理ないよ」

澪は優しく笑って、梓の頭を撫でてやる。
梓はこそばゆくって、恥ずかしそうにうつむいた。

ちぇー、といいながら律はすねたように唯のエア・トレックを手で弄び始めた。
澪に撫でられながら、梓は横目でその靴を観察する。

一目見たときから気づいていたのだが、その靴は、唯がとても大切にしているあのギターと同じ色をしていた。

チェリーサンバースト

まるで黄色い太陽が溶けだしているかのようだ。
ソールの部分から爪先や靴底に向かって、淡から濃にオレンジ色が広がる。

黄色いゴムでコーティングされたホイールは今にも回転し始めそうだ。



「そっか、あずにゃんも私と一緒だね!」

一緒、とはどういうことか。
聞こうとしたのに、


「この靴すげーんだぜ~!
コンピュータ制御で4kWの出力が出せる超小型モーターを搭載してるんだ。
あ、ちなみに普通の原付バイクのエンジン出力がだいたい3~5kWくらいね」

「昔ローラーブレードとか、インラインスケートの類があったじゃないか?
今の科学力が、それを進化させちゃったんだ。
今ストリートでは老若男女問わず、爆発的に流行ってるんだって」

なんて、間髪入れずに先輩が押してくるものだから、梓はまたじりじりと後退する。



「私も最近まで全然しらなかったんだよ!
ね、ね、だからあずにゃんも一緒にやろ~よ!」

あ、そういう意味か。梓は納得する。

唯は、律と澪二人がエア・トレックをやっていたことが嬉しくて仕方がない。
律の手からそれを拝借すると、嬉々として梓の目の前に掲げた。
新品ゆえにすりへっていないホイールが唯の気持ちを代弁する。
――早く疾走《はし》りたいな。


「すごく可愛いと思いますけど……。
やってみたいのは山々なんですが、もちあわせが……」

「ああうん、そうだなぁ。一番安いのでも5万はくだらないから。
だいぶリーズナブルにはなったけど、簡単に買える代物じゃないよ」

理性的に説明する澪に、唯は不満そうに口をとがらせた。

「えぇ~、そんなぁ」

「おいおい、唯も買ってもらったんだろ?親さんに感謝しないと」



は~いと返事し、唯はしゅん、と寂しくて顔をふせる。
楽しさのあまり暴走しかける唯を止めた二人ではあったが、唯の悲しそうな顔に心が痛んだ。
いつも唯と一緒にバカをやってる律にしてみれば、本気でしょげる唯を見ると、無理にでも笑わせて元気づけてあげたくなるのだ。

「ゆ~いっ」

「ん」

「そんなに悲しい顔するなって!私達にはまだどでかい希望が残ってるぜ!」

「ほぇ?希望?」

律が唯を一生懸命励ます。


「こ、こらっ律!またお世話になるわけにはいかないだろ!?」

「まだ私なにも言っておりませんわ」

律は口に手をあて、ニヤニヤしながらわざと甲高い声で澪を煽る。

「くっ、な、なんでもないよ!」

「あはは……毎度毎度、ムギ先輩の力を借りるわけにはいきませんよ」

梓が、ムギ、と呼ぶ人物も軽音学部の一員である。
おそらく掃除当番であろう、彼女はまだ現れない。

実は唯のギターの時も彼女にその金額のほとんどを看破してもらっていた。
なんだかんだで最後には彼女を頼りにしてしまう。悪いとは思うのだけれど。


「それはそうと唯先輩、それ、はいてみてくださいよ」

「う、うんそうだね!見ててね、あずにゃん!」

少し元気を取り戻した唯は、梓の催促に快く応じた。
ストンと椅子に座ると、靴の口を広げて、右足を曲げる。

かかとを潰さないよう、丁寧に、口に脚を挿れる。
黒いストッキングの琴線が準備室の蛍光灯を反射し、一筋の光の流線をつくり出した……と、次の瞬間には唯の小さな足は、小さな靴にスッポリと収まっていた。

左足に移る。
彼女のスッと伸びた足が今度は左の口めがけて飛込んだ。

――唯は、今ウキウキしていた。
新しい靴をおろすときの、あのなんとなくくすぐったくて、踊りだしたくなるような気持ち。
唯の顔は自然とほころぶ。


「ととっ……じゃーん!見て見て!かっこいいでしょ~?」

エア・トレックを装備した唯は、右足後輪のホイールを軸に、その場で回ってみせる。
あぁ…確かに…

「……可愛い」

「……なんだろうな、この気持ち」

「……なんかムカつくほど可愛いな」

「ガーン、ひどいよりっちゃん!
あずにゃんもかっこいいって言ってよお」



『可愛い』という形容詞は今の彼女を端的に表していた。
彼女のスラッとした肢体は回転してもその重心がぶれることはなく、きれいに弧を描いた。
少し遅れてなびく茶色のフワフワした髪はシャンプー残り香を周囲に置いてゆく。
ヒールの高いその靴は、普段は主張の乏しい彼女の胸元を心持ち強調している。

柔らかな髪から、燃えるような爪先まで忽然一体としたラインが出来上がっているのだ。
……唯自身は、可愛いという形容を、誉め言葉と受け取っていないようだが。


「ふふ、私達がはいてもこうはならないな」

「へん!いいし!私達の方が上手いし!……み~お~なんとかしてくれえ」

「え?え?」

「……可愛い」

梓はボーっと唯に見とれたままだ。
と、ふと我に帰ったようにかぶりをふり、律と澪に詰め寄る。

「わ、私も!エア・トレック欲しいです!
そして唯先輩と……えへへ」

「おーい梓~戻ってこーい」

律は梓の肩をつかみゆさゆさ揺らす。
梓は唯と脳内走行中だ。帰ってこない。


「あれ?でも梓って、運動苦手な人じゃなかったかしら?」

「ぬぁーんでそうなっているんですか!?
インラインスケートなら小さい時にやったことありますから得意です!やってやるです!」

脳内トリップから帰還した梓は、律の発言に聞き捨てならないとばかりに牙を剥いた。

「大丈夫だよ、あずにゃん!
運動音痴の私でもできるんだから、あずにゃんだってへっちゃらだよ!」

「もおっ!唯先輩までぇ!」

「っていうか唯まだ走ったことないだろ!」

澪から冷静的確なツッコミがはいる。


「……で、この靴が車と同じ速さで動くんですか……。
かなり危ないような気がします……」

「あははっ、心配するなって!
そんなスピードで疾走《はし》れるのは、一部の人だけだしな。
遊びの範囲で使うならなんの危険もないから」

梓には到底無理無理、と律は付け加える。(梓は手足をバタバタさせた。)

「とはいえ、私達もその高みに達しようと練習するわけだけどな。
……すごいんだ。
地を這いずることしかできない私達に、ソレは翔ぶっていう手段を与えてくれる。
私達人間が願ってやまなかった翼《はね》を手にできるんだ。
私も夢見てる……いつかほんとに翔べたらいいなあって……」

澪は窓の外の冬の陽光降りそそぐ青空を見上げる。
……と、急に自分の言ったことがなんとなく恥ずかしいことに気づき、顔を赤らめる。

「わあ、澪ちゃん乙女だね~。可愛いっ」

「せ、背中がかゆいっ、かゆいぞ!」

「う、うるさい!さ、さっきのはその……受け売りだっ!」

澪は恥ずかしさに真っ赤になった顔を覆って、うつむいてしまう。
その様子もまた可愛いらしい。

律も唯も分かっていた。
澪はおかしなことは言っていない。
彼女の夢は夢物語などではない。
この世界では、それは願えば、叶う。
空は、希望に満ちているから。



「私も……澪先輩と一緒に走りたいですっ!
澪先輩の翔ぶとこ見てみたいですっ!」

「……グス、ほんと?」

「は、はいっ」

澪のために助け船をだそうとした梓であったが、大好きな先輩の人外な可愛さにあてられてしまった。
ダメだ可愛いすぎる……はやくなんとかしないと……
「と、ところで唯先輩。これどうやって走るんですか?」

「え?うーんとねえ、ここのロックをね、解除……」

そういって唯は立ち上がり、ロックに手を伸ばした……

「ば、ばか!唯、やめろ!!」

「ほぇ?」

カチッ

キュィィィィイ……ン

鼓膜を裂くような高周音とともに、モーターが高速で回転し始めた。
ロックを外そうと前のめりになった彼女の体重は、自然と爪先に集中する。
ホイールは、たまった水が崩壊するがごとく一気に力を放出し……

シャガッッ


「わっ!わあああぁ!!」

刹那、唯の体は入り口に向かって勢いよく滑りだした。突然のことに皆は彼女の体に触れる間もない。

「あっ、唯っ!!」

「やばっ!!」

「先輩っ!危ないっ!!」

意志を持ったかのように先行する脚になかば引きずられるような体勢で唯はドアへと突進していった。
唯は止まり方も分からない。氷上のスケートのように、何かにぶつかるまでは止まることもできない。
彼女はなすすべもなくドアに突っ込んでいく。

「ぶ、ぶつかっ……!!」


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最終更新:2010年04月15日 02:11