梅雨の湿った朝
窓から見える暗い空を眺めながら
田井中律は布団の中で小さく呻いた
彼女は朝に弱い
いや、こんな朝が得意な人間などいないだろう
普段は元気な明るいムードメーカーで通しているが
目を覚まして数十分は、亀のようにごそごそと体を揺らすことしかできない
眠さやしんどさと同時に
今日の国語の小テストと英語の発表と
その他諸々の面倒な授業を思い出してしまい
益々起きる気が失せていく
「姉ちゃん、そろそろ起きないと遅刻じゃねーの?」
弟が気を利かせて起こしに来る
可愛い弟の好意を無駄にはしたくないが
どうも今日はいつもに増して調子が悪い
ぽつ ぽつ と音がするので まさかと思い窓の外を見ると
冷たい雨まで降り出した
「今日はもういいよ・・学校休むわ・・・」
下がりきったテンションは彼女を布団から出させることなく
義務の放棄を選択する
厄介事は回避できた
その達成感と解放感に浸りながら
昼の退屈なトーク番組を見て、菓子を貪る
主婦のような娯楽を堪能している内に 律は妙な気配を感じた
今家にいるのは自分一人のハズなのだが
どうもおかしい
間違い無く知らない誰かが家にいるのだ
眉をしかめながら階段を昇り 自分の部屋へ
ドアを開けると
見たこともない老紳士が 興味深そうに律の布団を観察していた
「お、おい!誰だよお前!」
思わず怒鳴る
突然の侵入者に対しても不思議と恐怖は感じなかったが
自分の寝ていた布団を まじまじと眺められるのはあまり気分の良いものではない
「おや、ようやく見つけました・・」
老紳士は帽子を手に取り一礼すると、自己紹介を始める
未来から来たと言う老紳士は
大勢の心を覗きながら 人探しをしていたらしい
自分の処理したい道具を 必要としている人間を
律は怪しいと思いつつも とりあえず相手の言うことに乗ってみる
こういう話は嫌いじゃないのだ
「んで、おじさんは何を売りに来たわけで・・?」
「こちらです」
そう言うと 老紳士は小さく透明なガラス板を取り出した
ガラス板の表面にはデジタルな数字が三列
00 00 00
00 00 00
00 00 00
並んでいる
何に使うものなのかよくわからないが
彼女の部屋に飾るには、十分お洒落なインテリアだ
老紳士は説明を始める
「これは跳躍時計と言いまして、時間を吹き飛ばす道具で御座います」
「時間を・・?」
「はい。一段目と二段目の数字で吹き飛ばす時間を指定します」
「・・・待ってくれ」
「三段目は普通の時計です。まだ未設定ですが」
「タンマタンマ!吹き飛ばすってどういう意味だよ?」
時間を止める ならわかる
時間を戻す 進める のもわかる
しかし吹き飛ばすという表現はイマイチ理解できない
「吹き飛ばすというのは 正確には記憶しない、意識しない内に時間が過ぎるのです」
「うーむ・・・」
老紳士は付け加える
「また、その跳んだ時間の間 あなたは行動をするのです。無意識に・・」
「つまり・・勝手にメシ食べてくれたりとか・・?」
「はい。勝手というか、跳んでる時間のあなたが選択した結果なのですが」
説明を聞いてみても 正直よくわからない
彼女は深く考えるのが苦手な人間なのだ
しかし なんとなく使えそうな道具だとは勘付いた
具体的には浮かばないのだが
「これ、くれるんですか?」
それを聞いた老紳士は 少し困った顔をした
「いえ 何でもいいのでこの家の物を六つください」
「六つ?」
「はい。この時代の物は価値が・・」
律は机の上にあった 使いかけのリップクリームとシャープペンの芯入れを掴み
老紳士の前に突き出す
「この二つでいいだろ!」
「できれば あと四つ・・」
「私の使ったリップとシャー芯、アンタ最初からこれ目当てだろ?」
「いえ・・」
その後三十分程値切りは続き
結局根負けした老紳士は交渉を成立させ未来へ帰って行った
強引さ 力強さは 彼女の持つ長所の一つなのだ
とりあえず跳躍時計を試用してみることにしたが 説明書も注意書きも付いていない
もう少し丁寧に説明を聞いておけばよかったと思いつつ
時計の裏に付いているダイヤルの一つをいじってみた
一段目の数字が 1 2 3・・・ と変化する
どうやら24時間表示らしい 二、三段目も同じ要領で設定し
表示は
13 20 00
13 30 00
13 15 30
となる
「こうすればあと4分30秒後にその10分後の世界へ吹っ飛ぶらしいけど・・」
期待と同時に多少の恐怖を孕みながら
ベッドに寝転んで4分30秒を待つ
もし効果が本物だったら 一体どう使おうか
そんなことを考えながら まばたきを一つした瞬間
彼女は何時の間にか
リビングで菓子を頬張りながらテレビを見ていた
「・・・・!?」
驚きを隠せず 鼓動が騒ぐのをそのままに時計を見ると
1時30分
間違い無い 本物だ
状況から鑑みるに
どうやら自分はあの後考えるのに疲れて テレビと菓子に逃避したようだ
確かに少し頭が痛いような気がする
安全なのを知るともう数回試す
20分 40分 1時間と時間を延ばし
あっという間に夕方になった
実際に吹き飛んでみて いくらかわかったことがある
まず記憶はまったく残らない
いきなり移動したような感覚で 何をしたのかは状況から推測するしかない
これは少し不便だったが
考えようによっては
記憶に残すのも嫌なイベントは、ほぼ無かったことにできるだろう
また、肉体の疲労や眠気食欲その他諸々は残る
何時の間にか疲れてたり 急に眠くなったりするだろうが
これが無いと知らぬ間に体調を崩すと思われるので助かった
最後に、吹き飛ばしをやめたい時は1段目と2段目を同じ時刻にすればいい
ひょっとしたらコンマ以下の刹那 吹き飛んでるのかもしれないが
深夜になる
色々わかったのはいいのだが
使い道があまり浮かばない
折角だから利用せねば 何か思いつかないと
宝物を手に入れた興奮と アイディアが浮かびそうで浮かばない焦燥で
彼女はなかなか眠れないでいた
確か明日は日直だ 早めに登校せねば
それはつまり、早めに寝る必要があるのだ
そう思い出した瞬間 1つ閃いた
01 35 00
08 20 00
01 33 24
彼女は静かに目を閉じて待つ
次の日
田井中律は朝なんとかベッドから脱出し朝食を頬張りながら登校し
日直の仕事を済ませながらもう一人の日直である友人の
平沢唯の遅刻に気付き
クラスメートが挨拶を交わす中 腹を立たせて授業の開始を待っているところで意識を覚醒させる
「見たところ・・間に合って日直も済ませたみたいだな・・」
本当に一瞬で仕事が片付いている
早起きの努力も日直の義務も果たしたつもりは無いのだが
実際にに行動したのは他ならぬ自分なので悪い気はしない
その後唯が教室へ走り込み、遅刻を詫び始めたが
自分が怒ったのか怒らなかったのかもわからないので
テキトーに許しておいた
鞄を覗くと 跳躍時計が放り込まれている
何かに使えということだろうか
気だるい授業が終わり
大分肩が凝ったような気がする
この学校の楽しみと言えば やはり放課後の軽音部だ
憩いの時間
彼女の癒し
人生で一番やりがいのある活動に違いない
その日も美味しいお菓子と楽しいトークとほんの少しの練習をして
帰りの時間になった
帰り道をスキップしてやろうかと思ったが
親友であり幼馴染の
秋山澪との駄弁りながらの帰宅を吹き飛ばすのは
流石に勿体無くてできない
一番大切な友人との時間だけは 絶対に跳ばせないのだ
帰宅した律は 宿題を思い出す
今日は昨日の分も重なってたっぷりあるのだ
もう思うことは一つしかない
風呂に入り アイスを堪能した後
彼女は時計を弄った
19 30 00
08 30 00
19 20 00
気が付けば教室
目の前の唯と談笑していた
「どーしたのりっちゃん?」
「あ・・いやー・・・」
計画通りにスキップしたが 唯の話している内容がさっぱりわからない
会話の途中で覚醒すると非常に面倒なことになるようだ
なるべく人と接する時間帯は避けるよう 肝に命じる
授業が始まる
律は鞄から時計を取り出した
「授業時間を飛ばして・・・いいのか・・?」
これは正直悩んだ
何せ記憶が無いのだから 学習の成果が出ない
テストが来たらそれも跳ばせばいい、という考えは甘く
結局返ってくる答案用紙は赤点だろう
跳ばすなら面倒な掃除の時間や朝礼にすべきだ と
甘んじてその日の授業は受けることにした
しかしテスト三日前になり 律は曲がった考えを思いつく
最終更新:2010年04月17日 00:10