夏休みが徐々に迫ってきていた。そんな、ある日のこと。

 いつも通りに起きて、いつも通りに家を出て、いつも通りに一番に澪に会う。

 そこまではよかった。

 そこまでは間違いなく“いつも通り”だった。

「律、おはよう」

 澪の挨拶にあたしも挨拶を返そうと思って、右手を肩の上まで持ち上げる。

 けど、右手はそこで停止して、あたしの足もその場で止まった。

「律?」

 あたしはしばしの間、驚きのあまり声を発することが出来なかった。

 どう言えばいいのか分からなかった。

 いや、挨拶を返せばよかったのだろうけど、タイミングを見失って言うことが出来なかったんだ。

「どうしたんだよ、律」

「澪……髪……」

 それだけを言うので精一杯だった。

「ああ、うん。思い切って切ってみたんだ。やっぱり変かな?」

 そう言って、肩にかかるかかからないかほどの髪を触る澪。

 そう、澪のトレードマークとも言えた髪がバッサリと切られていて、目の前の澪はショートカットになっていた。

 その突然の変身にあたしは驚いてしまったというわけ。

 右手を下ろして、あたしは目をろくに合わせようとしないまま、澪を追い越して、澪より前を歩こうとした。

「律?」

「早く行こう」

 澪の顔を見ないまま、あたしは言った。


「お、おい、律」

 あたしは歩みを止めない。

 澪の顔を見たくなかった。

 いや、見れなかった。

 ショートカットの澪は、とても、とても可愛かったから。

 結局、学校までの間、あたしと澪の間に会話はなかった。

 幸いなのかどうかは判らないけど、クラスが違うことは今のあたしにとっては有り難いものだった。

 だって、同じクラスだったら否が応でも顔を合わせなくちゃならないからな。

 問題は放課後の部活の時。

 あたしの席の真ん前が澪なわけで、ずっと目を逸らし続けるのも難しいだろうし、唯か梓と席を代わってもらわないといけない。

 そんなことを考えていると、教室に唯が入ってくるのが見えた。



「りっちゃん、おはよー」

「おはよ、唯。寝癖が酷いぞ」

「ええ!? 嘘、本当に?」と言って、自らの頭をわしゃわしゃと大胆にいじる唯。

「ごめん、嘘だよ」

「なんだぁ、嘘かぁ」

「でも、今ので髪形変わったぞ」

「えー!? お、おトイレ行ってきます!」

 あたしに鞄を預けると、唯は慌しく教室を出て行った。

「朝から元気だな」

 鞄を唯の机の上に置き、再び自分の席へ戻る。

 既に教室の半数以上の生徒が登校していて、朝だというのに電話のベル並みの音量でそこかしこで談話が繰り広げられていた。

 なんとなく机に突っ伏して目を閉じていると、登校時に一瞬見た澪の顔が思い浮かんで胸を締めつけられるような感じがして、その不明瞭な感覚があたしから落ち着きを奪っていくような気がした。

「りっちゃん、おはよう。今日も暑いよね」

 頭上からムギの声が降ってきて、あたしは咄嗟に顔を上げる。

「ああ、ムギ、おはよう」

「大丈夫? なんだか、顔色が悪い気がするけど」

「へっ!? そ、そそ、そんなことないぞ! 元気元気!」

 ムギの勘の良さに声が上ずってしまった。

 それとも本当に顔色が悪いのだろうか。

 鏡がない今は確認することは出来ない。

 小さな鏡なら鞄に入ってはいるけど、出すのが面倒だった。

「ならいいんだけど。唯ちゃんはどこに行ったのかしら。鞄は置いてあるけど」

「唯ならトイレだよ、髪直しに行った」

「そう、じゃあ、りっちゃんお話しましょ」

 断る必要もなかったので、予鈴が鳴るまであたしはムギとくだらない話をした。 

 途中、唯が鼻水を垂らしながら帰ってきたときにはムギと一緒に笑ってしまった。

 ああ、垂らしてたと言っても、床にボタボタと垂らしていたわけじゃなくて、鼻の下までずずっと垂れていたってこと。


 帰りのHRを終えて、放課後の誰もいない部室でぽつんと独りで座っていた。

 席の位置は梓がいつも座っているところだ。

 室内はむっとした息苦しさを感じさせる空気で充満している。

 ムギと唯は澪を迎えに行くと言ったので、あたしは教室の前で別れた。

 何も今日に限ってそんなこと言い出さなくていいのにと思う。

 いつもなら授業が終われば部室に行って待つのに。

 することもないので窓越しに外を見てみる。夏特有の深い青々とした空が、綿のようにふわふわした雲と共に天に張っていた。

 窓でも開けようと席を立ったとき、部室の扉が開いた音がした。

「あれ、律先輩だけですか?」

 一瞬、澪達が来たんじゃないかとひやりとしたけど、入ってきたのは梓だった。

「なんだ、梓かー」

「なんだってなんですか? まるで私じゃいけないみたいですね」

「いや、梓で良かったよ」

「はぁ・・・・・・?」

 でも、次に来るのは確実に澪達だろう。他に軽音部に来るのは、さわちゃんとか和とかは毎日来るわけじゃないし、確率は高くない。


 ソファーに通学用バッグを置いて、その横に梓が腰を下ろす。

 あたしは窓を開けて、外の空気を入れてみた。

「うわっ……気持ちわりい」

 そんな感想を抱かせるほど蒸していて生温い風が、顔の両端をかすめて室内に入り込んでくる。

「窓開けても無駄ですよ。扇風機とかクーラーじゃないと、とてもじゃないですけど、この暑さには敵いません」

 真面目な梓が弱音ともとれることを言う。

「じゃ、閉めるわ」と言って、あたしは窓を閉めた。

 当然ながら暑いのは変わらない。

 暑いのと澪の件で、なんだか頭が痛くなってきた。

 額に手を置きながら梓の席に無断で座ると、今度こそ本当に澪達が扉を開けてやってくるのが見えた。

「ねえねえねえ! りっちゅっあん! 大変だよ! 大事件大事件!」

 どこかで火事を目撃してテンションが上がって野次馬のように、唯が小走りであたしの元へ寄ってきた。

「どうかしたんですか?」

 大事件と聞いて気になったのか、梓が言う。

「それがねそれがね、なんと! 澪ちゃんがじゃじゃーん!」と、唯は振り返って澪の横で片膝を立ててしゃがむと、主役登場と言わんばかりに両手をパタパタとはためかす。

「わわっ……澪先輩……ですよね……」

 澪好きな梓でも、ショートカット姿の澪を前にしては途切れ途切れに言うのがやっとらしい。


「なんか……なんか……」

 だよな、可愛いよな澪は。梓もそう思うよな。

 あたしは梓がこれから言う言葉を先読みしてみて、勝手に同意見であることを悟った。

「カッコいいですね!!」

 あれ?

「か、カッコいい?」と、澪もその返事は予期していなかったのか、眉間にシワを寄せた戸惑いの表情を見せる。

 更にあれ? 普通に澪の顔を見れてしまったことに、あたしは首を傾げる。


「ええー、あずにゃん違うよー。澪ちゃんは可愛いんだよ」

「違います。カッコいいです!」

 可愛い派とカッコいい派に別れた唯と梓を無視して、ムギがあたしの元へやってくる。

「りっちゃん、どうして黙ってたの? どうせなら朝の内に教えてくれたらよかったのに」

「ああ、うん、ごめんごめん」

「ショートカットも似合うよね、澪ちゃんは。りっちゃんもそう思うでしょ?」

「は? あえう、と、さ、さあな、ハハッ」

 我ながら苦しい返事だと思う。


「で、今日のお菓子はなんなんだ?」

 ムギにこれ以上突っ込まれたらたまらないし、話題を変えてみる。

 ムギは机の上にお菓子が入った箱を置くと、優しい手付きで開封していく。

 開いた箱を上から覗いてみると、今日も都会のケーキ屋に並んでそうな高級ケーキが六つ入っているのが確認出来た。

「唯ちゃん、ケーキ食べない?」

 ムギの問いかけに唯は梓との論戦をあっさり放棄して、だらしない顔をしながら寄ってくる。

「待ってました! 今日は何がいいかなぁ~」

 紅茶を淹れる準備をするムギを他所に、唯は椅子にどかっと座り、早くも臨戦体勢。

 ケーキを食べる時が一番輝いている気がするな、本当。

 相手を失った梓は私の近くに来ると、

「あれ、律先輩はそこに座るんですか?」

「偶にはいいかなって」

「はあ、そうですか」

 梓はそれで納得したらしく、最終的にあたしの反対方向、普段あたしが座る席の右、澪から見れば左側に着席した。

「ん、りっちゃん。なんで、そこに座ってるの? そこはあずにゃんの席にゃんだよ」

 普段と違う配置に気付いたらしい唯が、フォークを握りしめながら言う。


「別にいいだろ、どこに座ったって」

「えー、あずにゃんが隣にいないと落ち着かないよー」

「だったら、隣の空いてる席に座ってもらえばいいじゃんよ」

「あ、そっか。あずにゃーん、ちっちちち」と、唯は主がいない椅子を手でポンポンと叩きながら、梓を呼び寄せようとする。

「え? なんです、それ?」

 唯の謎の行動を読み解けない梓。

「あずにゃん、こっちおいでー」

「私はここでいいです」

「りっちゃん、どうしよう!? あずにゃんに避けられてるよ私!」

「梓は反抗期だから仕方ないんじゃないか」

「反抗期じゃありません!」

 あ、怒った。

「律先輩こそ、子どもみたいじゃないですか」

「残念でしたー。そんな子どもみたいな挑発に、部長である私は乗らないぞー」

「私、子どもじゃないもん!」

「お前が乗るのかよ!」と、唯にツッコミを入れる。

 撒き餌に食いつかないあたしと、下手なボケをかます唯に、梓はこれ以上関わる気はないとばかりに視線を逸らした

 それはそうと、澪は部室に入ってきてから一度もあたしと話そうとしていない。

 やっぱり、朝のことが気にかかってるのか。

 ちらりと澪の方を見てみると、梓と何か話しているところだった。

 長い髪でいたときよりも顔の輪郭、頭の形がはっきりと見てとることが出来る。

 ここにいる誰よりも女の子っぽく、ここにいる誰よりも女っぽい顔をしているとあたしは思う。

 そのぐらい、ショートカットの澪は可愛い。

 もちろん、そんなことを面と向かって言えるわけがないし、言うつもりもない。

 絶対に言わない。


「――りっちゃん――りっちゃん――」

「へっ?」

 ムギの声にあたしは間抜けな声を出してしまった。

「さっきから澪ちゃんのことじーっと見てたけど……」

「み、見てない。澪なんか見てない!」

「ん、私がどうかしたのか?」

 会話が聞こえたのか、澪があたしとムギを交互に見遣った。

 あたしは視線をティーカップの紅に注いで逃げる。

「りっちゃんが澪ちゃんのことを見てたの。まるで、こう獲物を見るような目で」

 両手の指を折って猫のように胸の前に出し、目は半眼。

 ムギなりに一生懸命に獰猛な獣のポーズをしているらしい。

 でも、全然恐くないし、全然凶暴そうに見えない。

 それと共に、あたしは余計なことを言わないでいいのにと、自分勝手に考えてしまう。

「ムギちゃん、それ何のポーズ? クジラ?」

 唯、クジラに手はないぞ。

 てか、どう見たらクジラに見えるんだよと、心の中でツッコミ。

「え、えっと、あ、あれよあれ」

 名前を思い出そうとするムギ。判らずにやっていたのか。


「も、もしかして、ゴゴゴ!?」

 唯がムギの脳内でも読んだのか読んでいないのか、意味不明な言葉を発する。

 ゴゴゴってなんだ? ゴゴゴって?

「そう! ゴリラ! ゴリラのポーズ! 唯ちゃん凄い!」

「…………」

 唯とムギ以外の全員の反応が今の文字で表現できた。だ、誰かツッコんでやってくれよ。

 目の前ではムギと唯、二人だけが通じ合っていた。

 い、一体、こいつらのゴリラ像はどのようなもんなんだか。

 ああ、もう駄目、我慢の限界。

「ちょっと待ったー!」

 あたしは叫ぶと同時に勢いよく席を立ち上がり、自分の鞄の置いてあるソファーへ行き、鞄の中からノートとシャープペンを取り出して席に戻る。

「さあ唯、ゴリラを描いてみようか」

 唯の前にまだ何も書いていないページを探してノートを広げ、シャープペンを渡す。

「へ、なんでー?」

「いいから描いてみろって」

 唯は食べかけのケーキを名残惜しそうに見ながらも、大人しく従ってシャープペンを手に取った。

 ノートに徐々に唯のゴリラが形作られていく。


 そしてノートに一体の、

「これはゴリラじゃない! ゴジラだっ!? それと、ちゃっかりモスラも書くなー!」

「でへへ」と、褒めてないのに褒められたように笑う唯。

「はい、次はムギ!」

「私も描くの?」

「むしろ、ムギがメインだからな」

「頑張る!」

 ノートとシャープペンが唯からガッツポーズ中のムギへ移る。

 ムギは真剣な表情でノートにペンを走らせる。

 その動きは中々止まろうとしなかった。

 これは力作の予感。


「描けましたー」

 ムギが机の中央にティーポッドを避けてノートを広げる。

 ムギ以外の四人が身を乗り出して、ムギ作ゴリラを一目見ようとする。

 最初に口を開いたのは梓だった。

「これ……なんですか? 澪先輩判ります?」

「ううん、判らない。判りたくもない。だって気持ち悪くないか、これ」と、澪。

「ムギちゃん、これってさー」

 唯は何か判ったらしい。

「うん、それはね――」

 言うな。言わなくていい。言わないでくれ。

 お願いだから、言うんじゃないムギ。


「ビオランテです」

「……」

 ※ビオランテ(Biollante)は、日本の特撮映画『ゴジラvsビオランテ』に登場する架空の怪獣。(Wikipediaより引用)

 この世にまた一つのトリビアが生まれた。

 ――ビオランテを描ける女子高生がいる。へぇ~。


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最終更新:2010年04月18日 01:47