あれは悪夢か、白昼夢か。
 見てはいけなかったムギ先輩と憂の暗黒面を垣間見てしまった上に、
 私の心とお尻に多大なる傷跡を残して瞬く間に過ぎ去った、
 斬新でいながら陳腐と言われたステキな『あの企画』から早くも一ヶ月が経ちました。

 こんにちわ、中野梓です。

 あれから今日まで、『あの日』のことが話題に上ることは一度としてありませんでした。
 誰もが、『あの日』のことを無かったことにしたいと思っているのかもしれません。
 もちろん、それで少しでも空気が悪くなるなんてことはなくて、
 それこそが、誰もが知っている、いつもの軽音部の空気なのです。

 これから先も、ずっとそんな平和な時が続いていく――
 少なくとも私は、そう思っていました。

 その日、いつものように部室に入ると、そこに唯先輩、律先輩、澪先輩の姿はなくて。

紬「あら。こんにちわ、梓ちゃん」

梓「こんにちわ、ムギ先輩。……お一人ですか?」

紬「ええ。唯ちゃんとりっちゃんは、職員室に行ってるわ」

 職員室?
 ……期末の成績悪かったのかな?
 まぁ、勉強会がアレじゃあムリもないと思うけれど。 

梓「澪先輩は?」

紬「まだHRが終わってないんじゃないかしら。私たちのクラスの方が早かったみたいだし」

梓「そうですか」

紬「……梓ちゃん、ちょっと手伝ってもらっても良いかしら?」

 ムギ先輩は、少しだけ言いにくそうに上目遣いで私にそう言った。
 この人も大人しくしてたら普通に可愛いのになぁ。

梓「いいですけど……なにやるんですか?」

紬「これを貼ろうと思ってね」

 そう言って、ムギ先輩は少し大きめの筒から、一枚の紙を取り出した。
 丸まっているため中身は確認できないが、広げればかなりの大きさになるだろう。

梓「はぁ」

紬「私が押さえてるから、貼ってもらえるかしら?」

梓「わかりました」

 音楽室の壁にその紙を運び、ムギ先輩が両手で固定する。
 私は言われるがままにテープで両端を貼り付けた。


そしてその全容が露になった。

                           ,r;;;;ミミミミミミヽ,,_
                         ,i':r"    + `ミ;;,
       __,、           ≡     彡        ミ;;;i
    〃ニ;;::`lヽ,,_           ≡  彡 ,,,,,、 ,,,,、、 ミ;;;!
    〈 (lll!! テ-;;;;゙fn    __,,--、_  ..   ,ゞi" ̄ フ‐! ̄~~|-ゞ, ≡
   /ヽ-〃;;;;;;;llllll7,,__/"  \三=ー"."ヾi `ー‐'、 ,ゝ--、' 〉;r'  ≡  
   >、/:::/<;;;lllメ   \ヾ、  ヽTf=ヽ  `,|  / "ii" ヽ  |ノ
  j,, ヾて)r=- | ヾ:   :ヽ;;:     | l |  l  ''t ←―→ )/イ^    ≡ 
 ,イ ヽ二)l(_,>" l|    ::\;::    | |  |  ヽ,,-‐、i'  / V
 i、ヽ--イll"/ ,, ,//,,    :;;   l //  l く> /::l"'i::lll1-=:::: ̄\
 ヾ==:"::^::;;:::/;;;;;;;;;:::::::::::::: :::::ゞ ノ/   L/〈:::t_イ::/ll|─-== ヾ
  \__::::::::/::::::::::::_;;;;;;;;;;;;;;;;;ノノ   ヘ   >(゙ )l:::l-┴ヾ、ヽ  )
      ̄~~ ̄ ̄/ :::|T==--:::::  //  / ト=-|:|-─ ( l   /
         / ::  ::l l::::::::::::::::::/ /:::::::::::/:::::(ヽ--─  / |  /
         ヽ_=--"⌒ ゙゙̄ヾ:/ /:::::::/:::::::::`<==-- ノ / /

        アナ・タットワ・チガウンデス[Anna Tattwa Chigaundes]
              (1936~2008 日系ボリビア人)



梓「……」

紬「……」

梓「あの、ムギ先輩」

紬「なにかしら?」

梓「いや、やっぱいいです」

 突っ込みたいことは沢山浮かんだ。

 まず、『何故貼る前に照れたのか』
 次に、『ポーション高杉じゃなかったのかよこの人』
 続いて、『堂々と音楽室に貼るな』
 さらに、『いつ作ったこんなもん』
 もうひとつおまけで、『サイズがでけえよ』

 そして、私の脳内に一ヶ月前の悪夢が過ぎる。
 ……うん、よし。 見なかったことにした。

紬「聞いてくれないの?」

梓「あー、ええと、じゃあ聞くことにします」

紬「うふふ、どうぞ」

梓「剥がしてもいいですか?」

紬「梓ちゃん、目が怖いわ」

 だって。
 あれは、黒歴史として記憶の片隅に封印しようとしていたのに。

梓「あーもう!なんでまたファニーな名前の偉人引っ張りだしてきたんですか!?」

紬「うふふ、よく聞いてくれたわね!」

梓「聞きましたけど、もうあれはやりませんからね」

紬「実はね……」

 ムギ先輩は、低めのトーンで淡々と語りはじめた。
 その表情は暗く、何か深刻な悩みがあるかのようにも感じられる。
 この人のことだ、さっきの私の台詞に傷付いたなどということはありえまいが、
 それでも、聞き手を強く引き込むだけの空気が、確かにそこには存在する。

 背後で偉人がほくそ笑んでいるので、台無しだが。


紬「唯ちゃんと憂ちゃん、罰ゲームやってないみたいなの」

梓「そうですね」

紬「梓ちゃん、私に冷たくない?」

梓「いえ、そんなことはないですけど」

 ていうか、そんなことで深刻に悩んでたんですか。
 やらなくていいでしょう、憂の意思なんだから。

 そう、『あの日』勝利を収めた憂は、敗者である唯先輩を一日だけ好きにできる
 という権利を得た。
 にも関わらず、「お姉ちゃんが嫌がることはしたくない」と、
 真摯な態度で、その権利を放棄したのだ。

 姉のスカートの中に顔を突っ込んでいた人物の台詞とは思えなかったが、憂は真剣だった。
 唯先輩は少し驚いた後、嬉しそうに憂を抱きしめた。
 そんな光景に、私は少なからず嫉妬という感情を抱いたのだが……、それはともかく。
 あんなにカオスだった勉強会を、
 信じられないくらい綺麗なカタチで終わらせたというのに、
 何蒸し返そうとしてやがりますかこの沢庵様は。

紬「……梓ちゃん」

梓「はい?」

紬「スウェーデンで今年の五月から同性同士の結婚ができるようになったらしいわ」

梓「そうですか」

 へえ。
 いや、今その話関係ないだr

梓「なんですと!?」

紬「落ち着いて、梓ちゃん。 反応が露骨よ」

梓「……すいません。で、それがなにか?」

紬「梓ちゃん、唯ちゃんのこと好きよね?」

梓「な、なななな!!なにを言ってやがりますかこの……この、えーと、バカ!!」

紬「梓ちゃん、先輩にバカはないと思うわ」

梓「あ、すいません。動揺しました」

紬「動揺したってことは、やっぱり好きなのね?」

梓「……」

 ちくしょう。

梓「で、それがなんなんですか?」

 やけくそ気味にそう問うと、ムギ先輩はしたり顔で、
 自分のカバンをごそごそと弄り、ビデオカメラを取り出した。

紬「唯ちゃんと憂ちゃんに、罰ゲームとご褒美をやってもらいましょう」

梓「えーと、話が全く繋がってこないんですけど」

紬「梓ちゃんには、罰ゲーム執行日に平沢家に進入し、カメラで撮影してくる役を命じます」

梓「丁重にお断りします」

紬「……」

梓「……」

紬「梓ちゃん、唯ちゃんと結婚したいでしょ?」

梓「話が飛躍しすぎてると思います」

 もっと、こう段階ってものがあるでしょうに。
 発想力に乏しい私には凡そ理解の及ばぬ二文字に、
 しかしどういうわけか意外と冷静だった。

紬「女性の卵子に女性の遺伝子を組み込んで、子供を作る方法を研究している機関があるの」

梓「……はぁ」

紬「琴吹グループに」

梓「すげえ!!」

 琴吹グループすげえ!!
 将来的に、私と唯先輩が結婚して、さらに子供まで作れるかもしれないってことですよ。
 私と唯先輩が結婚して、さらに子供まで作れるかもしれないってことですよ?

紬「モノローグ使ってまで、
  大事なことなので二回言いましたを体現しなくてもいいと思うわ」

梓「人の思考トレースしないでください」

 琴吹紬すげえ!!

紬「梓ちゃん、私はいつでもあなたの味方。必ず力になれると思うから」

梓「いや、ありがたい話ではありますけど……、私まだそんなこと考えてないですし」

紬「今はそうでしょうね。だから、将来的な話よ」

 なんとなく、ムギ先輩がどういう取引を持ちかけてきているのかが見えてきた。

紬「だ・か・ら♪」

梓「平沢家に行って、罰ゲームを取材してこい、と?」

紬「Yes!」

 ムギ先輩は、最高の笑顔でそう答える。

梓「……まぁ、いいですけど。
  二人が罰ゲームやろうとしなかったら、私は何もできないですよ?」

紬「そのためのポスターじゃない」

梓「……」

紬「……」

梓「……いや」


 十中八九、効果ねえよ。


紬「なあに?」

梓「なんでもないです」

紬「等身大よ?」

梓「……」

 でけえ。
 バストアップしか映ってないけど、
 推測するに、確実に二メートル弱あるじゃん、高杉さん。
 あ、いや、高杉さんじゃないらしいけど。

 でも効果ねえよ。

 まぁ、何もできなくても、唯先輩の家に行く理由にはなるし。
 カメラは何も撮らずに翌日ムギ先輩に返せばいいだろう。

梓「そういえば、なんで私なんですか?」

 審判やってたんだから、ムギ先輩が行けばいいのに。

紬「梓ちゃん以外だと、二人のお邪魔になっちゃうから」

梓「へ?」

 律先輩や澪先輩でも、なんら問題はないように思う。
 なんで私だけが平気だと思うんだろう?

紬「そういうことだから、お願いね」

梓「……わかりました」

 一応、承諾することにした。
 私はそう言って椅子から立ち上がり、壁に向けて歩き出す。

 そして、あの日私たちを笑いの地獄へと追いやった一人の偉人に敬意を表し、
 その角に手をかけ「梓ちゃん剥がしちゃだめええええっ!!!」

唯「ムギちゃんただいま~。あずにゃんおいっすー」

律「おーっす梓ー。ムギ、お茶にしようぜー……って、澪はまだ来てないのか」

 しばらくして、軽やかな挨拶と共に二人が入ってきた。

梓「こんにちわ、唯先輩、律先輩」

紬「おかえりなさい二人とも。今お茶いれるわね」

 ムギ先輩はそう言って席を立つ。

律「しかし、よかったなー唯。追試受けなくて済んで」

唯「うん、全教科ぎりぎり合格ラインなんて、自分でもびっくりだよ」

 会話から察するに、二人ともセーフだったらしい。

梓「あれ、律先輩はどうして職員室に行ってたんですか?」

律「私は、さわちゃんに用があったからな。唯の付き添いも兼ねて立ち寄ったんだよ」

梓「なるほど。そして唯先輩は、試験結果が全部ぎりぎりで注意された、と」

唯「いやぁ、すいやせんねー、えへへへへ」

律「なぁ、梓」

梓「なんですか?」

律「おもっきりお茶しようとしてるけど、注意しないのか?」

梓「……」

 あまりに自然な流れすぎて失念していた。

梓「い、いや、あれですよ。澪先輩がまだ来てないから、ほら。
  練習は皆揃ってからじゃないと!」

律「そういうことにしといてあげよう」

 ふふん、と胸を張る律先輩。

 むぅ。私としたことが。
 なんか、最近律先輩に優位に立たれることが増えてきた気がする。
 むくれていると、唯先輩がそっと頭を撫でてくれた。

唯「よしよし、あずにゃんいい子いい子」

 思わず顔が綻ぶ。

梓「にゃあ」

律「なぁ、梓」

梓「にゃ?」

律「私も唯もムギも、どっちかっていうとボケ属性だから、
  お前がボケると突っ込むやついなくなると思うんだ」

梓「……」

 ちがうもん。
 ボケとかじゃないもん。

 わからない人のために説明しよう!
 私は唯先輩に撫でられると猫語になってしまうことがあるのだ。

 苦しいとか言うな。言わないでください。

 ムギ先輩が人数分の紅茶を淹れて戻り、四人で会話に花を咲かせる。
 しばらくすると、澪先輩が音楽室に顔を覘かせた。

澪「ごめん、遅れて。HRが長引いちゃtt」

 台詞を最後まで言わずに硬直する澪先輩。
 解説しておくと、件の等身大ポスターは、入り口から見て右側の壁に貼られている。
 扉を開けてそのまま無警戒で席へと着いた唯先輩と律先輩は、
 まるで気付いていないのだが、
 普段から警戒心の強い澪先輩は、すぐにその淀みの無い熱視線に気が付いたようだ。

唯「やっほー澪ちゃん」

紬「こんにちわ澪ちゃん。ごめんなさい、今澪ちゃんの分も淹れるわね」

律「どうした澪ー、早く座れよ?」

梓「……」

澪「あ、ああ。そうだな……」

 ちらちらと、様子を窺いながら、椅子に座る澪先輩。
 その視線の先には、圧倒的な存在感を持って壁に鎮座する推定二メートルの偉人。

 談笑を続ける三人を尻目に、澪先輩は隣から小声で私に囁きかける。

澪「(な、なぁ、梓。気付いてる?)」

梓「(まぁ、一応は……)」

 貼ったの私です。とは口が裂けても言えない。

澪「(これってやっぱり、アレだよな?)」

梓「(あー、えーと……。非常に説明し難い所なんですが)」

 一応、そこはフォローしておくべきだろう。

梓「(笑っても大丈夫ですよ、今回はそういうんじゃないらしいので)」

澪「(そ、そうか。よかった……)」

 澪先輩は、心底ホッとしたような素振りを見せた直後、

澪「いや、良くないだろ!!」

 そう言って、机をバン!と叩いた。

律「うわー、澪が怒ったっ!」

唯「ご、ごめんね澪ちゃん! ムギちゃんのクッキー、一枚多く食べちゃってごめんね!」

 ああ。
 そんなことで澪先輩が怒るわけないのに。
 本当に、かわゆいお方だ。

澪「そうじゃなくて、アレのことだよっ!!」

 言って澪先輩は、指先をポスターへと向ける。
 その指の先を、まるでテニスの試合を食い入るように見つめる観客のように
 シンクロした首の動きで追う唯先輩と律先輩。

 私はここがチャンスとばかりに唯先輩だけを見ていたが、
 ムギ先輩もまた、じっと私を見ていた。しまった、謀られた。

律「!!」

唯「!!」

律「なん……」

唯「だと……」

澪「全く、なんでこんなものがここに貼ってあるんだよ」

 つかつかと歩き出し、偉人の前で立ち止まると、
 澪先輩は私がしたのと同じように、ポスターを剥がしにかかる。

律「ま、待て澪! 安易に剥がすのは危険だ!!死体とか埋まってるかもしれない!!」

澪「ひぃぃっ!?」

 サササ、と綺麗な早歩きで音楽室の反対側の壁へと移動し、
 その場に蹲る澪先輩。

律「ありゃ、効果ありすぎたかな……」

唯「りっちゃん、さすがにそれは怖いと思うよ」

梓「澪先輩、大丈夫ですよ。死体なんてありませんから」

澪「見えない聞こえない見えない聞こえない見えない聞こえない」

梓「あー……。しばらくダメですね、これは」

 お決まりの念仏を唱えてしまっている。
 こうなってしまえば、この人はしばらく動けないのだ。

律「……ごめんな澪ー、悪ふざけが過ぎたよ」

 私と律先輩がフォローに回ったため、
 ポスターの前には、必然、唯先輩とムギ先輩が残る。

 ……もしかしてこの流れ、ムギ先輩の計画通りなのか?
 だとすると少しだけ不安になる。
 私は、澪先輩を律先輩に任せて、唯先輩の所へと戻った。

唯「ムギちゃんこれ、ふく―、ポーション高杉さんだよね?」

 今、「ふく」って言いかけましたよね?

紬「日系ボリビア人よ」

 もはや話聞いてねえなこの人。

唯「やっぱり、先月のアレだよね……?」

紬「そうかもしれないわね」

唯「ほえ、ムギちゃんが貼ったんじゃないの、これ?」

紬「貼ったのは私じゃないわよ?」

唯「そっかぁ、そうなんだ。誰が貼ったんだろう……」

梓「……」

 貼ったのは、と来たか。
 確かにムギ先輩は貼ってはいないからなぁ。
 律先輩や澪先輩なら、持ってきたのはムギ先輩だと気付いてくれるのだろうけど、
 唯先輩はバ……、いや、純粋だから、簡単に信じてしまう。

 うむ、貼ったのは私だ。
 と名乗ればいいのだろうか。

 そして持ってきたのはムギ先輩だと訴えれば、解決できるのではなかろうか。

 しかし、そんな考えとは裏腹に、私は傍観に徹した。
 ムギ先輩のポスター計画がどこまでうまく運ぶのか、
 それに唯先輩の罰ゲームも見てみたい気は確かにある。
 憂があまり酷い要求をするようなら、現場にいける私が止めればいいのだ。



2
最終更新:2010年01月05日 01:09