20××年、とある元ミュージシャンの死が報じられた。
とは言っても、世間一般に彼女の名を知る者は殆ど無く、また同様に、彼女の死に特別な感慨を抱く者も殆どいない。
その数カ月前、とある野外ロックフェスティバルでは、とある一組の大物バンドの再結成ライブが、大きな話題となっていた。
そのバンドの名は『放課後ティータイム』――これまでに累計数百万枚のアルバムを売り上げたという、モンスターバンドであった。
平沢唯は、『放課後ティータイム』の初期メンバーであった。
ドラマーの
田井中律は懐かしき日々を振り返り、こう語った。
律「唯は……天才だったんだ。そう、あいつはまさに天才だ! 陳腐な表現だけど、それ以外の言葉が見つからないよ」
高校の軽音楽部バンドからスタートしたHTTの当初のメンバーは、
田井中律(ドラムス)、
秋山澪(ベース、ボーカル)、
琴吹紬(キーボード)、平沢唯(ギター、ボーカル)の4人であった。
紬「唯ちゃんはメンバーで唯一の楽器初心者だったの。
それまでギターに触ったこともなければ、音楽にもほとんど触れてこなかった」
澪「それが、ギターを始めて1年もしたら、まともなギタリストになっていたんだ。
別に練習の鬼だったわけじゃないさ。毎日お茶して遊んでいたにもかかわらず、唯のギターの上達は異常なほど速かった」
梓「私は1年遅れてHTTに入ったんですが、唯先輩を初めて見た時は驚きました。
ロクな音楽理論も知らず、チューニングの仕方も知らないのに、ひとたびギターを弾き始めると……
魔法のような音が出るんです!」
紬「HTTも初期は私が殆どの作曲を担当していたんですけど、すぐに唯ちゃんにとってかわられました。
逆立ちしたってかないませんよ。なにせ唯ちゃんは3分間の曲をほんの1分で作ってしまったこともありましたから」
梓「唯先輩はギターの上達も速かったですが、何と言ってもセンスが異常でした。
私なんかが何時間アタマを捻っても思いつかないようなフレーズを、
まるで午後の紅茶を啜るように無造作に弾いて見せるんです」
律「唯のやつはレコーディングでも常にワンテイクで完璧な演奏をするんだ。
ミスなんかしない。いや、正確にはミスをしてもそれをミスと思わせないような演奏をするんだ。
あれはそうそう真似できる芸当じゃないよね」
澪「唯は作詞のセンスも抜群だった。
自転車とかタコとか帽子とか、取り上げる題材は馬鹿馬鹿しいのに、内容はすごく深くて考えさせられるんだ。
そんな唯を見ていたら、甘い恋だ何だの歌詞を書いていた自分が急に恥ずかしくなったね」
天才、平沢唯の名は瞬く間に音楽業界を駆け巡り、
そんな唯を擁した放課後ティータイムの1stアルバム
『昼下がりのカスタネット叩き』
は、サイケデリック・ガールズ・ロックの名盤として、未来永劫あせることのない輝きを放っている。
澪「あのアルバムの評判といったら、それはもう凄いものがあったよ」
梓「次世代のビートルズ! なんていわれましたね」
律「それもこれも、ひとりの天才の力によるところが多かったんだけどな」
紬「軽音部に入部した日から、唯ちゃんは天才だったんですよ」
売上的にも評論家のリアクション的にも成功を収めた1stアルバムの勢いをかって、
2ndアルバムの曲作りをはじめたHTTであったが、ここにきて天才、平沢唯の様子に変化が見え始めた。
その兆候に最初に気付いたのは、妹の憂であった。
憂「!? お姉ちゃん……何やってるの?」
いつものようにお風呂の掃除をしようとバスルームに足を踏み入れた憂が見たものは、
唯「るーるーらーらー♪」
浴槽一杯に詰め込まれた人参、キャベツ、ピーマンといった野菜の中に全裸で埋もれながら、
ご機嫌そうに鼻歌を歌う姉の姿だった。
唯「あ、憂、やっほー」
憂「やっほーじゃないよお姉ちゃん……一体何を……」
唯「うーんとね。今度、野菜をテーマにした曲を作ろうと思ってるんだ」
憂「野菜……?」
唯「そう。だからね、野菜の気持ちってどんなかなーって思って」
憂「それで野菜に埋もれていたの……?」
唯「うん」
憂「野菜に埋もれても野菜の気持ちはわからないんじゃ……」
唯「そんなことないよー? 野菜だって生きているんだから、肌を合わせないとわからいんだよー」
憂「お姉ちゃん……?」
この『野菜事件』に端を発した唯の奇行癖は徐々にエスカレート。
『鳥の歌を作る』と言って、一日中虚空を眺めて過ごすこともあれば、
『赤ちゃんのような感性が欲しい』と言って妹の乳房にしゃぶりつきながらギターを弾くこともあった。
憂「お姉ちゃんにしゃぶられるのは悪い気分じゃありませんでしたけど、
普通そんなことをしながら曲を作るミュージシャンの人なんていませんよね?
ええ、確かに昔からお姉ちゃんはちょっと抜けているところはありました。
でも、あれは『抜けている』という次元ではないと――普段一緒に暮らしている妹の私だからこそわかったんです」
奇行の被害者となったのは、妹だけではない。
澪「ある日スタジオに行ったらさ、唯がこう言うんだ。
『さぁ、澪ちゃん、今日はこの曲にボーカルを入れて!』って。
どんな曲かと思ったら、『メリーさんの羊』だったんだ。ほら、あの童謡の」
律「澪もさ、一応戸惑いながらも歌うんだけど、唯は『だめ! もう1回!』って、鬼のようにリテイクを出すんだ。
結局、澪が解放されたのは、72テイクを重ねた時だったなぁ」
澪「え? 結局その音源はどうなったのかって? お蔵入りに決まってるじゃないですか」
紬「こんなこともありました。ある日唯ちゃんが『6人目のメンバーを見つけてきた』って言うんです。
どんな人をつれてきたのかと思ってみたら・・・・・・ただの亀だったんですよ」
梓「正確にはスッポンモドキっていうらしんですけど、とにかく亀だったんです。
唯先輩は亀にギターを弾かせるって言うんですよ!?
流石にそれはないだろうと言ったら、『あずにゃんは亀を差別するの?』って……」
しかし、そんな奇行だらけの変人に傾きつつあった唯に対するメンバーの評価はと言うと、
律「流石に亀をメンバーにはしなかったけどさ、音楽に没頭している時の唯は、
たとえそれが傍から見ればどんな奇行であろうが納得させてしまう凄みがあったんだ」
澪「具体的には目……瞳かな。あいつの瞳を見ていると吸い込まれそうというか……。
ブラックホールみたいだというか……。とにかく有無を言わせないんだ」
紬「ケーキに目を輝かせているときとは、また違った凄みとでも言うんでしょうか」
梓「あの時の唯先輩にもし本気で『亀にギターパートを譲れ』って言われたら……譲っていましたね」
奇行は天賦の才能の裏返し――。
そう考え、唯の行動を黙認していたメンバーであったが、そう悠長なことばかり言っていられない事態となる。
律「唯の精神状態は、日に日に悪化していったよ」
澪「スタジオでのレコーディングでなら、私たちが我慢すればよかっただけの話だけど、ライヴじゃそうは行かなかった」
紬「あれはいつのコンサートでしたか……唯ちゃんはギターを弾く手を急に止めたかと思うと、
懐からマヨネーズを取り出し、自分の頭めがけて思いっきり捻りだしたんです!」
梓「当然ながら観客はギョッとしていましたよ。
その後、唯先輩になんであんなことをしたのか聞いたら、覚えてないんですよ。
自分がマヨネーズを整髪料がわりに使って観客の度肝を抜いたことを!」
唯にはもはやライヴ等の外向けの活動をこなすことが無理であることは、自明の事実であった。
澪「仕方ないな……これからしばらくはブライアン・ウィルソン形式でいこう」
律「ブライアンウィル……誰だそりゃ」
梓「ブライアン・ウィルソンは、60~70年代に活躍したアメリカのロックバンド、『ザ・ビーチ・ボーイズ』のメンバーだった人ですよ」
澪「そう、ブライアン・ウィルソンは類まれなる音楽的センスと作曲能力を持つ一方、
精神的にトラブルを抱えていて、長いツアーやライブをこなすことができなかった」
梓「そこでバンドはブライアンをツアーやTV出演等の露出には参加させず、
彼をレコーディング専門の作曲担当メンバーとして扱うようになったんですよね」
紬「そのブライアンなんとかさんの役割を唯ちゃんに?」
澪「そうだ。HTTにとって、唯の音楽的才能はとてもやすやすと手放せるものじゃない。それに今までずっと一緒にやってきた絆もある」
律「つまり、しばらく唯には裏方としてスタジオにだけ来てもらおうってことか。
唯のやつ、ライブは好きだったみたいだし、納得してくれるかねぇ」
澪「最近はそのライブですら演奏している記憶が時々飛んでる時があるそうだよ」
梓「とにかく! 唯先輩にはしばらく人前に出るプレッシャーからは遠ざかってもらいましょう」
そうして、表舞台からは遠ざかった唯であったが、スタジオでは相変わらず天才的な才覚を発揮し、
凡人では思いもつかないような革新的な楽曲の数々を生み出した。
しかし、やがて唯の精神状態はレコーディングにすら堪えないほどに、悪化していく。
澪「あの頃の唯は、もはや自分からスタジオにすら来ることすらできなくなった。
たまに憂ちゃんが引っ張ってくることがあったけど、その時は泣き叫んで帰りたがるんだ。
要は自分が今どこにいるのか、わかってないんだ」
律「幻覚系のドラッグでもやってたんじゃないかって?
まさか! ここは日本だし、そういう業界の危ない側面からは、唯は一番遠かった人間だったと思うよ。
あいつがやっていたクスリといえば、せいぜい甘口の咳止めシロップをおやつと間違えて舐めるくらいさ」
梓「唯先輩はもう限界だった。だとすれば、HTTに残された選択肢は一つしかありませんでした。
え? その選択肢は余りにも酷なんじゃないですかって? そ、それは……」
紬「違います。私たちはバンド仲間である以前に親友であったからこそ、その選択肢を選んだんです。
忙しなく心労の絶えない音楽業界から一端離れることが、唯ちゃんの精神的療養には一番だと思って……」
かくして平沢唯の放課後ティータイム脱退が発表された。
その後、唯は宅録で2枚のソロアルバムを発表したものの、その余りにぶっ飛んだ内容から一般受けもすることなく、
いつしか音楽活動をやめ、自宅で妹の憂の世話を受けながら静かに過ごすようになったという。
一方、唯を失った放課後ティータイムは活動継続の道を選んだ。
梓「でも唯先輩がいなくなって、HTTはやっていけるんでしょうか……」
澪「大丈夫だ。作詞は私が、作曲はムギを中心に全員で頑張ってやっていけばいい。
もともと高校の時はそうやっていたんだし。ボーカルも全員で分担しよう」
梓「でも……」
律「梓……唯の抜けた穴を埋めるのはお前だぞ?
なにせ唯が一番可愛がっていた後輩はお前なんだから」
梓「私が……唯先輩の……」
紬「そうよ? 唯ちゃんが回復した時、戻ってこれる場所を用意しておかなくちゃ」
梓「わかりました……。やりましょう!」
こうして、澪と梓のダブルフロントウーマン体制となった4人のHTTは活動を継続した。
そして、皮肉にも4人体制のHTTは音楽的にも商業的にも非常に充実したキャリアを送ることとなる。
HTTの4枚目のアルバム
『凶器』
が何と500万枚以上の売上をあげる超ヒット。
オリコンチャートにも400週連続でチャートインし続けるなど、記録的なモンスターアルバムとなった。
深い歌詞を紡ぎ、独特の世界観を築け上げる秋山澪。
確かな技術に裏打ちされた泣きのギターで聴く者の感性を刺激する
中野梓。
色彩豊かなキーボードと作曲センスでバンドに彩りを与える琴吹紬。
時に激しく、時に繊細に叩き分ける鉄壁のドラミングでバンドの屋台骨を支える田井中律。
4人のメンバーのバランスは申し分なく、曲も素晴らしい。
放課後ティータイムはまさに時代を象徴するバンドとなった。
しかし、そんな栄光の陰で、初期のHTTを象徴していた1人の天才の存在については、確実に忘れ去られつつあった。
紬「あの頃の私たちは唯ちゃんがどんな生活をしているのか、知らなかったと言って過言ではないわ」
梓「山のように懐に入る印税、毎回満員御礼のライブ、熱狂的なファン……少なくとも私は自分を見失っていたのかもしれません」
澪「認めざるを得ないのは、『凶器』のヒットで、私たち4人も明らかに浮かれていたってことだ」
律「そんな調子に乗った私たちの鼻っ柱をへし折るような出来事が起きたのは、『凶器』の次のアルバムをレコーディングしている時さ」
その日、アルバムのミックスダウン作業を行うため、HTTの3人のメンバー(梓、律、紬)は揃ってスタジオへ入った。
律「おっす。澪は早いな」
スタジオに入ると、既に澪はミキシング卓に向かい、黙々とスピーカーから流れる音源のミックス作業を行っていた。
すると、突然澪がこんなことを言いだした。
澪「なぁ3人とも、そこにいるのが誰だかわかるか?」
澪の指差す方を3人が見ると、スタジオに備え付けられた大きなソファー。
そこに腰掛ていたのは、丸々と肥えた豚のような女であった。
女「…………」
女は髪の毛もぼさぼさで、見るからに不潔だ。
律「ん? こんなスタッフいたっけ?」
紬「レコード会社の人でしょう?」
梓「それか、音楽雑誌の記者?」
澪「違うよ。こいつは……唯だ」
律紬梓「えぇっ!?」
3人の身体に電流が走った。
思わず目を剥いて、唯と呼ばれた女を見た。
唯だって……!?
ありえない! だってそこに座っているのはただの肥えた女じゃないか!
どう見たって自分達よりは20歳以上は年上な、くたびれ果てた中年おばさんにしか見えないじゃないか!
ありえない!!
だってそうだろう?
あの天真爛漫とした表情や、艶々した栗色の髪や、小さな身体や……とにかく唯を形作っていたあらゆる要素が、この豚女にはないじゃないか!
それが3人の共通の認識であった。
最終更新:2010年05月04日 01:17