しかし、その風呂に入ることを忘れたマツコデラックスのような豚女の瞳を覗き込んだ瞬間、3人は認識を改めざるを得なかった。


律「この澄みきったブラックホールのような瞳……」

紬「全てを見透かすような……」

梓「間違いなく……唯先輩ですね」

唯の瞳の色だけは、以前と何も変わっていなかったのだ。

律「ど、どうしたんだよ唯! そんなに太っちゃって……」

それを認めて、最初に唯に駆け寄ったのは律であった。

紬「そ、そうよ唯ちゃん……体重に悩むのは私と澪ちゃんの専売特許だったのに……」

すると、唯は垂れた頬を緩ませながら、ゆるゆるとした口調で、

唯「あのね、台所にね、大きな冷蔵庫があるんだ」

梓「冷蔵庫……ですか?」

唯「冷蔵庫の中にね、お肉がいっぱい入ってるの」

律「マジかよ……」


その発言は、とてもじゃないが冗談にすら聞こえなかった。

と、同時に、本来であれば自宅に引き篭もっていても身体的な健康だけは妹に管理されているはずだろうにもかかわらず、
この不摂生ぶりはすなわち、唯の精神が既に憂にもどうしようもないレベルにまで向こう側に行ってしまっている証拠だった。

梓「なんてことでしょう……」

紬「あの可愛かった唯ちゃんが……」

唯「あっ」

絶句する三人を尻目に、唯は急に何かを思い出したように立ち上がると、
懐から歯ブラシを取り出し、水も歯磨き粉もないのに歯を磨き始めた。

律「な、なにをやってるんだ……?」

すると、また急に電源が切れたかのように手を止め、ソファーに座りなおす……かと思えば、また立ち上がり歯を磨き始める。

唯はこの一連の動作を20分ほど続けた。


紬「唯ちゃん……何と嘆かわしい……」

梓「唯先輩……」

あまりの唯の姿に、紬と梓は人目も憚らず泣き出していた。

そして、

澪「…………」

無言で唯に背中を向け、ひたすらにミキシング卓を弄っている澪もまた、
涙を堪えていることが、その震える肩から容易に窺えた。

すると、

唯「ねぇ、りっちゃん――」

律は唯が自分の名前を覚えていてくれたことに先ず安堵を覚え、
同時にその安堵がいかに悲しいものかに気付き、また絶句した。

唯「わたしはどのパートにギターを入れようか~?」

律「なっ……」

なんてことだろう。

唯はいまだに自分がHTTのメンバーだと思っているのだ。


律「(どのパートもなにも……そもそもお前はギターすら持ってきていないじゃないか……)」

律「うっ……」

最後まで堪えていた律の涙腺もとうとう決壊してしまった。

すると、

紬「ごめんね唯ちゃん……曲は殆ど完成していて、ギターのパートも全て録音し終わってしまったのよ……」

事実は、まだギターもキーボードもオーバーダビングする余地が十分に残っている。

紬の答えは、明らかな優しい嘘であった。

唯「そう」

そう言って、唯は特に不満げな表情を見せるでもなく、ソファーに座りなおした。

唯「でも必要があったらすぐに言ってね。いつでも身体を空けておくから」

紬「そうね……そしたら是非唯ちゃんにお願いするわ……」


スタジオには、澪がプレイバックする新曲の音源だけが空しく流れ続けていた。

澪はまるで、悲しみを紛らわせるかのように何度も曲をプレイバックし、卓を弄繰り回していた。

唯「ねぇ、澪ちゃん――」

澪「……なんだ?」

唯「どうしてそんなに何回も聴き返すの? 一回聴けば十分じゃないのかな」

澪「!」

そうだ。

唯は昔からどんなギターフレーズでも一度聴けば覚えてしまったし、レコーディングもほぼワンテイクで済ませていた。

唯は狂人である前に、とんでもない天才なのだ。

唯「でも、うん、いい曲じゃないかな。ヒットしそう。
  この曲がリリースされれば、わたしたちHTTの知名度も、もっと上がるね」

既に4人体制のHTTはメガヒットを持つバンドとなっていたし、
そもそも唯は『わたしたち』には既に入らない、バンドのメンバーではないのだ。

結局、その日のミキシング作業は少しも進捗することなく、
スタジオは異常なほどの悲しい空気に支配されたのであった。


澪「――と、いうことがあったんだ」

ニューアルバムの取材のために行われたインタビューで暴露された余りに悲しい逸話に、
ペンを持つ音楽雑誌の記者の手は思わず止まっていた。

記者「……ということは、今回のアルバムは唯さんに捧げたものになるのですか?」

澪「そうなるのかなぁ……でもインスピレーションを受けたのは間違いないよ」

そうして、発売された5枚目のアルバムには、
唯をモチーフにしたと思しき叙情的な2曲、『Shine On You Crazy Castanet(狂ったカスタネット)』、
『Wish YUI Were Here(唯がここにいてほしい)』が収録された。


記者「今でも、唯さんとは接触があるんですか?」

澪「それが、私たち4人は会えないんだ……。
  唯は最近HTTにいたころの記憶が何度もフラッシュバックして、錯乱するんだって。
  それで、医者に止められてる。『メンバーに会うと、更なる精神崩壊を招く危険性がある』って」

記者「それではあなたにとって平沢唯とはどんな存在ですか?」

澪「何度も言うようだけど、唯は天才である前に純粋な一人の人間であり、HTTの元メンバーである前に親友だよ。
  だからこそ、唯の存在が今のHTTの推進力に、私自身の推進力になっているのは、間違いないよ」



しかし、徐々に4人体制のHTTにも崩壊の兆しが見え始める。

その原因は澪であった。

発端は6枚目のアルバム『動物さんたち』に伴うライヴツアーでの出来事だった。

元々、ステージに立つことに抵抗があった澪は、コンサートで騒ぐ観客に嫌気が差し、ある日MCでこう言い放った。

澪「みんなは私たちの演奏を聴きに来ているのか、私たちの姿を見に来ているのか、どっちなんだ!」

そして、騒ぐ観客に向け、澪はあろうことか唾を吐きつけた。(だが、客は逆にその唾に喜んでありついた)

この経験は澪の心の中に大きなトラウマを残す結果となり、

澪「なぁ律、私が思うに、観客とバンドの間には大きな壁があるような気がするんだ」

律「は?(何言ってんだこいつ)」

澪「よし決めた。次は人間相互の間にある『壁』をテーマにしてアルバムを作ろう。
  きっと唯もそんな人間同士のコミュニケーションに悩み、精神をおかしくしてしまったのかもしれない」

そうして発売されたアルバム『The 壁』は余りにも難解で澪の個人的な内容にもかかわらず大ヒットを記録し、
アルバムに伴うライヴツアーでの、客席とステージの間に壁を築くという大掛かりな演出も好評を得た。


しかし、澪の極度に個人的な方向へと傾倒する音楽性と、
他のメンバーの方向性が衝突することは、まさに自明の理であった。

梓「澪先輩の作る曲は内省的で暗すぎます! バンドの方向性を改めるべきです!」

そして、反秋山澪の旗手となったのは、唯の無き後、澪と並ぶフロントウーマンとしてバンドを牽引した梓であった。

澪「梓はわかっていない。今更、腑抜けた愛だの恋だのを歌って何になる? 
  今のHTTは、唯という仲間の犠牲の上に成り立っているんだぞ?
  だからこそ、唯のような天才が持っていた狂気や人間の本質的な感情について歌にすべきだ」

梓「それにも限度があるということです!
  自殺や鬱病の歌ばかり演奏しているバンドなんて、
  それはもう私たちが目指した放課後ティータイムの姿ではありません!」

澪「そこまでいうなら仕方ない。私は抜けるとするよ」



こうして、放課後ティータイムから秋山澪が脱退、ソロ活動へ転向した。

公式に発表された理由は『放課後ティータイムは創造性を使い切った』というものであった。

一方、梓、律、紬の残された3人はHTTの継続を決意した。

梓「放課後ティータイムは解散させちゃいけない。
  それがあの人……唯先輩の帰る場所であるからこそ」

しかし、事態はそう上手くは転ばない。

なんと、澪が『放課後ティータイム』のバンド名の使用の差し止め及び既存の楽曲の演奏の差止めを申し立てたのだ。

これには幼馴染であり澪とは関係の深かった律も、温厚な性格だった紬も、憤慨せずにはいられなかった。

律「澪のやろうとしていることは、HTTというバンドを潰すこと、それはつまり唯の帰る場所を破壊していることと同義だ!」

紬「澪ちゃんが何を考えているのかわからないわ!
  唯ちゃんの惨状に、一番胸を痛めていたのは澪ちゃんだったはずなのに」


ついに両陣営は法廷へと泥沼の舌戦の場所を移した。

この頃には、『放課後ティータイム』は『現メンバーと元メンバーが裁判で喧嘩しているバンド』としての認識の方が高くなり、
もはや狂気の天才、平沢唯のことを思い出す人間もいなくなった。

そして、泥沼の裁判は終わった。

結果として、『放課後ティータイム』というバンド名の所有権は梓陣営に残ったものの、
楽曲の使用収入の20%を澪に支払うこと、
あわせて澪のソロアルバムといっても差し支えなかった『The壁』に関わる全ての権利を澪に譲渡することとなった。

梓「澪先輩のことは見損ないました」

律「アイツは結局、自分が儲けたいだけじゃないか! 自分で勝手にHTTをかき回して、自分で勝手に出て行ったくせにだ!」

紬「とにかくこれでHTTとしての活動はできるわね」


3人体制のHTTはアルバムを発表。

3人になったもののバンドの勢いは衰えず、リリースするアルバムはヒットを記録した。

そして、大規模な全国ツアー。

ここで3人はライヴのセットリストに必ず唯作詞作曲の初期の楽曲を加え、演奏した。

律「なんで今更昔の唯の曲を演るかって? そりゃ、ツアーの後ライヴアルバムを発売する予定だからだよ」

紬「唯ちゃんの曲がライヴアルバムに収録されて、それが売れれば、唯ちゃんの元に印税が入りますから」

梓「HTTメンバーは唯先輩に面会することが許されていないですから。これくらいしかしてあげられることはありません」

アルバム、ツアーを成功させ、その利益を平沢唯に還元し続ける3人。

一方、自らの利益と創造性を優先し、唯を顧みることのないソロ活動中の澪。

両者のスタンスは明確に分かれた。



そして、この頃、東○ポ一面に驚くべき記事が掲載される。

題して『元HTTメンバー、来るってしまった天才ミュージシャン平沢唯の今を激撮!!』

紙面には、やはり丸々と肥え、もはや老婆にしか見えぬほどに容姿が憔悴した唯の姿があった。

ただし、盗撮したと思われるおぼろげな輪郭な写真でもわかるほどに、その瞳は『あの』平沢唯のものであった。

律「あの記事を見て、思ったよ。唯のことはもうそっとしておいてあげて欲しいって」

紬「唯ちゃんは今、妹の憂ちゃんと実家に二人暮らし、生活資金は生活保護とHTTの印税収入に頼っている状態、
  普段はもっぱら油絵を描いて過ごしていると記事にはあったわ」

梓「世間は唯先輩のことを稀代の奇人のように扱いますが、聞いた話だと今では近所の人とも上手くやっているし、
  昔ほどの奇行も目立たないそうです。だからこそ、そっとしておいてあげてほしいですね」

一方、澪はソロ活動転向後、唯についてノーコメントを貫きとおしていた。


さらに数年後、また新たなアルバムを発売し、ツアーを行った3人HTTは、
例のごとくライブアルバムの印税収入を平沢家の口座へと振り込んだ。

すると、梓の元に一本の電話が入った。唯の妹、憂からであった。

憂『梓ちゃん……気持ちは嬉しいけど、こんなにたくさんのお金、もういいんだよ?』

梓「何言ってるのよ憂、唯先輩の介護で忙しくて、生活も厳しいんでしょ?」

憂『でも毎月○○円も振り込んでもらうのは流石に多すぎるし……』

梓「えっ……!?」

梓が絶句した理由は、憂の言った金額が、自分達が定期的に振り込んでいた金額よりも明らかに多かったからであった。

そして、憂の言葉には続きがあった。


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最終更新:2010年05月04日 01:18