♪
自分の部屋に入って電気もつけずに、律はベッドに飛び込んだ。
自分がわからなかった。
自分のことなのにまるで赤の他人のことのように理解できなかった。
胸の奥が滾った熔岩のように奔流する感情に襲われ、涙が頬を伝い落ちる。
どうして――どうしてこんなに涙が溢れて止まらないのか明白な理由が思いつかない。
澪が自分から離れてしまったから?もしくは、澪を自分から奪いさった唯が憎いのか。
どこかで働いていた理性が決壊しようとしている。そんな気がした。
――スカートのポケットに入っていた携帯が不意に鳴った。
枕に押し付けていた顔を慌てて上げ、律は携帯を取り出し画面を見た。
澪からメールが来ていた。
律「澪……!」
急いでメールを開こうとして……やめた。
どうして、澪に、自分の感情に、こんなにも振り回され続けなければいけない?
ふとそんな疑問が頭をもたげた。
徐々に熱に浮された思考が冷えていく。正常に回転し始めた脳みそが新鮮な空気を求める。
律は空気を入れ換えるために窓を開けようと身体を起こして、窓の前に立った。
窓ガラスに淡く映った律の目は赤く潤んでいた。
律「ふふ……」
三日月の形に割れた唇から小さな笑声が漏れた。
何を悩んでいるのだろう。懊悩などに意味が無いことくらい、わかりきっているのに。
律「そうだよ。私は何を悩んでんだ?私はハッピー百パーセントの
田井中律だ。
悩む暇があるなら行動しなきゃな」
雲間から覗いた月がひっそりと律を照らし出した。
♪
それからまた一週間が経過した。
その間の律は第三者から見れば、今までと何ら変化の無いように思われた。
軽音部の皆とは普段と同じように接することができていた。
澪と話す時でさえ平生と変わらぬ接し方をすることができた。
澪がそのことに対してどのような思いを抱いていたのかは、
律にはわからなかったし先週のことについて、彼女がどのような
結論に至ったのかについても思いつかなかった。
――しかし、小さな変化が起きた。
律と澪が一緒に帰らなくなった。
澪『これからは部活の後は図書館で勉強することにする。もうすぐ三年生になるしな』
澪はその宣言以来、部活後は図書館で勉強するため一人で帰っていた。
それについて律は何も言わなかった。
ただ、いつもと同じようにからかって、ガンバレと言ってやっただけだった。
そして金曜日の今日。
そんなマジメな彼女が珍しいことに学校を欠席した。
まさか、サボタージュをする度胸は澪には無いはずなので、何か欠席には理由があるはず。
律「まあとりあえず、りっちゃん隊員としては澪ちゅわんに会いに行くべきだよな」
様子が見たいというのもあるが、単純に澪に会いたかった。
会って何でもいいから話がしたかった。
そういうわけで、現在、部活を終えた律は澪の家へ向かっている最中だった。
ただし、澪の家に向かっているのは律一人ではない。
唯「澪ちゃん大丈夫かな?」
わたしのケータイにもメール来ないし――律の隣を
歩く唯が、心配げに携帯電話の画面を見つめながら呟いた。
律「ケータイしながら歩いてると危ないぞ」
普段ならおそらく言わないであろうことを、
口にして、そのことに無意識に眉を顰めた。
唯「そうだね、危ないよね」
そう言って唯は携帯電話を閉じた。歩くペースが速くなる。
律「……」
前を歩く唯の背中を眺めながら律は黙考する。
――何を自分は苛立っているのだろう?
唯が澪に会いに行くことは、予想できたはずだ。
唯と澪は女同士でありながら、お互いに好意を抱いて付き合っているのだから。
――恋人が恋人のもとへ見舞いに行くのは当たり前のことだろ?
律「……唯」
見慣れた背中が振り返った。
唯「どうしたの?」
律「唯は澪のこと、好き?」
唯の両目が不思議そうにしばたたく。
唯「何言ってんの?りっちゃん。
当たり前だよ。りっちゃんだって澪ちゃんのこと大好きでしょ?」
素直に頷くことができなかった。
唯の『好き』と律の『好き』は字面が一緒でも意味合いはまるで違う。
澪にとって、唯は恋人で、律は幼なじみなのだ。
恋愛感情と友情はまるで違うモノ。今だって澪が心配で、唯と律は彼女の家に向かって
いるのに、二人が澪に対して抱いている気持ちはまるで違う。違うはずなのだ。
でも……だとしたらこの胸の奥で燻っているドス黒い感情は一体全体何だというのか。
唯「りっちゃん、どうしたの?コワイ顔して」
律「……何にもだよ。それやり早く澪の家に行こうぜ」
答えは――まだ出てこない。
♪
澪「入って」
澪は、自分の見舞いに来た唯と律を部屋へと招いた。
律「お、今日はけっこう片づいてんじゃん」
軽口を叩いたが、それに対して今までならあったであろう、澪の合いの手はなかった。
澪「ベッドにでも座ってくれ」
言われて唯と律はベッドに腰をかける 。
実際、澪の部屋は綺麗に片付いていた。
最近は澪の家には来ていなかったせいなのか、妙に懐かしく感じられた。
昔はこうやってよくこのベッドに座って
澪と駄弁っていたな、と思い出して、律は頬を緩めかける。けれども、
澪の暗澹たる表情はそんな律の暖かな思い出をいともあっさり胡散霧消させた。
唯「澪ちゃん、大丈夫?」
聞くまでもなく、澪の表情は大丈夫からは程遠かった。
憔悴とまではいかないまでも、澪の顔に浮かんでいるのは紛れも無い疲労だった。
唯「澪ちゃん、何があったの?」
澪「……」
どういうわけか、澪は質問に答えようとはしなかった。
律は澪の表情をじっくり窺ってみる。否、じっくり見るまでもなく、澪が何か悩みを
抱えているのは明白だった。
唯はおもむろに立ち上がると、ベッドの正面にある椅子に
腰を掛けた澪の前に、ひざまずいた。澪の手を優しく包み込んで、唯は澪を見上げた。
唯「澪ちゃん、わたし約束したよね?澪ちゃんが困ってたら絶対に助けるって」
澪「……」
唯「澪ちゃんを守ってみせる、って。澪ちゃんの悩みはわたしの悩みでもあるんだよ。
一人で抱えこまないで。わたしが側にいるから」
澪「唯……」
唯は柔らかな微笑みを湛えて、澪の頬を両手で優しく包んだ。
どこまでも暖かで真摯な言葉に澪の能面のような表情が崩れた。
澪「……っ」
嗚咽を漏らして肩を震わせる澪を唯は、優しくけれども力強く抱きしめた。
律はただ、二人を見守ることしかできなかった。
♪
澪「――先週からなんだ」
ようやく落ち着いたところで澪は改めて、唯と律に向き直った。
その瞳はまだ濡れていたが、それでも澪の表情は幾分か見れるものになった。
澪は机の隣に設置された引き出しを開けて、あるものを取り出した。
唯「これは……手紙?」
澪は小さく頷いた。
――澪いわく、何の前触れもなくその手紙は送られてきたらしい。
手紙の内容はずいぶんと汚い字での誹謗中傷、罵詈雑言であったそうだ。
もっとも内容はあるようでまるで存在しないので、これが秋山家のポストに
入っていなければ、澪に対して向けられたものかどうかすら判断できなかっただろう。
ただ手紙は一枚には収まらなかった。
最初にその手紙が投函されてから二週間。手紙の合計は七枚にも及んだ。
そのどれもが、似たり寄ったりな内容ではあったが、
送られる側としてはやはり不愉快極まりないものでしかなかった。
何より澪は繊細な少女だった。
正体不明の誰かから送られて来る手紙なんてものに、恐怖心を感じずにいられるはずがなかった。
澪「それにこれだけじゃないんだ……」
――今週に入って更なる変化が起きた。
図書館に通い出してから今日で五日目。
澪は昨日までの四日間誰かにつけられていたそうだ。
最初、澪は気のせいだと思っていたが、
日にちが経つにつれて自分が誰かにストーキングされていると、確信を持つに至ったらしい。
澪「それで、恐さに耐え切れなくなって今日は学校を休んだんだ」
律「……なるほどな。そういう事情があったわけか……ってどうしたんだよ唯?」
なぜか、今度は唯が沈黙して青ざめだまま固まっていた。
心なしか白くなった頬は氷の膜でも張ったかのように硬くなっている。
唯「う、ううん何でもだよ」
明らかに動揺しているのを唯は隠そうとして、しかし全く隠せていなかった。
澪「唯……?」
澪の表情が不安に曇る。
唯「大丈夫だよっ澪ちゃん。私がついてるからね」
唯の言葉は奇妙な程頼りなかったが
それでも澪には心強く聞こえたのか、少しだけ安心したように胸を撫で下ろした。
澪はまるで唯の動揺に気づいていなかった。
自分のことで精一杯で気づくことができなかったのだろう。
律だけが、今この場で唯の小さな狼狽に気づいていた。
律「でも、誰が澪にそんな嫌がらせをしてるんだろうな?」
律は何気なくぼやいただけのつもりだったが、唯と澪は黙って何も言おうとはしなかった。
二人が黙ってしまったので、律も必然的に口を閉ざすことになった。
――霜が下りたかのような沈黙を打ち破ったのは、律の携帯電話の着信音だった。
律はポケットに突っ込んでいた、電話を取り出してメールを開いた。
紬からだった。メールの内容は――
『澪ちゃんの様子はどう?家にはいましたか?来週は皆で 揃ってティータイムができることを願っています』
♪
その週も次の週も表面上は比較的平穏無事に推移した。
澪に届けられる不吉な手紙は相変わらず、続いている。
変化も起きた。
澪が図書館に行くのをやめて皆と一緒に帰るようになった。
唯と律は放課後は澪の家にできるだけ足繁く通うことにした。
しかし澪は紬と梓には、自らが今置かれている状況について一切説明していない。
皆に心配をかけたくないと澪が、突っぱねたからだ。
とにかく澪は気丈に振る舞って、決して自分が陥っている状況を周りに悟らせなかった。
澪が今置かれている状況を知っている人間としては
奇妙な感想かもしれないが、正直言って律は感心していた。
いつの間にこんなに強くなったのだろう――そう思わずにはいられなかった。
昔の澪ならとっくに音を上げて、
律に縋り付いてたとしても全くおかしくなかったはずだ。
澪の変化の理由は、やはり唯に関係しているのだろうか?
澪のことを考えていたのに不意に唯の姿が脳裏に浮かんだ。理由もわからず肺腑が熱くなる。
律は考えるのをやめた。
どんなに思案しても、自分を苛む問題に対する解答は出ないのだ。考えるだけ無駄だ。
律「うわ……雨降りそうじゃん」
見上げた空には、分厚い雲が立ち込めていた。
雨なんてクソくらえ、と、まもなく泣き出すだろう空に毒づきつつ、律は澪の家へ急いだ。
♪
朝、律が寝坊をして澪を待たせてしまうことはそれほど珍しい
ことではなかったが、逆のパターンというのはなかなかどうして新鮮だった。
五分程待って、ようやく澪が玄関から出てきた。
澪「遅れてごめん」
寝不足のせいなのか澪の目は充血していた。ここのところ、
澪はずっとこんな調子だ。睡眠時間が足りていないのは誰が見ても明らかだろう。
律「澪、大丈夫か?」
澪「大丈夫だよ。ちょっと寝不足なだけだから」
これに似たような会話は既に何回かしていた。
しかし、律がどんなに案配を確認したところで澪は同じことしか言わなかった。
♪
律の不安は的中した。
澪は休み時間に保健室に行ったらしい。熱を測ると三十八度六分もあって昼前
に帰宅した――という話を放課後、たまたま廊下ですれ違った和から聞くことになった。
和「それと、もう一つ唯のことで話があるんだけど……時間あるかしら?」
律「唯のこと?何の話?」
和「悪いけど、ここじゃ話せない。生徒会室に行きましょ」
♪
放課後、病欠した澪の家を唯と律は訪ねた。
もっとも澪の熱は昨日から全然下がっていなかったので、
ほとんどまともにしゃべることはできなかった。律としては昨日の
放課後に澪の家を訪問していなかったので、少しでも話をしたかったが、
それで風邪に苦しむ彼女を余計に苦しめるのは嫌だったので何とか我慢した。
澪へのお見舞いを早々に済ませ、唯と律は昨日と同じ曇り空の下を二人一緒に歩いていた。
普段通りであれば、唯と律は澪の家から
帰る時はそれぞれの家に真っ直ぐ帰宅するところであったが、今日は違っていた。
律はぼんやりと昨日の和と交わした会話の内容を反芻していた。
和『これは私の勝手な思い込みかもしれないっていうのをあらかじめ言っておくわ』
和はそう前置きをしてから話を始めた。
和『二週間くらい前……ちょうど澪が休んだ日あたりかしら。
……その日から唯の様子がおかしい気がするの。
はっきりとはわからないけど、一緒に登校する時とか妙に後ろを振り返ったりとかするし。
それに本人は自覚してないかもしれないけど、
日が経つごとに疲れた顔をしてることが増えてる気がするの。
なのに私が何を聞いても唯は何にもないよ、の一点張りだし。
あの娘が何かに悩んでるのをただ黙って見ているなんてできない。
律は何か唯のことで知らない?
何でもいいの。何か知ってるなら教えて』
和はそう捲し立てたが、律は首を振ることしかしなかった。
ただ、唯のことは気になった。
その日は唯には何も言わなかったが、
結局次の日になって部活が終わった後、二人だけの音楽室で思い切って尋ねてみた。
律『唯……最近何か悩んでない?』
唯『……どうしてそう思うの?』
律『見てればわかる』
真っ暗な音楽準備室に二人の声だけが、ひっそりと木霊した。実際、唯の表情が
自分の知っているものよりも暗く見えるのは明かりが灯ってないせいだけではあるまい。
唯『そっか。うん、そうだね。りっちゃんにだけは話そうかな……』
唯は訥々と語り出した。
――送られて来る嫌がらせの手紙以外にも、もう一つ澪を悩ませているものがあった。
正体不明の誰かによるストーキング行為。もっともこれは、
律と唯の二人と一緒に下校することによって回避することができていた。
だが――ストーキングされていたのは澪一人ではなかった――唯もまた、その被害者の一人だった。
唯『澪ちゃんが誰かにつけられてるって聞いた時、わたし、驚いたんだ。
だって澪ちゃんまで、そんな目にあっているなんて思わなかったから』
酷く力の抜けた声が律の耳朶を撫でた。
続けて唯は律に言った。その声もやっぱり何かが欠けていた。
唯『今日だけでいいから……今日だけ、
澪ちゃんの家から帰る時、りっちゃんに着いてきてほしいな』
――そんな流れで、曇天の下を律は唯の隣で彼女に歩調を合わせて歩いていた。
唯「ねえ、りっちゃんは澪ちゃんのこと好き?」
不意に投げかけられた唯のその質問はいつか二人で、
澪の家へ向かっている時にも彼女が律にしたものだった。
あの時、律は頷くことができなかった。
でも今は、はっきりと頷くことができた。
唯「そっか……りっちゃんも澪ちゃんのことが大好きなんだね」
唯の呟きに混じって背後から足音が聞こえてきた。
最終更新:2010年05月10日 22:30