唯「わたしも澪ちゃんのことが大好きだから 澪ちゃんにもわたしのことを好きでいてほしいんだ」
律「……そっか。私も澪には私のことを好きでいてほしい――いや……私のことだけを好きでいてほしい」
喉が熱い何かを飲み下すかのように震える。気づけば律は宣言していた。
律「ううん……私のことだけを好きでいてほしい」
僅かに俯いた唯の表情に影が差した。
しかし、それは本当に一瞬のことだった。
今度は唯の耳にも届いたらしい。二人の背後で何かが音を立てて道路に落ちた。
唯が振り返ったのを見て、律も初めて自分の背後を振り返った。
傘が曲がり角のあたりで横たわっていた。持ち主らしき人間は見当たらない。
律「誰かいるのか!?」
もちろん反応はなかった。あたりを十分に見回した後で、律は傘を回収した。
律「……!」
手に取ってみて、律はこの傘に見覚えのあることに気づく。いや、
見覚えがあるどころではない。今朝だってこの傘を持って登校する姿を見たではないか――
唯「りっちゃん、早く帰ろ」
まるで何もなかったかのように唯は踵を帰して、先へ進んでいた。律は慌てて後を追った。
五分も経たないうちに、唯の家の前まで来ていた。
突然の唯の場違いな一言に律は思わず、眉を顰めた。
律「何言ってんだ……?」
唯「りっちゃんはわたしの相談に乗ってくれたでしょ?」
――後になって、律は自分が唯の発した言葉の意味を間違って理解していたことに気づいた。
律「相談って言ったって、ほとんど何もしてないだろ」
唯「そんなことないよ。本当にありがとう」
なぜだろう。
この時の唯の表情を形容する言葉が律には出てこなかった。
悲しそうでもあり、嬉しそうでもあり。
或いは、何かに束縛されていながら、
何かから解放されたかのようでもあり。
もしくは、儚げでありながら、どこかしたたかな印象を与え。
――そんなチグハグな表情を浮かべた唯に律は、何か予感めいたものを感じずにはいられなかった。
唯「 」
白い息が言葉を紡いだ。 それが――律にとって最期に耳にした唯の言葉だった。
♪
次の日。
放課後、いつもなら律が向かうのは音楽準備室だったが、この日は違っていた。
律は唯の家へ向かっていた。得体の知れない何か……強いて言うなら嫌な予感に
攻め立てられるように足早に彼女のもとへと向かった。
きっかけは昼休み、唯から送られてきた一通のメールだった。
『放課後、家に急いで来てほしい』
酷く無愛想なメールだったが、どういうわけか
律は胸騒ぎにも似たものを感じて、終礼が終わると同時に学校を飛び出した。
知らず知らずのうちに走っていたせいか、 唯の家に着くのにそれほどの時間は要さなかった。
インターホンを押す。
反応はなかった。もう一度押してみる。反応無し。もう一度押す。押す。押す。押す――
律「どうしてメールで来いって言ったくせに、出てこないんだよっ……くそっ」
胸を焦がすような焦燥感が律から冷静な判断力を奪っていた。
普段なら絶対にしないが、不法侵入などに構うことなく律はドアに手をかける。
律「うそ……」
――ドアが開いた。
♪
――唯の部屋の扉は閉まっていた。
唯の名を呼んでみてもドアをノックしても返事はない。
まさか寝ているのか……?
焦燥にかられていた律はドアノブを捻ってドアを開いた。
――律の予想は半分は当たっていた。
確かに唯は寝ていた。
俯せで。
赤い夕日が照らす血溜まりに身を沈めて。
一ヶ月近く前、唯と澪がキスをしていたのを 目撃した時と同じように脳の芯が痺れて、思考が麻痺する。
初めて嗅いだ血の臭いが、鼻孔を刺激して吐き気を促した。
律「ああああぁぁぁ……」
喉を食い破って悲鳴が這い出ようとしていた。
今まで自分の中で維持してきたものが、音をたてて崩れていくのがわかる。
――取り返しのつかないことが起きてしまった。
それでも、律は誰かに暗示でもかけられたかのように、部屋の机に眼をつけた。
机の上には手紙が置いてあった。
手紙を見て、ギョッとした。
律はそれに引き付けられた。夢中になってその手紙の封を切る。
手紙に並べられた丁寧な文字に目を通す。
量は決して少なくなかったが、内容自体は簡単なものだった。
――これは遺書なのだろうか?
内容は軽音部を始めとする皆や両親への感謝と、死ぬことに対する謝罪だった。
遺書と言うには、酷い違和感があった。
どちらかと言えばそれは日記の何気ない一頁のようなそんな印象を律に与えた。
しかし、手紙の裏面には続きがあった。
そこには律に対する礼の文章と澪のことを頼むという旨の文章が綴られていた。
ただ、最後の一文だけはそれまでの文字と違い乱暴に書かれていた。
――もっと早く死ぬべきだった。
たった一文でありながら、あまりにも痛切なそれは
律の肺腑を深く深くえぐって、ゆっくりと墨汁のように染み込んでいった。
震える手で手紙を再び封の中へ入れ、もとあった位置にそれを置く。
そうして振り返って、律は壁に迸っている唯の血潮を初めて見た。
♪
ゆったりと進んできた日々は、見る影も無く崩壊した。
凄惨たる日常だけが壁にこびりついた血のように残った。
様々なことが一度に起きすぎて、
一介の女子高生に過ぎない律はただひたすらに状況に流されることしかできなかった。
怒涛の一週間に律はただ翻弄され続けられた。
それから更に一週間。周りの状況が鎮静化し始め、
ようやく律は澪のもとへと足を運ぶ余裕を時間的にも精神的にも持つことができた。
律「澪、いるか?」
久々に訪れた澪の部屋の扉は閉ざされていた。
――澪は唯の死以来学校に来ていなかった。
一応ノックをして、それからドアを開ける。
窓から差し込む黄昏れの光がベッドに腰掛ける澪を赤く照らしていた。
澪の横顔は長い黒髪に隠れて見えない。
一瞬、澪の膝の上に乗っているノートが気になったが、無視して澪の名を呼んだ。
律「澪」
呼ばれて初めて律に気づいたのか、ゆっくりと彼女の首がこちらを向いた。
――ぞっとした。
湧き出てきた感情は、久々の再開に対する
歓喜ではなく、変わり果てた幼なじみに対する恐怖だった。
狂気を孕んだ視線が律をいぬく――知らず知らずのうちに息を呑む。
憔悴しきっていながら、夕日の赤を浴びる双瞳だけは爛々と不気味な光を放っていた。
澪「唯は……唯は、どこ?」
律は数瞬迷って、答えた。
律「どこにもいない。唯は死んだんだよ」
澪が目を零れんばかりに見張る。不思議なことに
この時、律の目には澪が口を開くのが奇妙な程、緩慢に映った。
澪「―――――――――――――――――――――――――――――――っ!!!!」
劈くかのような悲鳴が律の鼓膜を貫いた。
命そのものを絞り出してしまうかのような絶叫だった。
唯が死んだという事実に抗うかのように床に両の手をついて、激しく背を震わせる。
時折悲鳴に混じって、唯の名が口許から荒々しい吐息とともに漏れる。
――――永遠に続くのではないのかと、思われた慟哭が止んだ。
澪「ゆ、い……」
いつの間にか床に横たわっていたノートを拾い上げて澪は、それを開く。
開かれたノートの頁には沢山の文字が 敷き詰められていた。内容は、はっきりとは
視認できなかったが、それでも日記らしきものが書かれているのは、何となくわかった。
唯の存在が澪の中であまりにも大きなものであったのだということ を今更にして律は認識した。
無意識のうちに握っていた拳が白くなる。
律「澪……」
澪「ゆい、ゆい、ゆい、ゆい、ゆい、ゆいゆいゆいゆいゆいゆいゆいゆいゆいゆいゆい
ゆいゆいゆいゆいゆいゆいゆいゆいゆい――――」
律の言葉は澪には届いていなかった。
壊れた彼女はただひたすらもうこの世にはいない恋人の名前を呟き続ける。
自分がどうしてここにいるのかわからなくなった。
明確な目的と意志を確かに握りしめて、ここに来たというのに……何もできない。
どうして……いや、解答はあまりにも単純で明快だった。
澪が今求めているのが、律ではなく唯であるというただそれだけの理由だった。
それだけ――しかし、律にはあまりにも辛辣な事実だった。
♪
唯の死は唯の死という事実だけに収まらなかった。
軽音部――放課後ティータイムは
唯の死を皮切りに一切合切、僅かな容赦もなく刹那の間に崩壊した。
唯の死は澪の精神を根こそぎ叩き潰して、彼女をただの廃人へと変化させた。
正常に機能していた日常の歯車は全て漏れることなく狂って、唯の周囲を不幸に導いた。
今まで輝いて見えた律の景色は、暗澹たるモノクロに取って代わってしまった。
律「でも、たとえそうだとしても……」
――せめて澪だけは、澪だけはもとに戻す。昔の澪を取り戻す。取り戻してみせる。
状況は絶望的だったし、律自身辟易としていたが、
それでもその想いだけが律を突き動かした。微かな希望の
残滓を胸に、律はその日も澪の部屋のドアをノックする。
――返事はまだ、ない。
♪
来る日も来る日も律は、澪の家へ通った。
ひたすらドアをノックし続けた。
拒絶されようが、目覚まし時計を投げつけられようが、
罵声を浴びせられようがドア越しに澪に訴え続けた。
愚直でしかなかったと思う。
馬鹿でしかなかったと思う。
でも、そうだったとしても澪を諦めることだけは絶対にしないつもりだった。
たとえこの先、十年経とうが二十年経とうが、
百年経とうが、律は諦めるつもりなんて、まるで無かった。
ただもう一度、澪の笑った顔が見たい。
また、一緒に駄弁りあいたい。
自分に向かって微笑む澪を抱きしめたい。
――律が澪のために必死になる理由なんて、それだけで十分だった。
♪
その日――澪の部屋のドアが開いていた。
律「澪……」
一ヶ月振りに見た澪は最後に見たあの日と同じで、ベッドに腰を掛けていた。
澪の膝の上に乗っていたノートは開かれていた。
もっとも、注ぎこむ淡い夕日の光が反射して、律には何が書いてあるのか見えないが。
律「澪」
ゆっくりと澪は首を動かして、こちらを見た。
――酷く虚な瞳だった。
あの日見せた狂気はもうどこにも存在していない。
律「澪……」
徐々に澪に近づいていく。一歩、二歩――
澪「律」
澪に名前を呼ばれたことが、あまりにも懐かしくて――律は思わず立ち止まってしまった。
澪「私は……私は、唯が死んだって事実を今まで認めることができなかったんだ」
淡々とした声だった。十年以上の付き合いがあるにも関わらず、ここまで感情の抜け落ちた澪の声は初めて聞いた。
澪「私、自分では自覚してなかった。唯のことがこんなにも好きで好きで仕方なかったんだってことに。
唯が死んでそれで初めて知ったんだ。唯がどれだけ私にとってかけがえのないものだってことを。
自暴自棄になって、その唯の死から逃げようとしたけど ……無理だった。
どんなに自分の殻に篭ったところで、現実は変わらなかった……っ」
澪の言葉はそれ以上続かなかった。 開いたノートに雫が落ちる。
律は、気づいたら澪を力強く抱きしめていた。
澪も縋るかのように律の身体を抱きしめ、服を強く掴む。
背中に澪の爪が食い込んでいたが、 構わず律は、自分の胸に顔を埋めて泣いている澪の頭を優しく撫でた。
声すら漏らさず、騒ぎもしない、
静かな号泣だった――唯の死から一ヶ月の間、澪はひたすら闘ってきた。
いや、彼女の闘いは自分に手紙が送られてきたその日から、始まっていたのだろう。
律「――澪。辛いかもしれないけど、聞いていてほしい。
唯の遺書には澪のことも書いてあった。沢山、沢山。本当に
どうしたらこんなに言葉が浮かぶのか、ってぐらいにさ。
澪が唯のことを大好きなように、唯も同じくらいお前のことを大切に思ってたんだよ。
だから、遺書には自分が死んだ後、澪のことを頼むって書いてあったんだ。
私宛に、な。けれど、唯の遺書にそれが書いてあろうがなかろうが私には関係ないよ。
私も澪のことが大切。すごく大切なんだ。
だから、唯が澪を守ろうとしたように、これからは私が澪を守るよ」
そうだ。ほんの少しずつでもいいから、ゆっくりと歩んでいこう。
――もう、誰も私の邪魔をする存在はいないのだから。
澪「り、つ……っ」
律「澪は頑張ったよ。今までずっと頑張ってきたんだ。だから少しくらい休め。
休んで、そしたらまた私と一緒に学校に行こう。楽しいことをいっぱいしよう。
ムギも梓も、澪のことをずーっと待ってる」
たった数ヶ月の間に様々なことが起きた。
起きすぎたくらいだった。
色々なことが起きて、色々と失って、色々と悩んで、
色々と思い知って、そうして一つの答えにたどりついた。無くしたものはあまり
にも、尊いものだったが、それでも最後の最後、一番大切なものだけは守り抜いた。
律「澪……」
この先にもきっと困難は自分たちに立ち塞がるだろうし、その度に何度も
立ち止まるのかもしれない。けれど、それでも澪と一緒なら絶対にどうにかできる。
律「これからも、よろしくな……澪」
澪「――うんっ」
窓から差し込む柔らかな夕日が、抱き合う二人を確かに照らしていた。
最終更新:2010年05月10日 22:31